第二章 東京 三 大塚

 

 月末、日割りされた10万円の5%に相当する数千円が確かに振り込まれていた。

 5%。それは思ったより大きな金額だと思った。10万円なら5%は5千円に過ぎない。けれど100万円なら5万円、1億円なら500万円にもなる。ひと月で働くことなく年収ほどの収入を得ることが出来るのだ。

 そうして考えてみると、世の中の人たちは真理に気づくことが出来ないなんて間抜けな人たちなのだろう思う。別に竹ノ内のファンドではなくとも、不労所得を得る手段はいくらでもある。そこに1円でも多くベットすれば、定年より遥か前に「上がる」ことができるはずなのに。

 実際にはそれほどの欲をかく必要はない。600万円出資すれば、月々30万円の配当がある。それだけあれば食べるのに苦労することは無い。節約すればどんどん出資額を増やすことができ、配当の金額もどんどん大きくなっていくはずだ。並行して、竹ノ内のいうとおり「生きがいのためのワーク」でもやっていれば、十分すぎるくらい豊かに暮らしていくことができる。

 貯金の残高を確認すると200万円残っていた。監査法人を退職してから無職生活を送っていたことでかなり目減りしてしまった。当面の生活費も考えれば100万円は残しておきたい。残り500万円。

 と、駅の消費者金融のチラシが目に入った。30日間無利息。

 無利息なのだったら、借りてみてもいいのかもしれない。与信の審査をすると100万円の貸し付けを受けた。来月はこれだけで5万円以上もの不労所得が確定している。

 翌月になり、美幸から追加で出資した100万円を返して貰い消費者金融に返済すると、与信が上がり200万円まで借りることが出来るようになった。

 既に作っていたクレジットカードのキャッシングの枠を見ると、合計で200万円ほどあった。私はその400万円を全て出資額に投入した。平均借入利率は年利12%。つまり月々の返済は、利息と元本の繰り上げも含めて5万円程度だった。奨学金の返済も入れればおよそ8万円。

 一方で配当は既に入れている分も合わせて約25万円。差額の17万円ほどが手元に戻ってきた。けれど、ここから税金を支払うということを考えるとFIREするには心もとない金額だった。

 そこで職場で付き合っていた比較的仲の良かった年下の同期の女の子に竹ノ内のファンドのことを説明し、30万円出資してもらうことができた。私の手元に入る収入は2.5%の7500円ほどでしかなかったけれど、彼女が更に出資額を積み増すほどに、人を紹介すればするほどに、どんどん金額は増えていくだろう。

 そうして日に日に金勘定をしているうちに、金遣いがどんどん荒くなっていった。ブランドのバッグを買い、買いたいだけ服や化粧品を買い、お酒や食事も高い物になっていった。そのカロリーを消費するためにジムに通い始めた。作った身体を誰かに魅せたくてホストに通ってみたりもした。

 すると気付いた頃にはもう、手元にほとんどお金は残っていなかった。クレジットカードも、利息も支払うことができない。配当を考えても足りてない。たぬきの皮算用が勢い余って遣い過ぎてしまった。

「え、知らないの? 一度でも資金を引き揚げたらもう出資することができなくなるんだよ。それでもいいの?」

「でも、前回は100万円返してくれたじゃない。」

「それは、それは。こないだは、あや子がまたすぐ出資するって言うから、それを信じて私が立て替えてあげてたんだよ。」

「でも、それじゃあどうしたらいいの? 私もう枠いっぱいお金借りてるから、貸してくれるところなんてないよ。」

「わかった。じゃあ、あんまりこういうの紹介するのは良くないかもしれないけど、お金貸してくれるところ紹介してあげる。」

 美幸に紹介された高田馬場にある学生ローンの入っているビルの下の階に、違法な利息で貸し付けを行う金融業者いわゆる闇金が入居していた。入ってみると一般的な金融業者とそう内装は変わらなかった。応対した男も多少横柄なくらいで普通のスーツを着たサラリーマンに見えた。

 闇金では30万円融資を受けた。けれど利息はトイチ。1円も返済しなければ複利法で年利3千%を優に超える。月々10万以上返済しなければ元手の減らない金額だった。そしてその月はクレジットカードをリボ払いに切り替えることで何とか乗り切ることができた。

 しかし翌月もまた支払いはやってくる。そして気付いたことがある。

 月々30万円の配当では、豊かにくらしていくのに全く足りていないことを。

 今まで住んでいた門前仲町の部屋を引き払い、板橋にある家賃5万円の粗末な部屋に引っ越した。どうせ寝るのと住所を確保するだけの部屋なのだから正直いってどうでもいい。早く出資額を揃えて、FIREするまでの辛抱だと思った。

