第4話

Phase 474



 開門時間が午前零時となった理由。それは万が一、ドームから鬼たちが出てきてしまった際に、一般人への被害を最小限に食い止めることができるからというものであった。が、それはただの表向きの理由に過ぎず、本当は夜行性であった紫血鬼の行動時間に合わせることで、一度のフェーズでより多くの討伐が期待できるからであった。

 そしてまた坊主頭の少年も、意識を朦朧とさせながら零時きっかりに目を覚ます。普段には感じない強い怠さを覚えつつ立ち上がろうとしたとき、初めて体の自由が利かないことを知り、靄がかった意識が一瞬にしてクリアになる。

「……ぁ?」

 周囲の見慣れない風景に加え、胴へぐるぐるに巻かれた縄。矢吹の頭にふと疑問符が浮かぶ。何故自分はこのような状態なのか。一度、目を閉じはやる鼓動を抑え追憶を始める。

「やっと起きた」

 覚えていた最後の記憶を掴んだとき、周囲の見回りを終えたノアが矢吹の元へ戻って来る。

「……てめぇ、さっきよくも撃ちやがったな!」

「喚かないで。ただの麻酔銃よ。信頼関係がない中であれが最善の策だった」

「……チッ」

 矢吹は怒りを嚙み殺すように歯嚙みし、眉根に皺を作る。

「そんなことより、さっきの話の続きを話して。どういう経緯でルナと出会ったのか」

「なんでそんなに知りたがるんだ⁉ あんたはルナちゃんの何なんだよ!」

 想定していた返答と異なる叱声がノアの癇に触れると、皺の中心に銃口を強く押し付け、高ぶった感情を抑圧する。

「もう一度ルナの姉として聞く。どういう経緯でルナと会ったの? 返事次第では、今度は実弾が頭を貫くわよ」

「……チッ、わかったよ。あれは多分三日前ぐらいだった。俺がいつものようにハンターに追いかけられてたとき、突然目の前に現れて囮になってハンターから助けてくれたんだ」

 その光景が頭に浮かぶや、少々荒い口調で矢吹に詰め寄る。

「そのとき、ルナはどうなったの、怪我は?」

「……いや、怪我するどころか塵一つ被らずに相手を瞬殺した。驚く暇もなかったよ。それで聞いたんだ。何で見ず知らずの俺を助けてくれたのかって。じゃぁルナちゃんは、『あなたは助かるべき人間だから』って。それで……」

 不自然に言葉が途切れると、何故か矢吹は頬を赤らめる。対しノアは、続きを急かすように押し付ける力を強めた。

「隠さないで! 知ってること全て話すのよ!」

 その一喝に気圧されると、意を決し続きの言葉を紡ぐ。

「キス……、されたんだ」

「……キス?」

「う、嘘じゃねぇぞ。こっちからした訳でもねぇ。あっちから急にしてきたんだ……。で、夜通し色んな話してその日は別れた。そしたら次の日辺りから急に能力が使えなくなって、今に至るってわけだ」

「……。」

 ノアは姉として誰よりも近くでルナを見てきたという自負があった。そして自分が知っているルナは、男性に対し積極的なタイプではなく、ましてやいきなり見ず知らずの男性にキスをするなど、到底馬鹿げた話であった。が、わざわざ命の危険に晒される中でそんな話をするメリットなど一ミリもなく、且つ少年の体に随所に現れている生理的反応を目にしたとき、喉元まで上がっていた叱咤の言葉がすっと引いていくのがわかった。

「約束は守ったぞ。次はそっちの計画を聞かせてもらおうか」

 日本に来て一年と数ヶ月が経った今、やっと手にした貴重な手掛かりを逃すわけにもいかず──とにかく信じるしかないと、自分に言い聞かせるようにして拳銃を下ろし、矢吹を縛っていた縄を解いた。

「まず大前提として死んだ状態じゃないと、匂いと心拍で気づかれて外には出られない。だから、あなたは一度死ぬ必要がある」

「おいおい、せっかくこっちは腹割って喋ってやったのに、馬鹿にすんのもいい加減にしろよ⁉ 死んだらもうそこで終わりじゃねぇかよ!」

「うだうだ喚かないで。ちゃんと策は考えてある」

 呆れ顔を浮かべた後、数十メートル先に建っていた病院を指差す。

「厳密に言いうと一時的に死体に変える。AEDの電気ショックを使ってね。そしてドーム外の警察の目の届かない場所でもう一度電気ショックを流して蘇生させる」

「イカれてる……」

 矢吹は鬼を見るような目でノアを見つめ、ゆっくりと首を横に振る。

「だとしても、それ以外に方法はない。生きたままドームから出れば、私も貴方もその場で切り伏せられて終わりよ」

「……わかった、わかったよ。じゃぁ、早いとこ必要なもん取って来てくれ」

「貴方も一緒に来るのよ」

 その一言で、矢吹は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。

「安心しろ、俺だって外に出たいんだ。心配しなくても、逃げたりしねぇよ」

「そんな心配一ミクロンもしてない。私の護衛として来るのよ」

 毅然とした口調で、思考の死角へ言葉を刺し込むノア。

「はぁ⁉ 何で俺がわざわざお前を守るんだ⁉ 敵ならそのペンで殺れるだろ? ってか、そもそもそのペンでAEDを作りゃいいじゃねぇかよ!」

「いえ。もう創筆は使えない」

 そう創筆を人差し指と中指で挟み、素早く左右に振る。表面の髑髏模様が消えていき、露になった内部の管の一本には、通っているはずの青色の培養液が底をついていた。

「こんな縄作って無駄遣いしてるからそんなことになんだっ」

「それは落ちてたのを拾って使っただけ」

 吐き捨てるように言い病院がある方へ歩き出すと、少年はあっけにとられた表情を浮かべ少しの間を置いた後、仕方なさそうに後を追った。

 着いた先の病院は何階層も連なる大病院ではなかったものの、サッカーコート二面分程ある中規模で平面に広い設計であったため、二手に分かれて探すことにした。

 院内では戦闘により幾本もの蛍光灯が割れて薄暗く、床にはその破片と腐敗した語創者の死体が辺りに散乱しており、辺りには白を基調とした院内を彩るように血痕が付着していた。

