全知の端末
りゅうやん
全知の端末
誰かに呼ばれた気がして、目が覚めた。
起こしてくれたのかと思ったが、妻はまだ隣で眠っている。
カーテンを開けると、眩しいほどの良い天気だ。
わざわざ妻を起こさなくても、この眩しさでいずれ目を覚ますだろう。
ベッドから降りて朝の身支度を済ませ、私は居間へ向かった。
朝食は伝統的なもの、つまりご飯と味噌汁と卵焼きに決めた。
そう思うだけで自動調理機による作業が始まり、15分後にテーブルからご飯と味噌汁と卵焼きが現れた。
いつも通りの良い味だ。母の朝食の味を調理機に伝えてあるおかげだ。
私の両耳の後ろに装着された楕円形の小さな装置、ブレインマシンインターフェース(BMI)を通じて、家の中の全ての機械はただ願うだけで動作する。
現在、広く使用されているBMIは、脳への情報の入出力に脳内プローブと呼ばれるインプラントを使用している。
脳内プローブには、個々人の皮膚から採取された細胞に由来する人工細胞(プローブ細胞)が使用されている。
皮膚細胞からプローブ細胞への変換処理の過程で、プローブ細胞には人工蛋白質を発現する機能が付与されている。
人工蛋白質とは、プローブ細胞の興奮または抑制に応じてそれぞれ異なる波長で発光する蛋白質と、
外部からの光刺激に応答してプローブ細胞を興奮または抑制させる蛋白質である。
プローブ細胞は樹脂製の超細径光ファイバーの先端に取り付けられた後、脳の所定の部位に挿入される。
挿入されたプローブ細胞は脳の神経細胞と結合し、情報の入出力機として機能する。
頭の中で料理を注文すると、脳内の無数のプローブ細胞が興奮あるいは抑制され、発光する。
その発光パターンは無線伝送され、通信ネットワーク上の外部コンピュータがシグナル解析を行う。
シグナル解析の結果、私が注文した料理の内容や味が判明する。
その情報は通信ネットワーク経由で調理機に送られ、私は今、食事にありついているというわけだ。
朝食を食べ終わると、視界の隅がオレンジ色に瞬いた。
そこには、おはようと書かれている。妻がやっと起きたようだ。
BMIが情報を受信した場合は、その情報に応じた光刺激パターンが光源から光ファイバーを経由して照射され、プローブ細胞が興奮または抑制される。
その興奮または抑制の刺激はプローブ細胞と結合した周辺の神経細胞に伝達され、その結果、私は妻の朝の挨拶を見ることが出来ている。
このように、私と妻の意思伝達は発話ではなく、主にBMIを通じて行われる。
妻がどこで何をしていても、ただ妻に伝えたいことを心の中で思うだけで、メッセージが送信される。
もちろん、送信出来る情報は文字列だけではない。
頭の中で想起できるものなら何でも送信可能だが、私と妻は文字列を好んで用いている。
BMIを介した私と妻の「会話」は、私の親世代にはずいぶん奇妙なものに見えるらしい。
いつの世にもある世代間のギャップというやつだろう。
もっとも、BMIが装着される前の小学校低学年までは、私も主に発話で意思伝達をしていた。
我々の5,6年後の世代は、言語はわかるが発話できない者が多い。
彼らには幼少期にBMIの取り付けが行われており、BMI以外の意思伝達の方法を学ぶ必要が無かったためである。
実際、最近の子供のほとんどが発話出来ないそうだ。
おそらく我々の少し下の世代が、言語を音声として発することの出来る最後の世代になるのだろう。
妻はまだベッドでまどろみたいそうなので、私は着替えて出勤することにした。
町中を走る自動運転車がどこへでも送り届けてくれるが、私は徒歩で通勤している。
車を使わないのは、友人の中でも私ぐらいのものだ。
本当は会話でも妻の声を聞きたいし、料理も妻と一緒に作ってみたい。
私には懐古趣味の気があるようだ。
最近の若者は自らは何もせず、身の回りの世話を家中に取り付けられたロボットアームに任せているそうだ。
この頃は妻も若者世代に迎合し、食事さえベッドに寝たままロボットアームで行っている。
音声での会話や料理など望むべくもない。
そのようなことを考えながら歩いていると、会社に着いた。
会社は小さなビルの一室であり、中には椅子がいくつか並べられている。他には何も無い。