 公認会計士の会費の払い込みが年10万円ほどある。それを出すだけの価値はもう私にはないと思ったし、定期的に開かれるセミナーや勉強会への参加をしなければいけない。とっくの昔に資格停止の申請をしていた。

「あのね。うちの利息って高いんですよ。じゃあ今月は10万円だけ振り込んであげますけどね、このままじゃすぐ首回んなくなりますよ。うちの借金飛んだりできませんからね。それより副業としてできる仕事紹介しましょうか。」

 美幸の紹介してくれた闇金に追加で融資を依頼すると、風俗の仕事をいくつか紹介してくれた。

 デリヘルの仕事自体はもちろん最初の頃は抵抗があったけれど、考えてみれば、それは新しい出資者を募るためのチャンスでもあった。客にそういう話をしていたことも関係するのかもしれない。最初のうちは「新人」ということで入っていた指名が徐々に入らなくなった。

 またデリヘルは1回の「サービス」に要する時間が長く、歩合制だったのでピンサロ店に鞍替えした。時給制で、フルタイムの昼職との兼業だったし、新たに竹ノ内のファンドに勧誘もしなければいけなかったから、時間の融通の利くピンサロの方が合っていた。何より、デリより身体の負担が軽くて済んだ。

 こうして昼夜なく働き通しの生活を送っていくうちに、精神的にかなり追い詰められてきて、精神科で処方してもらう薬が効かなくなってきた。

 その様子を心配したピンサロの同僚キャストから、「そんなにしんどいなら、これ使ってみる?」と、小さいビニール袋に入った錠剤を貰った。

 それを摂取すると思考が加速し、あらゆる景色がスローモーションに見える。意識的に時間を早送りすることもできたし、二日まったく寝ずにいても平気だった。臭いや、風、霊気のような人の目に見えないものが見えるようになってきた。この世界には、人の理解を超えた何かがきっと確かに存在するんだろうと確信した。精神がトリップして一日を乗り切ることができた。

 もちろんドラッグの効果の切れ目でそれはすぐに見えなくなった。自分でも分かるくらい知能低下と倦怠感によってまともに生活できなくなる。自分の精神だけが幼児退行した自分の肉体を斜め上から見下ろしていた。そして自分を「あやすため。」に、間を置かずに摂取する。

 次第にドラッグも自分で手に入れるようになっていった。

 歌舞伎町のスポーツ公園から少しいったところにある角の自販機でスマホを弄っていると、大柄なアラブ人が話しかけてくる。彼はテルアビブからやってきたドラッグの売人だった。本国で面が割れ、新しいマーケットを求めてこんな国まで出稼ぎに来ているらしい。日本ではドラッグを売っても死刑になることはない。刑務所の中は、自国で貧困生活に窮するより遥かに快適なのだろう。彼もまた私と同様、居場所のない存在だった。

「冷タイ、温カイ、ドッチ。」

「冷たいの。」

 そしてお金を渡し、次の角にある自販機の下を手で探ると、封筒に入ったドラッグが置かれている。海外の複数サーバを経由して匿名性を担保することが売りのSNSを利用してネット上で売買を行い届けてもらう方法もあったけれど、質の悪いケミカルだったので以降利用しなくなった。やはり対面の方が信用できる。

 その月、配当金の振り込みがなかった。

 美幸に問い合わせをすると、「何か、タックスヘイブンのネットワークが不安定になっててその日振り込めなかったんだって。第三国ってそういう不安定なところあるからやになるよね。」と能天気に言っていた。職場の同期から配当金の支払いを請求されたけれど、同じように言って支払いはしなかった。

 翌月も振り込みがなかった。消費者金融からの電話も鳴りやまなかった。闇金だけは、返済分を風俗店からピンハネしていたので特にお咎めがなく、そのことだけは救いだった。

 もう無理だと思った。出資金を返して貰おうと思い美幸に連絡をとろうとしたが、連絡がつかなかった。竹ノ内にも連絡が付かなかった。直接言いに行こうと思い品川のタワマンを訪問すると、竹ノ内の住んでいたはずの部屋は空き部屋になっていた。

 一刻も早く返して貰おうと思い警察に電話を掛けると、「民事なので弁護士さんに相談して下さいね。」ととりあってもらえなかった。法テラスを介して弁護士に相談すると、「証拠ありますかね。ないんだったら諦めてください。」とつれなかった。

 あくる日、職場に赴くと上司に呼び出された。

「楠木さん、何か悪いことやってるでしょう。職場の同僚をマルチに誘い込んでいるって話聞いたんだけど、詳しく聞かせてもらえるかな。」

 私は何も答えなかった。

「あと、これ、楠木さんでしょう。「タレコミがあったのよ。楠木さんが、ここで働いているって。」

 上司がノートPCの画面を広げて見せた。目を隠してはいたけれど、それはピンサロの店舗HPに映った私自身だった。

 そして、上司に退職を促されるまま退職した。クスリの量が増えた。

 

