憤怒と呪い

平山芙蓉

憤怒と呪い

 空は蒼く、森には穏やかな風が吹いていた。初夏を迎えたにしては、涼しい方だ。草葉も喜びを表すかのように、その身を隣の者と擦り合わせ、さらさらと音を立てる。木々の隙間から見える遠くの平原には、兎や鹿の姿なんかがあった。平和という言葉を掲げるには、うってつけの日だ。


 草の絨毯に寝転がり、じっとその様子を眺めていた。周りには誰もいないから、とても静かだ。僕の存在に気付いたせいで、向こうは警戒しているからだろう。


 仲間たちならきっと、こんな日こそ、絶好の狩り日和だと血気盛んに叫ぶはずだ。空腹でなくとも、油断しているあの兎や、鹿なんかの首に噛みつき、食べてしまうに違いない。けど、僕はこんな日こそ、狩りなんてしたくなかった。まだ飢えを覚えていないし、そもそも僕は、食べるという行為と、そのために殺すのが嫌いだ。こんな姿に生まれてこなければ、と嫌悪感に浸ることもある。


 それでも、生きていくためには、殺して食べなければならない。そして、あの兎も鹿も、僕がそういう恐ろしい存在であると、知っている。彼らが近寄ってこない理由はそれだ。こうしていると、僕は平和というモノを愛しているのに、それを手に入れることのできない存在なのだと、痛感する。


 いっそのこと、このまま飢えて死んでしまっても良い。そう思うことは、何度もあった。でも、身体は生きようとして、瞳は平和を肉の塊に差し換えて、鼓膜は風の囁きを、地獄から鳴り響く甲高い咆哮に変えて、恐ろしさを突き付けてくる。

 生まれ変われるのなら、次はあちら側に生まれたい。……なんて、願ってみる日もあるけれど、向こうは向こうで、油断ならない日々が続くのかと思えば、どちらでも同じなのかもしれない。


 風が体毛を揺らす。草の香りが心地いい。今日が僕にとって、平和な日で良かった。もしも空腹だったら、きっと仲間たちと同じように、この草原に血を零していたことだろう。


 そんな嫌な想像の隙間に、いつか誰かが言ったことを思い出す。


 生には、どのような矛盾もあってはならない。一つでも決めた軸がなければ、死んでしまう、と。


 僕も、抱えている矛盾を、解かなければならないのだろう。実際、今だって生き辛さを感じていることは、確かなのだから。けれど、僕にとってこれは、身体が何倍も大きな熊を相手取るように、難しい問題だった。


「まあ、考えても仕方がない」


 問題を言葉によって頭の片隅へと退けて、身体を起こし、伸びをする。木漏れ日を浴びたお陰で、程良く暖まっていた。気を抜けば、微睡へと簡単に落ちてしまいそうなほど、眠たい。頭は常にクリアにしておけというのが、母からの教訓だった。


 当てもなく、森の奥の方へと歩いていく。小鳥の囀りは、常に一定の距離を保っていた。姿は見えない。僕がどこへ行くのか、監視でもしているみたいだ。


 しばらく歩くと、少し先に一軒の家が見えた。人間の家だ。赤い三角屋根で、壁はクリーム色をした、小さな家。長い煙突から、煙が空に向かって上っていく。木々に隠れるように、僕は家の周りを歩く。窓はあるけれど、カーテンが引かれていて、室内の様子は窺えない。煙突から煙が出ているから、留守ということはないはずだ。もしそうなら、不用心にも程がある。東側の壁の辺りには、作物を植えた小さな畑が設けられていた。町から離れているし、自給自足をしているのだろう。


 こんなところに家があったなんて、知らなかった。外壁は薄っすら汚れているから、最近に建てられたものでもないのは確かだ。家の周囲は拓けてこそいるけれど、高い木々で囲まれていて、遠目には分かりにくい。それに、僕たちは普段、こんな奥深くまで来ることは、ほとんどない。不便そうだけど、森で暮らし、身を隠すには良さそうだ。


 一周してから、玄関の見える正面の茂みに隠れた。こんな辺鄙なところで暮らしている人間が、どんな人間なのか、興味が湧いた。別に、食べてしまおうなんて考えていない。人間は何よりも恐ろしい。復讐のためなら、何年かかっても相手を殺すための執念を持っている。実際、僕の知り合いにも、人間の恨みを買って、殺されたやつがいた。とても頭の良いやつだったのに、人間に手を出したばかりに死んでしまったのだ。


 僕たちに、そんな執念はない。人間に仲間が殺されたから、他の人間を殺そうなんて、考えなどしない。ただ、恐れ戦き、震えるだけだ。確かに、僕たちの力で彼らを殺すのは容易い。だけど、それをしてしまったら最後、人間の持つ復讐の念によって殺されることとなる。時折、そんなことを忘れたやつが、彼らに牙を剥く。馬鹿な話だ。一時の感情や空腹に惑わされて、人間を殺した先にあるのは、死ぬことだけなのに。


 だから、僕たちはそんな愚か者のために、復讐をしようなんて考えない。やるとしても、同族の身が、明らかに危険に晒される場合だけだ。今までに、そんなことが起きたためしはない。


 しばらく家の方を見つめていると、何やら騒々しい音が聞こえてきた。距離はそれなりにあるのに、ここまで聞こえてくる。頭を擡げ、僕は家の方を見守った。


「そこで反省していなさい!」


 扉が開くと同時に、怒鳴り声が辺りに響く。かなり低いけれど、人間の女性の声だった。声の主は、食いしん坊の羊みたいに、丸々と太った女だ。そいつの足元には歳の若い少女が、うつ伏せになって倒れている。そんな少女に一瞥もくれず、女性は開けた時同様に、勢い良く扉を閉めて、家の中へと戻った。一時の喧騒は過ぎ去り、森の静けさが次第に戻ってくる。


 倒れていた少女は、地面に手を付けて立ち上がった。彼女の着ている服は、遠目にも分かるくらい、小汚い。時々、森に迷い込んできた旅人なんかを見かけるが、それに似た汚さを纏っている。洗いもせずに、ずっとあの服を着ているのだろうか。


 少女は、扉の方へと振り返った。だけど、扉が開く気配はない。彼女は泣き喚くことも、いじけることもしなかった。精々が、日常に起こった、小さな不幸だったと納得するかのように、一つ息を漏らしただけだ。子どもらしくないな、と僕は思った。


 彼女は、当てもない様子で、とこちらへと近付いてくる。それを見て、僕はわざと音を上げて立った。油断していたのか、少女は肩を跳ねさせると、僕を見付けて身体を強張らせる。


 近くで見る少女の肉体は、美しいとも、貧相ともとれる印象を抱いた。瘦せぎすな体型は、生来的な要因だけではないのだろう。家にいた女性は、小綺麗にしている風だったし、ふくよかな身体つきだった。あの女と違い、まともな生活を与えられていないことは、想像に難くない。肌は冬の月のように白いのに、頬や額は煤でも浴びたみたく黒く汚れている。髪は脂ぎって、妙に嫌な艶を放っていた。爪にも垢が溜まり、汚い。露出した腕には打撲の痕や、掠り傷なんかが、沢山できていて痛々しかった。そして何より、距離を取っているのに、眩暈を覚えるくらいに臭い。その臭いに、僕は顔を顰めそうになったけど、至って平静を装うことにする。


 まるで、飢えに脅かされている時季の、自分自身を見ているみたいだった。人間の生活は、少なくとも僕たちよりも快適で、豊かなはずだ。遠くとも町へ行けば、食物を得ることはできるし、着るものだって、手に入る。なのに、どうしてこんなにも、酷い仕打ちを受けているのか。それが分からない。


 少女は悲鳴も上げずに、真っ黒を澱ませた瞳で、僕を見つめていた。不思議だ。大抵の人間は、僕の姿を目にしただけで、逃げていくのに。


「こんにちは」


 このままの状況を保っているのも、おかしな話だったので、僕の方から挨拶をした。


「……こんにちは」少女は穴から吹く風のようにか細い声で、挨拶を返してくる。


「君、ここに住んでいるのかい?」


「そう、だけど」


 僕の問いかけに答えてくれる。だけど、彼女が怯えていることは、生まれたばかりの子鹿のように、震える脚を見ればよく分かった。僕も不用意には近付かず、影の中から、じっと彼女のことを観察する。


「僕もこの森に住んでいるんだ。ああ、君を襲おうなんて、考えていやしないよ」僕はわざと瞳を覗き込む仕草を見せた。そこには、平和を望みながらも、血肉を貪ってきた、嘘つきな獣の姿が映っている。


 これじゃ、僕の言葉を信じてくれないのも、無理はない。そもそも、そんな説明を垂れたところで、どんな意味があるのか。煙は見えているのに、肝心の火元が見えない不安のような気持ちが、僕の胸中で渦巻いている。


「ともかく、君。その汚い形をどうにかした方が良い。今時の人間の子どもは、もっと綺麗な姿をしているだろう?」少女に背を向けて、僕は森の方へと歩き出す。


「付いておいで。どうせあのおっかない、君の母親だか、継母だかに意地悪をされて、しばらく家に入れないんだろ? 僕だけの知っている、秘密の水場があるんだ。そこでその身体を洗うと良い」


 付いてこないのなら、付いてこないで良かった。選択をするのは、彼女自身だ。誠意というものは、どれだけ込めたところで、意味なんてない。結局、相手を判断する基準は、生い立ちやら身形やらになってくる。それは僕たちの社会でも同じだ。隣の森に住んでいるやつらは、口を開けば嘘しか吐かない。町に近いところに住むやつらは、怖いもの知らずの人間たちに餌付けをされて、狩りのやり方を忘れている。もちろん、中には誠実なやつもいるだろうし、人間の誘惑を断り、狩りに努めるやつもいるだろう。だけど、この森にそいつらがやってくれば、僕たちは『あそこからきたのなら、こういうやつだな』と勝手に決めつけてしまう。そこにどれだけ、良い意味での裏切りを込められていたとしても、同じことだ。だから、彼女が僕を、僕のような獣を、どう捉えるのかは、彼女の判断に委ねたい。


 そう考えていたけれど、後ろに耳を傾けてみれば、少女が付いてくる足音が聞こえてきた。遠くなりもせず、近くなりもしない。さっきの鳥の囀りと同じように、一定の距離を保っている。疑念は抱かれているみたいだ。でも、一先ずは僕の言葉を信じてくれたことは、嬉しかった。


 鬱蒼と生い茂る草木を搔き分けて、水場へと向かう。頬を撫でる草が鬱陶しい。僕の通った跡は道となってくれているはずだ。それでも、歩き難いからか、少女の足は時々、止まってしまった。もちろん、その時は僕も立ち止まり、彼女の距離が近くなるのを待った。


 そうこうしながら歩いていくと、地面の割れた場所に出た。僕はそこで、少女の方へと振り返る。彼女も僕の先にある光景に気付いたらしく、慄いた表情を浮かべた。


「この先にあるんだ」


 そう言って、地割れの底を見下ろした。暗い谷のようになっていて、どこまで深いのか分からない。そこに甲高いようにも、唸るようにも聞こえる、奇妙な風の音が響いていた。そして、その暗闇からは、顔を撫でようとしてくるみたく、腐った土の臭いをふんだんに含んだ、不愉快な空気が立ち込めてくる。


「この前の地震の時にできてね。ほら、憶えていないかい?」


 気を紛らわせる雑談のつもりで、声をかけてみたけれど、少女は表情を変えずに、じっとしていた。やれやれ。どうやらすっかり、騙されたと思い込んでいるみたいだ。


「あそこを見てごらん」鼻先で、北の方角を指してやる。「ほら、あそこさ。地震の時に倒れた大木があるんだ。あれを渡れば、向こう側へ行ける」


 出会った時からの態度を崩さず、僕は谷に沿って、倒木の元へと向かう。少女は少し逡巡したみたいだけれど、しっかりと付いてきてくれた。


 木の元に辿り着く。根っこから倒れていて、それが山荒の体毛のように露出していた。太さは僕の身体の何倍もある。枝にくっついた葉っぱは、先っちょが若干、変色しているけれど、ほとんど青さを保っていた。