ここが本社である。他のオフィスは存在しない。理由は簡単である。
仕事はその全てがBMIを通じて行われるため、どこにいても世界中の誰とでも通信できるからだ。
したがって、本来なら出勤する必要さえない。本社がこのように簡素な設備しか持たないのはこのためである。
会社の設立には法律上、本社の住所が必要であるため、このような形だけの本社をどこの会社も持っているというわけだ。
会社にとっては全くもって不都合だろうが、私のような家で仕事が出来ないタイプの人間にとって、この法律は実に都合が良い。
どうせ私以外に出勤してくる者はいないので、私は勝手に指定席に決めている椅子にいつも通りに着席し、頭の中で仕事のファイルを開いた。
私の仕事は人に物事を教えることである。しかし、私は教師ではない。
教師という職業は、BMIの普及と共に絶滅したと言って良いだろう。
以前は有能な教師による講義がBMIを通じて配信されていたが、今ではBMIの利点を最大限に活かした学習教材を通じて、教育が行われているためである。
BMIを使えば、どこにいても学習教材を閲覧出来るので、児童たちが学校に集まる必要も無くなった。したがって、今は学校も存在しない。
この学習教材を作成することが私の仕事だ。
学習教材の作成にあたって留意すべきは、知識量の増大ではなく、内容の理解を目的とすることである。
単なる情報はBMIを通じて、簡単に得られるからだ。
BMIは人類が築き上げた全ての知的資産に通じる端末であり、データベースに蓄えられた知的資産へのアクセスは非常にスムーズである。
頭の中で知りたいことを、ただ願うだけで良い。
このように人々が簡単に情報を得られる今、最も重要なことは呼び出した情報の内容を理解しているか否かである。
そのための教材を私は作っている。私はこの仕事に誇りを持っており、優れた学習教材の作成に関して十分な経験と実績があると自負している。
私の専門は、高等数学に関する学習教材である。
先ほど開いた学習教材のファイル作成に、私はすでに1年を費やしている。
今日はファイルの最終確認を行って、完成版として提出する記念すべき日なのだ。
午前中を使って私はファイルの内容を確認し、学習教材の共用データベースに登録した。
これを以って、提出は終了である。
さてランチでも食べようかと思った時、私は初めて見る名の社員が学習教材を登録していることに気がついた。
高等数学の学習教材は最も難しいもののひとつであるため、私の勤務する会社は大企業と言われる部類に属するが、作成出来るのはわずか42名である。
共同で仕事をすることもあるので、私以外の41名とは知り合いである。だが、このセキという人物の名に覚えはなかった。
社員情報を見ると、セキは一週間前に入社したばかりの新入社員であり、16歳の少年とのことだった。
法的には16歳以上であれば誰でも働けるが、各企業が採用に際して実施する入社試験に合格しないと、企業で働くことは出来ない。
学校が無くなって学歴という資格が消滅した現在、企業は優秀な人材を選別するため、入社試験に力を注いでいる。
特に、高等数学の学習教材担当として入社する際の試験は非常に難しい。
私が入社した際の試験では、約一ヶ月に渡って様々な能力がテストされた。受験には大変な苦労をしたものだ。
数学的能力だけなら、若年で大人を凌駕するものは珍しくない。
しかし、学習教材の作成には数学的能力だけでなく、文章力や学習者の疑問を掬い取って教材に反映する力が求められる。
当然ながら、入社試験ではそのあたりの内容も出題されているはずであり、セキ少年はそれに合格したのだ。
私は極めて優秀だと思われるこの少年が、どのような学習教材を作ったのか、興味を抱いた。
わずか一週間で16歳の少年がどんなものを作ったのか、見てやろうじゃないか。
セキ少年のファイルを開くと、自動的に学習モードが始まった。
最初の画面でその学習教材がどのような内容を取り扱うのか、一覧で表示される。
私は表示された内容を見て、思わず息を呑んだ。
こんなはずはない。こんなことがあるはずがない。
これは私が一年をかけて作成した学習教材を、遥かに超える量ではないか!