 *

 

 ピー・ガガガ・ピー。耳鳴りがする。どこかでFAXの着信音が鳴っていた。幻聴が止むと現実に引き戻される。徐々に身体に耐性がついてきて、同じ量では次第にバッドトリップしかできないようになっていた。幻覚の中で、私は夢を見ていた。

 母の白く長い指が五本、大きく開かれていた。高々と掲げられたその手のひらはパラボラアンテナみたいに私の顔に標準を向けていた。「パー」だと思ったが、「グー」だった。母の握りこまれた拳が私の左頬を直撃し、その光景がスローモーションのように映った。ミリミリと神経の切れる音が聞こえ、激痛が全身を貫いていく。

 私はこの意味のない人生を何度も何度も繰り返し追体験していた。

 何が悪かったんだろう。どこをどうすれば、「普通に生きる。」ことができたんだろう。居場所ができたんだろう。何度繰り返しても、私は室蘭から逃げ出したいという気持ちを抑えることは出来なかった。簿記の勉強は楽しかった。母のいる北海道から逃げ出したかった。東京の慌ただしさに耐えられるほど強くなかった。居場所が欲しかった。誰かに認めて欲しかった。でもそれが無理で、何もかも壊れてしまった。きっと何処かで「この苦しさは、こんなもんなのだと受け入れなければいけない。」と気付くシーンがあった。けれど私は私だから、そこで堪えることはできなかった。何度繰り返しても他の選択肢をとることはなかった。

 であるとすれば、この現在の不幸は私が私として生まれたことで予め定められていた運命だったのではないかとさえ思う。こんな末路しか用意してないなんて、神さまはきっと良い性格をしている。

 気が付くと電気が止まり、ガスが止まり、水道が止まり、私は家賃を滞納して家を失っていた。

 ピンサロで働いていればお金は入ってくるし、まだ少し貯金もあるけれど、それはドラッグのためのお金だった。現実の景色はモノクロの映画のように精彩を失っていた。もはや何も持たない私がそれを直視し続けるのは副反応をはるかに上回る苦痛以外の何者でもなかった。例え耐え難い悪夢でも、幻覚の世界はビビッドだった。

 最低限の荷物だけ抱えてネットカフェに寝泊まりするようになって数週間が経っていた。ある日、退屈に飽かせてFacebookのアカウントを作った。

 昔の同僚、小中高大の同級生、先生や教授、覚えている限りの名前を検索しては片っ端から友達申請をしていった。しかし何日経っても誰からも承認を受けることはなく、私の友だちの人数は「0人」のままだった。

「楠木湊」の名前を検索するとすぐに見覚えのある顔が表示された。屈託のない笑顔、そして二十数年分の加齢を経ていたけれど、それは見紛うことなく義兄の湊その人だった。

 彼の基本データを見ると、彼の出身地と現住所は室蘭市になっていた。全体表示になっている数少ない写真を見ていると、湊は既に結婚し双子の子どもを設けていることが判った。そして彼の結婚式の写真には、私以外の父や母、樹や蓮の姿が写っていた。湊はいつ彼らと和解したのだろう。

 いやきっと、私ほどではなかったのだ。私と同じように家族と諍っていたと思っていた湊の諍いも、時が経てば和解できてしまうほどに私ほどではなかった。あの家に本当の意味で居場所がなかったのは、やはり私だけだったのだ。家にも、この社会にも、居場所がないのは私だけだ。それは、ましてや教養のせいなんかではありはしない。私が、私であるがために居場所がなかったのだと判った。

 次第にピンサロへ出勤できる日数も減っていった。ある日、出勤するとボーイの田島から告げられた。

「アヤカさん、オーナーがさすがにもう置いておけないって。一応客商売なんで。はい、これ退職金。ちょっとだけどね。」

 歯の抜けたギャンブル狂いの田島の見下したような説教される謂れなんてない。散々喚いた挙句、最後は力ずくで店を放り出された。ふと商店街のショーインドウを見ると、骨と皮になった老婆が立ち竦んでいた。一目散にいつものネットカフェに引きこもった。

 天井を見上げると蛍光灯の明かりに照らされて埃が舞っていた。しばらく咳が長引いて止まらない。もうドラッグを買うお金もなくなっていた。

 ある日、警察がやってきて私を連れて行った。罪状はネットカフェで無銭飲食と滞在をしていたことによる詐欺罪だった。留置所は思っていたよりずっと清潔な場所だった。

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