八、うぶすな
〈すべてのもの〉の中にある、ひとつの記憶――。
いつ、どのようなところともいえぬ、神々のつどいがあった。
「どうするのだ」
大柄な男神が、気短かにみずからの膝を叩いた。イザナギがイザナミと離別し、〈生〉と〈死〉というものができてのち、それまではひとつの世であったものの中に、凝り固まったこぶのようなものができてしまった。柔らかに定まらぬ世に慣れた神々の目に、そのこぶの世はあまりに不自由に、いかにも小さく見えた。せめて美しい名をと、〈豊葦原〉とみなは呼んでいる。
「見ている分には、青くて美しいのだがのう。あれほど光に満ちた場所は、これまで常世にはなかった。……なればこそ、イザナギがかたくなになったのだとも言えるか……」
別の神が憂い顔で言った。
「〈死〉ができ、〈生〉ができてからというもの、あそこに生まれたものは器を固めねばならなくなった。固まっているから、傷つくし、壊れる」
「そうまでして〈我〉と〈彼〉を隔てなくともよいのになあ」
「豊葦原に行ったものは、生きている間〈すべてのもの〉のことを覚えているのだろうかね」
「それは、まったく忘れてしまうわけではあるまい。〈すべてのもの〉から生まれる限り、どこかで分かってはいるだろうさ――神として向こうに生まれるものもいることだし」
「しかし、どうあれ今さら豊葦原をないものとすることはできぬぞ。一日に千五百の子が生まれるとイザナギが言ったのだから、そのとおりにこちらから送り出すことになるであろうな」
「それがあまりに酷だからこうして話しておるのではないか。今のままの豊葦原へ、誰が望んで生まれたがるのだ」
「新たに言祝ぎを成そうか」
神々はひとしきり話し合ったが、それまで黙っていた男神が無言のまま手を挙げたのを認めて、みな静まった。思金神だ。
「みなよ」
と思金神は語りかけた。
「忘れてはならぬことがある。世には、要らぬことは成されぬ。故なくて始まるものはなく、故なくて終わるものもない。すべては〈すべてのもの〉からできておるからじゃ。不要はない」
「つまり、世がこうなったのも要ることであると」
男神の誰かがぼそりと呟いた。相手の答えは分かっていながら、それを容れることに迷いがあるというように。
思金神は穏やかに頷いた。
「むろん。我々がこうして違う神として在るのも、故あってのことよ。〈すべてのもの〉であってはできぬことがあるのだろう。器が固まり、不自由なように見えたとしても、〈生〉と〈死〉とがなければ成し得ぬことがあるのじゃ」
「それはどんな? 」
「たとえば、我と違うものを彼に見出し、その違いを認め、ときに彼を愛し、ときに憎む。悲しみや、安らかならざるものを感じること。怒りを覚えること。イザナギとイザナミが創ったのは美しい土地ばかりではない。我々が今まで知らずにいたものを、あのふたりが先んじて見出したのだ。これ以上ないほど尊い務めを果たしたのだよ」
「確かに、肉の器を持たない我々に、憎しみも悲しみもないからな」
と男神は周りに座ったものたちを眺めた。
「だが、悲しみやら憎しみやら怒りやらは、そうまでして学ばねばならぬほどのものか? 見出せずにいたなら、そのままの方がよかったのではあるまいか」
「いいや、学ばねばならぬ。知らぬままでは、思いもかけないときにそれを選んでしまう。もっともそれを選んではならぬときにな」
「我らも知らねばならぬ、か? 」
「我らは分かれてはいるが、まだまだ〈すべてのもの〉と近しいゆえ、豊葦原のものほど身をもって分かりはせぬだろうがな。近しいゆえ見出しがたいものがあるとは何とも不思議だが、幾度も生と死を繰り返すうちに気がつかねばならぬのだろう。このようなことにならずとも、いずれは誰かが見出さねばならなんだことよ」
「どうも分からんな……」
「そうか。だが、〈すべてのもの〉には、悲しみが含まれていないと言えるのかね? 」
男神は押し黙った。この男神だけでなく、その場にいた神はみな、一様に口をつぐんだ。