中身はどうなのだろうと私は一覧のうちのひとつを選択し、学習を始めた。
学習内容は微分法の応用に関するものであり、私も以前に同じ内容の学習教材を作成したことがあった。
学習を進めるに従って、私は打ちのめされた。
平易でありながら誤解の無いような言葉遣いは、学習者に対する思いやりに溢れ、図やグラフの配置の巧みさは、絵画や建築の名作を彷彿とさせる。
様々な技法を駆使した説明によって、高度で難解な内容は見事に解きほぐされている。学習者はきっと内容の正しい理解にたどり着くだろう。
この学習教材に比べれば、私が以前に作成したものなど子供の落書きも同然である。
私は全ての仕事を放り出し、他の項目も見てみたが、その全てが従来のものを超越していた。
今や私は、至高の芸術作品を目にしたような感動すら覚えていた。
信じられなかった。私も含めて同僚の誰も、このような教材を作成することは出来ないだろう。
私が入社してから今までに、作り上げてきた学習教材は何だったのだろうか。
積み上げてきた実績や仕事に対する誇りが、音を立てて崩れていくようだった。
気がつくと、外はすでに暗くなっていた。
どうやら、私はかなりの時間、呆然としていたようだ。
普段なら帰宅している時間だが、とてもまっすぐ家に帰る気分にはなれない。
私は会社を出ると、夜の街をふらふらと歩いた。
行き先があるわけではない。ただ、何も考えず、体を動かしたかった。
どれぐらい歩いたのだろうか。時間の感覚も曖昧だった。
少し疲れを感じたので立ち止まり、ふと夜空を見上げると、そこには月が輝いていた。
そうか、今日は満月だったのか。
冴え冴えとした満月は、まるで他の全てを吸い取ったかのように、深閑と雲ひとつ無い夜空を照らしていた。
私はそのとき全てを忘れて、ただひたすらに月を見つめていた。
月の優しく純粋な光が、心の淀みを洗い清めてくれる。そんな感覚を味わっている矢先のことだった。
「こんばんは」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。パニックに陥りかけた自分を何とか立て直し、考えた。
もしかして、私は話しかけられたのか?
目の前には見知らぬ男が、微笑みながら立っている。
「もう夜ですよ。どちらへ行かれるのですか?」
間違いなかった。私は話しかけられたのだ。しかも音声で!
見知らぬ人から音声で話しかけられることなど、何年ぶりだろうか。
咄嗟のことで私はすぐに返事が出来ず、むぐむぐと口を動かした末にやっとのことで言葉を搾り出した。
「こ、こんばんは」
久しぶりに聞く自分の声は、ずいぶんかすれていた。
見知らぬ男は、はっはっはと大きな声で笑うと
「おしゃべりをされるのは久しぶりのようですね」
と張りのある声で愉快そうに言った。
「ええ、ん、ずいぶんと久しぶりです。ゴホン、話しかけられることもそうです」
声がスムーズに出てこないことに苛立ちつつも、私は何とかそう言った。
「最近はBMIばかりで、会話に音声を使いませんからね。実はあなたが声で会話出来ない方だったらどうしようかと、
少し不安に思いながら話しかけたのですよ。ところで、どちらへ行かれるのですか?」
「特に行き先はありませんが・・なぜ、そのようなことをお聞きになるのですか?」
「いえ、車にも乗らず夜に歩いている人はとても珍しいので、どこへ行かれるのだろうと不思議に思って、
思わず声をかけてしまったのです。お気に障ったのならすみません」
男はにこやかにそう話した。
「気に障ったりはしておりませんよ。実は、今日仕事で嫌なことがありましてね。まっすぐ家に帰る気にはなれなかったので、行き先も決めずに歩いていたのです。
月がとても綺麗ですしね」
男は大きく目を見開き、親しみを込めた目で私を見つめてきた。
「あなたは風流を解する方のようだ。もしご予定がないのであれば、この後、一緒に酒などいかがですか?嫌な事があった時は酒が一番ですよ」
男の誘いに私は驚いた。法律で禁止されているわけではないが、酒にはどこかアウトローのイメージがある。
反社会的とは言わないまでも、平日に酒を飲むということが、褒められた行為でないことは確かだ。
