七、イザナミ
悠はしばらく口が利けなかった。途中からはあとからあとから勝手に溢れ出てくるみずからの記憶の波にもてあそばれるようで、日照雨の話を聞くどころではなかった。手が震え、何から考えたらよいのかも分からない。呪いの記憶――見れば、確かに記憶通りに薄赤く、金の斑が光る細長い姿をしているではないか。
なぜ、こんな大きなことを忘れていられたのだろう? なぜ、真珠のことを――。
「おまえ
日照雨は悠に構わず話を続けた。
「早鷹はもう一度イザナミを呼び、情について聞き、おまえたちから抜いてもらおうとしたが、それは叶わなかった。イザナミは〈すべてのもの〉からも抜け出し、閉じこもってしまって――代わりに、わたしがこうして魂送りをすることになった。おまえは目を覚まさないまま疾風の迎えで常世国を去り、情の器になれるよう、千尋という人の子の名が与えられた。それに幸星があることでおまえは人に近くなり、力の使い方も忘れてしまっていたというわけだ。真珠は──」
日照雨はそこでほんのわずかに言葉を切った。
「──おまえと同じように、真珠もあれから、ずっと呪いを抱いたままでいた。別の里にいるある神が訪ねてきたとき、あの子に新しく名を与えた」
「……蓮」
「そうだ。そのひとは、常世を出ていたときのことを覚えていてね。最後に生きていた国では、黒い泥から咲き出でても白く清らかだといって、蓮の花がたいそう好まれていたそうだ。呪いが去り、神に戻れる日まで無事に、いつかそのことを糧にできるようにと、あの子は蓮と呼ばれるようになった」
悠は何も言うことができなかった。なぜもっと、みずからの心を信じられなかったのだろう。なぜ、蓮に対する気持ちを疑ってしまったのだろう? わたしは、こんなにも──。
だが、悠にはもっと気がかりなことがあった。
「なぜ真珠も呪いを持っていたのですか? 」
声が震えるのが分かった……悠の記憶には、真珠が呪いを受けるところはなかった。真珠にとっては、魂が勝手に浄化を起こすくらいに苦しみをもたらすはずの呪いだ。
そんなものを、なぜ真珠が?
日照雨は黙って悠を見つめ返した。だから、悠が口を開かないわけにはいかなかった。
「まさか、真珠が……わたしの呪いを自分に……」
「早鷹が止める間もなかったそうだよ。半分だ。あの子は間に合った――おまえの呪いを半分引き受けたとき、あの子の髪は真っ黒になった。光を照り返さないくらいに」
日照雨は眉を下げた。悠を慰めているようにも、真珠を思いやっているようにも見えた。
「もし真珠がふたつに分けていなければ、いくらおまえでも収めておけなかったかもしれないね。二度と神には戻れなかっただろう」
悠が黙っているので、日照雨は続けた。
「呪いはひとつに戻ろうとした。おまえと真珠を近くに寝かせておいたら、おまえたちの力を使ってずいぶん暴れたよ。おまえたちも危ないし、イザナミはふさぎ込んでしまったし、おまえのことは人として生かすために豊葦原へ戻さねばならなかった。わたしたちは、ふさわしいときにおまえが森に戻ってくるよう定めた。そのときが来たら、呪いをひとつに戻し、祓うことができるように。おまえたちふたりが、また出会えるようにと。そのときまでは、待たなければなかなかった」
「定めた? 」
「ああ、言霊の力を使ってそう決めた。何も、案じてはいなかった――おまえと真珠が同じ呪いを抱いているかぎり、何が起きてもおまえたちの絆が切れることはないから。ただ、それがいつで、どのように果たされるかということは、わたしたちですらすべてを知ることはない――さだめを動かすのは、目に見えぬものではなくわたしたちだからだ。そして、おまえは常世国へ戻ってきた」
悠は顔を伏せた。わたしたちふたりがまた出会えるようにという言霊があったならば、わたしが真珠を傷つけたことに何の意味があるというんだ。
「おまえと真珠が今どんな関わりの中にいるにせよ」
日照雨がすべてを見通しているという口ぶりで言った。
「おまえが真珠を傷つけるのではないし、真珠がおまえを傷つけるのでもない。源から分かれ出たわたしたちは、鏡を見るように互いに向き合っている……真珠と目を見交わしてみるがいい」
