第一の夢
■第一の夢
「……私と付き合って」
横を歩く
短く滑らかな黒髪が彼女の横顔を隠していて、その表情の大半は読み取れない。
私は何も言わずに前を向き、再び自転車を押して歩きだした。彼女もそれに合わせて歩く。
学内でひっそりと行われた我がサークル飲みの二次会終わり、大学から街へ降りていく長い石畳の坂道には、私と彼女以外、誰もいない。
ぽつぽつ浮かぶ街路灯に早咲きの桜が照らされて、ちょっとした悪夢のような美しさを湛えている。
この日・この時・この展開はさすがの私にも予想できなかった。
同じ大学どころか、高校も、中学も、小学校も、保育園も、そして生まれた町も病院も生まれた日もすべて同じと言う、
打ち立てた標高表示板にはきっとエベレスト以上の数字が刻まれており、私が初の登頂者。ボンベには残り酸素はなく、きっとこの山頂が人生の終着点――と覚悟を決めて眠りに着こうとしていた最中、急にその山は轟音とともに崩れ出した。
すっかり低くなった元・幼馴染山から改めて見上げるのは新たに現れた「恋人」という名の恒星であり、そのこの恒星から降り注ぐ「告白」という名の陽光が私を容赦なく突き刺した。
「それって……つまり……」
歯切れの悪い私の言葉を遮るかのように、
「つまりも何も、そのままの意味だけど」
と彼女は新たな光線で私の脳天を突き刺す。
日傘をさすには遅すぎる。一度受け取った告白は、二度と癒えることのない傷跡となった。
私は恐る恐る、聞いてみる。
「これまで通りの付き合いとは……別の意味合い、ってことで理解したがいいのでしょうか……」
「殴られたいの? そんな漫画みたいにニブいやつぶってもダメだから。その、ちゃんと、恋人になってほしいってこと……」
「で、ですよね……」
会話の間、彼女はその間一度もこちらを見ることがない。
街灯の光の下をくぐるたび、彼女が耳まで真っ赤になっていることがよく見える。自ら熱を放つ恒星そのものである。
彼女の勇気ある行動を茶化すことはしたくない。
そしてできることなら彼女の願いに応えてやりたい……
とは思うが、しかし願いが願いだけに、素直に「ウンいいよ」と首肯できない事情もこちらにはある。
私にはただ一人、彼女とは別の、想い人がいるのである。
それにしても、である。
「……なんか唐突じゃない?」
「まあ、私も……そう思わなくもない。今日のお花見だってさっきのことだって、単なるキッカケだったと思う」
「……そ、そうなんだ」
「そもそも私があんたを好きに、っていうか、気になってたのは……ほら、幼稚園の時のこと覚えてる?」
私が必死で幼き頃のことを思い出すべく記憶の糸をたどっていたが、彼女はそれを待たず、
「私と結婚の約束してくれたでしょ? いや、まぁさすがに結婚までは今は考えられないし、まあ子どもの戯言? だと思うよ。でも今思えばアレがキッカケだったのかなって思うんだよね。あの言葉を受け入れてくれた時から、あんたがほかの人とはちょっと違う立ち位置になったというか……」
私は言葉を失った。
私の全身を変電所をのたうちまわる高圧電流もかくやという大電撃が駆け抜け、内臓という内臓を丸焦げにし、そして思い出した。
その瞬間を。
あの瞬間を。
そうか。
そうなのか。
あの頃から、すでに彼女は私のことを――。
私は、商店街へ入る手前、橋の上で立ち止まった。
通称「愚者の渡し」と呼ばれるその橋は、幅20メートルほどの川の上に掛かった大学生たちの交通の要衝である。この橋さえ押さえれば、激務から逃げ出したゼミ生、仲間内の賭け事で多額の借金を抱えた院生、授業をサボる教授などは比較的容易に捕獲できる。
橋の上では、今夜も数人の学生が低い水面を眺めながら、生涯で一二を争うほど意味のない談義に花を咲かせていた。
「愚者の渡し」の名に恥じぬ威容が、ここにある。
「ちょっと待ってくれ。青葉」
と、私は彼女の前に立つ。
彼女はこの夜初めて、私の顔を見た。
商店街アーケードから漏れる光が、彼女の顔をまともに照らしている。
見ているこちらが恥ずかしくなるくらい真っ赤な顔をして、彼女は、私の次の言葉を待っている。
「俺は、お前のことを――」
と、私の視界の端に、騒がしい自転車集団が目に入った。
まるで幼稚園児のような集団だが、その在り様、我が大学の腐れ大学生に違いない。
おそらく部室での貧乏飲み会を終えた後の体育会連中であろうたくましい4つの体躯が、決して広くない橋を蛇行しながら進んでくる。
私と青葉は一旦、彼らに道を譲るように橋の欄干近くに移動した。
と、彼らのうちのとびきりガタイの良い一人がガクンと姿勢を崩し、「うわ」と小さな声を上げる。
いきなり自転車が横倒しになり、フィジカル強めの体当たりが青葉の肩を思い切り押した。
その勢いで青葉は私に抱きつき、カンカンに熱した焼き肉屋の炭のような体温が私にまとわりついた。
「あっち!」と思わず彼女を軽く突き離す。
彼女は橋の中ほどへ押し返される。
その反動で、私は低い欄干を乗り越えてしまい、暗く湿った川の上へ放り出される。
私は頭から川へと落ちていく。
川といっても水深はおそらく20センチもない。浅い川でも人間は簡単に死ぬのだということを、私は身をもって証明しようとしているというわけだ。
落下の最中に脳内を占めていたのは、死への恐怖でもなく、彼女の体温でもなく、彼女と過ごした日々の走馬灯でもなく――
【どうすれば彼女からの告白を阻止できたのだろうか】
この一点であった。
ただ、読者の皆様にとってこれはすでに愚問であろう。
もちろん私にとっても愚問である。
この事態を回避するために必要なもっとも明白で簡潔なたった一つの教訓――
それを今ここに書き記しておこう。
『教訓1. 幼少の時分に軽率に婚姻の約束をしてはいけない。その事実は、いつ何時爆発するとも分からぬ時限爆弾と思え』
(つづく)
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