「ひでぇ匂いだな……」

 矢吹は指で鼻をつまみながら等間隔に設置されたガラスケースを確認していくが、どれも戦闘の煽りを受け破損し、とても使用できる状態ではなかった。

 やがて合流した二人は、互いの手元を見て浅いため息を吐いた

「だめだ。あったとしても全部潰れてる」

「こっちも同じ……」

 ノアはどうするか思案していると、通路の最奥に点灯する『手術室』と白地で書かれた赤い長方形のランプが目に付いた。

「あの中は?」

「まだ見てねぇけど……」

 歩きだしたノアの肩を掴んだ。

「待て待て。あのランプが光ってるってことは誰かがいるってことなんじゃねぇのか? わざわざ面倒ごとに首突っ込むなら、他のとこ探しに行こうぜ。AEDだったら駅にだって」

「……っ」

 矢吹は矢継ぎ早に言葉を並べている最中、突如ノアが顔を歪め腹部に手を当てる。するとそこから出血が始まり、服に血が滲み渡っていく。

「……本当にここから出たいなら、私の指示に従って」

 吐息混じりの声に、矢吹は全てを察したように黙り込み奥へと進んだ。

 ドアの前に着くも、故障したセンサーは反応せず、矢吹は重々しいステンレスの扉を力づくで開く。二人は最大の注意を全方向に向け、前方に広がる数メートルの廊下を中へと足を踏み入れた。しかし一向に人の気配は感じられず、二人は難なく廊下を抜けると、もう一枚のステンレス扉を開き、手術室へと入った。

「……あった、あったぞ!」

 そこには狙い通り、寒色で揃えられた設備の中に、ぽつりと居心地が悪そうにあるオレンジ色の袋が壁に備え付けられていた。一方ノアは、銀色の棚からアルコールをはじめとする治療道具一式を取り、中央にあるベッドへ横になった。

 服をみぞおちの辺りまで捲り上げ露になる痛々しい傷口。それを目にした少年は思わず憂わしげに口を開く。

「おい……、大丈夫かよ。な、なんか他に必要なもんは」

「……大丈夫。黙って外を見張ってて」

「お、おう……」

 反発心を煽る命令口調にもこの時ばかりは従順に従い、後退るようにしてその場から離れようとした。

 ガンッ!

 その刹那。廊下の入口から耳をつんざくような轟音が鳴り響くと、二人は反射的に音の方向へ視線を向ける。

 がつっっ……。がつっ……。がつ……。

 ヒールが床を叩くように、硬い物と床がぶつかり合う音が等間隔に廊下に響き、回数が重なるごとに大きくなっていく。

「来る……」

 ただならぬ気配を察した矢吹は判断を仰ごうとベッドへと視線を戻す。が、既にベッドから下りていたノアに手を取られ、されるがままに引っ張られると、そのまま機材の裏へと引き込まれた。

 ……がつ。

 同時に足音が止まり、今度は音を立てずにゆっくりと扉が開かれる。

「グルルル……」「……⁉」

 扉の隙間から漏れた恐怖心を煽る音を耳にしたノアは肌を粟立て。

「なんだあいつ……」

 機材の隙間から覗く矢吹の目に映ったのは、全身から骨が突出した男の姿。男は突出したあばらを器用に動かし、周囲を乱暴に物色していく。そんな芸当を持つ男はこの世界でたった一人しか存在しない。

「あれが俺らの成れ果てか……」

 初めてフランクを目にした矢吹は、恐れながらも食い入るようにその動向を見る。

 やがてフランクはベッドに付着したノアの鮮血を見つけると、指の腹で掬い舐めた。すると、何かに気づいたように周囲を見回し──視線を二人がいる機材に止める。

「おいおいおい……」

「……逃げるよ」

 もしもここで存在に気づかれ戦闘に発展した場合、部屋の構造上、分はフランクにあると踏んだノアは、ベッドから下りる際に持ち出したメスを出口と逆の方向へ投げ──カランッ。気を取られ視線を逸らしたことを確認すると同時に、全力で出口へ駆ける。

「グルッ⁉」

 拡張された視野の広さで片目で二人を捉えるも、気づいた頃には既に手が届かない位置まで離れていた。

「このまま出口まで──」

 手術室の扉を出て廊下へ差し掛かったとき──先に捉えた場景に二人の足の回転が緩まり、やがて完全に止まった。

「嘘だろ……」

 最初に耳にした轟音。ノアはそれを、フランクが入って来る際に、扉を破壊し発生させた音だと思っていた。しかし今、中心部分から見事に歪み、二人を足止めする鉄壁へと変化した目の前の扉が物語るように、音を立てずに入って来た後、内側から扉の中心に向け放った突きの音でった。

「グルルッ!」

 袋小路と化した廊下で立ち尽くす二人を嘲笑うように喉を鳴らすと、二人諸共なぎ倒す勢いでラリアットを放つ。咄嗟に体を屈め避けた二人は、まだ逃げ場が多い手術室の方へ再び戻った。