「僕の背中に乗ってくれて良い。さあ、怖がらないで」


 後ろで佇む少女の前に、僕はしゃがみ込む。後ろへ行ったり、こちらへ寄ったり反復する土の音が、何度か聞こえた後、背中に温かな体温が伝わってきた。体重はほとんど感じない。きっと、空の雲を乗せたら、こんな感じなのだろう。言わずとも、彼女が僕の毛をしっかりと掴んだのを感じた。手は小刻みに震えている。振り落とさないよう慎重に、しかしながら、勢いを付けて、大木へと登る。


 僕たちの乗った木は、苛立つかのように軋んだ。雨風のせいで、風化したのだろう。それを耳にした少女は、僕の毛を握る手に、もっと力を込めた。不安がらなくとも、木は折れたりしないだろう。無論、足場が不安定であることに、変わりはないのだけれど。


 ようやくの思いで、向こう岸へと渡りきった。しっかりと地面に降りてからも、少女は僕の背中から離れなかった。手をきつく握り過ぎて、開けなくなったのかもしれない。別に、苦しくもないので、彼女を背中に乗せたまま、水場を目指すことにする。


 反対側に来ると、静けさはより深くなった。相変わらず、草木は生い茂ってはいるけれど、他の動物の気配の姿は見当たらない。遠くから、鳥の鳴き声は聞こえてくる。でも、洞窟の中で響く水音のように、後ろからのものなのか、前からのものなのかは判然としなかった。木の葉の隙間からは、蒼い空が覗いている。ただ、あちら側にあったような、平和を思わせる雰囲気はなく、下手な猟師の仕掛ける見え透いた箱罠のような、不穏さを滲ませていた。


 そんな森を歩いて行くと、遠くの方から水の流れる音が聞こえてくる。背中にしがみ付いて、じっとしていた少女も頭を上げた。背の高い木々の乱立する森が、急に開けると、ようやく件の沢が姿を現す。


「さあ、着いたよ」


 身体を屈めると、少女は恐る恐る、背中から降りた。そして、僕の隣に立つと、食い入るようにその光景を眺める。


「綺麗……」


 実際に、思わずそう呟いてしまうのも頷けるくらい、美しい場所だった。小高い斜面から湧水が溢れ、滝のようになっている。水は透き通り、水面の揺れがなければ、何よりも無に等しい液体の存在に、気付けなどしないだろう。沢から少し離れたところには、赤くて小さな花が一面に生えていた。少女の視線は、いつの間にかそちらに注がれていて、表情はすっかり、子どもらしく恍惚としたものに変わっている。


「さあ、先に水を浴びれば良い。あの花は、虫だってここにあることを知らないんだ。だから、逃げも枯れもしないさ」


 僕の言葉に、彼女は顔を赤らめて頷いてみせた。


 空では太陽が、僕たちを見下ろしている。水が近くにある、あまり暑くない。


 この場所を見つけたのは、偶然のことだった。大抵の動物たちも、身体に汚れが目立ち出して、みんな水場を目指す。森の水場はそれなりに多い。だけど、僕が姿を見せれば、みんな怖がって近寄ってこないし、僕たちが使っているところは汚くて仕方がない。だから、どこか手の付いていないところはないものか、と探した結果、運良くここを発見したわけだ。いずれ他のやつらに、見付けられていたかもしれないけれど、この前の地震のお陰で、僕だけが知っている穴場となった。邪魔はされないし、水も澄んでいて気持ち良い。最高の場所だ。


 汚れた服を脱ぐ少女を横目に、僕は一足早く沢へと入った。冷えた温度が、血管を巡っていく。ある程度、温度に慣らしてから、ゆっくりと身体を沈める。水嵩は、僕のお腹を浸すくらいしかない。それで十分だ。息苦しさを覚えていた鼻は、冬の朝の空気を吸い込んだ時みたいに、みるみる通りが良くなった。この瞬間を、邪魔されないというだけで、苦労をする意味があるように思える。


 のんびりとくつろいでいると、後ろから水面の揺れる様が伝わってきた。どうやら、少女が入ってきたらしい。振り返り、彼女の方を見遣る。野生に近付いた身体は、あばらが浮き出るくらいに、ほっそりとしていた。特に腰回りは酷く、彼女の骨盤の形が、どのようになっているのか露になっている。お腹なんて、腸を食われた後の兎のようにぺたんこだ。


 そして、至るところが傷付いていた。その大半は青黒く変色した痣で、肘や膝なんかには、擦り傷が見受けられる。問題は、その傷に適切な処置を施されていないことだろう。血の出ている部分は色が変わり、汚れも相俟ってほとんど腐っているみたいだ。


 少女は傷だらけの身体を、ゆっくりと水に浸ける。傷に傷みが奔るのだろう、彼女の顔には些かの苦悶が滲んでいた。僕よりも背丈が低いから、座れば水の高さは肩まで浸っている。


「その傷、大丈夫かい?」


 痛みに慣れて、落ち着きを取り戻したところで問いかけた。少女は目を伏せ、自分の身体を見つめながら頷く。


「どうして君は、そんな仕打ちを受けているんだい?」


「私は、あの人の本当の子どもじゃないから」少女は俯いたまま淡々と答える。水面に落ちた影は、腕を摩る動きに合わせて揺れた。目を凝らすと、肌にはタンポポの綿毛みたいな垢が、いくつもくっ付いている。そして、擦られることで宿主から離れ、水に浮かんだ。


「私はね、森に住むおばあさんに、拾われてきた子どもなの」


「それでも、たった一人の娘じゃないか。大事にされないのはおかしい」


 群れをなしている僕の知り合いも、子どもはどこの子であっても、大切だと言っていた。他者の子どもであっても、大事に育てずに、虐げる理由なんてない。


「違うの」少女は頭を振って、僕の言葉を否定する。「私が拾われてくる前にね、お義母さんには、お義母さんの子どもがいたんだ。けどね、私が来る前に病気で亡くなっちゃったの」小さな声で話を続ける彼女は、震えていて、それをいなすように、彼女は身体を抱き締める。「そんな折に、おばあさんが私を拾ってきたのよ」


「それが、どうしたのさ」


「お義母さんがね、頻りに話すの。『おばあさんがあんたを拾ってきた時、娘の代わりに、あんたを育てておやりって言ったんだ。あたしが腹を痛めて産んだわけでもないのに、どうしてあんたなんかを育てなきゃなんないだ』って。きっと、おばあさんの言ったことが、気に食わなかったのね。だから私は、お義母さんの娘にはなれないし、お義母さんは私を娘として扱ってくれない」


「うーん……」つい、唸ってしまうくらいに、少女の話――、というよりも、人間の心というものが理解できなかった。


「仕方ないよ」僕の腑に落ちない態度に対して、少女は引き攣った笑みを作り、顔を上げた。「誰も、誰かの代わりにはなれない。そうしようと考えた時点で、本物を騙ろうとする偽物と同じなの。誠意があっても、願望があってもね。それに、偽物はいつだって劣っていると見做されるのよ。たまたま私の人生に、その役回りがやってきただけ」


 諦念したような口調で、少女は言った。本当にそうなのだろうか。もしも僕が、他者の子どもを育てなければならなくなったら。きっと僕は、自立できるようになるまでは、しっかりと親代わりになるだろう。もちろん、最初は受け入れられないこともあるかもしれない。でも、僕も育てられてきたのだ。その番が、僕に回ってきただけの話だと、割り切れる。


 ……なんて、考えてみるけれど、結局は部外者の考えでしかない。狩りをしない兎に、狩りをすれば良いと言っているようなものだ。人間には人間の、考え方があるのだろう。それに、僕たちだって、個体単位で見れば、考え方が違う。隣の森のやつらも、町の近くのやつらも、生き方が異なっているのだから。きっと、そういった相違が、人間たちの中にもあるのだろう。


 だけど……。


 胃の底で、何か得体の知れない感情が、煮えている。それは、少女の痛々しくて、汚穢な身体が視界に入る度、沸々と音を立てた。顎に力が入る。耳は静寂を否定するかのように、遠くの音まで拾おうとする。何度も味わった血の味が舌の上で踊り、鼻腔まで拒絶し難い甘美が届く。


 そこで、僕はようやく思い出す。


 この感情が何なのかを。


 でも、固有の名前なんてない。落雷と一緒だ。瞬きの間に消えてしまうのに、わざわざ名前を付ける意味がない。それほどまでに感じたことのない感情が、今は何故か、空腹を満たした大蛇みたくゆっくりと、不吉な雰囲気を僕の中で撒き散らしていた。


 まるで、誰かが僕を操っているみたいだ。いや……、僕たちはみんな、知らない何かに操られているのが当然なのだろう。そいつは、自分の内側にあるはずなのに、目で見ることは叶わない。この少女だってそうだ。とても辛いはずなのに、あの女に逆らえば生きていけないという考えに、知らない間に支配されている。川が上から下へと流れていくように、僕たちが心と名付けたモノは、そういう風に仕組まれているのだろう。


 それで良いのだろうか?

 自然だから仕方ないと、片付けてしまって、良いのだろうか?


 どこの誰なのかも知らない子どもを、自分の産んだ子どもじゃないから虐げたり、その痛みから抜け出そうと藻掻いたりは、できないのだろうか。僕に答えは分からない。分からないけれど、考えることをやめてしまっては、いけない気がする。そうやって諦めた瞬間、今も胃の底で蠢く感情に、噛み殺されてしまうだろう。


 いつの間にか、森の静寂に僕たちは包まれていた。森を監視する太陽は角度を変えて、早く元の居場所に帰れ、と警告しているみたいだ。


「もう十分、綺麗になったかな」


 少女から離れたところで、身体を震わせて水を払う。風が心地良い。さっきまでは暑苦しかった夏の空気も、暖かく感じるほどだ。彼女も僕に合わせて沢から出てきた。


「いけない。私、拭くものを持ってきていなかったわ」


「なに、少しすれば乾くさ」


 そう返すと、少女は僕の身体を一抹の間、見遣ってから、四肢を振ったりして水を払った。僕の真似事をしているらしい。僕と目を合わせると、はにかんだ。出会った時よりも、元気を取り戻したみたいで安心した。


「ねえ、あなたの名前はなんて言うの?」


 藪から棒に飛んできた質問に、口を吃らせてしまう。


「名前は、その――、ないんだ」


「嘘、絶対に嘘よ」と、僕に笑いかける。「だって、名前は誰にでもあるんだもの。あの花にも、あの草木たちにも、もちろん、私にもね」


「例外だってあるんだよ。僕がそうさ」僕は少女の目を、真っ直ぐに見据えた。綺麗になった瞳に映る僕の顔は、町の弱気な野良犬と似た、情けなさを浮かべている。「その……、僕が生まれた時にね、名前を付けてくれる前に、お母さんが死んだんだ。だから、名前はない」


「そう、だったのね……」


 僕の話を聞いて、少女はバツの悪そうに肩を落とした。


 少女には悪いと思いながらも、僕は嘘を吐いてしまった。本当は、母はこの間まで生きていたし、森に住む仲間が呼んでくれる名前がある。でも、僕は自分の名前が嫌いだ。そもそも、名前という仕組み自体に、忌避感を覚えている。


 死んだとしても、尚残るというモノが、苦痛でしかない。僕はこれまでに死んでいった、仲間たちの名前を覚えている。人間に殺されたロボ。一番の正直者だったが故に、騙されて命を落としたマルコ。大蛇に襲われた時、僕を庇って食われたフエン。


 みんな、もうこの世にはいない。なのに、僕の中にあるこの名前たちは、音もなく落ちてくる枯葉みたく、不意に脳裏を掠める。その一瞬が、他の何にも代え難いくらいに嫌いだ。名前なんてなければ彼らのことを、思い出すこともなかった。ただ記憶の片隅にある、苦い出来事で済んでいたはずなのに。まるで、呪いと同じだ。だから僕は、少女に名前を告げることに、躊躇いを覚えてしまう。同じ呪いにかけることを、したくない。