「真珠も、〈すべてのもの〉にいるのですね」
「真珠と呼べるかは分からないがな。真珠は還りきってしまったから、早くこちらから呼ばねば新しく生まれてしまうかもしれんぞ」
情の蛇が、そわそわと動いた。日照雨は蛇を眺めた。
「ふうん。おまえは、まだ還れないのだね。おまえは主が解放してくれない限り、凝り固まっているしかないのか」
「ともに行こう」
悠は蛇を招いた。蛇は嬉しそうに悠にすり寄ったが、もう悠に依りつこうとはしなかった。日照雨はおもしろそうにそれを見守った。
「イザナミは手強いぞ。今になってたやすく受け取るか分からん」
「しかし、イザナミさまもお分かりのはずです――どのような情でも、恐れることはないのだと」
悠は〈悠〉を保つのをやめ、みずから〈すべてのもの〉に還った。自分をほどいてしまっても、〈悠〉がいなくなることはない。
還っては、また新たに生まれるときを待つものたちを創る、無数の力の流れ。その中から〈真珠〉だったものを探す。
真珠、と呼ぶと、その名の響きが〈すべてのもの〉の中に新たな力を起こし、〈真珠〉が創られようとしているのが分かった。悠は〈腕〉を広げて抱擁した――悠は再び〈すべてのもの〉の中に現れ、真珠がその腕の中にいた。赤い蛇も、すぐそばに現れた。もといたところ――〈すべてのもの〉の中に場所の区別があるとしたらだが――からは離れてしまっていて、日照雨の姿はなかった。
はじめに、形が。次に、顔が。爪ができ、頬に赤味が差す。最後に、長い髪に艶が流れ、目の覚めるようなさみどり色が現れた。真珠は目を開いて悠を見上げた。
「……真珠。そなた、真珠だね」
真珠は頷いた。現れたばかりのその姿はまだ頼りなく、ほのかで、淡いようだった。真珠が〈すべてのもの〉に戻ってしまうよりも早く、悠はみずからの力を真珠に分け与えた──わずかに温められたひと筋の息吹が、神の霊力を唇から唇へ伝えた。
「よかった」
真珠が呟いた。ふたりともが、〈すべてのもの〉の中にいるからだろうか。これほど言葉少なにいたことはなかったし、これほど多くのものを互いに伝え合えたこともまたなかった。
悠は真珠に赤い蛇を見せた。真珠は不思議そうに、自分の胸の辺りをさすった。
「そう、もうここにいないんだね」
「真珠も、誰かの記憶を見た? 」
悠が尋ねると、真珠はふと切なげな顔をした。
「見たよ……イザナミさまの。火傷をして〈すべてのもの〉に還ったとき、イザナミさまはすぐにイザナギさまのところへ戻ろうとしていたの――だけど、それはできなくて……」
「わたしは、恐らくイザナギさまの……悲しいことばかりではなかったが、わたしが見ていた記憶は、泣くところで終わるんだ……」
赤い蛇は、辛そうに縮こまった。悠は右手に蛇を乗せ、左手で真珠の手を取った。
「行こう。イザナミさまにお会いしに……この蛇は、イザナミさまにお返ししなければ。どこにいらっしゃるかは分からないが、ここからであれば望んだ場所へ導かれるだろう」
ふたりは〈すべてのもの〉を出た――何か優しい力が背を押してくれたような感覚があった。
悠はとても大きな柔らかなものから自分たちが少しずつ小さく切り離され、ひとつの形を作るのを感じた。地面のようなものに足を触れ、みずからに重みがあるのを感じる。
寒くはなかったが、薄青く、冷たい色の木立ちが両脇に並び、仄暗い靄が立ちこめている。常世国の中でも、よく知っているはずの場所だ――六花樹が影となってそびえ、泉の水面に銀の綾が煌めいている。しかし、森には何の気配もなく、物音ひとつしない。
「ここ……」
真珠が辺りを見回した。土に触れ、手に掬い上げてこぼすと、土は細かな氷が混ざっているかのように、冷たくきらきらと輝いた。
「わたしが創った森じゃない――似ているけど、違う……」
「イザナミさまが、新しく創られたのかもしれないな。真珠の森とは別の……わたしたちの里とは、違う場所なんだ」
蛇が下ろしてくれとせがむので、悠はそのとおりにした。蛇はのろのろと地面を這った。
「ははよ」
