第21話 それはとても静かに【Strobe 1】


恋に落ちる時は無音だった。



 大学の帰り道、いつもの本屋に寄って、気になった小説を買っていく。小さなお店なのにSFの新刊も扱っているのが大変すばらしい。発売日でなくても週1で通っている。その話を研究室の同期にしたら、


「あそこの店員かわいいよなー。どっちが狙い?」

「本が狙いだ、馬鹿め」


 本が狙いは嘘ではない。ただ、白い髪のお姉さんのほうだ、と思ったのは言わなかった。バカ話なのだから言ったから何が起きるわけでもないが、何か引っかかったのだ。


「4980円になります」

「5000円でお願いします」

「20円のお釣りです」


 そのお姉さんがお釣りを渡してきたので受け取る。いつものやり取りのはずなのに今は触れた手の感触を意識してしまった。本を受け取ると、足早にお店を出る。冬の夜風がしっかりしろ、と言わんばかりに頬にあたった



 家まで歩きながら、自己分析を進める。別に就活のあれではない。

 まず、バカ話で答えなかったのは、言葉にしたらもっと意識してしまうからではないか。なるほど、それらしい理屈だ。言霊はありそうな話だ。もっと意識してしまう、と言ったか。もっと? つまりすでに意識している? それを今、人体実験していると?

 冷たい風が欲しくて、残りの道は全力疾走した。



 シャワーを浴びても、ベッドの上に転がっても、気持ちは切り替わらない。

 待て待てこれが恋という奴なのか。いきなりすぎるだろ、いくら何でも……。わからないことがあると、本を開く癖がある。恋に対応する本は、と本棚を見ると隅っこに恋愛短編集があった。買ったときは数ページ読んで本をすぐに閉じてしまった。

 何だろう、読んではいけない気がした、から。今回は読まなければならない、と謎の義務感にかられて手に取る。文字を追う目が、ページを手繰る手が、止まらない。

 読み終えたころには物語に情緒をかき回されていた。とどめは恋は落ちるものの一言だった。

 自分にとって恋愛は縁がないもので、するとしても何か段階を踏んでするものだと思っていた。何か予兆があって、それにある程度、気が付ける様な、そういうゆっくりとしたものだと……。

 そんなものは実際になくて、今、自分はまさに恋に落ちている。

 目を強くつむれば、あの笑顔と手のぬくもりと声とかすかな香水の香りが蘇ってくる。


「五感総動員するなぁっ!」


 叫びながら本と眼鏡をサイドテーブルにおいて、布団をかぶる。

 何とか眠れたと思ったら、夢にもでてきた。



 翌日、遅めの朝食を済ませて、駅からバスに揺られて大学に向かう。講義の予習をするのが日課だが、今はずっと、あの人のことばかり考えている。こんな急激な変化ってあるか?

 講義と講義の隙間時間、研究室のソファで転がっていると、


「上の空ですねー」

「そう見えるか」

「ほかにどう見える?」


 奴が振り返ると、各々の席で調べごとやら何やらしていたメンバーとその奥、壁際に座っている教授が口をそろえて、


『恋って奴ですか?』

「何でハモるんだよ!」

「瞳孔が開いている」


 教授、どういう理屈ですか。いや、聞くと全部返ってくるに違いない。問いたくなるのをぐっとこらえる。

 それ以上の追及はなかった。引き際が鮮やかすぎるんだよ、君ら。



 帰り道、どうやったらこの気持ちに整理がつくかを考えていた。自分の気持ちには嘘はつきたくないが、傷つきたくもない。

 溜息をつくと窓ガラスが曇る。指先で拭ってやると、ゆったりとテールランプたちが流れている。

 時計を見ると19時過ぎ。こうなると1時間ずれ込むのも珍しくはない。二進も三進もいかないとはこのことか。諦めて、目を閉じる。眠ってしまおう。



 駅前についたのは20時をちょうど回ったころだ。車内の淀んだ空気を肺から追い出すように冷たい空気を深く吸い、吐き出す。思考がクリアになったところで腹が鳴った。今から帰って何か作るのもしんどい。何か作れるのか、と突っ込んだ君はそこで3分ぐらいプランクだ。

 運よく、近くのファストフード店が空いていた。注文をすると速攻ででてきたバーガーセットを受け取りカウンター席に向かう。慣れないことを考えていたから、カロリーの消費も激しい。胃にものを入れるのが一番落ち着く。言い聞かせるようにバーガーにかぶりつき、ゆっくりと咀嚼して嚥下する。そして、ホットコーヒーをこちらもゆっくりと一口飲む。ゆっくりとした動作は気持ちを落ち着かせるのに効果的だと、何かの本で読んだ通りの効果が得られた。