「ごめんなさい、嫌なことを聞いてしまって」


「ううん、良いんだ。気にしないで」


 顔を曇らせた少女に、僕はそう返す。せっかく元気になってくれたのに……。噓を吐いた罪悪感が、心を圧迫する。今からでも、本当のことを言った方が良いのか、とも考えた。でも、僕は彼女に悲しい呪いをかけるようなことを、やっぱりしたくはない。自分の考えを、一時の迷いで曲げてしまうと、取り返しの付かないことになる。それは、生きるために必要な教訓の一つだ。


「さあ、陽も落ち始める。そろそろ戻ろう」


 まだ裸で佇んでいる少女に、僕はそう促す。見たところ、もうすっかり身体は乾いていた。傷跡は相変わらず酷いけれど、肌の黒ずみや垢は濯がれて、肌の色は元通りだ。頷いた彼女は、渋々ながらも服を着た。


 それから、あの大木を渡った時よろしく、僕の背中に何も言わずに乗った。いきなりだったので、どうするべきか戸惑った。だけど、彼女の小さな呼吸が伝わってきたので、僕はそのまま帰路へ着くことにする。


 元の森へと戻る頃には、空の色は橙に染まっていた。沢のある側とは違い、鳥の囀りも近くに聞こえ、柔らかな風に揺らされた草や木々が、葉擦れの音を響かせる。陽が少し傾いてくれたお陰で、暑さもマシになっていた。息が苦しくなるほど、蒸れた森の匂いも、今は鳴りを潜めている。僕は平原のある方へは行かず、そのまま少女の家のある森の奥へと進んだ。向こう側ほどではないけど、空は木々に遮られて薄暗い。


「さあ、着いたよ」


 少女の家が見えてきた辺りで、僕は彼女に声をかけた。彼女は静かに僕から降りて、一歩前に立つ。家へ向けられた視線には、憂鬱な気分が混じっていた。そんな視線を浴びているのに、三角屋根の建物は、温かな色味を帯びて、人の帰りを待っている。


「帰りたくないかい?」


 そう訊ねると、少女は顎を上げて、煙突の方を見遣った。円筒から、白い煙が雲へ混じろうと昇っている。あの女のいる証拠だ。帰りたくないのも頷ける。とは言え、森で一晩過ごすというのは、難しい。自分で言うのもおかしな話だが、僕よりも僕の仲間は、血肉に飢えている。きっと、少女を見かければ一目散に飛びつき、息の根を止めてしまうだろう。もちろん、危険はそれだけではない。昼間は寝込み、夜になれば餌を求めて動き出す、奇妙な動物だって、この森には沢山いるのだ。僕が付いてあげても、命を守れる保証はできない。


「大丈夫、明日もあるさ」


「え?」僕の声で、少女は振り返る。


「明日も、一緒に遊ぼう。森の綺麗なところを、僕はいっぱい知っているんだ」


「本当に、良いの?」しげしげと顔を見つめながら、少女はそう聞き返してきた。声こそ申し訳なさそうだけど、表情には喜びが垣間見える。本当は、こんなにも素直な子なんだと思うと、僕はつい微笑みを零してしまった。


「もちろん。ああ、でも、君が迷惑なら断ってくれて良いんだ」


「ううん、そんなことないわ」僕の方へと近寄り、少女は僕の頭を抱く。鼻先にラベンダーのような匂いが、仄かに香った。「……ありがとう」そう言った彼女の吐息が、僕の耳を擽る。


「だから、今日はもう帰ると良い」再度、促すと少女は僕から離れた。


「約束よ……?」


「ああ、約束するよ。明日も会おう」


 不安気な少女の顔に、僕はそんな言葉をかけた。今度はもちろん、嘘じゃない。


「見送ってあげるから、先に行きなさい」


「うん、ばいばい」


 少女は細い手を振って、家に向かって歩き出した。家と少女の距離は、それほどない。けれど、家までの短い合間で、何度も僕の方へと振り向き、手を振ってきた。夏とは言え、陽はどんどんと落ちていく。少女の影は夜に溶けて、薄くなっていくのに、ほとんど僕との間隔が伸びていかなかった。


 そういうのも、悪くない。僕は少女を見送りながら、そう思った。傍から見れば、僕は子どもを誑かす、陰湿で厭らしい獣でしかないのだろう。それは、あの子の事情を知らないやつからしたらの話かもしれないけれど。ただ、知ってもらえたところで、理解を得られるとも考えていない。僕は自然に生きる獣で、あの子は社会に生きる人間だ。本来なら、相容れることさえあり得ない。


 それでも良い。


 彼女の生において、ひと時でも幸せとして僕が存在できるのなら、誰に何と言われようと関係ない。


 ようやく、少女が家の中へと入ったのを確認した後も、僕はしばらくその場にいた。太陽は西へと落ちて、明暗の境界は消えてしまった。目覚めた梟の鳴き声が、どこかから聞こえてくる。彼女の家からは、食欲をそそる香りが、煙突を通して漂ってきた。お腹が空いた。そう言えば、ここしばらく何も口にしていないことを思い出す。少女は、食べ物を与えてもらえただろうか。


 そんな心配が、空腹の中を巡る。


 どうか、そうであってほしいと願いながら、暗い森へと踵を返した。



 明くる日から、僕たちは時間を共に過ごすこととなった。少女は花が好きだと言うので、森のあちこちにある花畑を、来る日も来る日も訪れた。特に気に入られたのは、東の森との境にある、薄紫色の小さな花の咲いていた場所だ。狭い空間だった。


 今日もそこを訪れている。枝葉に隠れた鳥の声が時々、昼下がりの風に乗って、微睡を誘ってきた。雲は空を羊の群れのように移ろっていく。僕たちの周りに、他の動物の姿はない。そもそも、僕の姿がある時点で、どこかへと消えてしまう。変に気を張るのも疲れるので、それはそれで良いのだけれど。


 芝の上でうつ伏せになり、少女の姿を眺めた。相変わらず、彼女はあの家で人並みの生活を送れていないらしい。僕と会う時の挨拶は、いつも飢えを訴えるお腹の音だし、肌も服も、棄てられた人形のように汚れていく。だから時々、食べられそうな木の実や、例の沢へと連れて行ったりはしていた。もちろん、そんなものは一時凌ぎにしかならない。もっと滋養の付くモノを食べた方が良いし、毎日きちんと清潔にしている方が良い。


 少なくとも、僕の知っている人間はそうだった。ただ、幸いと言うべきか、少女がこうして僕に会うため、家を出たとしても、あの女はそれを咎めないらしい。どころか、肌が綺麗になっているとか、そう言った機微に、気付いていないみたいだと、少女は語っていた。虐めていた相手に訪れる幸運を、良く思わないのは、動物の本能みたいなものだ。だから、あの女が愚鈍であることもまた、僕たちにとっては運が良いと言える。


「ねえ、私考えたのよ」と、熱心に花冠を編んでいた少女が、唐突に口を開いた。


「何を?」


「あなたの名前を」


 驚いて言葉を失ってしまうと、少女は花冠を編む手を止めて、こちらへと微笑を向けた。邪な考えのない、純粋な想いを感じる。


「そんなに嬉しいの?」


「いや……、そうじゃなくて……」


 僕は、いつかのように口籠ってしまう。名前を教えなかった本当の理由を、白状した方が良いのか。首を傾げた少女の瞳が、僕の戸惑いに疑問を投げかける。


 噓を吐き続けることは、心苦しい。それに、このまま押し通そうとしてもきっと、どこかで破綻する。噓の仕組みは罠と同じで、最後に壊れることで完成するのだ。そうすれば、少女が向けてくれる信頼や期待は、裏切りという傷に変わってしまう。それはできない。


「……ううん、そうだね。君に名前を付けてもらえるほど、嬉しいことはないだろうね」


「そうでしょう!」少女の顔に、雲間から差し込む光のような輝きが灯った。


 悶々と内心で自問した結果、嘘を貫くことに決めた。本当のことを言うには、もう遅すぎる。すぐにでも、あの話が噓だと告白していれば、あるいは違っていたかもしれないのに。


「それより、ずっと考えてくれていたのは、どうしてなんだい?」


 今更になって、あの時の話を蒸し返してきたことが、僕には分からなかった。噓ではあるけれど、あんな話はどこにでも転がっている。その時は悲しみを覚えたとしても、嵐のように時間の流れと共に消え去ってしまうはずだ。


 僕の問いかけに、少女は優しい表情を浮かべた。


「だって、名前がないのは悲しいことだもの」


「そうかな?」


「そうよ」花に囲まれながら座っていた少女が、立ち上がってこちらへ寄ってくる。「名前はね、祝福なのよ。生まれてきたことの、最初の証。だからね、名前がないってことは、本当の祝福を受けていない、ってこと」


 僕を見下ろす少女は、手にした花冠を僕の頭へ静かに乗せた。


「私は、あなたと出会えて良かったわ。そんな想いも、あなたへの祝福に込めたかったの」


 少女は僕の頬に手を添えて、顔をじっと覗き込んでくる。


「あなたの名前は、フィラン。慈悲深いあなたに、ピッタリの名前よ。――どう、かしら?」


「うん……、良い名前だ」


 そう返すと、彼女は破顔して僕の頭に抱き着いた。爽やかな草の香りの混じった、少女の匂いが鼻腔に広がる。


「喜んでもらえて、嬉しいわ! フィラン!」


「ありがとう、大切にするよ」


 はっきりと言えるけれど、僕は心の底から嬉しかった。名前を付けられることへの怖さは、まだ拭いきれていない。でも、少女から貰えたこの名前は、大切にしたい。


「そうだ、すっかり忘れていたわ」少女は僕から離れると、何かを思い出したように手を打った。


「私、今日はお暇するわね。おばあさんのところへ、様子を見に行かなきゃいけないの」


「なら、そこまで送って行くよ。少しでも疲れない方が良いだろう?」


「本当? じゃあ、お願いしようかしら」


 そんな遣り取りをして、少女は僕の背に乗った。今ではすっかり、怯えなくなった。


 僕は彼女を乗せて森を駆けた。もちろん、振り落とされないように気を遣いながら。彼女は出会った時から変わらずの軽さだ。何も変わらないことが、どうにも僕にはもどかしかった。


 森の奥に向かい、そこから更に西側へ進むと、おばあさんの家はあった。薄暗い影に染まったそこは、少女の暮らす家とは違って、とても酷い有様だ。外観はほとんど、廃屋と表しても良いだろう。壁は長年の雨風が染み込んでいるのか、黒ずんで汚い。恐らく、中の状況も相当、劣悪に違いない。その壁も、遠目に見ても分かる大きな隙間があったりして、兎でも本気でも簡単に倒壊へ持ち込めそうだ。


 自給自足はできているのか、小さな菜園と、井戸はあった。だけど、畑の作物はどれも貧相な出来だ。害獣に食い漁られる心配はなくとも、当の本人が満足できるかは分からない。それに、井戸も水が枯れていそうな印象を、強く抱いてしまう。老人が独りで生活するには、不便極まりないだろう。


「ありがとう、フィラン。今日はここで大丈夫よ」おばあさんの家に、些か唖然としていた僕を余所に、少女は礼を口にしながら降りた。「じゃあ、また明日ね」

 そう言ってから手を振ると、彼女は廃屋然とした小屋へ、軽い足取りで歩き出す。


「待って」僕は少女を呼び止める。立ち止まった彼女は、その場でくるりと回り、僕の方に向き直った。


「名前を、教えてくれないかい?」


「名前?」


「そう、名前。ずっと一緒にいたのに、知らなかったからさ」


 僕は少女に、名前を貰った。それが呪いであるという考えは、やっぱり変わらない。だから、少女の名前を知ってしまえば、きっといつか後悔する。


 僕も、彼女も。


 僕たちの間には、どんな形であっても別れが訪れる。その時に、名前というモノが、どれほど強い呪いであったのかを、嫌でも知ることになり、二人の記憶に、大木のような根を張るだろう。


