戦国大名の本拠地は領国の中心にあるか?
1年近く前、ネットで首都が国土の真ん中にないのはおかしいという意見が話題になったらしい。便乗した記事がやっと完成したので、戦国武将の場合を考えてみたい。
本拠地が領国の中心にある経緯は次の二通りが考えられる。
1.本拠地を中心にして放射状に勢力を拡大してきた場合
周辺勢力はすべて敵か、一時的に同盟しても最終的には対立して征服するパターンである。長宗我部氏の土佐制覇がいい例かもしれない。
2.本拠地を何らかの理由で領国の中心に移動させる場合
移動させる理由としては有力な敵国との国境から距離を取り縦深を確保する場合、領内への通信・移動速度を一定にして移転前に遠隔地だった領地への支配を強化する場合などが考えられる。
戦国時代ではないが天智天皇の大津京遷都は白村江の戦い敗北を受けて唐・新羅からの日本侵攻に備えるためと言われる。
比較的知識のある東海近隣の勢力を中心に、実例を見ていきたい。詳しくない勢力は参考までに本拠地名を記録しておく。
・織田弾正忠家(守護代の重臣)
清須→小牧山→岐阜→安土→(大坂:計画)
首都は国土の中心理論の反例。信長が新しく築いた本拠地はひたすら前線に近づいていく傾向がある。ただし安土城時代になってからは四方の敵を同時に相手したため領土の中心傾向をもつようにもなった。
前線近くの本拠地はもちろん攻め込まれやすいデメリットがあるが、逆に攻め込む場合には動員が早くでき、補給線も短くできる。また、新しい領地の中に本拠地をおくのなら――反乱で孤立するリスクもあるが――新領地の支配を固めやすい。
なお、家臣を引っ越しさせて支配を強化するメリットについては領地の中心に遷都することでも出せる。
・松平-徳川家(国人)
岩津→安祥→岡崎→浜松→駿府→江戸(家康の時代は岡崎以降から。江戸は豊臣時代)
西側は同盟している織田が抑えているので家康は東へ東へ進んでいった。もちろん本拠地を三河に置き続ける選択肢もあったはずで東に移していったのには家康なりの計算があったと考えられる。
遠江に移動するときは、最初天竜川の東を本拠にしようとしたが、織田家に武田に攻められた時の心配をされて、天竜川の西の浜松にした経緯があり、防御をまったく考えていないわけでもない。
そもそも松平氏は親忠時代や広忠時代に数で優勢な敵相手に野戦で勝利した経験(井野田合戦)があり、籠城に積極的ではなかったかもしれない。三方ヶ原の合戦も武田軍が無策で浜松城にまっすぐ向かってきていれば出撃して正面から迎え撃ち、負けるにしても遠征続行が不可能になるダメージを与えたはずと想像してみたりする。
追記:家忠日記の解説書を読んで気付いたが、家康が本拠地を駿府に移動した時は北条氏とは同盟関係で、豊臣秀吉とは緊張が残っていた。移動の方向性は同じでも本拠地を敵から離す傾向をもった移動だったと言えるかもしれない。
・今川家(守護大名)
駿府(駿河府中)
徳川家と対照的なのが今川家。東から西へ勢力を伸長させたが本拠地は動かさないままだった。おかげで滅亡までの時間を稼げたとも言えるし、三河や遠江の支配が弱かったとも言える。
西への遠征を行う場合に大軍を集めながら行進するので、支配された土地にいる領主を大軍で脅して動員の圧力をかけやすいメリットはあるかもしれない。しかし、そんな圧力を必要とする時点で支配が弱いとも言える。
・甲斐武田氏(守護大名)
(石和)→躑躅ヶ崎館→新府城
信玄の時代、信濃方向に大きく勢力の伸ばしたにも関わらず本拠地は躑躅ヶ崎館から動かず。勝頼時代の新府城移転で領地の中心方向かつ前線方向に移動しようとした形跡はある。
ただし、駿河や上野方向にも侵攻しているので甲斐が領国の端になったとも言い切れない。
・北条氏(足利将軍被官・今川家家臣)
(興国寺城:今川家臣として)→韮山城→小田原城
伊豆を奪った段階では韮山城。小田原城を取ってからは拠点をそこに移して、東や北の関東に進出していく。しかし、本拠地は滅亡まで小田原城から動かなかった。西以外からみれば小田原城は北条氏領地の深部だが、それでも上杉氏や武田氏に攻撃されている。関東公方の本来の本拠地である鎌倉に小田原が近いことも意味があるのかもしれない。