「……もう殺(や)るしかねぇ」

 出入り口以外の逃走経路は存在せず、殺るか殺られるかの二者択一の状況に、矢吹は鼓動を速め、焦りを滲ませる。

 ノアはこれだけ人間離れした格好に反して、高い戦闘知能に違和感を覚えながらも、部屋の隅々まで目を凝らし、武器になりそうなものを探す。その傍ら、矢吹は左掌を爪で一の字に切り、一本の金属バッドを生成する。

「もっとマシな武器作れないの?」

「……これが精一杯だ。誰かさんの妹のおかげでなっ!」

 そう皮肉混ざりの苦笑いを浮かべグリップを強く握りしめると、戦闘の口火を切るようにフランクへ飛びかかる。

「うぉぉぉぉぉ──」

 真向から振り落とされた気合の一振りが唯一骨が突出していない頭部へと落ち──しかし、覚醒を遂げたフランクにそんな安直な攻撃が通るはずもなく、庇うように左手の甲を掲げると、そこから突出した骨が如意棒の様に伸び、金属バッドの芯をいとも簡単に貫く。そしてそのまま左腕を凄烈に薙ぎ──バット諸共投げ飛ばされた矢吹は、壁に強く全身を打ちつけた。

 直後、視線誘導のために投げたメスを拾ったノアは、矢吹に気を取られた僅かな隙をつくように投げるも、紫血で形成されていないそれは当然の如く硬皮に跳ね返され、掠り傷一つ負わせることもできない。

「勝ち筋が全く見えねぇ……」

 顔を歪ませながら立ち上がると、投げ飛ばされた衝撃でぐにゃりと折れ曲がったバットを投げ捨て、再び新しい物を形成する。

 創筆が使えない以上、少年の武器に頼らざるを得ない状況であったが、その唯一の頼みの綱は金属バットのみ。加え、ノアが使える武器も少年を脅す手段として、最後の紫血で生成した残弾数一発の拳銃のみいう絶望的状況に、ノアの心中に灯る希望の光は既に風前の灯火であった。

「グルルルラララアアア──」

 そこへ光を完全に吹き消すかのようなフランクの咆哮が響くと、全身の骨が先程の甲のように伸び、周囲にあった機材、ベッド、棚、全ての物を貫いていき──全ての物の所有権を得るや、体を力づくで一回転させ、貫いた物全てを散乱させるように投げ飛ばした。

 苛烈な勢いを保ったまま四方八方に投げ飛ばされていく物たち。それらは当然のように二人にも襲い掛かると、ゆうに数十キロはある鉄製の棚がノアに直撃し──衝撃で壁に打ち付けられるように飛ばされると、壁とベッドに挟まれ一切の身動きが取れなくなる。一方、矢吹へは大型のモニターが襲い掛かかり──しかし間一髪のところでバッドを振り下ろし何とか目の前で打ち落とすことに成功した。

「おい、大丈夫か⁉」

 ノアの元へ馳せ参じた矢吹はベットの下から流れる夥しい量の血を目にするや、慌ててノアとベッドの間に生じた僅かな隙間に指を掛け、ありったけの力を込めてどかそうと試みる──が、一般的なベットの数倍の重さがあるそれは微動だにしない。埒が明かないと察した矢吹は、思いついたように隙間にバットのグリップ部分を刺し込み、てこの原理で一時的にノアが逃れられるだけの隙間を作ろうと試みた。

「動けえええっ……!」

「……っ、後ろっ!」

 その状況を高揚するフランクが黙って見ているはずもなく──掌から突き出した槍のような骨を、ただ矢吹の心臓一点だけを見据え伸長させる。

「⁉」

 ノアの声に反応し振り向いたときには既に、避けられない距離に迫っていたそれを、矢吹は反射的に咄嗟に体を横に向け、肩でそれを受け止め、何とか致命傷を回避した。

「くあッ!」

 引き抜かれると同時に血飛沫が上がる。咄嗟に傷口を抑え出血を遅らせるも、深くまで刺し込まれたことが相まって、とめどなく血が溢れ出ていき、それに比例するように戦意は失われていく。

 一方ノアの傷口からの出血も酷く、次第に意識が朦朧となり、視点は乱れ、音が遠のいていく感覚に襲われる。

 フランクの圧倒的暴力の前にひれ伏す形となった二人は、もう万事休すかに見えた。

「──姉さん」

 そのとき、いるはずのないルナの声がノアの鼓膜に響き──その天からの囁きのような、慈愛に満たされた声でわずかに生気を取り戻したノアは、見えない何かに誘導されるように視線を床に落とす。そして、一本の転がった消毒用アルコールボトルが目に入ったとき、天啓を得たような感覚に襲われ、心中に灯っていた光が一気に明るさを取り戻す。

「……これを打って」

 そう差し出されたボトルを見た矢吹は戸惑いを隠せずも、意味を問い詰める時間など微塵もないことを察し、すぐさまそれを手に取る。

「……ふんっ。もうどうにでもなれっ……‼」

 慣れた手つきでボトルを宙へ放り投げ、体に染みついたような軽やかなバッティングでボトルを打ち──抜群のコントロールで風を切りながら一直線にフランクの元へ飛でいく。

 フランクにとってそんな見え透いた攻撃は、今更何の脅威でもなく、掌の骨槍を薙ぎ易々と真っ二つに両断し──直後、ノアは不敵な笑みを浮かべ懐から拳銃を取り出し。

「……彼女の死を、償いながら死になさい」

 中身のアルコールが飛沫を上げフランクの全身にかかった刹那──銃口から発射された一筋の弾丸は一本の骨を掠り、その摩擦で火花が発生し──「グルッ……⁉」そこが火種となりアルコールに引火すると、みるみるうちにフランクの全身は炎で包まれていく。