 それでも、構わない。


 もしもこれが、正真正銘の呪詛であったとしても。そうやって、不安の上に立てるくらいに、僕の心は少女に惹かれていた。


「私の名前は――、ジーニァ」


 ジーニァ。僕はその名前を、噛み締めるように心の中で反芻した。どんな意味があるのかは分からない。だけど、彼女に相応しい、素敵な響きの名前だと思った。


「また、明日。ジーニァ」


「うん、またね」


 はにかんでから、再び僕に背を向けたジーニァは、小走りでおばあさんの家に入って行った。


 独り取り残された僕の周りで、陰湿な風が吹いた。風は虫が這っている時みたいな感覚を思い起こさせ、不快感で総毛立つ。家の方からは、微かに話し声が聞こえてきた。無性に、蒼い空が見たい。仰いでも、天蓋は揺ら揺らと揺れる枝葉の影に遮られていて、叶わなかった。


 それでも、零れる光が、僕を照らしているのを見て、僕は笑ってしまう。


「良い日に、なると良いね」


 誰にとも向けずに言葉を吐いて、僕は踵を返した。



 憂鬱な気分を引き起こすあの場所から、草原の見える辺りまで移動してきた。空気は浄化されたみたいに清々しい。同じ森なのに、どうしてこんなにも違っているのか、不思議なものだ。


 草原を眺めながら、程良く陽の溜まる場所がないか、探してみる。今日はもう、少女に会うことはないだろう。暇になると、途端にやることが思いつかなくなる。


 以前は、そんなこともなかった。うろうろと徘徊したり、ぼうっと草原を眺めたりするだけでも、気付けば夜になっていた。暗くなっても、明日のことなんか考えず、意識の底からやってくる睡魔に、身を任せていた。


 今は違う。

 明日もジーニァに会えるか。

 明後日もジーニァに会えるか。

 会えたとしたら、どこへ行こうか。


 そんなことを考えながら、寝床へ帰るけれど、時には、僕のことを毛嫌いする平和な動物たちのように、睡魔が遠くに行ってしまうこともある。空虚だった日々は、彼女を注がれたことによって、渇きを覚えるほどになった。孤独をもろともしなかった僕の心は、すっかり弱くなったのだろう。幸せを感じられるのなら、それでも良い。


 何日も食事にあり付けず、空腹に苛まれた後に、ようやく得た食物が、どんな味であっても美味しく思えるように。ジーニァに会えない時間は、会えた時の喜びを育むための糧なのだと、理解できる。


 もちろん、良いとは思えても、自分の在り方が振れてきていると、自覚はしている。きっとそれは、僕の心が、人間側に傾いているからかもしれない。


 森の徘徊を続けていると、少し先の草むらから、薄茶色の影が出てきた。兎だ。口を忙しく動かしながら、地面に生えた草を熱心に食んでいる。黒い目は地面に集中していて、焦点が合っていないみたいだ。


 僕は何の気もなしに、その姿をじっと眺める。よく観察すると、草むらの中には、他にもいくらかの兎がいるらしい。草の擦れる音が、微かにここまで聞こえてくる。


 耳と目が、それらを捉えた瞬間、衝動が胃の中で反響した。熟れ過ぎた果実を、口にした時のような眩暈で、頭が重たくなる。周囲の風景が、視界の外側へと消えてしまう。ただ一点、あの兎だけが存在していた。


 足音を殺しながら、僕はそっと兎に近付く。

 熱に浮かされたような頭を低く下げ、挙動を見守る。

 兎は一瞬、動きを止めたが、すぐにまた草を食み、後ろの草へと身体を反転させた。

 心臓が高鳴る。

 血は尾の先まで、しっかりと巡っていた。

 口と鼻に、何度も感じた血肉のそれが、はっきりと再現されていく。

 仕留める。

 いや、仕留めた、か。

 その感覚が現実なのか、それとも、ただの記憶の想起なのか。

 それすら判然としないほど、意識は不安定だ。

 垂れた涎が、地面を濡らす。

 あと一歩。

 あと一歩。

 もう、あと一歩。

 努めて冷静な自分が、小鳥のように頭上を飛びながら、そんな声を浴びせてくる。


 分かっている。


 湧き上がってくるこの衝動は、もう止められないのだ。

 自分の影が、あと数歩で兎に重なる――。

 そんなところまで間合いを詰めてから、僕は兎に飛び掛かった。

 顎は完全に、兎の首を噛み締めていた。

 ただただその実感が、

 喜びとも、

 快楽ともとれる、

 僕が僕であろうとするために、忌避する感情を呼び起こす。


 それから、僕は必死に肉を食らった。食べるために、空虚だった何かが満たされていくようで、気持ち良かった。辺りに血の臭いが充満していく。飛び散った液体が、草の色を紅と黒に染めていた。思った以上に、肥えた兎だった。そんなことを考えている間も、肉を貪る。骨を砕き、内臓を引き摺り出す。破れた胃袋には、擦り切れた草が詰まっていた。嫌な臭いはするけれど、僕の目に映る、煌びやかな宝石の前で、それは些事たる問題でしかない。


 撒き散らされた肉塊を目にして、頭の中が冷えていった。僕の根底をなす、本来的に僕と呼べる存在が、意識のあるべきところへと帰っていく。胃も欲も満たされた。ジーニァと出会ってから、何日も食べていなかった。生きていくために、本能は必要だ。だから、仕方がない。


 そう割り切っていても、心のどこかで、僕は否定している。本能とは、根本的に他者から何かを奪うための機能だ。自らの不快を解消するために、奪いつくしていく。僕はどうしても、それが受け入れきれていない。本当なら、生を授かった時点で受け入れる他ないのだろう。でも、そいつが心の底へ沈んでいき、僕と自覚している存在が、意識の表面へと戻った時、僕はこの嫌悪感に苛まれてしまう。


 これは、どうしようもない僕の欠陥なのだ。


 この矛盾は、どうしようもないのだ。


「ごめんね」


 汚れた水みたく真っ黒に濁った兎の瞳に、僕はそんな言葉を置く。反応はない。臭いに誘われて早速、蠅が集っていた。鬱陶しい羽音は、僕の耳の周りでも聞こえてくる。沢山いたはずの、他の兎たちの姿は消えていた。誰も、助けようとしなかった。あの兎に、家族や友達はいなかったのだろうか。もしかすると、鼻つまみ者だったのかもしれない。


 水場で口を漱ごう。そんなことを考えながら、僕はフラフラと歩き出した。水場の場所が、そちらの方向で合っているのかは知らない。ただ自分の食い散らかした、あの死骸の傍から、立ち去りたかった。


「おーい」


 歩きだしたところなのに、聞き知った声に呼ばれて止まってしまう。周囲を見回すと、森の左手側に、こちらへ向かってくる影があった。森の仲間だ。名前は何だったか忘れた。彼は舌を垂らしながら、野犬のような歩き方で、こちらに寄ってくる。


「なんだお前、久しぶりじゃないか」


 彼は僕の顔を見るなり、挨拶もなくそう言った。そうだ。こいつは確か、こういう不躾なやつだった。


「最近はこの辺に顔を出さないのに、今日はどうしたんだ?」


「食事をしてたんだ」僕は嗚咽の代わりに、正直なことを吐き出した。


「へぇ、食事ね」灰色の毛並みの彼は、厭らしい笑みを浮かべながら、舐めまわすような視線を僕に這わせる。口の周りに付いた血を目にしたら、聞くまでもなく分かることのはずだ。なのに、わざわざ質問を寄越してきた。僕が食事を滅多に取らないと、知っていたからだろう。


「君こそ、何をしていたんだい?」僕はどうでも良いことを、聞き返した。それくらいは、マナーみたいなものだろう。


「俺もをしようと思ってな。この辺は平和ボケした兎が、よく屯してるんだよ」


 ――お前も、知っててきたんじゃないのか?


 そう続けながら、彼は首を回す。


「まあ、先を越されちまったみたいだけどな」


 兎の姿が見つからなかったからだろう。諦めたように、彼は笑う。僕はこの、冬の日みたいな会話が早く終わらないかな、と考えていた。早く水場へ行きたい。口の周りが、乾き始めていて不快だ。ぼうっとしていた頭の中は、会話をしたお陰か、少しマシになっていた。だから、水場のある方角とは、逆側へ歩いていたことに、今しがた気付いてしまう。


「食べ残しでも良ければ、向こうにあるよ」


 気乗りはしないけれど、僕は彼に勧めた。このままここで、引き留められる方が面倒だ。それに、今向いている方角でも、水場はどこかにあるだろう。諦めにも似た楽観的な考えで、自分を納得させる。


「そうかい。だったら仕方ない。俺はそれを頂くことにしようかね」


 彼は最後まで嫌な笑みを浮かべたまま、僕の視界から消えた。


「ああ、そう言えばお前、妙な噂を聞いたんだが?」


「何だい?」


 ようやく解放されると思っていたのに、再び引き留められたせいで、僕の声には苛立ちが混じっていた。彼もそれを感知したからか、一瞬だけ鼻に皴を寄せる。


「最近、人間の子どもとよく一緒にいるみたいじゃないか」


「……どこで聞いた?」


 全く予想もしてなかった話に、面食らってしまう。彼は僕の動揺を見つけると、さっきまでより一際、厭味な笑みを浮かべた。


「この辺の森のやつらは、みんな知っていることさ」


「それで、それがどうしたって言うんだい?」


「分からないのか?」


「分からないから、聞いてるんじゃないか」


「お前」彼は今までの、他者を蔑んだような態度とは違い、真剣な表情を作った。


「あの非常食を、いつ食うんだ?」


 その言葉を聞いて、心臓を鷲掴みにされたみたいな悪心が生じた。


 非常食。

 非常食。

 非常食……。


 頭の中で何度も反芻される単語。それは、紛うことなく彼の声で再生され、洞窟の中で転がった石のように、音が反響していく。


「分かってるよな?」茫然とする僕を余所に、彼は話を続けた。「非常食を携帯しておきながら、狩りをすることはタブーだって」


 そうだ。これは、僕たちの生き方に関するマナーだ。他の種族を自分の傍に置いて良いのは、空腹を凌げない時に、非常食として扱う場合のみと定められている。その場合は彼の言う通り、狩りを行ってはならない。独占を良しとせず、平等性を保つためだ。僕たちの中には、食事にあり付けずに、飢え死にするやつだっている。つまり、いつだって食事のできる状態にありながら、他の食物を口にするなんて、死んでいく者達に、無礼だということ。これは、親からも教わる、僕たちの間では当然の常識だ。


 けど……。


「君は何か勘違いしているみたいだ」と、僕は返す。「あの子は、僕の友人だ。非常食だなんて言い方は、やめてくれないかい?」


 僕の言葉に対して、彼は一度、大きく目を見開いた。それから、返す言葉と酸素を探すように、口をパクパク動かすと、呆れの混じった溜息を吐く。


「お前、正気か? 子どもとは言え、人間と一緒にいるんだぞ? 何かあったら、こっちにまで迷惑がかかるんだ」


「だから、どうしろと?」


「分かってるくせに、全部を言わせる気か?」苛立ちの籠った声を放つと、ずいっと僕の方へと身を寄せた。黄色く濁った瞳が、僕を睨んでいる。「お前がどういう認識でいても良い、なんて考え方は、俺たちの平和を乱すことだ。お前のせいで、人間たちが俺たちを殺しに来たら、どう責任を取るつもりだ?」


「知ったことじゃない」


「何だと!」


 これ以上は押し問答になると、お互いに理解できていたのだろう。僕たちは口を閉ざし、目の前の感情を睨み合った。僕の心は、凍った湖みたいに冷たい。彼はどうだろう。おおよそ僕には冷静に見えない。山火事のような激しさを孕んでいる。そうした温度差が分かったところで、自分を受け入れさせるために、取っ組み合いをするほど、僕たちは野蛮ではない。


 そんな僕たちのことなど、お構いなしに風が吹き抜けていった。この剣呑な雰囲気が、場違いに思えるほど清々しい。


「もういい。勝手にしろ」


 しばらくの睨み合いの後、彼の方から折れて、背を向けた。


「その代わり、アレの処遇は、俺たちで決めさせてもらう」


 去り際に彼の放った言葉が、僕の身体を突き動かす。

 アレ。

 アレとは、あの子のことだろう。

 それを、どうするだと?