 ふと、右隣りを見ると、あのお姉さんが、いた。



「あら、奇遇ね。あなたも夕飯?」


 まるで友達に話しかけてくるような調子だ。油が切れかかった機械のように首を縦に振る。少しこちらに身を寄せてきて、


「もう少し話してもいいかしら?」

「よ、喜んで」

「いつも本を買ってくれてありがとう」


 優しく微笑む横顔がまぶしい。食事すらあまりおいしく見えない白色LED照明の店内で、ここだけが別世界のようだ。


「こちらこそ、助かってます。発売日に自分の手で買えるので」

「ふふ、本屋冥利に尽きるわ」

「あの」

「何かしら?」

「また、会えますか。その、本屋以外で」


 目を弧にして笑い、ハンドバッグから端末を取り出して、


「では、連絡先交換、しましょうか」



 ベッドの上で転がりながら、端末で交換した連絡先を見ている。今、自分がどんな顔をしているかは見たくない。ノングレアのフィルムを貼っておいて正解だ。

 意を決して、メッセンジャーアプリを起動、新規会話の作成で宛先に交換してもらった名前を入れる。最初の言葉はどうしようか、と悩んでいると、画面下に入力中の文字が表示されている。


"話せてよかった"

"これも何かの縁だと思う"

"これからもよろしく"


 ありがとうございます、好き、と打ちそうになった自分を殴り、無難な文章を探す。普通のあいさつでいいんだ、普通の挨拶で、と言い聞かせて、指を動かして、送信ボタンを押す。


"こちらこそ、ありがとうございました"

"今後ともよろしくお願いします"


 硬いメッセージになってしまった、と眉間に皺を寄せていると、ハートマークのスタンプが返ってきた。そういうところだぞ、くそぅっ!



 ぎこちないメッセージを何往復かしている間に博物館に行くことになった、なってしまった。当日までの記憶が一部飛んでいるからテンションあがりすぎだ、自分。研究室のメンバーからは平常心でいけ、と言われた。受験か何かか、まったく。

 髭は入念に剃り、髪をヘアワックスで整え、手持ちで一番よさそうな服に身を包んで、待ち合わせ場所である駅前の広場に向かう。目印は背の高い時計だ。時刻は予定の15分前、余裕ありすぎるぐらいだ、と時計の下を見ると、彼女が立っていた。いつものタートルネックとタイトなジーンズにトレンチコートを羽織った姿で。


「お待たせしました」

「今さっき来たところよ」

「本当ですか?」

「ええ」


 博物館に向かって並んで歩きだす。いつもの歩幅で歩いて大丈夫だと気が付いて、彼女のスタイルの良さに驚く。


「ひとつ聞いてもいいかしら?」

「居酒屋でバイトしていたの?」

「してないですよ」

「ハンバーガー食べたときもさっきも、最初の言葉が居酒屋のようだったから」


 首を横に振って、そんなことないですよ、と答える。



 博物館巡りは展示の前で互いに疑問や知っていることを共有して盛り上がった。昼食は館内のフードコートで軽く済ませ、展示エリアに舞い戻ると、フロアの隅から隅まで見て回った。さすがに後半は駆け足になってしまったが、とにかく楽しかった。そして、嬉しかった。


「また、来ましょう」

「ええ、ほかの場所も行ってみたいわ」


 夕暮れの公園を二人で歩く。好きだと告げるにはまだはやい。もっと、機会を増やすべきだ、と考えているのにここで告げるべきだと心が叫ぶ。立ち止まると、数歩進んでから彼女がゆっくりと振り返る。


「――好きです」

「ありがとう――」


 次の言葉は言わせない、聞きたくない。


「一緒にいて、満たされたことのない部分が、満たされたんです」


 ああ、もっと、シンプルに言えないのか。しかし、口からは言葉が溢れてくる。彼女の表情は夕日の逆光でよく見えない。


「もっと一緒にいたい、もっといろんなことをしたい、あなたのことが知りたい」


 なんて格好のつかない言葉だろう。でも、これが本心だ。


「あなたも同じことを考えてくれていたら――」


 公園内の外灯に明かりがともる。光に照らされた彼女は笑顔だった。


「あなたってもっと、静かなヒトだと思っていたけど、情熱的なのね」


 彼女はこちらの右隣に立つと、顔をこちらに向けて、


「同じことを考えていたの。好きよ」

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