「グルルルラララアアア──‼」

 凄惨な叫びを上げ、体を捩り悶え苦しみ──だが、そんな状態でもフランクの殺意は治まるところを知らず、全身の骨を最大限に伸長させると、天井を刺し、床を削り、周囲の物を全てを破壊しながら暴れ狂い──苛烈な一閃が矢吹の鼻上を掠める。

 ……ゴクッ。

 あと数センチずれていれば、あと数センチ長ければ、今頃どうなっていただろうか。肝が縮むような想像が次々と頭を過っていく。

 ゴクリ──

 からからに乾ききった喉へ流れ込む固唾の感覚だけが、そうならなかった今の自分の存在を実感させると、矢吹の目から恐怖の類の色が消え失せ──同時にフランクの体が焼き尽くされるのを待つという保守的思考も消えた。

「まだ死ねねぇ……。生きて……、生きてもう一回、ルナちゃんと会わなきゃいけねぇんだ‼」

 熱く豪語すると同時に掌に一つ硬球を生成するや、ボトルと同じ要領で宙に放り。

「喰らえッ──‼」

 渾身の一振りを炸裂させると、弾丸の如く勢いを得たボールは、フランクの口へ入り──尚勢い衰えずそのまま喉を抉り、脊髄を破壊し、最終的に首を貫通した。

 直後、フランクは口をあんぐりと開いたままピタリと静止し──膝から崩れ落ちるや、その全身は灰になるまで炎に焼き尽くされた。


「よくフロアの連中に気づかれずここに来れたな。ザイラ」

 ロメロは目の前にいる黒のキャットスーツに身を包んだ女に称賛の言葉を送ると、手に持っていたブランデーの入ったグラスをガラステーブルに置き、皮のソファーへ深く腰を掛け足を組む。トレードマークの白髪のオールバックはワックスで固め上げられ、目元を覆う黒のサングラスはコントラストとしてより強調されている。

「えぇ。これのおかげでね」

 ザイラと呼ばれるその女は、頭を隠すために被っていたニット帽を脱ぎ捨て、立てた右の人差し指を顔に近づける。すると、指の根にはめられていた紫色の指輪が巨大なシャンデリアから降り注ぐ光に照らされ、妙な輝きを放った。

「あァ……。何て親不孝の息子だ。あいつだけは助けてやろうと思ったのに」

「その愛息子からの命令よ。組織の掟を犯した貴方に、もうボスの座は務まらない」

 ザイラは握った創筆で壁に=swordと書き、その剣先を精悍な眼差しと共にロメロに向ける。

「ザイラ、君なら既に気づいているはずだ。あいつには数百人の団員をまとめ上げる力も、カリスマ性もないことにな」

「万が一そうだとしても、あなたにボスは務まらない。あなたを慕っている部下など、もう一人もいない!」

 青筋を立て、まくし立てるように言葉を吐いたそのとき、耳元に光るイヤリングを見たロメロは突然破顔した。

「……そのイヤリング。なるほど、あいつとできてるってわけか。いつからだ? 子は孕んでいるのか?」

「黙って!」

 ザイラは怒りのままに距離を詰め、剣先をロメロの眉間に突き付ける。

「最後に誓いの時間を上げる。地獄に落ちないように心の底から神に謝りなさい」

「……君は誰よりも聡明な女性だと思っていたが。どうやら私の勘違いだったようだ」

 死を目の前にしても、ロメロの鷹揚な口調は乱れることはなく。

「私欲にまみれすぎたのよあなたは」

 ザイラは剣先を天に向けた。

「ふんっ。君はまだ知らなさすぎる。何もかもな」


「ね。誰も私たちに気づいてない」

 ララは得意げにそう言い、頭上に生えた角の先端を触る。それこそララが政府に依頼した秘密兵器、紫血が練り込まれた樹脂で作られた『特製角カチューシャ』であった。

「……えぇ。だけど何か変な感じね」

 フロアには何色ものサーチライトが縦横無尽に走り、大音量のテクノポップが響く中、数百人の紫血鬼が音楽に体を預け踊っている。DJブースの両隣には巨大なサーキュレーターが設置されており、そこからフロア全体に放出される大量の泡が、紫血鬼たちのボルテージをより一層高めていた。

 そんな人を襲う姿とは遠くかけ離れた紫血鬼たちを目の当たりにしたニーナはふと思う。この紫血鬼たちも、元はと言えば自分たちと同じ人間で、一人一人に真っ当なバックボーンが存在する。しかし、誰も望んでもいない大疫病のせいで、強制的に殺処分を受ける家畜同等の扱いに成り下がってしまい、日々語創者に怯え、戦いながらこのドーム内で暮らしている。そんな彼ら、彼女たちに、私たちは剣を振り、銃口を向ける権利があるのか。所詮、私たちは誰かが決めたあやふやな正義の名の元に殺しを行う、単なる加害者に過ぎないのではないか。と。

「さ、バレてない内に行きましょ」

 そうして逡巡が心中に渦巻き始めたとき、ララのやけに凛とした声が鼓膜から流れ込むと、瞬く間にそれを掻き消した。

「えぇ」

 ニーナは言われるがまま先に行ったララの背中を追うようにして、一歩を踏み出した。

 バンッ──‼

 その刹那。ビップルームに繋がる扉が爆発音と共に吹き飛んだと思えば、中から数発の発砲音が鳴り響いた。それを耳にした一部の紫血鬼の悲鳴がフロアに充満していた音楽を裂くように響き伝染し、フロアが騒然となると、紫血鬼たちは顔色を一転させ、我先にと一斉に出口へと駆けていく。

 突如起きた異変に呆然と立ち止まった二人は、一瞬顔を見合わせた後、その人の波に逆らうようにして足早に歩みを進め、部屋へと入り──そこで目の当たりにした場景に思わず息を詰まらせた。

「ぐふっ……」

「ふん……。子は孕んでいないようだな」

 ロメロはそう皮肉交じりに吐くと、ザイラの腹部に貫通させた右腕を引き抜く。同時に膝から崩れ落ちたザイラは、意識を失うようにして、転がる刀と拳銃と共に床に突っ伏した。

「ザイラ……。恨むべきは俺ではない。差し出した手を拒んだ息子を恨むのだ」

 サングラスの奥で目を笑わせ、悦に浸るロメロ。その気の緩みをつくように=anesthesia gun(麻酔銃)と創筆を走らせたニーナは、照準を首元に合わせ。

 パンッ──!