 紅い色が頭の中で噴き出すイメージ。

 湯のように、ぐつぐつと音を立てている。

 けれどそれも、後の話。

 いや、先の話か?

 思考が身体を動かしているのか、

 身体に思考が追い付こうとしているのか。

 分からない。

 まるで違う存在を通して、視界の光景を眺めているみたいに、

 一瞬が奔った。


 気付いた頃、空には夕暮れが訪れていた。巣へと帰っていく烏たちの鳴き声が、周囲に響いている。逆立っていた全身の毛が、自然と元に戻った。辺りにはやっぱり、他の動物の姿は見えない。


 一体何があったのか。奇妙で不穏な出来事に、酷く狼狽を覚えてしまう。

 そんな困惑の中でふと、自分の足が何かを踏みつけていることに気付く。

 柔らかで、どこか感じたことのある感触だった。


 恐る恐る視線を下げてみると、


 ――そこには、変わり果てた、彼の姿があった。


 口や首筋は血で赤黒く染まり、完全に息絶えていることが分かる。だらしなく垂れた舌は、地面の草を舐めていた。虚空を見つめる大きく見開かれた目に、光はなくて、蠅が止まっても瞼が閉じることはない。踏みつけた胴体は冷たくて、すっかり硬かった。


 加速していく鼓動と共に、僕は走り出す。草木を掻き分け、とにかく影の濃い方角に向かった。どのくらい、その場でそうしていたのか、見当もつかない。けれど、森に住む他の連中に、その姿を見られることだけは、避けたかった。恐らく、何事もなかったから、杞憂で済むだろう。でも、あの死体が見つかれば、仲間内で誰がやったのか、捜索が始まるのは間違いない。あの死体には、くっきりと特徴的な歯形が残っている。人間や、熊なんかではなく、同族の牙にかけられたと、結論付けるのは簡単だ。まだ動きはないみたいだけど、もし目撃されでもしていたら、すぐにでも僕は、報復を受けてしまう。


 一体、どうしてこんなことをしてしまったのか。自分の行動だというのに、どこか余所事のように、心が嘆いていた。厭味なんて聞き流すか、無駄な意地を棄てて、頼み込めば別の道筋も立ったかもしれない。それで駄目だとしても、考えればいくらでも、平和的なやりようはあったはずだ。これではかえって、何も知らないあの子を、より危険な立場へ追い遣っただけに過ぎない。


 馬鹿だ。


 同族殺しの罪は、この世の何よりも重い。


 悪寒が奔り、鼓動はより早くなる。脚が付け根から、千切れてしまうのではないか、と思ってしまうくらいに、全力で森を駆けていく。太陽が西へと落ちる速度が、とても遅く感じた。夜になれば、死体も暗闇に隠れてくれるはずだ。死体の臭いだって、近くにあるあの兎のモノで、隠せるだろう。それに、幸いにもあそこには、背の高い草が生えていた。その点で言えば、まだ運が良い方かもしれない。もしかすると、連中が気付くのも、明日どころか、明後日や明々後日なんてことも、在り得るだろう。


 無論、それはあくまでも、可能性の域を出ていない。遅かれ早かれ露見することも、免れないだろう。なのに、こうしてどこか、楽観的な方向へ、思考を傾けていることが、自分でも不思議だった。いつも最悪の事態を想定することが、僕のやり方だというのに。今は何故か、その最悪がほとんど思いつかなかった。


 思考が内側へ向いていたせいか、常なら視認するまでもなく飛び越えられる木の根に、足を躓かせてしまい、僕は派手に転んだ。勢いも災いして、咄嗟の受け身の体勢も間に合わず、身体は何度も地面に叩きつけられてしまった。


 鈍い痛みが、肋骨を軋ませる。頭を強く打ったからか、頭蓋の内にあるモノが揺れていた。撓んだ視界には、僕を嘲るように睥睨する木々が映る。それらはどこか、大昔に見たことのある、報復のために群れをなした、人間たちを彷彿とさせた。


 焦燥感が、心の内側を支配している。思考が空回りして、大事なところを見出せない。それでも僕は、横向きの姿勢で呼吸を整えながら、雑多な思考を続けた。太陽はまだ地平線にさえ、届いていないらしい。眩しい光がちょうど、僕の目を焼こうとするみたいに、真っ直ぐ伸びていた。


 これからどうしようか。


 息が次第に落ち着いてくると、ようやく現実へと引き戻された。


 この森の中で、行く当てはない。生きたいのなら、森を抜け出すことが正解だ。遠い知らない土地で、ひっそりと暮らすしかない。そうなれば、真っ先に僕へと嫌疑が向けられて、血眼になって探されるけれど、連中も諦めるだろう。


 ただ、そうしてしまえば、あの子のことが心配になる。

 彼が最後に言っていた、僕を狂わせたあの言葉が、脳裏を過った。


『その代わり、アレの処遇は、俺たちで決めさせてもらう』


 そう。


 僕に疑いがかかり、探し回った結果として、見つからなかったとしたら。


 次に狙われるのは、間違いなくジーニァだ。彼女は殺されるか、殺されなかったとしても怖い思いをすることになってしまう。人間が報復にきたとしても、やったのは僕だと、濡れ衣を着せられるだろう。そうなれば、どこへ逃げたって同じだ。かえって結託して、僕を葬ろうとするかもしれない。


 僕と仲良くしてしまったがために、不幸な彼女はより、不幸の谷底へと突き落とされる。それは、僕が助かる、どんな選択肢も否定できるほどに、大きな理由だった。


 どうしてこうなった。


 僕はただ、平和に暮らしたかっただけだ。あの不幸な少女に、細やかながらでも、幸福が訪れてくれればと、願っただけなのに。


 どうして僕は、衝動を堪えられなかったのか……。

 いや……。

 あれは衝動なんかじゃない。

 きっとあれは僕の……。


 事実めいた嫌な考えが奔り、僕は頭を振って立ち上がった。考えたくもないし、認めたくもない。認めてしまった時点で、僕は今の僕ではいられなくなり、狂ってしまうだろう。そんな僕を、ジーニァの前に晒したくない。


 それでも、矛盾を解消する必要はある。それが、生きるということなのだから。

 だけど――、

 今はまだ、

 今だけはまだ、

 この矛盾を続けていたい。

 それとも、

 そんな些細な迷いさえ、生きるということにとっては、許されないのだろうか。


 彼女に会いたい。


 気持ちが僕の顔を、ジーニァの家の方角へと向けた。視線の先には、一足先に訪れた夜の気配が、我が物顔で揺らめいている。


 あの子に出会ってからこっち、今が最もその想いは強い。根拠なんてないけれど、どんな人間にも当てはまらない、唯一無二の美しさに満ちた顔を見れば、全てがどうにでもなりそうな気がする。


 疲れ切った僕の脚は、彼女の家の方へと勝手に歩き出した。



 どの道を、どのようにして歩いたのか。思い出せないくらい、呆然としたままジーニァの家の前に立っていた。窓には明かりが灯っている。昼間は赤く見える三角屋根も、今は夜色が混ざっているせいで、限りなく黒に近い。それが、あの死体たちの血液を彷彿させて、気分が悪くなった。


 足音を殺して、家の方へと近寄る。聞き耳を立てると、中ではカチャカチャと、何かのぶつかる音が壁越しに届いてきた。時々、その音を覆うように、くぐもった怒声が聞こえてくる。壁は思ったより分厚いみたいで、内容までは分からない。ただ、あの女がまた、ジーニァに意地悪を働いていることだけは、理解できた。


 ここまで来たけれど、どうにもなりそうにない。彼女を連れて逃げ出すことも、何もできない。寧ろ、こんなに近くにいるというのに、何もできない僕の、無力感を自覚しただけだ。


 憎い。


 ジーニァ以外の、何もかもが憎い。

 彼女に酷い仕打ちを与えるあの女も、

 僕が殺した口の達者な愚か者も、

 何もできない、自分自身も、

 憎くて仕方ない。

 だから僕は頭の中で、何もかも全部、この口で殺す想像をした。

 丸々と肥えたあの女の腸を引き摺り出して、殺す。

 殺してしまった彼も、もっと惨い形で殺し直す。

 何もできない自分を、頭から崖に飛び込むイメージで殺す。

 けれど、どれも叶わない。叶わないと知りながらも、想像を止められない。


 不思議だ。


 僕はそれでもフィランという名前が付いている。今の僕に、慈愛なんてモノは似合わない。一体、何を間違ってしまったのだろう。彼女に対してだけは、優しくありたい気持ちは確かだ。ただ、それだけしかない。それだけしかないことが、虚しい。


 きっと、僕が彼を殺すよりも、ずっと前に殺していたのは、平和を望んでいたあの気持ちだったのかもしれない。噴き上がる怒りを抑えていた、あの優しさを、僕は殺してしまったのだろう。


 それは、あの子と出会ったこの場所で。

 あの女に覚えてしまった、醜さで。

 ゆっくりと、腐っていくように、死んだのだろう。


 しばらくその場にいると、一際、大きな音が響いてきた。家の中の床から、こちらまで届くほどの音だ。微かだけど、ジーニァの喚く声も聞こえる。


「あんたみたいな使えない子、取るんじゃなかったよ!」


 表の扉が開くと、辺りにそんな声が鳴り渡る。僕は物陰に潜んで、じっと様子を窺った。暗くて見えにくいけれど、どうやら初めて出会った時と同じように、外へと放り出されたようだ。ジーニァの声は聞こえてこない。


「本当に使えない子だね! 何度言わせれば分かるのさ!」


 女はそう言い捨てると、扉を勢い良く閉めてしまった。少しして、もぞもぞと草の上で動く気配があったので、僕は顔を出す。そこにはやっぱり、ジーニァの姿があった。


「こんばんは、かな」


「……フィラン?」


 驚きと困惑、そして、一抹の喜びを含めた表情を浮かべてから、声を押し殺してこちらへとやってくる。


「どうしているの?」


「たまたま通りかかったのさ」


 耳打ちをしてきたので、僕も小さな声で答える。彼女は辺りを見回してから、こっち、と手招きをしてから、僕の前を歩き出した。足の向いた先には、梟でも見通せるか分からないほど、夜の暗闇が広がっている。


「どこへ行くんだい?」暗がりへと向かって、歩み続けるジーニァに、僕は聞いた。何か考えがあってのことだろうけれど、心配にはなる。


「大丈夫、いつもこうなるから、夜を凌げる場所を用意してるのよ」


 得意気にそう言うので、僕は不安ながらも着いて行くことにした。


 黒々と影を落とす草を掻き分けて、森を進む。暗闇にも慣れてきて、夜目も利いてきた。ジーニァが先導しているけれど、どうだろう。今日は月も星も出ていないから、辺りは余計に真っ暗だ。僕は元々、目が良いから、慣れるまで時間はかからない。けれど、彼女は人間だから、まだ視界は暗いままかもしれない。しかも、もう引き返すにも、難しいところまできている。疑いたくはないけれど、本当に大丈夫なのだろうか。


 悶々と考えながらも、着いて行くと、眼前に大きな崖が立ちはだかった。いきなりだったので、僕は内心で驚いてしまう。高さは周りの木々たちと、同じくらいはある。頂上に至るまで覆い尽くしている蔦は、夜闇のせいで、罅割れのように見えた。


 その崖の、僕たちが茂みから出てきたちょうどその先に、より深い闇の溜まった穴があった。洞窟だ。穴からは冷たい風が、蒸し暑さを押しのけるようにして、僕の頬を撫でてきた。


「ここよ」


 闇の中で茫々と浮かんだ、彼女の白い顔が笑みを作ると、穴に入った。どこまで続いているのだろう。洞窟からは、ジーニァの足音だけが、怪しく反響してきた。

「ほら、早くおいでよ」


 洞窟の前で佇んでいると、彼女が中から声をかけてくる。輪郭を失っていて、酷く曖昧に聞こえた。


 多少の逡巡はありながらも、僕はジーニァに招かれるままに、洞窟へと足を踏み入れる。地面は湿っており、空気は入口で受けた風よりも冷えていた。あまりに何も見えないので、足取りは慎重になる。