しかし、男にはするすると私の心に入ってくるような、そんな親しみやすい雰囲気があった。
年の頃は私よりやや年長だろうか。どう見ても、危険な人物ではなさそうだ。
「酒ですか。いいですね。ご一緒させてください。」
どうせこのまま帰るつもりは無いのだ。
私は半ばやけくそ染みた気持ちで、男の誘いを受けることにした。
「ここですよ」
男に導かれるままにたどり着いた場所は、路地裏の小さなビルであった。
「ここの二階が店なのです」
路地に面した階段には何も表示が無い。見上げた二階も薄暗く、店があるようには思えなかった。
「本当にこの先に店があるのですか?」
思わず私が尋ねると、男は微笑んだ。
「秘密の店というわけではないのですが、店主は人と人のふれあいを何より大切にしています。
私があなたをお連れしたように、この店のことを知っている人が連れてこない限り、出来るだけ気づかれないようにひっそりと営業しているので、
このような店構えなのですよ。怪しい店ではありません。入ればわかります」
男はそう言うと階段を上り始めた。まだ安心したわけではなかったが、せっかくここまで来たのだからと私もその後に続いた。
男が二階の重そうな木製のドアを開けると、人々の笑いさざめく声が私を包んだ。
入った店は、大きな木製のカウンターとテーブル席が数個あるバーであった。
店の設えや調度品は、一見して高級品であることがわかる。
微かに聞こえるのはジャズだろうか。
人々の話し声を打ち消すことなく静かに流される音楽が、やや落とし気味の照明と相まって、しっとりとした雰囲気を醸し出していた。
それにしても、これほど多くの人が音声で会話しているところを見るのは何年ぶりだろうか。
「もう、あかんで、ホンマにー」
店に入ってすぐ右手のテーブル席で、小太りの中年女性が笑いながら話をしている。
なんと、今のは方言ではないか!実際に聞くのは初めてだ。
それにしても、先ほどの言葉はBMIによると「禁止する、本当に」という強い意味を表すはずだ。
なぜ、あれほど楽しそうなのだろうか。
「あの女性はこの店の常連の方でしてね。関西弁をお使いになるので、とても人気者なのですよ」
男はにこにこしながら、私が調べる前に先ほどの方言が関西弁であることを教えてくれた。
「なるほど、あれが関西弁ですか。初めて聞きました」
「私も古語の学習教材を使うまでは、ちんぷんかんぷんでしたよ。言葉というのは難しいものですね」
学習教材という言葉を聞いて、私は少し気が重くなった。
私の表情が曇ったのだろうか。男はやや怪訝な顔をしたが、さっさとカウンター席に座ると、私にも座るよう促した。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、バーテンダーが男に挨拶をした。
「やあ、今日は新しい友人を連れてきたよ」
男は気さくにバーテンダーに声をかけた。どうやら男も先ほどの女性と同じく、かなりの常連客のようだ。
「ドライマティーニを」
「畏まりました」
男の注文を受けた後、バーテンダーは私に目を移した。さぁ、困った。バーで飲む酒の種類など全くわからない。
BMIで探そうとして、この店が人のふれあいを大切にしていることを思い出し、やめた。
「実は普段酒を飲まないもので、どのようなものを注文してよいのかわかりません。
このお店に連れて来ていただいたのは、私が満月に見とれていたことが縁でした。
ですので、何か月に因んだお酒があれば、それを注文したいのですが」
私の問いに、バーテンダーは微笑みながら答えた。
「では、ブルームーンはいかがでしょうか。ジンというやや苦味のあるお酒をベースに、レモンとリキュールで作るカクテルです。
アルコールの度数は少し高めですが、飲みやすいですよ」
そのカクテルの名は、今日の気分にぴったりなように思えた。
「では、ブルームーンをお願いします」
「今日は私が奢りますよ。奢らせてくださいな」
私が注文を終えると、男はとても嬉しそうにそう言った。どうやら私は気に入られたようだ。
