第一章 北海道 三 札幌

 

 24歳の春、私は大通り公園にほど近いところにある大手監査法人事務所の北海道札幌支所で働いていた。

 苫小牧の製造工場で経理の仕事をしながら簿記の勉強を始めた私は、誰かが言った「このままだと会計士になれちゃうよ。」という言葉を真に受け、少しずつ本を買い漁って勉強していた。

 次第に、独学で勉強していると体系的な知識が身につかないことが分かり資格予備校の通信講座を取るようになった。お盆やお正月になると多くの工員たちは実家へ帰省していた。けれど私に帰る場所はなかったし、遊ぶ友人も男もいない私にとって職場だけが唯一の居場所だった。同年代の工員たちが休んでいるときに先んじて勉強をしているというだけである種の快感があった。次第に自分でも半信半疑だったものが、「これはいける。」という確信へと変わった。

 そして製造工場で働き始めて5年目の冬、3度目の受験で公認会計士の資格を得た。

 少し迷った末、そのことを部長に報告すると、給湯室でそっと「まだ若いんだから、少し挑戦してみなさい。」と言われた。工場を辞める気はなかったけれど、「もし転職がダメだったら、いつでも帰ってきたらいいじゃない。」という一言に後押しされ、ネットで検索して一番上に出てきた事務所の職員募集に履歴書を提出し、二度の面接を経て採用が決まった。雇用契約書を確認して年収を計算すると、工場で働いていたときとは比べ物にならないほどの高給だった。そして魔がさしてしまった。

 私は実家に電話をかけた。もはや何の用もない実家に連絡を取ること自体、数年来のことなのだ。否応なく緊張した。数コール目で、「もしもし、楠木ですけど。」と受話器がとられた。それは母の声だった。

「お母さん、久しぶり。あや子だけど。別にどうでもいいんだけど、公認会計士になってね、札幌の監査法人で働くことになったから。」

「ああそう、そうなの。ふーん。で、何がいいたいの。自慢のつもり?」

「別に、何でもない。じゃあね。」

 やりとはほんの数十秒で終わった。私は一体何を期待していたのだろ。「おめでとう。」の一言が、母から出てくるとでも思っていたのだろうか。罵声しか浴びせられてこなかった母に今さら何かを認めて欲しいと思うこと自体、気が動転しているということだ。居慣れた職場を退職することになったせいだ。もう、間違っても実家と連絡をとるのは辞めようと思った。

 監査法人での仕事は、製造工場の経理と異なり忙しかった。決算期以外にも、常に何かしらの「案件」を抱えていた。常に複数の企業を担当しながら、各企業の提出した報告書に従って決算情報や内部規定と突合し不自然な点を摘示して法令違反がなされていないか、適切な内部統制がなされているかをチェックする。

 ある程度仕事に慣れてくるとそれもルーチンで回るようになっていったけれど、基本的に内部向けの財務諸表を作成することと、対外向けに対応をすることには雲泥の差があった。内部向け資料ならば何かしらミスがあったとしても謝って修正すればそれで終わりだけれど、もし監査法人がある企業の運営が適切になされているというお墨付きを与えたにも関わらず第三者によって法令違反が暴かれたりすれば、それは重大な責任問題になりかねない。

 実際の業務では大抵、相手方の企業のオフィスに赴いて監査業務を行う。私にとってはその客相手の対応が大変な負担になっていた。

 大抵の企業において、監査対応を担当するのは年嵩のいった相応の役職持ちであることが大抵だった。彼らにとって、私のような若い女に何かを指摘されることそのものが不愉快だったのだろう。監査法人による監査は大抵、チーム長と補佐数名のチームで行われる。多くの場合、女は私一人だけで、他の同僚とは明らかに対応に差をつけられることがしばしばあった。あるとき、琴似地区にある創業数十年の出版社の監査を対応をした際、決算書の不備を年配の経営者に指摘したことがあった。

「こんな重箱の隅をつつくようなこと指摘して、アンタみたいな若いお姉ちゃんに会社経営の一体何がわかるわけよ。大学出てちょっとしか経ってないだろうに、実務も経験せず監査みたくいやらしい虚業して。」

「いいえ、大学は出ていませんが。私はずっと製造工場でライン工と経理をしていたんです。実務がわからないというのなら間違いです。」

 不都合な部分を指摘され怒りを露わに私をなじる言葉に、思わず反論してしまった。しかし相手は私の言葉に口角を上げると見下したような口調になって言った。

「何、大学も出てないの。そんな人に、こんなにネチネチ言われてたわけ。安く見られたもんだね、斎藤さん? 申し訳ないんだけど、この人、担当外してくれないかな。こっちも高い金払ってあんたら雇ってるのに高卒の人来られちゃたまんないでしょ。」

 翌日、チーム長であり上席の斎藤から私の担当替えを言い渡された。

「しょうがないよ、こっちも一応、客商売としてやっているからね。出来る限り相手方の要望は聞かないと。理不尽なことだと思うけど、理解して。」

 その年の忘年会、部署の同僚と飲んでいると上席が投げかけた。

「ていうか君ら「21世紀の資本」読んだ? どうよあれ。」

「まあ、一応読みましたけど。でもぼくらとしてはスタンスが取りづらいですよね。労働者って言ったって我々現業ではないわけですし、先々は資本家側になるわけでしょう。やっと上がったと思ったらぼくらにだけ負担が降ってきて甘い汁を啜れなくなるのかと思うと頑張りがいがないですよ。」

 同期の児島という男子職員が酔った顔で滔滔と話すのを聞いて、上席が「君もそんな感じ?」と投げかけるので、少し申し訳なさそうな顔をつくって答えた。

「私は読んでないのでよくわからないですね。」

「ああー、だって、楠木さん大学出てないですもんね。給料違うから仕方ないですけど、ピケティくらい教養ですよ教養。」

「おい、児島。飲み過ぎだぞ。まあでも児島の言うことにも一理あるんだよ。一般教養くらい身に着けておかないとな。」

 斎藤は児島を諫めつつ、私に教養がないことは否定しなかった。私には「教養」というものがよくわからなかった。監査法人の同僚は全員が国立大学か東京の私立大学の出身で、高卒は私だけしかいなかった。そして同じ業務が与えられながら、私だけが「高卒給」だった。

「親ガチャ」に恵まれ、ただ教養なるものだけ身に着けるだけ身に着け、恵まれない場所から劣等感を糧に生きてきた。それでもなお、世間はかたくなに私を劣等なるものとして扱おうとしていた。そのことに怒りを覚えないはずはなかった。

 そういうことがある度、自分が情けなくてたまらず枕を涙でずぶずぶにした。

 しかし考えてみれば、児島以外の同期ともさほど話が合うという気はしない。それが教養のせいかなのかは判らないけれど、もし仮に私が彼らより低い給与であり経歴をそしられることに理由をつけるとするのなら、本来ありえないほど異なるバックグラウンドを持つ私を「包摂してもらっている手数料を支払っているから」なのだろう。いずれにしても、これ以上の屈辱にはとても耐えられそうもない。

 翌年の春、市内にある私立大学の夜間部の経営学部へ通うことにした。

 夜間部の社会人入試は英語・論文・面接だけが課されていた。特に何かを対策したわけではなかったけれど、すんなり合格することができた。入学金を支払い、支援機構から無利子貸与型の奨学金を300万円近く借り入れした。

 多くの人が思い浮かべるキャンパスライフのような青写真は私にはなかった。昼間は仕事をして、退勤と同時に大学へ走って夜間講座を受講する。平日だけでは単位が足りないので土曜日の講座を目いっぱい入れ、日曜日はレポート課題や仕事を持ち帰った。

 しかし実際に受講するようになると大抵の授業は教授が教科書を読み上げて終わり、推奨する参考文献を紹介するに留まるようなものだった。その中には確かにトマ・ピケティの21世紀の資本がありはしたものの、こんなものが教養なのだとは思えなかった。

 次第に、大学も高校の授業とさして変わらないものだと思うようになってきた。定期考査の対策だけしておけば、大抵の授業には出る価値は無い。そして次第に大学からも足は遠のいていった。

 ただ、語学の授業だけは出席をとられてしまうので出ざるを得なかった。

 特に第二外国語としてとったソフィア・ベロスルドヴァのロシア語の授業を落とすことは出来なかった。彼女は厳格なロシア人で、元々母国でアナウンサーをしていたという経歴の持ち主だった。NHKロシア語講座の解説員として来日すると、そのまま複数の大学で非常勤としてロシア語の講師をするようになった。

 彼女は齢50を優に過ぎているにも関わらず、冬でもタイトなミニスカートとヒールを欠かさなかった。そしてこんな三流大学の第二外国語、それも経営学部という本来語学には興味を持たないような学生相手にも容赦なく毎授業試験を課し、その点数が芳しくないとあっさり落第にするのだった。

 各大学の授業の単位の入手難易度情報を交換するみんなの大学というSNSを見ると彼女の評価は星5中星2であり、「覚悟がないなら受講はお勧めしません。」という先人のコメントが付されていた。ソフィアの授業はいつも受講者が少なくてガラガラだった。おかげで何でも質問をすることが出来た。課題さえこなす気持ちがあれば、ソフィアはよき教師だった。

 ロシア語の勉強も、英語と変わりはない。一通り必要な単語さえ覚えてしまえば、おおよその文意は理解することが出来る。網羅的に学習することのできる簡単な文法書を片手に分からない部分を参照し、音声教材をそれなりに意識して聞いていればある程度は読み書きが出来るようになってくる。

 私にとって英語と異なっていたのは、ソフィアというネイティブ・スピーカーと直接目の前で話すチャンスが与えられていたことと、文章の添削を受ける機会があった点だった。私にとってソフィアは、まともに話したことのある初めての「外国人」だった。彼女としてもロシア語を熱心に勉強する学生は珍しいらしく相当気をかけて指導してくれた。

 ある日、授業の終わりにソフィアから家に食事をしに来ないかと誘いを受けた。今までも何度か食事を共にしたことはあったけれど、彼女が一体どういう家に住んでいるのか、興味があった。

 北三丁目のRC造のマンションに入ると、拍子抜けするくらいごく普通の部屋だった。

 ロシア人だから何かロココ調のようなものを期待していたけれど、予想に反して、真新しい畳張りの和室の真ん中に、木製のちゃぶ台が一つ、それからテレビが置かれていた。ステレオタイプがいきすぎて、今日び日本では見ることもないような様相に見えた。

 部屋からは甘い匂いがした。ソフィアの匂いだった。行ったことは無いけれど、きっとこれが異国の香りみたいなものなのだろう。

「私のビーフ・ストロガノフを作ってあげましょう。ロシアの伝統的な料理。日本のお米にとっても合うわ。その間、あや子は今日の課題でもやってなさい!」

 ソフィアに命じられて大人しくちゃぶ台で勉強し始めた私だったけれど、あまり集中はできず部屋の中を観察していた。ちゃぶ台は古いものだと思うけれど、鏡のように磨かれていた。部屋の隅々まで清潔に掃除が行き届いていて、彼女の丁寧な暮らしが想起される。私には、「正しい暮らし」の規範となる人がいない。私の部屋には未だに家具の一つもなく、数年前に札幌に引っ越して以来、いくつかの段ボールがそのままになっている。きっとこれが「正しい暮らし」なのだと思った。それを目に焼き付けて、自分で再現しようと思った。ところでちゃぶ台なんてどこで売っているのだろう。ネットだろうか。

 私は彼女の気高い姿に憧れを抱いていた。彼女は元々母国で結婚していて、未亡人らしい。その人生にどういう軌跡があったのかはわからない。その都度考えることも沢山あったろう。寄る辺のない海外で働こうというのはどういう気持ちだったのだろう。余裕のない心で美しく居続けるにはどうすれば良いのか。不安はなかったのか。それとも国に居続けることのできない軛のようなものがあったのだろうか。彼女は、私の未来の姿ではありはしないだろうか。

 ソフィアの料理は決して凝ったものではなかったけれど、しっかり味付けされていて本当にお米によく合った。日本的な部屋で、青い目をしたロシア人とロシア語で、たまに日本語や英語でなんとか補完しながら会話してビーフストロガノフを食べるという違和感に思わずニヤリとしてしまう。