 僕とは真逆で、ジーニァのそれはしっかりとしていた。障害物にぶつかる様子もなく、勝手知ったる、といった感じだ。もしかして、彼女は意外にも、夜目に長けているのかもしれない。


 早く歩いても、ぶつかりそうなので、足音が一定に聞こえる間隔を維持しながら進む。時折、天井から水が滴り、身体を濡らして不快だった。


「着いたわ」


 ジーニァが足音を止めると一瞬、闇の中に炎が見えた。最初こそ、弱々しい光だったけれど、次第に十分な明るさとなる。そして、ようやく現れたジーニァの輪郭を目印に、僕は歩調を速めた。


 辿り着いた先には、刳り貫いたみたいに大きな空間が広がっていた。荒々しい岩肌が、僕たちを囲っている。その壁をよく観察すると、一本の縄が、壁に打ち込まれた杭に括られていて、僕たちが来た方向からずっと括りつけられている。なるほど、彼女はこれを頼りに、ここまでやってきたのか、とすぐに納得した。


 ジーニァの立っているところには、物を置くのにちょうど良い岩が一つ、置いてある。その岩だけ、よその場所から持ち込んだみたいに、色合いが違っていた。岩の上には、ランプや燐寸箱、その他にも雑多な物が沢山、置かれている。


「良いでしょ、ここ?」


「ジーニァは凄いね、こんなところを知っていたなんて」


 茫々と灯る炎の色に照らされた彼女は、得意気に胸を張った。褒められて嬉しいみたいだ。


「ここはね、お義母さんに追い出された時、たまたま見つけたところなの。燐寸は家から借りてきたんだけど、他の物は全部、置いてあったの」


「そうなんだ」


 まじまじと見てみれば、食料となりそうなモノや、弾薬のようなモノまである。どれも古びた汚れがこびり付いていた。食料は開けられていないモノもあったけど、恐らく口にはできない。


 猟師が野宿でもしていたのだろうか。在り得る話だ。森の奥地だし、獣も寄り付かないから最適だろう。仮に見つけられても、火薬の臭いで近寄られないはずだ。僕だって、同じように近寄らなかったと思う。


 でも、その猟師はこれだけの物を残して一体、どこへ消えてしまったのか。食料や使い捨てのできる物資なら、棄てて帰っても不思議ではないけど、弾薬なんかは、置いて行く意味が分からない。偶然の産物には違いない。なのに、あたかもこの場所を、誰かが訪れることを見越して、獣を避けるための置き土産をしたかのような、気がしてしまう。


「きゃあ!」


 脳裏に浮かんでいた疑問を、ジーニァの短い悲鳴が遮った。彼女は酷く怯えた顔で、僕の顔を見つめている。それは今まで、僕の前で見せたことのない表情だった。


「どうしたのよ、フィラン? あなた、口の周りが……!」


 声を戦慄かせながら、ジーニァは言った。僕はそれで、今の自分の様相を思い出す。そうだ。結局、水場へは行けなくて、口の周りが血だらけのままだ。必死に走り回っていたせいで、すっかり忘れていた。


「どうしたの? 怪我したの?」


 地面の石に躓きながら、ジーニァは僕の方へと近寄ってくる。有無を言わせず、取り乱したまま僕の頬を両手で包むと、真剣な面持ちで右に左に傾けた。どうやら、既に怪我をしたと思い込んでしまっているようだ。


「大丈夫、大丈夫だよ、ジーニァ。僕は何の怪我もしていないよ」何度か宥めたことで、おずおずとではあるが手を離してくれた。表情にはまだ、不安が色濃く残っている。「手、汚してしまったね」僕はジーニァの手に、視線を落として言った。彼女の手には、赤黒い血の跡が、べっとりとこびり付いている。一定の間隔で水の滴る音が、どこかから聞こえていたが、気配だけだ。


「大丈夫。ねえ、それよりも、どうしたの……?」


「その……」


 話を逸らしたかったのに、ジーニァは食い下がってきた。


「……食事を、していたんだ。どうしても、我慢できなくてね。兎を一羽、食べてしまった」


 僕は迷ったけれど、事実を伝えることにした。もちろん、同族を殺したことは、言えなかったけれど。


 言葉にすれば、自嘲のように聞こえた。なのに、口元は裏腹に引き攣って、上手く笑えない。ジーニァは僕の話を聞いても、無言だった。僕は目を伏せたまま、彼女から反応が返ってくるのを待つ。洞窟の中では、水の音と、ランプの火の揺らめきだけが、時間を刻んでいた。それは、静かに枯れて積もっていく秋の葉のように、僕の決心を後悔で覆い隠す。


「軽蔑したかい?」


 沈黙に耐え切れなくなって、僕は口を開いた。ジーニァから返事はこない。今、彼女はどんな顔をしているのだろうか。願うことなら、心底呆れた表情で僕を見ていてほしい。僕という存在を、汚らわしいモノを見る目で、見つめていてほしい。

 そう思う一方で、本当にそんな顔をしていたら、あるいはその結果として、唯一の親友を失ってしまうのではないか、という恐ろしさもあった。歪な矛盾が、頭を擡げる意思を、鋭く削いでいた。


 罪ではない。食べるために、命を奪うのは、仕方のないことだ。その根本は同じだとしても、僕とジーニァは、歳も生き方も、種族さえ違う。彼女は兎どころか、虫の一匹も殺したことがないだろう。そんな子に現実を囁くことは、やっぱり酷だった。


「ごめんね、妙なことを言ってしまって。ここに僕がいると、血の匂いに誘われたやつが来るかもしれない」


 ――だから、離れることにするよ。


 そう告げて、踵を返そうとした時、ジーニァが僕のことを抱き止めた。


「……ジーニァ?」


 突然だったので、僕は困惑のあまり、固まってしまった。距離のない体温と匂いが、身体の底へと入り込んでくる。そして、彼女が涙を流す感触と、啜り泣く声が僕の身体を濡らした。


「大丈夫、大丈夫よ。私はあなたのことを、軽蔑なんてしないわ」ジーニァは、雨季の天気のように、不安定な声色で話し始める。「食べることは、仕方ないんだもの。あなたが悪いことをしたなんて、ちっとも思わないわ」


「なら、どうして泣いているんだい?」


「あなたに、とても辛そうな顔をさせてしまったから」


「僕が?」


 聞き返すと、彼女は僕の体毛に頭をうずめて頷く。


「フィラン、あなたにだって、隠したいことはあるだろうに、私はそれを暴こうとした」


「誰にも、好奇心というモノはある。君はまだ子どもだ。無理にそいつを止める必要なんて、ないんだよ」顔を向けようとすると、ジーニァは僕から離れた。泣き腫らした目は、洞窟に灯る炎で、赤さが増している。服や頬には、手に付着したモノと同様の、鉄色の汚れが目立った。


「それでも、あなたを傷付けてしまったことに、変わりないわ。だから、ごめんなさい」


 震える彼女に、僕はそっと頭を寄せる。


 今の僕の顔は、もっと辛そうな表情を作っているに違いない。僕の心は、彼女の優しさと共に圧し掛かる、自分自身の隠す罪の重さで、潰れてしまいそうだ。そんな顔を晒せば、この子に溢れる優しさは雨となって降り注ぎ、罪の土壌はその雨水を吸い込み、更に重くなるだろう。


「ねえ、ジーニァ」


「何?」


「僕と一緒に、どこかへ行こう。明日を拒まなくても良いくらい、素敵な場所を探しに行こう」


 どうしたの急に、と彼女は不思議そうに噴き出した。僕は愛おしい親友の顔を見上げる。涙はもう、流れていない。


「本気で言ってるんだよ」今度は僕も、自然に笑みを作れた。「世界は、とても広いんだ。悲しい生活のない、素敵な場所を見つけられるさ」


 僕は思い切って、彼女を連れて逃げる決心を付けた。どうせ僕は、逃げなければならない身だし、ジーニァだって、このまま森にいると危険だ。


「そうね。フィランと一緒なら、とても素敵な場所を見つけられるって、私も思うわ」


「なら――」


「でも、駄目よ」


 ――今すぐにでも行こう。


 続けようとした言葉は、彼女の声で遮られて、頭の中で行き場を失くした。僕の身体は、呼吸のやり方を途中で忘れてしまったみたいに、静止する。どのくらいその状態が続いたのか、分からない。視界いっぱいに広がるジーニァの笑顔が、夢なのか現実なのか、曖昧になるほどの感覚だった。


「私には、おばあ様がいるもの」ジーニァの声を耳朶が捉えると、呼吸も戻ってきた。「あの人に貰った恩を、投げ出して逃げるわけにはいかないの」


「でも君は、毎日あんなに酷い仕打ちを受けているじゃないか」


「そうね」彼女は頷く。「それでも、私はここから出て行けないわ。せめて、おばあ様が一生を全うされるまでは、面倒を看るつもりよ。それが、私なりに決めた、誠意なんだもの」


 真っ直ぐと視線を据えながら語られたことで、僕はそれ以上の言葉を失った。胸の内には、不安よりももっと深刻で、どこか子どもじみた嫌な感情が、渦を巻き始める。


 ジーニァの話は、ちゃんと理解できたけれど、受け入れるまでには至らなかった。僕だって、母に育てられた恩は感じているし、今も生きているとしたら、返せるモノを、返そうとはしただろう。その気持ちはよく分かるから、否定なんてできない。でも、僕と彼女のおばあさんを並べられた時、迷わずに僕が選ばれないというのは、とても残念だ。もちろんそれが、一方的な僕の気持ちでしかないことを差し置いても。


 今ここで、僕を選べと強要したら。


 ジーニァは戸惑うか、それこそ本当に、軽蔑して僕から離れていくかもしれない。だとしても、僕にも時間がない。逃げ出すにしても、陽が森の真上を照らすまでに発たなければ、全てが手遅れとなる。


 迷いが理性を揺さぶる。自分の中で、彼女は二つ返事で付いてきてくれると、考えていた。ほとんど確信と言っても、おかしくはない。なのに、そうはならなかった。まるで、運命に意地悪をされているみたいだ。


 罪を犯した僕に、その罰を潔く受けろ、と。

 罪?

 罪って、何だろう。

 同族を殺したことか?

 空腹で兎を食い殺したことか?

 矛盾を抱えたまま、生きようとしたことか?

 目の前にいる、愛おしい人間に、出会ってしまったことか?

 それとも……、

 思い通りにならない他者の意思と、

 僕自身に、苛立ちを覚えたことか?