 先端についた針がシャンデリアの光を帯びながら、寸分の狂いなくロメロの首筋を捉え──しかし着弾する寸前、首の皮一枚のところでロメロの人差し指と親指に掴まれ、弾は完全に静止した。

「⁉」

「射撃のタイミングだけは褒めてやる。だが、弾速の遅い麻酔弾を選んだのは悪手だ」

 ○○言葉を吐き捨てながら麻酔弾の先端をニーナに向け、ダーツ矢のようにして投げ返す。その速度は人間が放つそれではなく、銃口から放たれたときと同等の速さで突き進み──が、写真とは違うロメロの容姿から、常人離れした攻撃が繰り出されることを予測していたララは、放たれると同時に=wallで防御壁を生成し麻酔弾を間一髪防ぐ。直後、壁は崩れ二人の足元で瓦礫と化した。

「なんで角が?」

「わからない。だけど、これだけは言える。これまで戦ってきた二本角とは違う力がある……」

 軍人として、また語創者として、これまで数百という戦場を経験してきた二人であったが、あの反射神経と漂う異様な殺気は、どの戦場でも感じたことがないものであり、冷静沈着を一貫してきた二人もこのときばかりは、鼓動の高鳴りを感じていた。

 そのとき、ロメロのポケットから着信音が鳴ると、徐にスマホを取り出し、電話を取った。

「おい、一体どうなってる。奴らに場所が……、あぁ、分かった。だが、この分の補償もしっかりしてもらうからな! ……チッ。本当に生意気なガキだ」

 苛立った面持ちで切れたスマホの画面に愚痴を吐き、再び二人を見る。

「悪いが、お前たちの相手をしている暇はなくなったようだ」

「だからって、私たちが見逃すとでも?」

 ララは高鳴る鼓動を静め、創筆を握る。

「てっきり感謝されると思っていたよ。この女のようにならなくて済むんだからな」

「随分と舐められたものね。ま、もうすぐわかるわ。どっちが間違っていたかがね!」

 ララは創筆の先を床に押し付け文字を書く素振りを見せた直後、隠し持っていたスタングレネードをもう片方の手で投げ──その作戦を壁裏で聞いていたニーナは、起爆した丁度のタイミングで麻酔銃を撃った。  

「なにッ──」

 ララの計画通り、視聴覚が攪乱したロメロは発砲に気づけず、今度は首元を捉える。

「もらったッ!」

 ロメロは咄嗟に引き抜くも、即効性の麻酔薬が体内を駆け巡り、行動が鈍くなっていく。その隙を狙い、=handcuff(手錠)を生成し一気に距離を詰めたニーナは、ロメロの手を取り、自分の片腕と繋がった手錠をかけた。

 そのとき。

「……危ないっ!」

 突如、ニーナの死角であった頭上から斬撃が落ち──間一髪、ララの声に反応し避けることに成功するも、繋がれた手錠の鎖部分が両断され、手錠は紫血へと融解した。

「よっとっ」

 奇襲を成功させ、軽やかに飛び退り距離を取った白髪の少年は、刃の部分が紫色に着色された刀を背の鞘に納める。頭上からは二本の角が生え、先程の鋭い斬撃を放ったとは思えない華奢な体系の少年は、白髪に劣らぬほど白い肌で覆われていた。

「下がってて。後は僕たちが相手するからー」

 負傷さえしていなければ、聞く耳すら持たない生意気な言葉使いであったが、手錠を両断してくれたという事実を加味し、ロメロは仕方なさそうに指示に従う。

「ボスが待ってるよ。早く行きな」

 そこへもう一人。金色のアクセントが入った黒キャップを被り、無数の紫色棘が刺さったバットを肩にのせたスレンダーな女が、ロメロに言葉を吐く。

「……ふんっ。つくづく、気が利く女だ……」

 そこでニーナとララは察する。この二人は先程の電話相手が寄越した刺客であると。

「行かせるわけないでしょ」

 ララは=grenade launcherと床に殴り書くと、ビップルームの裏口へ向かうロメロへ照準を合わせ──ポコッ、という音と共に放たれた四十ミリグレネード弾は、低い弾道を描きながらロメロへ迫る。

 しかし、そこへ割って入るように女が立ちバットを掲げると、生えた一本の紫色棘が弾速よりも速いスピードで伸び、たちまち弾を捕らえるように貫通する。すると弾は手錠同様融解し、棘から滴る紫血が床へぽつぽつと落ちていった。

