覆水盆に返らず 朱買臣という変な男の話

Tempp @ぷかぷか

第1話 駄目人間

「つまるところ、どういうこと?」

朱買臣しゅばいしん、離婚されたってよ」

「あぁ、やっぱりか。あいつ酷かったもんな。奥さんもよく我慢したもんだよ」


 時は前漢末期、武帝の時代。

 畔辻で出会った2人の農民は、情報交換、という名の畔端談義をしていた。

 ここは会稽かいけい。整備はされていなくとも肥沃な土地が広がる地域で、農作物を植えればさほど管理しなくてもそれなりに育つ。それに海に面していて、魚もよく取れる。

 なのに朱買臣はろくに働かずに貧民に近しい暮らしに甘んじていた。

 日がな一日どこからともなく手に入れた本を読んで暮らし、金がなくなれば木を切って売る。その『金がなくなれば』のラインは極めて低く、その日の飯に事欠くレベル。であるから、朱買臣もその妻の崔氏も何年も着たきりで、替えの服すら持ってはいない。

 妻のさい氏は情が深すぎた。一度連れ添った手前、というものがあったのだろう。何もしない朱買臣をこれまで何くれと支えてきた。けれどもとうとう堪忍袋の尾が切れたのだ。

「あんなに耐えたのにねぇ」

「それよ。奥方も大分発奮させようとはしたんだってさ。ちゃんと働け、お前ももう40過ぎたんだから、とよ」

「んだなぁ。家も廃屋みたいなもんだしなぁ」

「それでいうことにかいて『俺は50になったら偉くなるんだ』だとよ」

「あぁ。またあの話かあ」

「いい加減夢から覚めないものなのかね」


 朱買臣は小さい頃に辻占いに、50で立身出世するといわれたらしい。

 それを信じて働きもせず、夢物語を信じて本を読んで暮らしているのだ。

「50っつったらもう隠居じゃねぇか」

「んだべな。だからまあ、奥さんもぶちきれたのさ。あの家には子もいねぇからな。このまま老いさらばえるまで働き続けて倒れて飢え死ぬ未来しかみえんのだろ」

「あの奥さんはまだ若くてまぁまあ美人だからなぁ。それにしてもよく我慢したよ」

 その我慢の内容というのも実に酷いのだ。

 朱買臣は変なやつなのである。一応のその生業は木を切って薪を売るというものだが、道筋でわけのわからない歌を歌うのだ。呼び込みの歌でもなんでもなく、ばかみたいな歌だ。


 俺は朱買臣~♪

 出世して偉くなるぞう~♪

 ふんふふん~♪


 あまりの恥ずかしさに崔氏が諫めると、ムキになるのかますます大声を上げて歌い出す始末だ。もう本当にどうしようもなかった。人として。

 離婚されたあとも朱買臣はその日暮らしを続けていた。

 何故か収入が落ちた。おかしいなぁと思っても、朱買臣は薪を拾う頻度を上げたりしなかったのだ。普通に考えれば、自分より食べる量の少ない崔氏がいないのに薪広いの収入は半減していて、加えて崔氏が細々と行っていた内職の上がりもないのだから、相対的に食費は上がるし収入も減る。

 けれどもなにより、朱買臣は働きたくないのでござる。


 そんなある日、山に入るのも面倒で近所の墓場で木を切っていたら、いよいよもって腹が減り、その場に倒れてしまった。可愛そうなのはたまたま墓参りに来ていた人間である。墓場で倒れた人間をそのままにしておくというのは墓を増やすようでどうにも気分が悪い。

「あの、大丈夫ですか」

「腹が、減って」

「まぁ、買臣じゃありませんか。だから言ったでしょう」

 なんとその人間というのは崔氏夫婦だった。

 崔氏は大工と再婚していたのだ。朱買臣にとってはわたりに船だった。崔氏にとっては運の尽き。

 その後も朱買臣はわざとらしく崔氏の家の前で凍えていたり行き倒れたりして飯や暖をたかっていた。崔氏の新しい夫も無碍にはしずらかったのだろう。何しろ妻の前夫だ。けれども崔氏にとってこれは極めて外聞が悪い。なにせ元夫に何くれとなく世話をしているわけだから。

 大工の夫はあまりの朱買臣の駄目さを目の当たりにして崔氏の不貞なぞは全く疑ってはいなかったのだが、口さがない親類が色々とやかましいのだ。

「買臣、もう無理です。あなたに何もしてあげることはありません。何でもいいからとっとと働いてください。元妻の家にたかるとは何事ですか。あなたには恥も外聞もないのですか」

 そう言われても、朱買臣には恥も外聞もないのだ。

 そんなことは崔氏もわかっているから、家の前で行き倒れていても無視することにした。

 朱買臣としては一旦そんな甘い汁を知った以上、また薪を拾って肉体労働するというのを酷く煩わしく感じるようになっていた。働きたくないでござる。

 それに50はもうすぐだ。


 そんなこんなでお偉いさんが都にいくという話を聞きつけ、お伴に志願した。たまたま急病が出て予備の人員が足りず、募集していたのである。

 見慣れぬ土地柄で雑用も多い。それにあまり給料はよくない。そのせいか志願者などほとんどいないところ、志願してきたのが50に近づく朱買臣だったものだから採用側もびっくりである。

 けれども他に人はいない。やむなく雇って旅立ち、都に到着した。

 そうして都から帰る段になって朱買臣はとんでもないことを言い始めたのだ。

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