第二章 東京 一 大手町

 

 ある朝、まだほの暗い時間帯に、少し早めの電車に乗った。もう30分もすれば身動きがとれないほどの人であふれる駅もまだこの時間では普通にすし詰めにならない程度の乗車率で済む。電車が発車し、寝起きのぼんやりした頭で景色を眺めていると、まもなく次の駅で止まった。

「あああああ! なんなんだよおおおおお!!」

 ホームでは気が触れた男が叫んで地団太を踏んでいて、それを駅員が宥めようとしていた。たまにはそんな日もある。すぐ隣で誰かが暴れていたとしても、多くの乗客にとってそんなものは大して感慨のある光景ではない。みんな歯を食いしばって正気を保っているだけで、何かの拍子に正気でいるインセンティブを失ってしまったら、正気とは何なのかど忘れしてしまったら。いつ自分がそうなってしまうか判らない。誰もが正気を失わず生きて行くことに必死で、正気を失ったあとに人生が続いていることなんて、想像したりはしないし、考える余裕もない。

 当時付き合っていた男にも一方的に別れを告げ、30歳を目前にして北海道から逃げるように飛び出し、ほとんど心の準備もできていないまま東京での暮らしを始めた。

 監査法人の東京支所の事務所は、東京駅から少し歩いたところにある鏡面張りの高層ビルの中に入居していた。東京駅から地下鉄で20分ほどのところにある門前仲町駅にオートロック付きのワンルームを借りた。札幌よりずっと築古で手狭な部屋にもかかわらず、家賃は倍以上だ。

 給与が大卒給になり更に都市手当もついたことで額面は650万円ほどにまであがった。けれど、即戦力を求めているという前話のとおり東京支所での仕事は想定をはるかに上回り多忙を極めた。

 札幌時代よりずっと多くの企業の担当となり、その企業自体の規模も一つ一つが眩暈のするほど大きい規模であり、把握しなければいけないコンプライアンスの範囲も、知識も、ずっと多くなった。

 日々終電帰りになることはザラだったし、ときには泊まり込みもある。家事は週末までやらないし、食事は決まった栄養食。シャワーも湯シャンで済ませるし、移動は小走り。そうして何とか捻出した時間を、睡眠に充てた。それでも足りなくて、たまに仕事を持ち帰らずに済んだ休みの日は泥のように眠った。

 東京の満員電車は押し合いへし合い、女だとしても容赦はない。両端を大柄な男に挟まれ、あばら骨がミシミシと軋むのを感じた。初めて痴漢にも遭った。

 最初は確かめるように、試すように、徐々に大胆になり臀部を撫でる男の手の感触を感じながら、「もう、何でもいいや。」と思い抵抗しなかった。されるがままでいる方が楽だった。そしてそういう男はきっと、そういう女を嗅ぎ分けることができるのだろう。職場でも、取引先でも、露骨に性的な言葉を投げかけられることが増えた。

「キツイな。」と思ったけれど、北海道から逃げ出した私にはもはや逃げ場はない。ここに根を張って生きていくしかない。

 とにかく目の前にある仕事を片付けることに取り憑かれていた。またそうして全精力を傾けなければとても消化し切ることはできなかった。生理も長い間来ていなかったけれど、かえって面倒ごとがひとつ減ったくらいにしか考えていなかった。

 男性の多い職場ではあったけれど、私の他にも女性社員は何人もいた。その中に根をあげている者は誰一人いなかった。一体、どうやって彼女たちはこの艱難辛苦を乗り越えているのだろう。未だ、東京で生きていくのに必要な覚悟が足りていないのだろうか。

 ある日、気付くとその年を越していた。次に気付いたときには、30歳になっていた。いやに最近暑いなと思いカレンダーを見ると、もう8月になっていた。あっというまに東京で1年が過ぎていた。思い返してみると、思い返せなかった。この1年の記憶がすっぽりと虚無のように抜け落ちていた。

 心をすり減らし、徐々に意識が朦朧とする日が増えた。頭の回転が日に日に遅く、身体が重くなるのを感じた。

 壊れた人間の末路は、ホームで叫んでいたあの男のように発狂して奇行に走るか、潰れて心身が稼働しなくなるかの二通りしかない。自分は後者なんだな、と心身が沈んでいくのを感じていた。