バーテンダーは流れるような所作でカクテルを作り、我々の下へ運んできた。
ブルームーンはすみれ色に輝く美しい酒だった。
そして、我々はこの出会いに乾杯をした。
酒を飲みながらの男との会話は、ずいぶんと盛り上がった。
わざわざ見知らぬ人間に話しかけるだけあって、男は話上手であり、聞き上手でもあった。
久しぶりの発話だったが、自分で驚くほどに私は饒舌だった。
どこにいるのかを問う妻からのメッセージを無視して、私は男と話し込んだ。
そして、他愛も無いことで大笑いした末のことである。
「ところで、仕事で嫌な事があったとおっしゃっていましたが、何があったのですか」と男が私に尋ねた。
私は少しためらったが、酒の勢いを借りて、全てを話してしまいたい衝動に駆られた。
そこで、今日の昼間にあったことを、私は話した。
話がセキ少年と、彼の学習教材の信じ難い完成度に至った時、
常ににこやかだった男の顔が暗く沈んでいることに、私は気がついた。
「どうされたのですか?今の話に気になる点でもありましたか?」
私の質問が聞こえなかったかのように、男は黙って酒を一口飲んだ。
そして、私に尋ねた。
「あなたはオープンの人々を知っていますか」と。
BMIを使って対人通信を行うとき、通常はまず相手を特定する。
そして、送信側が送る情報を選択すると、送信側の情報の出口である通信ポートが開かれる。
開かれたポートから、通信ネットワークを経由して外部コンピュータに情報が送られ、そこで送られた情報は検査される。
検査で害の無いことが確認されると情報は受信側に送られ、受信側の通信ポートが開き、情報が受け取られる。
通常は、送信側も受信側も、通信が終わるとポートはすぐに閉じられる。
しかし、オープンの人々は意図的に、送信および受信ポートを常時開放しているのだ。しかも、通信先の相手を特定せずにである。
また、送るべき情報の選択も、彼らは行わない。
つまり、彼らは自分の思考の全てを常に不特定多数に送信し、さらに他の人々から送られた情報の全てを受信しているのである。
「そういう方々がいることは知っていますよ。他人の思考が常に頭の中に入ってくるような状態で、どうやって日常生活を送っているのか、
不思議で仕方がありません。私の周りにはオープンの方はいないので、いれば聞いてみたいところです」
私が答えると、男は妙にきっぱりと言った。
「私の息子はオープンです」
想像もしていなかった言葉に私が返答に窮していると、男は静かに語り始めた。
「BMIの通信ポートを開放するだけで、人はすぐにオープンになれるわけではありません。
あなたがおっしゃるように、慣れない間は日常生活が困難になりますからね。
私の息子は6歳の頃に、好奇心からポートの開放を行ってみたことがきっかけだったそうですが
最初は膨大な情報に圧倒されて、常時開放は出来なかったようです。
しかし、息子は少しずつ、少しずつオープンの世界に埋没していきました。
そして、それと共に息子らしさは、徐々に消えていきました。
今ではもう、息子の姿形をしてはおりますが、中身は私の息子ではありません。
彼は共有化された巨大な意識の一部となったのです」
男は一口、酒を飲んだ。
「オープンになるということは、共有化された意識の一部になるだけではありません。
彼らはオープンとなることで能力を補完しあっています。
多くの人々の頭脳が互いに弱点を補い、強みを伸ばしたなら、統合された知性はどれほどの力を持つでしょうか。
それはまさに、究極の知性と言えるのではないでしょうか」
男の話に、私は驚きを禁じ得なかった。
BMIを通じて我々の思考を伝えているものは、暗い頭蓋の中で瞬く光である。
他の人々の思考もまた、光を通じて受け取られる。
今やその光は、思考の伝達だけでなく、人々の意識の共有を可能とするに至ったのだ。
私はびかりびかりと光を放つ脳髄が数千万、数億と縒り合わさり、まばゆい光を放つ巨大なひとつの脳髄に成る様を思い浮かべた。
そして、なぜ男がオープンの話をしたのか、私はやっと気がついた。
もしかすると、いや、きっとそうなのだ。
セキ少年は。そして、あの学習教材は。
