第二章 東京 二 品川
「それでね、私のセンセイがね。もうそろそろ、私も何かビジネスを始めたらどうかって言ってくれたの。ビジネスって言ったって大げさなもんじゃないよ。今の仕事と並行して、副業として始めるんだ。段々事業を大きくしていって、大きくなったら本業やめてそれをメインにしてもいいし、事業を売却してFIREしちゃってもいいと思ってる。どうするかはそのときに決めればいいよね。副業のフクって普通、副菜とかのフクでしょ。でもいつか本業にとって代わって、私たちを幸せにしてくれるわけだから、幸福のフクを当てはめて「福業」ってうちのセンセイは呼んでるよ。」
美幸は顔を少し紅潮させて、人目も憚らず捲し立てた。それは敢えて自分たちの話をまったくの他人に聞かせることで羨望の的になろうとしているかのようでもあった。
美幸とは、婚活パーティで知り合った。
パーティ会場でも美幸はのべつまくなく色んな人に話しかけていた。容姿は十人並みではあったけれど、しかしそれでいて婚活に焦っている様子ではなかった。男女関係なく、容姿も関係なく、誰にでも分け隔てなく話しかけ、話題から外れた人がいたらそれとなく手を差し伸べて話の輪に加えてあげたりするような気遣いも出来た。「渦中の人。」という表現が相応しいと思う。次第に彼女の周りには人が集まり始めた。きっと美幸は学生時代、いわゆるスクールヒエラルキーの頂点に君臨していたのだろう。
一応、場の流れに従って連絡先の交換はしたものの、交友関係の広い美幸と私とでは、きっと合うことはないだろうと思っていた。しかし後日、美幸の方から連絡が来て飲みに行くことになった。その後は大手広告代理店の人たちとの合コンに誘ってくれたり、読書会や異業種交流会に連れて行ってくれたりと私の知らない世界を色々と見せてくれた。
東京へ来てもう2年になる。にも拘わらず交友関係のほとんどない私にとって、積極的に絡んでくれる美幸はありがたい存在だった。
「ふうん、そうなんだ。」
「ふうん、って。他人ごとみたいに言ってるけど。あや子来週センセイと会うんだからちゃんとしてね。紹介した私の顔しっかり立ててよ~。」
美幸は普通の会社員として働く傍ら、「センセイ」と呼ばれる人と一緒に何かしらの「ビジネス」をしており、その見返りとして月30万円ほどの副収入があるといっていた。実際、彼女の持ち物はカバンから服、化粧品にいたるまでブランド品ばかりだ。
そして今度、そのセンセイが品川のタワーマンションに引っ越しをしたというので一緒に遊びに行こうと美幸に誘われていた。
まったく知りもしない相手の家に訪問するのはさすがに躊躇われ断っていたのだけれど、美幸から「センセイに、あや子のこと話したら「是非、会ってみたい。」ってさ。ねえ、いいじゃん。私もひとりで行くよりは一緒に来てくれたら安心だもん。」と言われ、根負けした形でセンセイの家に行くことになったのだった。
「はい、これプレゼント。あや子が私の為についてきてくれるから、お礼がしたいなって思って。」
美幸はカバンから紙袋を取り出すと、私に渡すより先に化粧箱を開けて中身を取り出した。発売されたばかりのM・A・Cのリップグロスだった。美幸に「ほら。」と言われるままに少し塗って貰って手鏡で確認した。
「いいね、これ。発色も付けた感じも。」
「そうでしょ? まあまあ、粗品でございますが、お納めください。」
おどける美幸から化粧箱を受け取った。既に塗って貰った手前、もう返すわけにはいかないし、約束を破るわけにはいかなくなってしまった。それに、私は女友だちに自分から何かをプレゼントしたことなんてない。こんな何でもない日にスマートに贈り物をすることが出来る美幸の感性を羨ましいと思っていたし、彼女が普段どういう人たちと付き合っているのか興味が沸いてきた。
当日になり、品川の天王洲アイル駅近くのカフェで落ち合い、そこから徒歩数分のところにあるタワーマンションを訪問した。