 ある朝、目覚めると、窓の外には大雨が降っていた。身体がいやに重たかった。前日も晩い帰りで3時間睡眠だったこともあり、それは特別なことではないように思えた。とにかく布団から這い出し、栄養ドリンクを飲み、シャワーを浴び、昨日の化粧を落として今日の化粧をした。そして出勤するためドアに手をかけた。

開かなかった。

おかしい、何度強く引いても開かない。ルーチンを乱され激しく狼狽した。このままでは遅刻してしまう。目いっぱいドアを引こうとしたけれど、それでもドアは開かなかった。会社に休む連絡をし、東京支所で働き始めて以来初めて有休を消化した。

 その翌日も、外には大雨が降っていた。たまっていた洗濯物は室内干しにした。相変わらずドアは開かなかった。その日も会社を休んだ。

3日目も雨だった。雨の勢いはその強さを増していたけれど、ふと、カーテンの隙間から出ていないはずの朝陽が差し込んでいることに気付いた。

 そしてもう、私は限界なのだと悟った。 その日、会社に仕事を辞める旨の電話をした。自分がいなければ回らない仕事があり、困る人がいる。あれだけ強く信じていたはずなのに、会社はあっさり辞意を承諾した。雨が止み、ドアが開いた。

しばらく失業保険で暮らしていたけれど、その後、新橋にある中小企業の経理としてさして忙しくない職を得た。

 しかし数か月もすると、公認会計士なのに簿記くらいで務まるような仕事をしている現実と、監査法人時代と比べて明らかに目減りした手取りと生活水準の狭間で徐々に焦燥感に襲われていくようになった。

 そして何かに寄りかかりたいと思うようになった。過去でも、趣味でも、人でも、何でもいい。ただただ寄りかかりたいと思う。

 だけど私には振り返るような過去はなかったし、色々と試した結果、特に心躍るような趣味を見つけることも出来なかった。

 私は、生き急ぎすぎてしまったのだろうと思う。他人と必要以上に慣れ合わず、「人生を楽しむことから逃げ続けてきた。」。物理的にも精神的にも、非本質的なものなんて要らないとハナから相手にもせず蹴り飛ばしてきた。だけどそういう「何も顧みない」という生き方には、大きなリスクが伴う。

 人はそもそも合理的な存在じゃない。合理なんて突き詰めれば、必ず「なぜ生きてるのか」という命題に必ず辿り着いてしまう。だから合理を必要以上に求めるのは間違っている。伴侶を手に入れるのにも、子供を持つことにも、個としての生存にも必須ではなくて、人生の目的から外れていて、"なのに思い入れを持ってしまうもの"。

 それは利害のない他人で、趣味で、そしてもう変えられない過去の道程だ。そういう非本質的なことを愛する非合理な主観こそ、人生の本質なのだと思う。

 そしてそういうものを蹴り飛ばしてきた人間が、心の支えを失うのは当然のことだ。今まで依拠してきた生き方が誤りだったと判ったとき、それが抜けた空間には孤独と不安が入り込でくる。

 もっと丁寧に生きてきたら良かった。これからは丁寧に生きよう。

 頭で判っていても、長年の習い性も価値観も、容易には変わらない。いまや時間は十分あるのに、家事も風呂も食事も素早くこなし、つい時間的な余白を作ろうとしてしまう。

 そうして毎日不用意に捻出した時間で、今では仕事をするわけでも睡眠時間を増やすわけでもなく、ただ「なんて自分は報われないのだろう。」という無為の自己憐憫に費やしていた。 暮らし自体が「なぜ生きているのか。」という答えのない問いそのもので、ただ生きていることが先の見えない苦行のように心をすり減らしていく。

 この焦燥感も、誰かと一緒にいれば解消されるのかもしれない。空いた虚無を埋めるように婚活を始めたけれど、30歳を過ぎてから始めた婚活は中々うまくはいかなかった。そもそも、人と付き合うということがどういうことなのか、私はもう覚えていなかった。

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