ちなみに通説では伊勢宗瑞は興国寺城を本拠にしたとされるが、新しい説では駿府の近くが伊勢宗瑞の本拠で興国寺城を使ったとしても伊豆への出撃拠点的なものであったろうとされていた。
・六角氏(守護大名)
観音寺城(何度も甲賀に避難)
南近江の中心に近い観音寺城が本拠地。足利将軍に攻められるなどすると甲賀に避難して情勢の変化を待った。だからといって最初から甲賀を本拠地にはしていない。
・土岐氏(守護大名)
鶴ヶ城(東濃)→長森城(西濃)→川手城(西濃)
土岐頼遠が本拠地を大きく東から西へ移動。その移動先の長森城が手狭になったため、土岐頼康が川手城に移動。交通の便がよく京都に近い場所に移ったと言えるか。細かく見ると争乱発生時には川手城から一時的に本拠を移したこともある模様(中世武士選書50美濃土岐氏)。
・毛利氏(国人)
吉田郡山城→広島城(豊臣時代)
吉田郡山城に固定。戦国大名の本拠地にふさわしい拡張工事が行われる。
・尼子氏(守護代)
月山富田城
吉田郡山城に同じ。
・越後長尾氏(守護代)
春日山城
・朝倉家(守護代)
(黒丸館)→一乗谷
朝倉始末記には黒丸館の名前があるが、南北朝時代から一乗谷が拠点だったとも。
・長宗我部氏(国人)
岡豊城→大高坂山城(豊臣時代)→岡豊城→浦戸城
秀吉による四国攻めを受けた際は岡豊城より北で四国の中心に近い白地城(阿波西端)を本陣とした。
・島津氏(守護大名)
鹿児島→鹿児島(義久)・肥後八代(忠平(後の義弘))
基本的には鹿児島だが、九州制圧の過程で義弘が拠点を北に前進させる(図説 中世島津氏 九州を席巻した名族のクロニクル)。
・本願寺(宗教勢力)
山城→大坂
法華一揆により山城本願寺が陥落して本拠地を大坂に移す。
・鎌倉公方
鎌倉→古河→古河と小弓に分裂
京都の室町幕府から東国を治めることを任された関東公方。しかし、関東管領の上杉氏と争いを始めてからは、上杉氏勢力圏の真っ只中にある鎌倉を本拠地にすることが出来ず(出陣して戻ることができなかった)、周りに味方の多い古河に本拠地を移動した。単独の武力が不足している――数が少なくても奉公衆は精鋭だったそうだが――関東公方の場合は最前線を通り越した敵中孤立は流石に無理だったようだ。ただし、古河そのものは公方と管領の勢力の境目近くにあり、前線配置である。
本拠地の奥地への移転で一番典型的な例は、中国の戦国時代における楚国の首都が秦の猛攻を避けるために東に次々と移っていった(郢→陳→寿春)ことかもしれない(韓や魏も同様に東に首都を移動させている)。しかし、これらの国はすべて秦に滅ぼされており、戦略的に首都の後退は失敗だったようにも思われる(なお、秦の首都は永城→櫟陽→咸陽で、数十km単位で東に行って西に戻っているが楚の大移動に比べると動いていないのに近い)。
首都を領国の奥深くに移動させれば敵軍の到達を遅らせることは出来るが、首都よりも敵国側にある領土は荒らされやすくなる。最終的に敵が倒せなければ――せめて長期的な和睦ができなければ――国力の衰退から最後は滅亡に繋がる。
それなら首都を国境に近づけて侵攻の早い段階で野戦を挑んで立ち向かったほうが国が生き残る可能性は上がるのではないか。そして、自分がもっぱら攻め込む立場なら首都が国境に近いほうが兵站線も短くできて好都合である。
ただし、興味深いのは織田家が徳川家に援護しにくいから天竜川を超えるなと言った事例だ。援軍が期待できるときに敵国と首都の間に川を挟むことは単純に物理的な距離を取ることよりも効果があったのかもしれない。
領国内の河川交通をしっかり支配していれば、敵が攻め込んだときには舟を使わせないようにして川を障壁にできる。自分たちが攻める場合には舟が自由に使えるなら、川は自軍を選択的に通す半透膜のようなものとして機能する。
古河公方の拠点も利根川(東遷前でも)・渡良瀬川が障壁となり、浜松城に似たような条件をそなえていたように見える。
創作で群雄割拠な世界の国の首都を位置決めする時は、このあたりを考慮するといいのではないか。
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