第二の夢

 私は目を覚ました。


 思いのほか小さな手足と重たい頭に難儀しつつ体を起こす。


 ベッドから降りて自分の姿を仔細に確認するに、これは間違いなく私の身体である。


 なるほど、すべては悪い夢だった、というわけか。


 ただ不可解なのは、これまでの長い長い夢がまるで私の本当の過去であるかのようにすべてをありありと思い出せることであろうか。


 部屋に貼ってあるカレンダーを見るに、現在、私の年齢は5歳である。


 自分で言うのもおこがましいが、ここまで深い知見・知識、さらには熟練した思索が可能は五歳児はこの世にいるまい。


 身体は子ども、頭脳は大人。


 なるほど。


 おそらくこれは私の「二周目」、あの日を境に始まった「第二の人生」に違いなかった。


 ◆


「あら、めずらしく早いのね。土曜日よ今日」


「この素晴らしい朝を味わわずにはいられないと思って、つい」


「……」


 母が怪訝な表情になるのも無理はない。しかし私としても、いまさら幼児の真似事のような言葉を使うには矜持が許さない部分もある。


 それに、なんだろう、この感じ――


 今後自分が『神童』ともてはやされ、天下無双の秀才としてその道を行く人生が一気に目の前に開けてくるような、この全能感――


「まあいいけど。あなた今夜行くんでしょ? 七夕祭り。あおばちゃん迎えに行ってあげなよ」


 母の言葉はそのまま鋭い雷撃となり、私の脳天を貫いた。


 感じていた全能感や幸福感は霧消し、そこにはただ一つ、大きなる『意味』だけが残った。


 この二周目の人生の真の意味だけが。


 ◆


 七月七日(土)、今日は幼稚園内で行われる七夕祭の日。


 地域の行事であるが、我々園児が作った笹飾りが会場中心に据えられた幼稚園行事的側面も持っている。


 そこには父兄による簡単な出店も連なり、地域の小さき者たちにとっては「自我が発生してより初めての祭り」と位置付けられることも多い重要なイベントである。


 あの時の私も、言葉にできないような興奮に包まれて今日という日を過ごしたことをありありと思い出すことができる。


 だが今の私にはもはやそのワクワク感を得ることはできない。


 この年のこの祭りが私にとって二回目ということが原因の一つだろうが……それ以上に私を不安にさせる要素が、イベントが、この日に待ち構えている。


 今日は私が青葉に、将来の婚姻の約束をしてしまったその日である。


 絶対に避けねばならぬ。


 しかし前々から分かっていればこれほど簡単なこともなかろう。


 その言葉を受けないか、あるいは受けても拒否すればいいだけなのだ。


(祭りに行かないという選択肢もあるが、かえって問題を先送りすることにもなりかねない。大事なのは彼女に話を切り出させ、それを私がやんわりと断ることなのだ。)


 私はご飯時以外は自室にこもり、ジッと目を閉じてその時を待つことにした。


 なに、一つ断りを入れるだけなのだ、難しい仕事ではない。


 ただしその決断には、たとえ思慮深い5歳児とはいえども多大な精神的準備を必要とするものである。


 ◆


 日が暮れた頃、家のチャイムが鳴らされる。

 私と母が玄関のドアを開けると、そこには浴衣姿の青葉がご両親と共に立っていた。


 白地に色とりどりの朝顔が咲いた、いかにも子どもらしい、かわいらしい柄の浴衣である。対してTシャツサンダルの自分自身の姿が少し恥ずかしくもあるが、そこは五歳児的無邪気さを発揮して乗り越えた。(偉そうなことを言っているが、そもそも二十歳のあの日の自分も服装などに頓着するような人間ではなかったはずだ。)


「お母さんたち、ここにいるからね」と、母の言葉を受け取り、私と青葉は二人で園内をめぐることにした。


 私と青葉ははぐれないように手を繋ぎ、すでに多くの人々でにぎわう幼稚園敷地へと入って行く。


「ねえ、あそこ行こ」と、彼女が指さしたのは、グラウンド中央、屋台の薄明りの中、ひときわ目立つように小さなスポットライトに照らされた笹飾りである。


 私は身構えつつも、「よろしい」と言って彼女を握る手に力を入れ、歩みを進める。


 結び付けられた様々な願い事を「これはカンダくんの」「これ先生のじゃない?」「スーパー行けば叶っちゃうね」などと好き勝手言いながら検分していくと、私の笹飾りが目に入った。


 一瞬身構えたものの、そこにはただ、「ゆかいなせいかつ」とだけ大きく書かれていた。


 我ながら安穏としたものである。こんな人生が待ち受けているとも知らずに!