エントランスにはコンシェルジュがおり、美幸が「竹ノ内さんに用があって。」というと、「竹ノ内様、お客様でございます。」と内線を掛け、そのままオートロックの先にあるエレベータホールまで案内してくれた。まるで別世界だと思った。
「いらっしゃい。ああどうも、君が。ボクが竹ノ内です。」
玄関のベルを鳴らすと、俳優のように顔の整った色黒で長身の男があらわれ、私の姿を見つけると白い歯を見せてほほ笑んだ。竹ノ内からは良い匂いがした。竹ノ内の後ろには少し小太りの小柄な女性が覗いていた。
「ああ、美幸ちゃん。よく来たわねえ。こっちが、えーっと。あや子さん?」
「こちら、ボクの家内の加奈子。」
「家内っていうか、うち共働きなんだけどね。前時代的な呼び方よね、このおじさん。」
「加奈子だから、家内の方が音が近いだろ? おじさんおじさんって、ボクら同い年なんだけどな。」
加奈子がふくらんで見せると、竹ノ内が頭を掻いた。微笑ましい夫婦漫才を見て、警戒心が解けていった。小綺麗にしてはいたけれど、加奈子は決して美人とは言えない容姿をしている。しかしそれだけに、竹ノ内と見合わない容姿で結婚をしているという事実が、「きっとこの女性には容姿ではない何かスゴイ魅力があるのだ。」と思わせた。そしてそんな表面的ではない彼女の魅力に気づくこの竹ノ内という男もまた、魅力的な資質を持っているのだと思った。
「センセイ、また焼けましたか?」
「ああ、実は一昨日ドバイから帰ってきたところなんだよ。やっぱあっちは暑いね。乾燥してるし、やっぱり日本がいいや。」
ドバイなんて国、日常生活で聴いたことがない。
「どういうビジネスしてるんですか?」
「うーんとね。外部の人にはちょっと言えることと言えないことがあるんだけど、要するにプライベートジェットのレンタルをしてるんだよ。」
「別世界だよね。」
美幸が目を輝かせて言った。
リビングに入ると一面窓で、都内の景色を睥睨することができる。まさに勝ち組の景色という感じだ。書斎には所狭しとビジネスや自己啓発の書籍が綺麗にディスプレイされていて、見ているだけで賢くなった気になれそうだと思った。
「楠木さん、ちなみにキミは先月、何冊本を読んだりしたのかな。」
竹ノ内が藪から棒に問いかけた。その様子を美幸と加奈子が見ていた。それはまるで私を試しているかのようだった。先月、私は一冊も本を読んでいなかった。そのことを言い淀んでいるうちに竹ノ内はつづけた。
「自慢をするわけじゃないけど、ボクは先月30冊は新書を読んでる。別にボクは超高学歴っていうわけではないし、楠木さんは公認会計士なんだから向学心もあるのだろうし、スペックとしてそんなに違いはないと思う。じゃあ、違いは何処にあると思う?」
「私は勤めなので、中々時間がとれなくて。」
「それは嘘、言い訳だよ。思い返してみると良いよ。家に帰ってから、本当は何時間も時間的な余裕はあるだろ。わかるよ。クタクタなんだろう? 日々、仕事に追われて、生活するのに手いっぱいで、やる気が奮えないんだろう。」
「そう、ですね。そうかもしれないです。私は竹ノ内さんと違ってお金持ちではないですし、仕事なくなったら困るし、奨学金も返さなきゃいけないし。」
「君はそんな、本も読めないくらい働いて、一体何がしたいんだ?」
今までにこやかに見透かすような口調で滔滔と話していた竹ノ内が、ふっと真顔になり私の目を見据えて言った。加奈子が割って入って来た。
「ちょっと、そんな言い方やめてあげなさいよ。」
「違うんだ、別に責めているわけじゃない。だから身構えないで欲しいんだけど。元々、ボクも加奈子もとある大手通信会社で働いていたんだけどね。毎日寝る暇もないくらい働いて、それでも手元にはあんまり残らないでしょ。精神的に追い詰められてね。でも死んだ気になれば何でもできる! って思って起業したら、何とかなっちゃった。ラッキーだったよ。それで事業売却してFIREしたんだ。それで分かったよ。ピケティは読んだかな? もはやこの世界は資本収益率が労働利益率を凌駕している。ただお金があるってことがお金を呼び、富めるものを富ませていく。教養も同じ。経済的自由、時間的自由、そういう余裕が本を読ませ、次の知識をつけることで更に経済的時間的自由を独占していくんだ。」