 分からない。


 生まれてからこっちの、全ての出来事が、僕を責めるに値するように思えてしまう。そうやって、一つ一つに罪悪の念を思い起こすことでさえも。

 罪には罰が必要だ。それはどんな種族であろうと、変わらない不変の法則。愛する誰かがいるとか、家族がいるとか、事情なんてモノは関係ない。僕は一体、どんな罰を、どれだけ受ければ許されるのだろう。


「少し肌寒いけれど、寝ましょう?」


 ジーニァの声で、我に返る。彼女の顔にあった悲哀は、雨上がりの花のように、跡だけを残していた。



 翌朝、目が覚めた時に彼女の姿はなかった。ランプの灯は消えていて、辺りは当たり前に暗い。洞窟の入口側から僅かに差し込む光がなければ、朝だと気付けなかったかもしれない。


 気怠い身体を引き摺って、外へと出る。空の明るさで、目が痛んだ。硬い地面で眠っていたからか、節々が痛む。夏の朝の空気は、そよ風が吹いて、程良く気持ち良い。それでも、走り回った後の疲労が、春先まで残った雪みたく、身体に重く圧し掛かっている。


 木々の隙間から覗く、蒼い空を見上げた。その間隙を縫うようにして、鳥が囀りながら飛んで行く。僕のことなんて、気にしちゃいないみたいだった。


 ジーニァは、無事に帰れたのだろうか。時間の前後がはっきりとしない頭で、思い出そうとする。確か朝方、微睡ながら、彼女の声を聞いた気がした。今日はおばあ様のところへ行かなくちゃならないから、帰るわね、なんて言っていたはずだ。曖昧な記憶ではあるけれど、どちらにしても帰らなくちゃならなかったのだろう。本当なら、一緒に水浴びでもしたかった。少し残念だ。


 森へと目を向けてみる。死んでるみたいに、静かだった。仲間たちが、僕を探している様子もない。まだ、彼の死体は発見されていないのだろうか。それとも、もう逃げたと思われて、諦められているだろうか。後者の可能性は、とても薄いだろうけど、そうであってくれれば、とも思う。


 これから、どうしよう。今までみたいな生活は、絶対にできない。ジーニァも、自身の知らないところで、危険が迫っている。何もかも、振り出しに戻っただけだ。


 事実を知られずに、彼女も僕も、救い出す方法を考えてみる。


 どうすれば良い……。


 そんな言葉を繰り返したところで、ないものねだりの堂々巡りに過ぎない。理解はしていても、方法を見つけ出さなければ、ならなかった。せめて彼女だけでも、救わなければならない。それが第一優先だ。


 森に住む仲間を、片っ端から殺してしまおうか。


 事実を知る者が孤独なら、それは夢と大差はないのだから。


 現実味のないやけくそな考えも、浮かんできた。もちろん、本気でやろうとは思えない。窮地に追い込まれている時ほど、賭けをするべきではないからだ。


 でも、だけど……、


 なんて、否定に否定を重ねて、佇んでいると、どこかから血の臭いが漂ってきた。辺りを見回してみたけれど、意味はない。血の臭いは、自分の口の周りに付着したモノだったからだ。寝たせいで、嗅覚が元に戻ったからかもしれない。


 殺したことは、絶対に覆らない事実なのだと、突き付けられているみたいだ。どんな理由があっても、僕が禁忌を冒したことは変わりない。


 自分と呼ぶモノの、直情的な行動に厭気が差す。あまりにも、愚かだ。


 そう。


 僕は愚かな獣に過ぎない。他者とは違いたいから、理性を得たところで、それはただの模倣だ。いや、いとも容易く屈してしまう理性なんて、模倣にすらなっていないだろう。


 なら、受け入れてしまえば、楽だろうか。


「ジーニァ……」


 彼女の名前を、血に塗れた声に乗せる。会いたい。そんな資格なんてないのに、胸の内を突き動かしてくる。僕はとぼとぼと、彼女の家の方へ、足を踏み出した。

 彼女が生きていてくれれば、願わくは一緒にいてくれるのなら、何だって良い。そのために、罪も罰も背負えと言うなら、喜んで背負おう。


 けれど、そうはならない。

 現実は、全てを叶えてくれるほど万能ではないのだから。

 本当に、逃げない限りは……。

 もしも、ジーニァに背負う恩がなければ。

 彼女は付いてきてくれただろうか。僕と一緒に、逃げてくれただろうか。

 昨夜と同じように、彼女の家に辿り着いていた。考えているのは、ずっとこれからのことだったのに。呼吸や、食べたものの消化みたいに、彼女の家への道のりが、身体に染みついている。耳を澄ますと、生活の音が微かながらに聞こえてきた。昨日はよく眠れただろうか。僕でさえ、こんなに身体が痛むのに、彼女はもっと、辛い想いをしていたに違いない。


 あんな親がいなければ。


 あんな老人に拾われなければ。


 彼女は虐げられずに済んだ。


 家を見ながら、沸々と感情が込み上げてくる。それは、大雨の日の川みたいに、ゆっくりと激しさを増していった。


 間違いは、それが間違いとされている以上、正さなければならない。少なくとも、ジーニァの今の境遇は、間違いだ。恩義を感じる必要もない。そのために、嫌がらせを受ける意味もない。


 ああ、そうか。


 答えは簡単だったんだ。


 流れていく雲の合間から、太陽の姿がいきなり現れるように、僕は一つの考えに至る。


 禁忌とされていることを、僕は既に一つ破った。ならば、二つに増えても、同じことだ。それにこれは、正すための行為である。誰も彼もが、僕を間違いだと糾弾したとしても、僕にとっては、たった一つの平和であり、救済への道だ。


 僕は静かに、時が来るのを待つ。

 気の遠くなるようなことはない。

 幸いにも、空にはいくつかの雲が浮かんでいたから。



「それじゃあ、行ってきます」


 家の扉が開き、ジーニァが出てきた。彼女の腕にはバスケットが提げられている。おばあさんへの、見舞いの品だろう。僕は息を潜めて、動向を見守った。彼女が森の中へと姿を消して、匂いが届かなくなり、足音が聞こえなくなるまで待つ。浅くなった呼吸に、文句を言っているみたいに、心臓は高鳴っていた。


 万全の状態になるまで、かなりの時間がかかった。それは、僕のせいかもしれないし、彼女が色々なモノに、目移りしていたからかもしれない。家の前に立ってからは、どちらでも良くなった。


 太陽の光が、僕の影を扉へと伸ばしている。

 本当にやるのか?

 影は僕に、そう問いかけてくる。


「やるしかないだろう?」


 僕は影に、そう答えた。


 心はどうしていつも、聞かなくても良いことを、聞いてくるのだろう。


 そんなことを考えながら、何歩か後ろへ下がり、助走を付けて扉に身体を打ち付けた。木製の扉は、難なく蝶番から外れて飛んでいく。砕けた木片が、毬栗が当たった時みたいに、身体を刺した。


「何! 何なの!」


 甲高い声が響いた。部屋は薄暗いけれど、とても綺麗だった。見回すと、隅の方に、あの丸々と肥えた女が見つかった。事態を飲み込めていないらしい。顔には困惑と驚愕の混じった、恐怖の表情が浮かんでいる。僕はゆっくりと、女に近寄った。尻餅を付いて、ずるずると後退りを繰り返す。けれど残念ながら、後ろは壁しかない。


「狼! 狼が出たわ! 誰か助けて!」


 耳障りな金切り声が、耳朶を震わせる。助けを求めても、無駄だ。辺りには人どころか、他の動物さえいなかった。気配を消して僕を見れるとしたら、精々が猟師くらいだろうけれど、運良く来るはずもないだろう。


「お前に運があるのなら、僕が摘み取ってやろう」


 一歩、一歩と近付く度に、不愉快な音色を奏でる喉笛に、僕は噛みついた。骨の折れる音が、顎を伝わる。白い床に、血が散る断続的な音。遅れて、肉と脂の臭い。舌の上には、味わったことのない、最悪な感触が、広がっていた。恐怖に歪んだ女の顔から、だらしなく力が抜ける。それと共に、瞳は焦点がブレて、光が消えていった。呼吸の感触。生命力が強いのか、それとも、身体の蓄えが繋いでいるのか。首はもう折れているというのに、まだ息はあった。


「ジー……、ニァ……。ジー……、ニァ。助け……、て」


 打ち上げられた鯉のように、女は口を動かしながら、彼女の名を呼んでいた。


 今更か。


 散々、酷い仕打ちをしておきながら、自分の命は惜しいらしい。


 僕はその声が、酷く嫌なモノに聞こえて、噛みついた喉に、力を込める。頭が奇妙な方向へと曲がり、女は完全に死んだ。口を離して、死体を見遣った。喉元や口の周り、あとは身体なんかが、血で汚れていたけれど、顔だけは綺麗なものだ。せめて、そのくらいの慈悲はやっても良いかもしれない。


 初めて、人間を殺した。同族だけではなく、人間まで。これで、森のルールを僕は犯し尽くしたようなものだ。同族からも恨まれ、人間たちからも恨まれることになる。ましてや、この森の仲間たちも、危険に晒されている状態と変わらない。


 けれど、不思議なことに、怯えとか、罪悪感のような類の感情は、一切湧かなかった。寧ろ、達成感にも似た高揚を覚えていて、今なら、自分でも身体が一回りも、二回りも大きな獣だって、敵ではないだろう。


 大したことなんて、なかったのだ。とても簡単なこと。力があるのなら、それを使えばどうにでもなった。初めからそうしていたら、僕の望む平和は手に入れられたのだ。優しさだけでは、生きていけない。罪が正義の元にあるとするのなら、僕がその正義となれば良い。彼女だけの正義に。


 やっと、そのことに気付けた。

 破られた扉を跨ぎ、外へと出る。

 風が気持ち良い。

 空の蒼さが美しい。

 太陽の光が、喜ばしい。

 自分の中で、捻じれていたその縄が、解けたような解放間。

 どうして、こんな簡単な答えを出すことに、躊躇を覚えていたのか。

 分からない。

 愚かだった。


 きっと、あの子のお陰だ。あの子がいてくれたから、僕は覚悟を決められた。守るために、力は必要だったのだ。みんな、簡単な答えを見落として生きている。そういうことに、気付かされることこそが、幸せなのだろう。


 さあ、次だ。


 真上に昇っていた陽は、少しだけ傾いていた。燦々と照り付ける暑さに、眩暈を覚えてしまう。


 へばってしまう前に、僕は森を駆けた。ジーニァの歩く速度からして、彼女の通る道から大きく回っても、目的の場所に辿り着くのは、余裕だろう。口の中には、不快な味が乗っかったままだ。そう言えば、昨日から何も飲んでいない。水場へ行くのも、忘れていた。全て終わったら、あの子と初めて行った、誰も知らないあそこへ行こう。きっと、喜んでくれるはずだ。


 森を進んで行くと、鬱蒼と翳りが差していく。あれだけ気持ち良く望めた空も、仰いでみれば、意地悪をするみたいに生い茂る葉っぱばかりだった。やっぱり、この辺りは苦手だ。いるだけで気分が沈んでくるし、何より空気が悪い。それも今日で最後だと思えているのが、幸いだろうか。


 前方に例のあの掘っ立て小屋が見えてきた。相変わらず酷い外観だ。速度を落として茂みに身を隠すと、息を殺して周囲を窺う。ジーニァも、他に動物がいるような気配もない。


 タイミングは、今しかなかった。


 極力、音を立てないように忍び足で、小屋へと近付く。不用心にも、扉は閉じられていない。僅かに開いている。僕は鼻を隙間に差して、ゆっくりと開いてから、部屋へと入る。


 中は、血の臭いがマシに思えるくらい、黴臭さに満ちていた。調度品も、飾られた写真も、どれも妙に黒ずんで汚い。足を少し踏み入れただけで、埃が舞った。これなら、昨夜の洞窟で暮らした方が、尚のことマシだろう。


「おや……、ジーニァかい……?」


 部屋を見回していると、掠れた声が僕の耳朶を震わせる。声の聞こえた部屋の奥に目を向けると、薄汚れた寝台の上で横になる、人影が見えた。僕はゆっくりと、声を上げずにそちらへと近寄る。一歩、一歩。距離が近くなると、擬態した昆虫のシルエットが、ハッキリと浮かび上がってくるかのように、全貌が明らかとなった。間違いない。ジーニァの話に聞く、例の老婆だ。


 相手もようやく、僕が何者なのか気付いたのだろう。皴だらけの弱々しい目を見開き、僕を捉えて驚きを露にした。しかし、すぐに老婆は柔和な表情を作る。


「あなた、ジーニァがいつも話している子ね」


「……ええ、そうです」


 しゃがれ声でも優しい口調に、僕はつい毒気を抜かれてしまう。それは、ジーニァの優しさにも、通ずるものがあった。彼女の性格は、このおばあさんに由来があるのかもしれない。


「どうしたんだい、こんなところへ。ジーニァはいるのかい?」


「いえ、いません」熱された身体を、冷ますかのように、淡々と質問に答える。


「おやおや、そうかい」


 僕は老婆の目をじっと見つめる。よく観察すると分かったことだが、彼女の瞳は薄っすらと白濁していた。もう、ほとんど目が見えていないのか。恐らく、普段からジーニァのことも、輪郭や声とかで、判断しているのだろう。だから僕の姿に、恐怖を覚えないのかもしれない。