ややあって、またくだんの男神が口を開いた。
「……いや。〈すべてのもの〉というからには、含まれぬものなどない。〈すべてのもの〉から生まれているのだから、我々の中にも……ないわけでは、ない」
「さよう。だが常世国では、そのすべてを味わうことができぬゆえな。どうじゃ。豊葦原へ生まれ、多くを学びたいとは思わぬか」
思金神は、ふと優しい目をひとりの神にとめた。豊葦原でいえば、まだ青年というほどの年頃であろうという若い神だ。神は静かに手を挙げていた。この神には性がなかった。
「わたくしは、豊葦原を見てきとうございます」
と神は言った。思金神は頷き、続きを促した。
「わたくしは、生も死も存じません。悲しみも分かりませぬし、愛も。それがどういうものであるか。その名を知るばかりで」
神の隣に座っていた男神が、案じ顔で行った。
「本気か? しかしな、それをみずから支配し、選びとるとなるとそうたやすくはないぞ。どれほど時を重ねても、ついに得られぬかもしれぬ。常世国では考えもつかないような、おぞましい目に遭うかも分からぬぞ。それが豊葦原の学びじゃ」
「それでも」
神は大きな瞳で、思金神を見つめた。星のはじけたような、若やかな輝き。
「わたくしは世にあるすべてを学びたい」
思金神は頷いた。
「そなたの心が誇らしい。だが、たまには常世国へ戻って、何を見てきたのかわしらに話しておくれ」
やがて、神々は集いの場からその若い神を送り出した。神は、かつてイザナギとイザナミがそうしたように豊葦原を見下ろした。雲間の海は青く、連なる山は緑。美しかった。
神はみずから、ふたりの神に分かれた。それまで我だったものが、今は彼となってこちらを見返している。ふたりは互いの目を見つめた。互いの目に映った自分を見つめた。姿はまだ同じだったが、心は違っていた。相手に残したものと、自分がもらったものとが同じでないことはすぐに分かった。
ふたりはどちらともなく手を取り合い、一緒に下を見下ろした。
「生まれよう、豊葦原に」
ひとりが言った。
「どんなことがあるか分からないけど……」
「それでもいい」
もうひとりが返した。
「そのために、ふたりになったんだから。きっとたくさん知らないことがあるよ。生まれたら、わたしはあなたを探す」
「出会えることも、出会えないこともあるだろう。だが、わたしもあなたを探す」
「大丈夫。一度生まれたら、一度常世国へ戻れるんだから。何度でも生まれて、何度でも生きよう。そして豊葦原が〈すべてのもの〉に還るときがきたら……」
「また、ここで会おう。ここでのことは忘れていよう。そのときが来るまでは」
※
六花樹の泉のほとりでは、滝の里のものが集まって大変な騒ぎになっていた。悠さまと蓮さまが消えてしまった。水霊たちの話を聞いた神々や霊たちは、その場のありさまから何が起こったのかを突き止めようとしていた。
大地に残った、焦熱のあと。あれほど暴れていた亡者たちはいなくなり、なにごともなかったかのように、天には光が戻っていた。
「これは悠の剣だ」
ヒノトが土に刺さったままの剣を見つけて引き抜いた。
「姫が浄化を起こしたのだな。悠も、恐らくともに」
早鷹が六花樹の洞を覗いて言った。祀られていた鏡は、冷たいくらいに澄んでいた。
「おふたりとも、還ってしまわれた? 」
八雲が囁いた。
「今、どちらにおいでなのでしょう? 」
悠と真珠が〈すべてのもの〉から戻ったのは、ちょうど八雲がこの問いを発したときだった。ふたりがいなくなったときと同じくらい唐突に、宙からふわりと現れたので、里のものたちはかえって何が起こったのか分からず目を白黒させた。
「悠さま! 蓮さま! 」
みすずの声は悲鳴に近かった。それから、見慣れぬものを見たというように、目を瞬いた。
「あ、蓮さま……お
「蓮は……真珠は、もともとはこの姿だったのだよ。ふたりともよく戻った。おかえり」
早鷹はにこやかにふたりを迎えたが、ふたりに続いて現れたひとを見ては、さしもの早鷹も動ぜずにはいられなかった。