「あ……」と、青葉が小さな声をあげ、小さな指で一枚の短冊に手を触れた。


 くるぞ。


 それは彼女自身が書いた短冊である。裏を向いているそれをくるりとひっくり返すと、そこには、


「けっこんできますように」


 と書いてある。私の名前こそ書いていないものの、その後の彼女の行動を考えればその相手は、おこがましくも、私ということになる。


 このあと彼女は、この短冊をいったん外して、


「あのね、えっと……」


 笹を照らすスポットライトが彼女の真っ赤な顔を照らしている。


「ここに名前、書いて」


 と、彼女が指さしたところには、なるほど、不自然な空白がある。


 さしずめこれは小さな婚姻届けといったところであろう。

 両者の署名があって初めて効力を得る、子どもたちだけの証明書。


 提出される織姫彦星にとっては窓口違いもいいとこだろうが、まぁこれくらいは大目に見てもらうほかない。お前らだって似たようなもんだろうが。


 しかし、私に彼女の願いは叶えられない。


 大いなる友情の前に、このような間違いは決してあってはならないのである。


「大変申し訳ありませんが、それはできかねます」


 と私ははっきり言葉にした。


 その瞬間、一瞬だけ、お祭り会場すべての音が止まったような空白ができ、彼女は私に向かって「は?」と疑問を投げかける。


「その短冊に署名はできません」


「なんでよ」


「なんででも。しいて言うなら、ほかに好きな人がいるからかな」


「私だっているよ、お父さんにお母さんに、あと先生と――」


「そういうことじゃあないんだよ」


「そういうことってどういうことよ!」


「そこはなんとか、分かってほしいんだけどなぁ……」


「分かんない! イミわかんない!」


 さして中身がなくかみ合いもしない議論はボリュームだけが跳ね上がり、さながらカップルの痴話喧嘩の様相を呈してきて、私は五歳児なりに大いに狼狽した。


 青葉はすでに大粒の涙をこぼしており、涙で視界がぼやけているにしては的確に私の顔面を殴りつけようと拳をふるう。


「待ってって! 落ち着いて話を聞いて!」


「聞かない!」


「暴力は良くないって――」


「バカ! もういいもん! もう知らない!」


 と彼女が最後に振り上げた平手は、思い切り私の右頬を打ち抜いた。


 愚者の橋を落下する恐怖に比べれば、この程度の痛み……!


 と踏ん張ったつもりが、あえなく私は尻もちをついて「ぐう」と思わず声が出た。


 彼女が私に馬乗りになってさらなる追撃を加えようとしていたところ――そこでようやく、我々の両親が止めに入ってくれたのであった。


 ◆


 五歳児がここまで明確に好意を否定されて泣かない道理はない。


 それは分かる。


 しかし向こうの母親にも「そこまで言わなくても、ねえ……」と困惑され、我が母にも「いくら恥ずかしいからって反対のこと言っちゃダメでしょ」と見当違いなことを責められるのはいかがなものか。


 私も五歳児らしからぬボキャブラリーで切々と語るのだけれどすべては子ども戯言として受け入れられず、最終的には握手で和解、という謎の展開でこの一件は幕を閉じたのである。