「ジーニァは来ると思うから、もう少し待っていなさい」


 老婆はそう言って、瞼を閉じてしまう。寝たような雰囲気ではなかった。視界にモノを入れることが、辛いのかもしれない。


「あの――」僕が声をかけると、律儀にも目を開いた。微笑んでこそいるが、どこか気怠そうだ。「どうして、ジーニァを拾ってきたんですか?」


 僕の投げかけた問に、老婆は戸惑いを浮かべた。けれど、それも一瞬のことだった。


「さあ、どうしてだったかしら」老婆は天井を見遣りながら、長く息を吐く。「この歳になるとね、昨日のことも曖昧になるんだよ。ただ、まあ。あたしの娘は、子どもを亡くしたからねぇ」枕の上で頭だけをこちらに向けた。「そんな折に、森に捨てられていたジーニァを見つけてね。あたしには、娘の亡くした子と、つい重なって見えたんだよ……」


「それで?」話が途切れそうになったので、僕は先を促す。気を悪くしたような様子はない。


「……まあ、あたしの娘が不憫で、不憫でねぇ。あの子が、亡くした子どもの代わりになるのなら、それで良いと思ったのさ」


 そう言い切ると、老婆はまた目を瞑った。薄暗く黴臭い場所にいるというのに、日向ぼっこでもしているかのようだ。


 僕の心はすっかり元の冷たさを、取り戻してくれた。要するにこいつも、さっき殺したあの女も、自分のためでしかない。殺したあの女は、あの子を苛立ちの捌け口として扱っていた。ジーニァを拾った老婆は、自分たちを安心させるために拾っただけ。きっと、子どもが亡くなってさえいなければ、彼女が森で泣いていたとしても、見向きもせずにいただろう。


 結果はこれだ。老婆は恩という鎖でジーニァを縛り、動けない自分の面倒を見させている。どう転んだとしても、彼女の運命が、悲惨になることは、決まっていたようなモノだ。


「あなたは、優しさという皮を被った、獣だ」


 言葉を乗せた声は、唸っているみたいに低かった。老婆は聞こえていない様子だ。目を閉じたまま、深く穏やかな呼吸をしている。


 その喉に、僕は噛みついた。コキン、と軽い音が響く。枯れ枝を折る時みたいに、力は要らなかった。表情に変化はほとんどない。傍から見れば、静かに眠っている姿と同じだ。


 それでも、もう胸は動いていない。

 息も漏れていない。

 首は異常な形に曲がって、

 つう、と口元と喉から、赤い筋が垂れている。

 あの女とは比べものにならないくらい、老婆は呆気なく死んだ。手負いの兎を殺すよりも、楽だった。


 諸悪の根源と呼べるモノを、葬った瞬間。正義がなされた瞬間。その実感はある。なのに、気持ちは晴れない。何故だろう。死んだ老婆を見つめながら考える。安らかな表情を浮かべているのが、気に食わないのだろうか。


 ……違う。


 これは、僕の中にある正義が、満たされていないからだ。正義がなされることと、それを扱う存在が満たされることは、別の問題。こいつが、こんなに造作もなく、死んで良いはずがない。あの子の生涯のほとんどを食い潰した、こいつが。

 自らが罪を背負った存在であるとさえ、気付けないやつら。


 愚かしい。

 嘆かわしい。

 腹の底が、熱くなる。

 喉が渇く。

 僕は、狭い部屋の中で、身体が動きたいように動き回った。

 花瓶が割れて。

 写真が破れて。

 腐りかけた壁に穴が開く。

 周囲の静けさが、かき乱されていった。荒い息の奥で、あの黴臭さが染みついていることに気付いた。それがまた、腹の底を熱くさせる。


 憎い。


 老婆の死体の上に乗り、その顔を食い破る。薄っぺらな筋肉の下で、白い骨が露になった。頭蓋を噛み砕く。眼球が床を転がる。原形を失った老婆の身体を、振り回した。止めどなく溢れる血が散っていく。


 肉が千切れ、死体が部屋の真ん中へと飛んでいった時、僕は動きを止めた。息が上がっている。部屋の汚れは、あの黒ずみなのか、飛び散った血液なのか、判然としない。ただ、鼻を衝くのは、嗅ぎ慣れた生々しい臭いに染まってくれていた。


 これで良い。


 これでこそ、僕の正義は満たされたのだ。


 ジーニァは自由になれる。彼女の生きたいところで、生きられる。そしてここで、真に僕は彼女の正義となる。


 部屋に転がる死体を踏みつけて、僕は笑った。僕を追う連中がいたとして、そいつらに見つかったところで構わない。今の僕の相手じゃない。愉快だ。早くあの子に、この素晴らしい報告をしてあげたい。


 自分でも驚くほどの、恍惚に浸っていたら、玄関の方で鈍い音がした。緩んでいた気が引き締まる。


 警戒しながら視線を向けると、ちょうどここに辿り着いた、ジーニァの姿があった。


「何……、これ……」


 しまった、と思った頃には遅かった。彼女の白い肌から、血色は更に消え失せ、口を震わせている。足元にはあのバスケットと、中に入っていた果物が転がっていた。


「ジーニァ、その……」


「ひっ」


 僕が声をかけると、短い悲鳴を上げると、前屈みになって嘔吐した。濁流のような音が部屋の中で跳ねる。嗚咽を何度も漏らし、それでも尚、手で吐瀉物を受け止めようとしていた。


 流石に、長居をしすぎた。頭の中の計画では、彼女が到着するまでに、ここを離れているはずだったのに。そうすればジーニァに、こんな血生臭い光景を見せずに済んだ。こればかりは、失敗と言わざるを得ない。


「ジーニァ、大丈夫かい?」心配だったので、彼女の方へと歩みながら話す。「その、本当は今から君を迎えに行くつもりだったんだ」


 身を折り、苦しそうに喘ぐ彼女が僕に気付いた。けれど、それと同時に、喚き叫んで後ろへと、派手に後ろへと転げる。しかも、運悪く何度か回転しながら、外に出てしまう。


 いきなり声をかけたから、慌てたのだろう。僕は身体を貸してあげようと、倒れた彼女を覗き込んだ。


「立てるかい?」


「やめて、来ないで!」


「……えっ?」


 怯えた拒絶の声が、森の中で反響した。死角から頭の上に岩でも落ちてきた時のように、思考が追い付かない。僕は声を出そうとも、もう少し近寄ろうともしている。それは確かなのに、身体は命令を聞かずに、不格好な静止を選んでいた。

 ジーニァの顔を、じっと見つめて考える。


 何故、僕は拒絶されたのか。


 分からない。


 悲惨な中の状況を、目にしてしまったからか?


 それとも、僕が血塗れで、最悪の格好をしているからか?


 思考はどれも答えのような気がした。けれど、頭の片隅、暗い影の中にいる誰かが、そうじゃないと否定をしてくる。


 なら、一体何なのだ?


 ジーニァに聞けば良い。そんなことくらいは、分かる。分かるけど、今の彼女は聞けるような状態じゃない。


 怯えていて、

 震えていて、

 まるで、

 あの女たちに虐げられた時よりも、

 恐怖に揺らされている様子だった。


「僕は、君のためにやったんだ。君が、君の生きる時間が、何にも縛られない、自由なモノになるように、と。僕はそれについていきたい」


 そんな彼女を宥めるように、口から勝手に言葉が出た。それは本心だった。本質を受け入れた僕の、本心だった。


「なのに、どうして――」


「私は!」僕の声を、彼女の叫びが遮る。今までに聞いたことのない、怒りの籠った声だった。「私は、このままで良かった。おばあ様がいて、唯一の親友がいてくれれば、何も辛くなんてなかった。なのに、何でこんなことをしたのよ……。何であなたが、こんなことを……」


「だって、僕は……」


「最低よ!」ジーニァが顔を上げて、僕を睨む。涙の滲んだ目は、真っ赤に腫れていて、波立つ荒れた湖面と、暗い夜さえ寄せ付けない、あの炎を彷彿させた。「あなたは結局、ただの獣だったんだ!」


 言い捨てたジーニァは、吐瀉物に汚れた手で、顔を覆い隠した。湿った声が、耳の奥でこだまする。


「そんなことを言うなよ」


 いつだって、僕に笑いかけてくれた。


「そんなことを言うなんて、君らしくない」


 いつだって、僕を求めてくれた。


「そんな風に、否定しないでよ」


 いつだって、僕を認めてくれた。


「僕が、正しいじゃないか」


「うるさい! あなたなんか、大嫌い!」


 ああ、やっぱり。


 ジーニァはもう、あの老婆たちに刷り込まれていたんだ。飴と鞭という言葉があるように、自分の手籠めにして、使い捨ててやろうと、思われていたんだ。ジーニァは既に、僕の知っている存在ではない。


 哀れだ。


 身体だけではなく、心まで支配されていたのだから。


「君を救うことが、僕の正義だ」


 喉の奥へと向かって、熱いモノが駆けていった。


 彼女を押し倒して上に跨る。じたばたと、幼い身体が抵抗を試みていたけれど、痛くもかゆくもなかった。顔は見ない。声も聞こえないよう、意識の外側へとやる。それでも何故か、助けて、という叫びだけは、聞こえてきた。僕はそれだけに答える。服を食い千切り、肌を露にさせた。あの小屋に蔓延っていた、嫌な汚れなんてなくて、綺麗な白い肌だ。そう言えば、初めて会った時、薄汚れていたのは、水浴びもせず、ここへ通っていたからかもしれない。黒ずんだ部屋の汚れと、あの頃の彼女が、重なった。


 早く救わなければ。


 腹に牙を突き立てる。肉は温かくて、柔らかい。いつか、母と一緒にいたことを思い出す。ジーニァの中には、優しさが詰まっている。それでも駄目なんだ。彼女のために、僕は彼女を殺さなければならない。もう決めたことだから、後戻りはできない。


 腸を引き摺り出す。叫び声は止む。風が吹いているのに、木々の騒めきは聞こえてこない。代わりに、僕が彼女の胴体の内側から、臓物を嚙み潰し、骨を砕く、今まで最も忌み嫌ってきた音だけが、音として存在していた。


 どのくらい、そうしていただろう。やっと中身が空っぽになった、ジーニァを見下ろす。辺りには、どれがどれなのか、判然としないくらい、内臓だったモノたちが混じり、棄てられていた。


 彼女の顔は、虚ろな表情を浮かべ、塞がれた空へ向けられていた。綺麗だ。僕は正直に、そう思った。


 これで、良かったのだ。


 ジーニァはこれで、救われた。


 自由になれたんだ。


 何もかもから解放され、どこへでも行けるようになった。


 喉を駆けたあの熱さは、次第に冷めていく。


 それが怒りだと気付いたのは、熱を失う瞬間だった。


 そして、失われたモノは形を変えて、僕に問いかける。


『お前は、それで良かったのか?』


 ああ、良いのさ。


 だって正しいことと信じるモノの中に、間違いがあるのなら、憤るのは普通だろう?


 正すための力がないのなら、どんな手段を使っても、手に入れれば良い。

 ジーニァとは、もう二度と会えないかもしれないけれど、

 きっと、喜んでくれていると思う。


 そう思うのに、


 心がこんなにも空虚に思えてしまうのは、何故だろう?


 分からない。


 正しいことのために、みんな火を点けるのではないのか?


 過ちだと気付かせるために、大切な存在に手をかけるのではないのか?


 熱い感覚が、また喉を駆ける。


 収まらない。


 怒りが、収まらない。


 けれど、今度はこいつを、どこへ遣れば良い?


 この力で、どうにでもなるはずなのに、どこへもぶつけられない。


 僕は遠くへ向かって吠えた。


 空は見えない。


 太陽の光も、


 誰かの悲しみも、


 僕にかけられた呪いでさえも、


 ジーニァの目に、僕はなかった。


 だから、何度も吠える。


 遠く、遠く。


 この怒りが、この世の全てに届くように、と願いを込めながら。

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憤怒と呪い 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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