第2話 ろくでなし

「帝に出したお返事がこないので残ります」

 それは朱買臣の中に限れば、当然の行為だった。なぜなら50で大臣になるのだ。けれどもお偉いさんにとっては驚天動地、何ということをしやがるのだという奴だ。上から下まで真っ青になった。

 ただでさえ武帝は癇気が強いともっぱらの噂。何がその機嫌を損ねるのかわからぬ。

 もともと朱買臣は予備兵である。1人欠けたところでどうということもない。そんなわけで、お偉いさんはゆっくり物見遊山でもしようかと思っていたのに、一目散に逃げ帰った。

 それで残った朱買臣といえば、ぼんやりといつも通りである。とりあえず短い滞在中は生活費が支給されるので、その間に知り合いになった者に飯をたかって暮らしていた。


 ところで都には荘助そうじょという男がいた。

 荘助は朱買臣の幼なじみではあるが、その能力を会稽郡の賢良官吏の地方推薦枠として推挙され、武帝による口頭試問を経て中大夫に抜擢された、まさに選り抜きである。

 その荘助は最近馬鹿な噂を耳にしていた。

「荘助様、それにしてもこんな馬鹿は見たことがないのです」

「変なのもたまにいるものだよ」

「それにしたってこんな短文、しかも直文、帝に届くと思ってるんですかねぇ、この朱買臣という奴は」

 その名前を聞いた時、荘助の耳はピクリと動いた。そしてとても嫌な予感がした。朱買臣という名はない名前ではないが、ありふれた名前でもない。そしてそんな馬鹿をやりそうな男として、記憶の底から一人の男が思い浮かぶ。

 いや、まさか、さすがに、いや、でもあいつならば。

 武帝への上奏は数からしても膨大である。だからきちんとした諸侯であっても武帝まで届くものは稀だ。きちんと伝手を頼らねば官吏に弾かれる。しかも上奏文というものは挨拶から始まり美辞麗句で飾り立てているが、その文は直文でこう書いているだけなのである。


『雇ってください』


 荘助は頭が痛くなった。割れるように。

 そうして朱買臣のことを考えながら馬車で市井を渡っていると、見つけてしまったのだ。あれだ。会いたくないと思っていれば会ってしまうという法則だ。荘助は慌てて目をそらしたが、既に遅かった。

「おお、荘助じゃねぇか、久しぶりだなぁ」

「大夫、お知り合いで?」

「知らん」

 御者が驚いて荘助に声をかける。

 御者の驚きも当然だ。荘助は宮殿に上がるきらびやかな姿をして車に乗っていた。その車の窓から外を眺めていただけなのだ。一方の声をかけた酔漢はボロボロの服で、蓬髪もみだれて小汚い。それが道端に寝転がっていたのだ。

 常識的に考えて知り合いのはずはない。

「荘助、無視すんなよう。呉で一緒だった朱買臣だよう」

「早く行け」

 荘助は御者に短く命じた。

 とはいえ朱買臣はいつまでもどこまでも荘助の名前を呼びながら追いかけてくる。往来は混み合い車の速度を上げることもできず、朱買臣は野山暮らしでそれなりに健脚だ。そして荘助は朱買臣を振り切ることはできずに自邸にまでたどり着いてしまったが、その門番が止めたと聞いて、ほっと胸をなでおろした。


 そうして翌朝、荘助はとても嫌な予感がした。

 下働きに門前を見に行かせればm男が1人倒れているという。士大夫の家の前で行き倒れ自体がすでに外聞が悪いのに、その男は荘助、荘助とブツブツつぶやいているというのだ。

「ご主人さま、お知り合いでしょうか」

 下働きは困惑げに荘助を眺めた。

「そんなわけがあるか。……しかし放置するのも外聞が悪い。そうだな、裏口から馬小屋にでも入れて飯を食わせろ」

 荘助の頭は痛かった。荘助は朱買臣の幼なじみだ。朱買臣の駄目さ加減をよく知っている。恥も外聞もないあいつはおそらく諦めはしないだろう。

 そして諦めなければ……おそらく宮殿まで追いかけてくる。面子が潰れる。

 荘助ははぁぁぁあと大きくため息をつき、誰にも見られないようコソコソと馬小屋へ向かった。何故自分の家でこんな真似をしなければいけないのか、そんな言葉をこぼしながら。

「おい買臣」

「おお、荘助、やっとあえたな」

「何のようだ」

「俺さ、帝に手紙を書いたんだよ。返事が来るまでおいてくれねえ?」

 ぐぅ、といううめき声が荘助の口から漏れた。

 嫌な方の予感は的中するものだな。荘助はそう思った。

「駄目だ」

「幼なじみじゃん」

「……一切外に出ることなく、喋らず黙ってうちで下働きをするということなら考えてやる」

「やだ。働きたくないでござる」

 荘助の胃の腑が抉れるように傷んだ。

 駄目だ。こいつは駄目だ。どうしようもない。

 けれども荘助は綺羅星のような頭の煌めきによって武帝に使えている。考えろ、考えろ荘助、そう唱えながらも灰色の脳細胞をフル活用する。

「お前、帝に何の用だ」

「雇って欲しいんだ」

「では1度だけお前を推挙する。それで駄目なら諦めて呉に帰れ」

「え、ほんと? わかった。ありがとう、友よ」

 その差し出される手を踏みにじりたいと思いつつ、やむなく握ると手が汚れた。朱買臣はろくでなしだが嘘つきではない。それは荘助も知っていた。

 そして推挙のための用意に5日かけ、その間朱買臣を倉庫に閉じ込めていた。普通なら文句も出そうなものだが、朱買臣は恥も外聞も何もないわけだから、狭い倉庫でゴロゴロしているとそれなりに幸せなのだ。

 このままこいつをここで飼い殺しにするほうが無難なのだろうか、そう荘助の頭に浮かんだころには推挙の段取りはすでに進んでしまっていた。

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