 その戦闘を背にそそくさと出口を出るロメロ。ニーナが詰め寄ろうとするも、当然のように少年たちが壁となり行く手を阻む。

「気をつけて。二人ともこっちの攻撃を無効化する力がある」

 ララは興奮気味のニーナを抑止するように言葉を吐くと、少年は不気味に口角を上げ、異様に白い歯を露にする。

「ご名答、ご名答。二人とも頭良さそうだから、戦いずらいよー」

「おい、弐斗(にと)無(む)。なに自分から手の内明かしてんだ馬鹿」

「そんなに怒んないでよー呱呱(ここ)ちゃん。大丈夫、大丈夫。どっちみち、二人ともここで死ぬんだからさー」

 眉根を寄せる呱呱に対し、弐斗無の楽観的な性格が言葉に滲みでる。

「どうする?」

「逃げよう。書いた物が通用しないんじゃ、私たちに勝ち目はない」

 ララは徐に瓦礫を拾い上げ、何かを書き記しながらそう告げる。予想外の返答に、開いた口が塞がらないニーナであったが、瓦礫に書かれた文字を確認したと同時に言葉の意図を理解すると、持っていたランチャーのマガジン部分に=smokeと書き記し。

「えー、なになに、もう降参宣言? それに石ころに落書きなんかしちゃって、爆弾にでも変わるわけ?」

「……いいえ。もっと、面白いものよ」

 不敵な笑みを浮かべながらそれを頭上へ放り投げた。が、当然のように呱呱のバットから伸びた棘がそれを貫き一瞬にして融解させる。

 ポコッ。

 直後、注意が石に向いた隙を見計らうように、ニーナが両者の中央にスモーク弾を発射。それには二人の能力は間に合わず、瞬く間に辺りは灰煙に包まれた。

「あー、もう、めんどくさいー」

「お前のせいだろうが弐斗無!」

「だって、面白いものって言ってたから」

「そんなの相手の思う壺じゃんかよ! とにかく奴らが逃げれるのは、裏口と正面の出入り口だけだ。お前はここに残って裏口を見張ってろ」

「はーい」

 間延びした返事を背に灰煙へと消えた呱呱は出入口へと駆けて行った。

 出入口を抜けた呱呱は、もぬけの殻と化したダンスフロアを見渡し、二人の姿を探す。

「……チッ、逃がしたか」

「ここよ」

 歯嚙みする呱呱の鼓膜に刺さったのは、フロア一面を見渡せるステージ上に設置されたターンテーブルの上に腰を掛けるララの声であった。

「自分から姿を現すなんて、随分と余裕なのね。それも一人で」

「戦場での鉄則、その一。的確な分析で勝ち筋を見出す。あの少年は素早い身のこなしで近距離のものを無効化し、あなたは後援としてその他のものに対応。そうすることで、より広い範囲の攻撃を無効化する。でしょ?」

 一度の戦闘で全てを把握する分析力と、悦が滲む不気味な笑みに、呱呱は思わず苦笑する。

「どうやら、これまでの奴らとは違うみたいだけど、ここからどうやって戦うつもり? 女二人で気ままにガールズトークなんてする気なんてないよ」

「私だってそう。第一、今の女の子の流行りなんて知らないし」

 そう言いながら、ララは少女のように両足をぶらぶらと上下させる。その陽気な態度からは、微塵も緊張感を感じさせない。

「あの男について教えて欲しい。もちろんタダでとは言わない。言ってくれたら、今日は見逃してあげる」

「あんた、さっき自分が言ってた言葉忘れた? それを言うのは、私の方だと思うけど」

「……残念。じゃぁ、交渉決裂ね」

「当たり前でしょ、馬鹿女ッ。とっととくたばれ!」

 苛立ちを露に突き付けたバットの先から高速で棘が伸びる。ララは先程の態度から一転、緩急のついた身の躱しでそれを間一髪躱すと同時に、ターンテーブルのあるボタンを押す。すると、ブースの両端に設置されていたサーキュレーターが回転を始め、泡を放出し始める。

「なになに、二人でパーティーでも始めようっての⁉」

 ララは冷笑に近い笑みを浮かべながら、ララが身を潜めているターンテーブルにバットを突きつけた。

 その刹那。鼻をつんざくような異臭が鼻孔をつくと、呱呱は咄嗟に照準をサーキュレーターに変更し、即座に貫き停止させた。

「もう遅い」

 と、意味深な言葉と共に姿を見せたララの顔には、場に不相応なガスマスクが装着されていた。

「鉄則、その二。常に先手を打つ。この神経毒は数ミリグラムでも体内に入れば、ほんの数秒で全身の自由を奪う。やっぱり、あなたが無効化できるのは物体だけのようね」

「……この、クソ女ッ……」

 呱呱は怒りに体を震わせながらバットを杖のようにし、崩れんとばかりに必死に毒に抗う。がそれも虚しく、膝から崩れ落ちた呱呱は、果てるようにして地面に突っ伏した。

「bonne nuit(おやすみなさい)」


 呱呱の命令通り裏口を見張っていた弐斗無は、灰煙が薄れ、徐々に浮かび上がる人影を捉えるや、背中に収めていた刀の柄をぐっと握った。

「てっきり逃げたかと思ったよ。ていうか、何で一人?」

「今にわかるわ」

 ニーナは淡と言葉を吐きながら、黒シャツの右袖を上げ、地肌に=invisibleと書くと、指先から徐々に透明になっていき、ほんの数秒で全身を消した。

 ララが瓦礫に書き記したone to one struggle(一騎打ち)という文字を見たとき、事前に作戦など決めていなかったものの、次にララが起こす行動や自分がやるべきことが自然と理解でき、自然と状況を作り出すことに成功した。それは偏に、両者がこれまでの数多くの戦場で培ってきた経験則が生きたものであった。

「ねぇー。まだそんなめんどくさいことするのー?」

 上を向き、気だるそうに声を発する弐斗無をよそに、ニーナは部屋の隅まで移動し、生成したスナイパーライフルを構え、スコープを覗き込み、額の中心に照準を合わせる。

 ドイツ連邦警察の対テロ特殊部隊GSG-9は、ヨーロッパ諸国の複数存在する特別部隊のなかでも、主導的な立場にある部隊の一つであり、卓越した身体的能力を持ち、且つ厳しい訓練に耐えた精鋭たちが集まる部隊であった。その中でもニーナの射撃精度は群を抜いており、いつしか敬仰の念を示す代名詞として、『GSG-9の悪魔』と呼ばれるようになった。かくして、遠距離戦での交戦を得意としていたニーナは、遠距離武器の耐性が低い弐斗無と相対すのは必然であった。