「わかります。でも、じゃあどうして竹ノ内さんはまたビジネスなんて始めたんですか?」
「さすが理解が早い、良いところに気づいたね。実はFIREした後、数か月何にもしない生活を送って気づいたんだよね。自分の内に、他人のために何かしたいって欲求があるということに。楠木さんも何かやってみたいことってあるんじゃないのかな。でも、仕事が忙しくて出来ないこと。想像してみて。きっと何かあるはずだよ。だけど楠木さんがそれをすることが出来るようになったとき、君は何歳になってるだろうね。日本人の年齢はどんどん長くなっていって、定年は延長されるだろう。80歳とかかもしれないよね。そのときになってお金と時間がいくらあっても、やる体力がないとは思わない? そういうのは、若いときにあるから価値があるんだよ。まあ、今仕事が軌道に乗りすぎちゃって全然寝れてないんだけど、それはご愛敬ってことで。」
竹ノ内が白い歯を見せてニヤリとほほ笑んだ。その言葉には、独特の説得力があった。
「センセイはね、ご飯を食べるための労働としてのジョブではなくて、生きがいとしてのワークをしているんだよ。」
美幸が口を挟んだ。「美幸ちゃん、それこないだボクが言ったことそのまんま。」と言って竹ノ内が苦笑した。
「でも、私はお金持ちじゃないので資本家にはなれないと思います。元手がありません。」
「そりゃ、いきなりFIREなんてそれは不可能だよ。だから、労働は労働で続けながら、段々不労所得を得るオーナービジネスや高収益資産の割合を増やしていけばいい。例えば不動産だって悪くないけど、楠木さんの言う通りそれには元手が要るよね。でも例えば、ボクと仲間たちがタックスヘイブンで立ち上げたファンドは、手数料を引いて月々出資金に対して5%が手元に残る仕組みになってる。これなら最低出資額は10万円からだから、誰でも買うことができる。」
私が怪訝そうな顔をしていると竹ノ内が続けた。
竹ノ内のファンドは、実際には月10%程度の利率で運用されているらしい。そのうち、5%は出資者の手元に残り、残りの約5%のうち、半分の2.5%が「紹介者」の手元に。そのうち更に2.5%が、竹ノ内に入るという仕組みだった。そして私が誰かを出資者として紹介することができれば、2.5%が私のものとなり、残りの1.25%を竹ノ内と美幸が分け合う形になる。そうか、だから美幸は私を竹ノ内に紹介したがっていたのだと思った。
「別に、出資してくれって頼んでいるわけじゃない。投資する先は株で良いんだよ。君がトレードの腕に覚えがあるならね。でも実際、月5%の収益を出すのは並大抵のことじゃない。一方で、大資金でトレードをするなら勝ち続けるのは容易い。利益率も高くなる。株っていうのは沢山買えば沢山上がるわけだからね、解るよね。こうやって多くの人の章資金を集めて規模をどんどん大きくしていって、みんなでFIREしようっていうのがボクの理想なんだよ。みんなが労働から解放される。そしたら、きっとクリエイティブな世の中になると思わない?」
「これも何かの縁なんだし、10万円くらい入れてみたらどうかな? しばらく状況みてみて、いやだなって思ったらいつでも原資は抜けるんだし。人間って、きっかけがないとマネーリテラシーって身につかないと思う。」
また美幸が口を挟んだ。竹ノ内のいうとおり、誘因のない自己研鑽をしようとしても、それは日々の忙しさに押し流されてなあなあになってしまう。確かに、私にはきっかけは必要なのだろう。
その日、竹ノ内の家で夕食をご馳走になり、乗ったこともないような高級外車でJR品川駅まで送迎して貰った。天王洲付近の夜景は美しく、街にはゴミ一つ落ちてない。
考えてみれば、多少貯金を切り崩しても10万円程度の出費は痛くもない。勉強代として諦めのつく金額だと思った。
翌日、美幸の口座宛てにひとまず10万円を振り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます