第一章 北海道 二 苫小牧

 

 社員寮は苫小牧市の郊外に位置しており、女性工員が入寮できるよう借り上げられた比較的新しい木造アパートだった。多少壁が薄くて音が筒抜けであることを除けばさして不満はなかった。部屋で会話をするような相手もいなかったし、耳栓をしたりCDプレイヤーで音を流したりしていればそれで他の住人の生活音は気にならなくなった。周囲に娯楽はなかったけれど、自分の部屋を持ち男に頼らない生活基盤を持ったことで精神的には随分解放された。

 朝になると送迎用のタバコ臭いハイエースが社員寮から工場まで1時間程度かけて私たちを出荷していく。そのときは女子工員も男子工員と一緒だ。これに乗り遅れると例えタクシーを使って定時前に工場に到着しても欠勤扱いになってしまう。複数ある社員寮のうち女子寮は一番工場から遠くにあり男子寮は比較的工場に近い場所にあるので男性の方が30分くらい長く寝ることができる。

 当初そのことを少し不公平にも思ったこともあるけれど、男子工員の寮は壁に蔦が這いまわっており外観からして不潔だったのですぐ諦めた。

 車内の往復約2時間の間に見える苫小牧の景色もすぐ見飽きてしまった。いつもの道、いつもの速度、いつもの面子。同僚の寝息や雑談の声、道を走る轟音にうんざりしてイヤホンを耳に突っ込みCDプレイヤーを再生した。湊が部屋に置いていった洋楽のコンピレーションアルバムだった。最初は何をうたっているのか全く判らなかったけれど、次第に歌詞を聞き取れるようになっていった。本当はもうとっくに飽きてしまっていたけれど、大事なことは外の世界を遮断してくれることだった。

 ハイエースが二階建ての白い塗り壁の長方形の製造工場に横づけされると、まず更衣室で作業着に着替える。髪の毛がおちないように衛生帽をかぶり仰々しいマスクを付けると見た目だけはそれっぽく見える。衛生帽は正社員が赤色、期間工が青色、派遣社員と契約社員は黄色と決まっていた。正社員と期間工は食堂の利用が無料だったけれど、派遣社員と契約社員は自腹で支払わなくてはいけなかった。ただでさえ一番お金のない私たちがそういう扱いを受けることに、最初のうちはみんな口々に愚痴をこぼしてはいたけれど、言っても仕方がないので次第に誰もその話題は口に出さなくなっていった。

 私は工場の中で一番若かったので、最初はコイルに導線を巻き付ける仕事を任された。日がな1日中一定のペースでコイルを作って次の工程の人間に手渡していく作業は、気の遠くなるほど退屈な仕事だった。このコイルが最終的に一体何になるのか、実際のところ私はよく知らなかった。自分のやっていることが何処へ繋がるかわからない作業を繰り返すのは苦痛だった。立ち作業のために足がジンジン痛んだ。立ち方や体勢を変えてみてもあまり意味がない。支給された布製のスリッポンの靴底がそもそもペラペラに薄くて、クッションとしての役割をはたしていなかったからだ。規則では工場内に私物の持ち込みは禁止されていたけれど、多くの工員は厚手のインソールを自費で購入して足元に忍ばせていた。それでも1日歩くでもなく同じ場所に立ち続けるのは若い私でも足腰に堪える。こんな作業、座っていたってできると思うのだけれどそれは規則で許されなかった。以前は着座での作業が許されていたものが、元請企業の社員が視察に来た際に座っている工員に憤慨したとかで禁則事項に追加されたらしい。彼らはいつも訪問する度に何かしらケチをつけては改善を要求していた。現代の王族みたいなものだ。

 何よりも不満だったのは暑さだ。夏季も比較的涼しい苫小牧とはいえ、締め切った工場で厚着をしての室内作業は高温多湿で定期的に熱中症で倒れる者がいた。電気製品を扱っている以上、手元に水筒を置いておくことも許されない。冷房は申し訳程度についてはいたけれど焼け石に水だった。28度、それ以下にすることは許されない。それも誰かが決めたことだった。

 毎朝、朝礼で「熱中症に気を付けて、今日も頑張っていきましょう!」などと陽気な班長は言っていたけれど、高校時代に炎天下のマウンドでならした彼と帰宅部である私とでは過酷な環境に対する許容量がまったく異なる。

 一応、労働組合はあるにはあったけれど、しょせん形だけのものだ。その体裁を整えるためだけの運営費になけなしの手取りから毎月1千円徴収されることにいらだちを覚えないはずはない。同じ時期に入社した工員は次々に辞めていってしまった。これならコンビニの夜勤の方がエアコンが効いていて遥かに楽だ。

 けれど私は既に、あらゆる不満を差し引いても実家から解放される安楽さを身に染みてしまっていた。この工場を辞め寮を追い出されても、未成年の私が保護者の同意なく部屋を借りるのが容易ではないことくらい理解していた。後のない私は、帰るべき実家のある他の若手工員と比べてわずかばかり堪えるものがあっただけだ。とはいえ、いずれにしてもこの悪環境ではそう長くはいられないなと入社3か月目にして思っていた。