「あれ、もしかしてだけど。遠距離からの攻撃だったら、簡単に倒せるとでも思ってる?」

「──」

 息が止まる。同時に指に掛けたトリガーを引く。

 銃弾は寸分の狂いもなく、弐斗無の額へと向かい──着弾するコンマ数秒前。咄嗟に刀を抜いた弐斗無は、人外の超反応で迫る銃弾を切り落とし、紫血へと融解させる。

「やっぱり、そう」

 ガンッ──

 予想が的中し、得意げに放った言葉を遮るように、立て続けに放たれた二発目の銃弾が、弐斗無の足元に突き刺さる。

「あれあれ? 動揺しちゃって外しちゃって──」

「動かないで。少しでも動けば、引き金を引く」

「……」

 こめかみにハンドガンの銃口を押し付けられた弐斗無は、凍ったように身を固め、このような状況になってしまった理由を必死に考える。が、数秒前までは人の気配すら感じなかったことに加え、弾が飛んできた距離からどう逆算しても、こんな短時間でゼロ距離まで近づくことなど、到底不可能であった。

「どうやって……」

「常に先手を打つ。戦場の鉄則よ」

 冷然と言ってのけるニーナの姿が徐々に露になっていくとともに、足元では、表面に=teleportationと書かれた銃弾が紫血へと融解していく。

 銃弾に反応する程の反射神経を持ち合わせていることは、想定内であり、一発目の発砲は、二発目の発砲を確実に通すための囮であった。

「あの男について知ってることを話して。そしたら命だけは助けてあげる」

「あー、一気に形勢逆転ってわけね」

 吞気に呟く弐斗無の弛緩した態度を引き締めるように、ニーナは今一度銃口を強く押し当てる。

「あの男の目的は何? 一年半前に起きた出来事と何か関係があの?」

「……お姉さん、ほんとに何も知らないんだね」

 トーンが少し下がった声を漏らし鼻で笑うと、泰然と握っていた刀を地面に落とす。

「できることなら、あなた達を助けたい。あの男の情報が何かの手掛かりに」

「嘘ばっかり」

 固く、湿った、無色な声が遮る。そこには、これまで帯びていた無邪気な言葉の丸みは、もうどこにもない。

「全部……。全部、お前たちが始めたことなのにッ!」

 部屋中に怨嗟の声を響かせ、殺意に満ちた双眸を向けた──刹那、両手の爪が急速に伸び。

 パンッ──

 忠告に背いた罪を裁くかの如く、頭を貫く銃弾。それは弐斗無の全ての機能を停止させ、屍へと変える。

「……」

 ドンッ。と体が地面に倒れる鈍い音が、ニーナの心を打つ。

 断罪の疑念と、贖罪の肯定との狭間で揺れ動く心に。


「……」

 微かに意識を取り戻した呱呱は、まだ生きていることを不思議に思いながら、眼球だけを動かし周囲を見渡す。そして胴がケーブルが張り巡らされた木製の電気椅子に固定され、両手両足が革紐で縛られていることを確認したとき、生かされている理由を理解した。

「Bonjour(おはよう)」

 それに気づいたララは、幾本もの銀色の針を手に持ち、呱呱の目の前に腰を下ろす。それらの針の長さは均一であったが、太さは多種にわたり、中には鉄串と見間違いる程太いものまであった。

「ねぇ、知ってる? 指先ってさ、人間の体で一番神経が集中しているところなんだって」

「……?」

 奇妙な薀蓄を垂らしながら、髪の毛三本分程の太さ針を選び取り、それを体現するように呱呱の指先に近づける。

「どんな些細なことでもいいの。あの男について知ってること話してくれない?」

 それでも尚、睨みを利かし頑として口を開こうとしない姿勢を見て取るや、ララは短い嘆息を吐き、ゆっくりと、分厚い布を貫くように、人差し指の爪の間に針を刺し込む。

「んンヅッ、アァァァァァァァァ────」

 凄惨。それを物語る絶叫に似た悲痛の叫び。

 その叫び声を真正面から浴びたにも拘わらず、何も起きなかったかのように、ララは平然とした面持ちで再び口を開く。

「私ね。子供のときに見た戦争映画で戦ってる兵士の姿に憧れて軍に入ったの。でも、たまたま皆よりも頭が切れるからって、戦場にでられなくて、ずっと現場を指揮する側だった。だから、国からこの話を貰ったときは嬉しくて、二つ返事で了承したわ」

「……ハァ、ハァ」

 先程のよりも一回り太い針を持ち、同じ要領で中指に触れる寸前で停止させる。

「ねぇ、まだ話す気にならない?」

 そう項垂れる呱呱に優しく語りかけると、呱呱は徐に顔を上げ、ララの顔面に勢いよく唾を吐きかけた。

「……ふざけんな、サイコ女がッ!」

「……。ふふっ、ハハはっ、ハハハっ──!」

 直後、何故か破顔したララは、高らかに奇妙な笑い声を上げると、近づけていた針を床に落とし、懐から取り出した赤いボタンのスイッチへと持ち替え。

「じゃぁ、もういいや」

 それが、呱呱が聞いた最後の肉声であった。


「着いたネ」

 民藍とソヒョンは足を止め、ふと顔を上げる。

 閑静な住宅街に突如として現れたのは、場違いも甚だしい鋼鉄の大門。民藍は右上に掲げられた『戸津沼』と刻まれた木製表札を鋭い目つきで一瞥し、持ち前の腕力で押し開けていき──奥には、サッカーのハーフコート程の敷地面積に広大な屋敷が広がっていた。