 手を握り合っただけですべてがなかったことにできるとは誠に浅はかなことこの上ない。


 そんなことは私以外の未就学児にも簡単に喝破されるはずだ。


 私と青葉はその後も手を繋いだまま、七夕祭りの縁日に興じた。


 その握り合った手に通う感情は、真の友としての情愛である。


 真の友人としての繋がり以外、好きだの嫌いだのというややこしく面倒な感情は、もはや我々の間に通うものではなくなっていた。


 ◆


 家に帰る頃にはすっかり青葉の機嫌も良くなり安心した。


「またね」


 と手をふる彼女に向かって、私も五歳児的屈託のなさで手を振り返したのであった。


 さて、夢のことなどはもう忘れよう。


 明日からは心新たに、あの日々を繰り返そう。


 私はまた私らしく、きわめて愉快で実りある人生を着実に歩んでいくのみである。


 ◆ ◆ ◆


「……私と付き合って」


 私は思わず彼女を見た。


 そして天を仰いだ。


 なぜだ――


 私は何も言わずに前を向きなおし、再び自転車を押して歩きだした。彼女もそれに合わせて歩く。


「……なんか言ったらどうなの。私が恥ずかしいだけじゃん」


「そりゃ言って恥ずかしくなるようなことを言うのが悪いのでは……」


「張り手でも食らいたいわけ?」


 そんなつもりは露ほどもない。


 しかし、なぜだ。私は確かに、私の人生を修正したはずなのに――


「どうして、俺のことを」好きになったのだろう。


「そんなの、今更私にも良く分かんないけど……でも、そもそもの始まりは……」彼女はなにか、遠く昔を思い出すかのように言葉を絞り出す。「海、かな」


「海?」


 私は聞き返す。


 大いにインドア派な自分にとってなじみのない言葉である。私が必死で過去の海にまつわる記憶を思い出すべくウンウン言っていると、彼女はたまりかねたかのように、


「私たちだけ海ではぐれちゃったことあったでしょ? 小学校の遠足で。あの時、あんたが私を必死で励ましてくれたときから、ずっとあんたのことが、その、気になってたんだって。もちろん、そんなのはきっかけでしかないけどさ。でも、今思えば、あの時の安心感に、私はすごく惹かれたんだと思う……」


 私は言葉を失った。


 私の全身はいきなりあふれ出した感情の濁流に飲み込まれ、その後に、その記憶だけが残った。


 その瞬間を。


 あの瞬間を。


 そうか。


 そうだったのか。


 あの頃から、すでに彼女は私のことを――。


 私は、商店街へ入る手前、橋の上で立ち止まった。


 通称「愚者の渡し」と呼ばれるその橋は、幅20メートルほどの川の上に掛かった大学生たちの交通の要衝である。言うまでもないが馬鹿大学生がウロウロしている大変治安の悪い橋である。

「愚者の渡し」の名に恥じぬ威容が、ここにある。


「ちょっと待ってくれ。青葉」


 と、私は彼女の前に立つ。


 彼女とこの橋の上で見つめあうのは二度目である。


 商店街アーケードから漏れる光が、彼女の顔をきらきらと照らしている。

 見ているこちらが恥ずかしくなるくらい真っ赤な顔をして、彼女は、私の次の言葉を待っている。


「俺は、お前のことを――」


 と、私の視界の端に、騒がしい自転車集団が目に入った。


 まるで幼稚園児のような集団だが、その在り様、我が大学の腐れ大学生に違いない。既視感もある。


 おそらく部室での貧乏飲み会を終えた後の体育会連中であろうたくましい4つの体躯が、決して広くない橋を蛇行しながら進んでくる。


 私と青葉は一旦、彼らに道を譲るように橋の欄干近くに移動した。


 と、彼らのうちのとびきりガタイの良い一人がガクンと姿勢を崩し、「うわ」と小さな声を上げる。


 いきなり自転車が横倒しになり、フィジカル強めの体当たりが青葉の肩を思い切り押した。


 その勢いで青葉は私に抱きつき、カンカンに熱した焼き肉屋の炭のような体温が私にまとわりついた。


「あっち!」と思わず彼女を軽く突き離す。


 彼女は橋の中ほどへ押し返される。


 その反動に私自身が耐えられず欄干を乗り越えてしまい、暗く湿った川の上へ放り出される。


 私は頭から川へと落ちていく。


 川といっても水深はおそらく20センチもない。浅い川でも人間は簡単に死ぬのだということを、私は身をもって証明しようとしているというわけだ。それも二度目ともなると信ぴょう性が俄然高くなる。


 そんなことを呑気に考えている場合ではないのだ。


 落下の最中に脳内を占めていたのは、死への恐怖でもなく、彼女の体温でもなく、彼女と過ごした日々の走馬灯でもなく――


 この事態を回避するために必要だった、明白で簡潔な、二つ目の教訓――


『教訓2. 幼少期に二人きりで集団からはぐれ、さらにはそこで彼女を元気づけようと張り切ってはいけない。自分にとっては些細なことも、相手にとってそれは、いつまでも抜けない記憶の棘になるだろう』


(つづく)

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