 ある日、いつものようにコイルの導線を巻き付けていると班長が冗談交じりに話しかけてきた。

「楠木さん、事務所から呼び出しかかってるから大至急行ってきて。オレしばらく代わるから。君、何かしちゃったの?」

 製造工場の2階は事務所になっていた。役員方がいるのもこの階である。私たち工員は、たまにある工員向けの研修があるときくらいしか普段ここへ立ち入ることはない。

「失礼します。」

 声をかけてドアを開くと、ぶわっとエアコンの冷気が私の身体にかかり汗を冷やしていった。夏日、小学校で汗だくになりながら授業を受け、教師に呼び出されて職員室にいったときと同じ感覚だと思った。1階の作業場と2階の事務所では形而上のポジション以上に身分さがあった。

 事務所にはパソコンが整然と並べられており、数人の職員が涼しい顔をしてお茶を飲みながら談笑していた。

「ああ、楠木さんね。ちょっと、こっち。」

 資料の山に埋まった年配の男性社員に手招きされた。天井には「総務・人事・経理部」と書かれたプラカードがぶら下がっていた。小規模の工場だから、要するに全部盛りということだ。「あれえ、どこいったかなぁ。」と言いながら資料を漁り、やっと1枚のクリアファイルを手にとった。

「楠木さんね、キミこれ見ると住所が室蘭になってるけど、今は寮に住んでるよね。住民票、移した?」

「住民票?」

「住民票も知らないの。まあ簡単に言うと、税金の処理をしないといけないから、役所に届けてる住所を今住んでいる所に変更して貰わないと困るってことなのよ。詳しい手続きは役所に訊いて欲しいんだけど、まあ、なるべく早く変更手続きしておいてね。」

 住民票。そういうものの存在は聞いたことはもちろんある。けれど、それをどうにかしないといけないなんて話は学校で一度も聞いたことは無かった。

 ふと男性社員のパソコンを見ると、伝票ソフトが写っていた。視線に気付いた彼が「ん、なに?」と訊いた。

「いえ、そのソフト、コンビニでバイトしてたときに触っていたなって思って。」

「へえ、そうなんだ。まだ高校出たばっかりでしょ。若いのにそんなことやらされてたの。商業高校? あれ。楠木さん、室蘭郁英高校出てるの? 進学校じゃないの。もしかして、家庭環境あんまり良くなかったとか。」

 彼のあまりにも不躾な質問に、憮然として「まあ、そうですね。良くはないです。」と答えると、彼は少し考えた様子で言った。

「もしかして、事務職に興味あったりとかしない? ほら見て、本当はやらなきゃいけないことが沢山あるんだけど、手が回ってないのよ。」

「楽な仕事だったら、興味はありますけど。」

「楽、楽! 作業場、暑いでしょ。まあ、分かりました。もう行っていいよ。午後も仕事頑張ってね。住民票は絶対に忘れないように。」

 その日の終業前、班長に呼び出しを受けた。

「楠木さん、来週から上の事務所に配属だって。良かったね。」

 普段陽気な班長が、そのときは私に目を合わせることはなかった。それから数日の間、作業場の同僚が私にとる態度は一変してよそよそしいものになった。その意図するところは十分わかっていたけれど、もはや使い捨てとなってしまった人間関係に頓着する人は少なかった。

 翌週から、総務・経理・人事部に配属された。ハイエースから降りてももはや更衣室で作業着に着替える必要もなかった。手取りは相変わらず12万だったけれど、仕事が与えられない限り適温の環境に座っていられるだけで身体への負担が大分減り、もう少し仕事は続けられそうだと思った。

 同僚には年配職員が10名程度しかおらず、基本的に若い事務員として優しく迎えられた。それは工員として事務手続き上必要があって彼らと接するのとは全く違っていた。彼らも班長たちと同様で、利害関係のない相手に人間は優しくすることはできないのだろう。しかし仮初でも良好な関係を築いてくれるのならそれで充分だ。

「これうちの子のお下がりなんだけど、あげるよ。しばらくは職場に慣れて貰うのがメインだからなるべく勉強しておいてね。一応、ほんのちょっとだけど資格手当があるから簿記試験とか目指した方が良いよ。」

 配属初日、部長の吉岡が何冊か参考書をくれた。彼は工場のメインバンクから出向という形でその職に就いており、他の社員たちとは少し毛色が違っていて、実務よりも理屈で語るタイプだった。頭でっかちとも言える。

 プライベートの時間をとってまで素直に言われたことをやるのも面白くないので、家に持ち帰ってからもしばらくは部屋の隅で埃を被っていた。けれど社員寮の周りにはこれといった娯楽がなく、といって特に家ですることもなかった私は、少しずつ簿記の勉強を始めた。

 仕分け、借方と貸方。貸借対照表と損益計算書にキャッシュフロー計算書。

 元々コンビニで行っていた伝票処理が、勉強するたびに「そういう意味だったのか。」と少しずつ腑に落ち、曖昧だった処理に名前が付くことで頭が整理されていった。

 何より仕事の無駄にならないことが有難かった。読書以外にさして趣味もなく、「私は一体、何をしているんだろう。」という自己嫌悪に苛まれがちだった私にとって、意味を持つ日課はその日その日をどう過ごすか決めるための指針になった。

 秋になり、簿記3級を受験すると、合格していた。そのことを部長に報告すると、「え、もう合格しちゃったの?! これは優秀な子がきてくれたねえ。」と大げさに褒められた。言われたとおり、翌月から月給が500円だけあがった。2級をとればもう1千円あがるらしい。褒められ慣れていなかった私は、そのくらいのことで素直に嬉しい、と思った。

 

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