「日照雨……」
「久しぶり……というわけでもないか。魂送りのたびに会ってはいたものね」
「つれないことを」
早鷹は日照雨の手を取った。日照雨は逆らわなかった。
「イザナミが〈すべてのもの〉へ戻ったから、わたしは出てきた。この子らが守っていた情はイザナミに返され、イザナギとイザナミの子として命を与えられた。すべて、あるべきところへ収まったよ」
おめでとう。誰ともなく、言祝ぎが漏れた。
照る陽とともに、柔らかな雨が光る粒となって里へ降り、雲が七色にたなびいた。この日を、さいわいと思わぬものはなかった。
※
ある山里の
ある古老の自慢はもっぱら神の若子と親しく口を利く仲であった、ということで、眼の色が右と左とで違ったの、雨を降らせて里を日照りから救ったの、本当かどうかも分からないような昔語りではあったが、村のものたちはみなその話を知っていた。
「あのとき、この村はそりゃあひどい日照りでな。おれが屋敷へ頼みに行ったんだよ。雨を降らせてくれってな」
「それで、そのあとちゃんと雨が降ったんでしょ」
子どもたちも、続きがどうなるかを心得ている。それでも、古老にねだる昔話の中には、必ずこの若子の話も含まれていた。
古老も、話の聞かせどころにここぞとばかり力を入れた。
「ああ、そうとも。若子は、約束どおりに雨を降らせてくれた。もしあのとき雨が降らなかったら、今頃おまえたちはこの世にゃあいなかったかもしれないんだ。だがな、おれが若子と会ったのは、それで最後になってしまった。雨が降ったあと、川は荒れるわ、山は崩れるわの騒ぎになってな。屋敷はそれまでと変わらずそこに建ってたんだが、若子はこの村からいなくなってしまったんだ。だが、若子の母上は、若子はこの世とは違うところへ行ったが、無事だと言っていた……おれには、どういうことだか分からなかったがね……」
ところが、あるとき山に入った若い
若子は美しい女神と連れ立って御殿があった辺りを歩いていて、杣人に気がつくと、おや、元太、と声をかけてきた。杣人は何か答えなくてはと思ったが、神々の顔があまりに優しかったためにかえって何も言えず、若子は杣人が元太ではないと気がついたようだった。
元太にはまだ会っていないが、息災か、と若子は尋ねた。達者です、つつがなく日々を送っております。杣人はしどろもどろになりながらようやく返事をした。なにしろ、目の色など分からなくとも、その場にいるだけで辺りが輝いて見えるほどに神々は気高かったのだ……。
「そなたの目は、他とは違うかもしれないな、と若子は言われた。何か人ならざるものを見ることがあるかもしれないが、むやみに恐れることはないと。あれは、疑いようのないお姿だった……若子も美しかったが、女神の方がまた――まるで春先の若葉のような、見事な色の髪が、遠くからでもほのかに光っているんだ。若子と女神はお笑いになって、次に目を上げたときには、もうその場におられなかったんだ……」
「なんとまあ」
「それじゃ、じいさまの話は本当だったんかや」
村人たちはにわかに身近になった昔話に色めきたった。杣人にその後、やけに運がついたせいもあって――。
「そうか。ずっと、何かおれたちに分からないおっかねえことがあったんじゃないかと思っていたが……」
古老は話を聞いて、しみじみと昔を思い返したようだった。
「あいつは、本当に優しかった。神さんなのに、おれたちのことをよく分かってくれて……おれたちとは違う場所で、きっと一番にえらい神さんをやってるんだろう」
古老は、それから数年して往生した。寒い時分のことだったが、天は高くほのぼのと晴れ、古老の口には笑みさえ浮かんでいた。
若子のことを直に知る人もこれでいなくなった。若子はまた昔話の中に埋もれてしまったが、この土地の人々の記憶には、みなと親しかった彦神の優しい姿がいつまでも消えなかったということだ。
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