悠と真珠が見守っていると、蛇は六花樹へひたむきに向かっていくようだった。もしや? ふたりはあとを追っていき、蛇の後ろから六花樹の洞を覗きこんだ。悠は一度、本当の六花樹の洞から誰かの気配を感じたことを思い出した。あのときは、誰の姿もなかったが……。
洞には、女神がひとりうつむいていた。かつての魂送りのときに現れたような、姿のない気配ではない。髪のひとすじひとすじの艶までが、はっきり見て取れた。
「イザナミさま」
真珠がそっと声をかけた。イザナミはためらいがちに、ゆっくりと顔を上げてふたりを見た。美しい顔だった。
イザナミは赤い蛇に気がつき、わずかに目元をこわばらせたが、身を引いたりはしなかった。代わりに、また目を伏せてしまった。
「あなたがたは、輝若彦と真珠姫ですね」
細い声だった。悠たちに話しているのに、どこまでも内に向かって閉じているようなその声音は寂しかった。
「あなたがたが何のためにここへ来たのかは、分かっていますよ。あのとき、この蛇を森で見たときから、いずれこうなると思っていました。……このままではいられないことも、分かっています。あなたがたが創った森も、わたしのせいでこんなに冷ややかになってしまいました」
「イザナミさま。この蛇は、いったい……」
悠は問いかけた。イザナミは悠を、次に真珠をじっと見つめ、ようやく問いに答えた。
「これはもともと、わたくしが夫に織った帯なのです」
イザナミはひと呼吸の間を置いた。
「あの方が常世国へ戻ったわたくしを訪ね、去り、〈豊葦原〉ができたあと、川の清水で禊ぎをなさったとき、身に着けていらしたものを投げ捨てるたびに神が生まれました。帯からも、また神が生まれました。そのとき、ともに生まれたのがこの子です。――けれども、この子は神ではない。あなたがたの考えたとおり、帯にこもったわたくしの情と記憶の塊です」
ひとたび口を開くと、イザナミはもはやためらわなかった。よもやこんな子が生まれようとはと、イザナミは悔やむように言った。
「この子には、〈
あなたとは似ているけれども真逆ですねと、イザナミが悠に言った。
「あなたは、〈すべてのもの〉のかけらとして生まれてきた。あなたの父と母の子であり、いにしえの、ひとり神のようでもある。何もかもを持ち、また何も持たず、どこにでもあることができた。どちらのものでもあり、どちらのものでもないという一点でこの子はあなたに惹かれ、あなたに縋ろうとしたのです。そして、開かれた世でこの子を見出すことができたのは、あなただけだった」
悠は尋ねた。
「イザナミさまは、この蛇をどうお思いですか」
「わたくしの情であるからには、わたくしが産んだものに違いはない。イザナギさまにお渡ししたものではあったけれど……イザナギさまの目には、この子が見えなかったようです。だって、帯を投げてしまわれたくらいですものね。そしてわたくしは、この子が恐ろしかった」
イザナミの声が翳ると、ため息のようなゆるい風が悠と真珠に吹いた。蛇が気遣わしげに頭を持ち上げた。
「初めてこの子という存在があることを知ったのは、あなたと真珠の前にこの子が現れたあのとき……本当なら、わたくしがこの子を鎮め、引き受けるべきだったのです。そうしなければ、この子はさまよっているしかないのですから。しかし、わたくしを裏切り、逃げ出したあの方を追ったときのことを、今さら思い出したくなどなかった。あの方を恨み、憎しみ、嘆いたわたくしの情は……この子は、本当におぞましかった。みずからのもっとも見たくないところを突きつけられているような心地がしたのです。……豊葦原では、みずからの情に捉われた神のことを神崩れというでしょう。神崩れのはじまりこそは、わたくしたち――恐れに捉われ、生と死などというものを創ってしまったわたくしたちを、豊葦原に閉じ込められた子どもたちが罵ったのです」
悠と真珠はイザナミの告白を黙って聞いていた。
常世国へ戻り、〈すべてのもの〉に還って、もはや豊葦原で抱いたような恐れなど何もないと思っていたのに。イザナミの目の前に、かつての記憶を持つ蛇が現れた――イザナミは、ただ森に引きこもったのではない。辛い記憶を拒み、みずから心を縛ってしまったイザナミは、〈すべてのもの〉に留まっているのにふさわしくなかったのだ。