「どう、美味しい? 一人より、誰かと食卓を囲む方が楽しいからね。私も今日は一人じゃなくて嬉しいわ。」

 結局、大学卒業までの4年間、ずっと彼女の授業を受けていた。おかげでロシア語の検定資格を得た。

 私のような社会人学生は私のほかにもちらほら散見はされたけれど、実際のところ夜間部とはいえ大半は「普通の。」若い子ばかりだった。25歳の私でさえ彼らの中に混じればオバチャン扱いだったから、あまり校内で人とかかわりを持つようなことはなかった。

 札幌は都会なだけあって、出会いだけはそれはそれなりにあったけれど、何人かの相手と付き合っては多忙を理由に別れるようなことを繰り返していた、

 ある日、スマホに見知らぬ番号から電話が掛かってきた。母だった。

「あや子、久しぶりね。元気してた?」

 珍しく甘い声を出していた。母が私に媚びるはずがない。何かしらの魂胆があるのは目に見えていた。

「あのね、もうそろそろ蓮が高校を卒業するんだけど、料理の専門学校に行きたいって言うのよ。とりあえず、学費として300万円ほど融通して貰えないかしら。だって、ねえ。監査法人って高給取りなんでしょう?」

 数年前に報告したときは意にも介していない様子の母だったけれど、何処かで誰かから入れ知恵をされたらしい。私にはお金なんて出そうと一切しなかったクセに、末の男児ともなればプライドをかなぐり捨てほぼ絶縁となった娘にさえ連絡を取ろうとするのだ。その、親としての気持ちの、ほんの一欠けらで良いから私にくれたら良かった。

「お母さん、無理だよ。私、自分で学費出して大学に行ったんだよ。今300万円借金してる。蓮も自分で奨学金を借りて行かせればいいんだよ。」

「はあ? アンタ300万円も借金してるの。頭イカれてるの。やっぱりあの人の子どもだわ。女が大学なんて行って何になるのよ。だったらそのお金をこっちに寄こしなさいよ、この恩知らず!」

 断りを入れると態度を豹変させ喚き始めた。他にも何か言っていたけれど、思わず電話を切った。母の私に向けられた拳の痛みを思い出し脂汗が止まらず動悸がした。

 職場の人事部に大学を無事4年で卒業できそうであることを報告すると、上席から面談室へ呼び出しを受けた。

「大学卒業おめでとう。」

「ありがとうございます。大学、行ってみたんですが教養ってなんなのか、私にはよくわかりませんでした。」

「ああ、やっぱり気にしていたのか。無神経なことを言って、すまなかった。教養ね。思うに私は、「凡人が生きていくための哲学」だと思っていて。若い時代にキャンパスライフを謳歌するモラトリアムそのものなのかもしれないと思ったりしてるんだよ。何の責任もなく、何にも縛られず、自分はいざとなればどうやっても生きられるんだという漠然とした実感が余裕を生み、忙しい日々に追われていても視座を高く自己研鑽する活力になるものなんだろう。つまり人並外れて頑張り屋さんの楠木さんに、そんなものは元から不要だったんだろうと思うよ。」

 上席の弁明は寧ろ私を抉った。もし教養というものが余裕やモラトリアムそのものなのだとするならば、母の言う頭イカれてるくらいの大枚を叩き、更に4年という歳月を費やしてもそれは生来的に私には得ることのできないものだったはずだ。そして「教養」がなければこの場所を居場所にすることができないのであれば、であれば、この4年は一体何だったのだろうと思った。

「実は最近、東京支所で急に女性の退職者が出て男女比が偏っちゃったらしいんだよ。それで急遽一人採用しようって話をしているらしいんだけど、東京支所は仕事が多くて忙しいから新人を抱える余裕がないんだと。となると中々人材がいないんだよ。楠木さんはまだ若いし、挑戦してみるという意味でもどうかなと思ったんだけど。この話、受けてみる気あるかな。」

 私は、一も二もなく応諾した。居場所にならないのなら、私も敢えてここに留まる意味はない。新天地で一からやり直そうと思った。そして何より、母のいる北海道から少しでも遠くへ離れてしまいたかった。

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