おそらく、統合された無数の脳髄が生み出した人類の知性の結晶なのだ。
究極の知性の産物だったのだ。
「お気づきになったようですね」
男の言葉に私は頷いた。
「あなたはきっと、どうすればオープンになれるかを考えているのでしょう」
「その通りです。しかし、息子さんは幼少期からオープンの状態に慣れていらっしゃった。
今から私がなれるのだろうかと、不安を感じています」
「大人になってからでも、問題はないようです。
実は、私と妻はオープンになることを、息子から強く薦められております」
私は安心したが、続く男の言葉に驚いた。
「しかし、私は断り続けているのです」
「なぜです。思考を共有することに対する抵抗からですか」
男は私の顔をじっと見つめ、また酒を一口飲んだ。
「あなたはなぜ息子がオープンになることを薦めてくると思われますか?」
「それはもちろん、あなたと奥さんを思う心からでしょう」
私の言葉を聞いた男は笑った。
それは、これまで男が浮かべていたものとは全く異なる、暗く淀んだ笑みだった。
「そうだったなら、どれほど良かったか。私たちもきっと、すぐにオープンになることを選んでいたでしょう。
しかし、そのような孝行心からではないのです。息子はオープンですからね。
彼の、いや彼らの考えていることは、その気になればすぐにわかってしまう」
「どういうことですか?」
「彼らの生活は実に単調です。ずっと家の中にいて、身の回りの世話はロボットアームがしてくれる。
オープンに限らず、若者は皆そうですがね。だから、若年層を中心に構成されているオープン達には、
屋外で活動できるものがあまりいないようです。求めているのですよ、彼らは。
車を使わずに歩いたり、音声で会話をしたり、酒を飲んだりするような、そんな貴重な経験を共有してくれる人材をね」
オープンの一員になりたいと考えていた心に、冷や水を浴びせられたような気持ちだった。
それでは、オープンを構成するひとりひとりの人間は、経験を提供する只の端末に過ぎないではないか。
それがオープンに成ることなのか、究極の知性の代償なのか。
「私は究極の知性などいらない。ひとりの人間として、私自身というこの自我を保って生きていきます。
ただ彼らに情報を提供するだけの存在になど、なってたまるものですか」
そう言うと、男はゴブリと酒を飲んだ。
「妻はオープンになる道を選びました。息子への愛情故のことです。
もう、息子という人格は無くなってしまったのに。オープンになっても、息子はもういないのに。
何度も説得しましたが、妻の気持ちは変わりませんでした。今はまだ妻の人格が残っていますが、やがて消えて無くなってしまうでしょう」
静かに語り続ける男は、出会った頃より一回り小さくなったように見えた。
あの学習教材を見た今、究極の知性に対する憧れは依然として私の胸の内にある。
だが、その代償を思うと、身が竦む。
私も自我を持ったまま、生きたい。今の私自身を失いたくない。
ましてや、情報提供のための端末に成り果てるなど真っ平だ。
しかし、それでも多くの人が、オープンになることを選択した。
究極の知性への憧れが、自我を失う恐怖を超えるからだろうか。いや、おそらくそうではあるまい。
本来、人は自らの思いを、誰かと共有したいという本能を持っているのではないか。
そのために人は自分の考えを発信し、誰かに伝える手段を常に作り続けてきた。
かつては電話やインターネットが担っていた役割を、今はBMIが引き受けている。
そして今や、BMIは人類の意識の共有を達成しつつある。
もしかするとBMIは、人がまだ人でいられた時代の、最後の創造物になるのかもしれない。
「あなたはどう思われますか?私の話を聞いても、まだオープンになりたいと思いますか?」
男の縋る様な問いには答えず、私は何杯目かのブルームーンを飲み干した。
ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
全知の端末 りゅうやん @Ryu-yan
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