身を引くようにしてイザナミは去り、みずからを凍てついた森の中へ封じることになった――。
「おぞましいも美しいもなく、わたくしはわたくしの情を受け入れればよかったのです。この子が含まれてこそのわたくしの心なのだと、思い出せばよかった。そして、みずからが苦しまずにすむ想いだけを、胸にいだけばよかった。けれどわたくしはこの子を拒絶し、この子を助けようとしたあなたがたから目を背けたのです」
イザナミはうっすらとしたほほえみを浮かべた。
「――わたくしたちは、かつてはあなたがたのようでした。互いを慈しみ、ともに美しい世界を創っていたのです」
それが、なぜ憎しみによって分かたれることになってしまったのか。誰も望んでいない。誰にも咎はないのに――。
「イザナミさま。……その帯が持っていたのは、あなたの情だけではありません」
悠の言葉に、イザナミはほほえみを消した。なんですって、と呟いた唇は震えていた。悠は真珠と顔を見合わせ、続けた。
「わたしたちは、異なるひとの情を抱いていました。イザナミさまの情は、真珠が。わたしは、イザナギさまの情を……」
イザナミはしばらく途方に暮れたように蛇を眺めていたが、やがて悠に目を戻した。
「あの方が、わたくしを見てどう思ったか、分かりましたか。あの方がわたくしから逃げ出したとき、わたくしに別れを告げたとき、あの方がどう思っていらしたのか……」
悠が頷くと、イザナミは蛇に伸ばしかけていた手を止めてしまった。
イザナミさま、と悠は臆せず声をかけた。
「どうか、ごらんになってください。イザナギさまがただ恐れに捉われたのだと、たやすく別れを告げられたのだと、お思いにならないでください……」
悠と真珠は、ともに
「よく分かりました。ふたりとも顔をお上げなさい」
イザナミは靄に覆われた白い森を眺めた。
「ここは、わたくしの心。この森に光が射したことは一度もない。――この子を連れてきてくれて、ありがとう。わたくしは、この子を受け入れます」
イザナミが差し出した白い手に、蛇はおずおずとすり寄った。イザナミは蛇を胸の中に収め、しばらく目を閉じていたが、はっと目を見開いた。霞がかかったようだったその目から、涙があふれた。
「あの方は、わたくしをおぞましいとおっしゃったのです……わたくしは、腐ってなどいないのに。あの方の目には、そう見えるようになってしまった。こちらから呼びかけても、何もおっしゃらなかった。……それなのに、本当は……」
あの方も、傷ついていたのですね。イザナミは呟き、みずからを抱きしめた。
「そうです……わたくしは、あの方といくつも、本当に美しいものを創ったのです。そんなことも、忘れてしまっていた……」
森の風景が端から鱗のようにはがれ、煌めきながら飛び去っていく――〈すべてのもの〉に還っていく。悠と真珠は、落ちているとも、上っているとも分からない中へふたりで投げ出された。
「イザナミさまは――? 」
真珠が言った。動いているとも止まっているとも分からないただなかへ突然戻り、ともすると大きな力に押し流されそうになる。
「あの洞を出られたんだ」
悠は真珠が離れていかないように引き寄せた。〈すべてのもの〉を感じる。ふたりは途方もなく自由だった。飛ぶように、泳ぐように、滑るように、自由だった。快活だった。安らかだった。
そのとき、イザナミの姿がすぐかたわらに現れた。寒々とした森に塞ぎこんでいたとは思えないほどの、大きな、気高い姿。
イザナミは胸から赤く細長いものを取り出した。それはもう、形の定まらない蛇に似たものではない――美しい龍だ。火の粉を飾りつけたような背の鱗が輝く。
「我が子よ。おまえにわたしの心を託します。あの方のもとへ行き、伝えておくれ」
生まれたばかりの龍は嬉しそうに高くひと声鳴き、悠と真珠の周りを飛んでから、〈すべてのもの〉を出ていった。
「あの子には、豊葦原へ行ってもらいました」
イザナミは晴れやかに言った。
「わたくしも、〈すべてのもの〉へ戻ります。あなたがたも、もうお戻りなさい」
……
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