「気をつけるネ。見張り、一杯いるかもしれない」

「いてくれたほうが、退屈じゃなくて助かる」

 相変わらず、精悍な表情で言葉を吐き捨て先に進むソヒョン。その背中から滲む静かな殺気を感じ取った民藍は、呆れたように鼻を鳴らし、歩みを進めた。


「どうしてだ? 先月よりも少ないじゃないか」

 その屋敷の最奥では、部屋の隅に積み上げられた数体の語創者の死体を見て、文句を垂れるロメロと、飄然と窓の前に立ち尽くし月を眺める少女、戸津沼御影がいた。

「殺した数は同じ。黙って受け取って」

 矮躯の体には少し大きい白のスウェットの袖を少し上げ、黒のショートボブヘアを耳に掛けると、首筋から目尻にかけ掘られた様々な色の花の刺青が露になる。その頭上には、二本の角が生え──更にその間の前頭葉に当たる部分からは、三本目の角が顔を出している。

 ロメロは敬いの念の欠片もない口調に苛立ちを覚えながらも、渋々懐へと収める。

「父の容態は?」

「あぁ、もちろん。順調に回復している。だから、お前は目の前の仕事に集中しろ。これからも治療を続けて欲しいならな」

 そう言い放ち部屋を出ようと襖の取っ手に手を掛けたとき──逆側の襖から、ドンッ、と物騒な物音が鳴り部屋の中に飛び込んできた。

「今日はやけに来客者が多いな。俺はこれで失礼する。また一か月後、楽しみにしているぞ」

 御影はロメロの狡猾な声にも、外で鳴る物音にも反応することなく、ただひたすらに、煌々と輝く月を眼に映し続けていた。


 模様多彩な数十匹の鯉が泳ぐため池に、天まで突き抜ける勢いの巨大な松の木。その庭園をイメージして作られた広大な中庭に舞う砂埃。

 最奥部まで辿り着き、=bugで最も強い紫血鬼がいるであろう部屋を特定した二人は、見張りについていた男に対し、左右から挟む形で奇襲を仕掛け──が、ことごとく防がれるや、すぐさま飛び退り距離を取った。

「いきなり出て来て暴力かいな、お嬢ちゃんたち」

 濃紺のスカジャンを着た二本角の男、桑原は、肩まで伸びた髪を後ろへと掻き上げる。そうして露になった皮のない顔面に、思わず二人は言葉を失う。

「せめて、自己紹介ぐらいはしようや」

「……なんで骸骨が喋ってるネ」

 訝し気に眉をひそめ、言葉を漏らす。

「角生えた奴等がうようよ蔓延る町や。皮がない奴が一人ぐらいおっても、別に大したことないやろ」

 桑原はカチカチカチと高速で三回歯嚙みすると、スカジャンの袖を少し上げ、白骨の両手を拳銃の形にし、二人に向け──「ばんっ」と唐突に漏らした無機質な言葉と共に、向けた人刺し指が凄まじいスピードで二人へ伸びる。

 その奇襲に対し、咄嗟に反応した民藍は身を翻し、同じくソヒョンもすんでのところで避けると、桑原の懐へと走り込む。

「私は奥にいる奴と戦いに来たの。だから、早く死んで」

 ソヒョンは背に携えていた刀を抜き、そのままの流れで切先を心臓へと突き刺す。が、どれだけ力を込めても、石に突き刺しているかのように静止したまま動かない。

「⁉」

「冗談キツイわ。身の程わきまえた方がええで。俺みたいになる前に……。ん」

 その隙を狙って民藍は桑原の背後にあった襖をけ破り、部屋への侵入を試みる。

「後は任せたネ」

「行かせるかいなっ」

 桑原は駆けて行く民藍の背を掴むように手を伸ばすと、五本の指が一斉に伸び、民藍を囲い込む。

「しまいや、嬢ちゃん」

 乾いた言葉と共に収縮し締め付けた瞬間、民藍は思い出したかのように絡みついた白骨の指に=slipと書き記す。指からはマザーのときと同様のぬめった液体が滲みだし──簡単に拘束から抜け出すことに成功した民藍は先を急いだ。

「あー。また怒られるやんけ、これ」

「あいつ……」

 口をあんぐりと開き、離れていく民藍の背中を見つめる桑原。その隣で雑用のように敵を押し付けられ苛立ちを覚えたソヒョンは、桑原の開いた口に=grenadeを突っ込み、すかさず後を追う。

「あ」

 口ごもった一文字が、直後盛大な爆破音に掻き消される。その音で桑原の死を確信したソヒョンは、気にも留めず足を進めていた──そのとき、突如爆煙から伸びた一本の白骨指が右太ももに貫通すると、激痛に耐え兼ねたソヒョンは態勢を崩し、その場に倒れ込んだ。

「……さすがに、二人は行かされへんわ」

 爆煙の中から漏れる、重くじっとりとした関西弁。痛みに耐えながら立ち上がると同時に、何故か不敵な笑みが込み上げてきたソヒョンは、緩慢と問う。

「あなた、死ねるの?」

 晴れた爆煙から現れたのは、着ていたスカジャンすら無傷の桑原の姿。

「死なれへん体になってもうたんや」


 ロメロが去り、沈黙が戻った室内で佇んでいた御影は、ふと窓から視線を切り、書斎スペースへ向かう。壁一面には菊の花の家紋と、『仁義』と荒々しく書かれた掛け軸が飾られており、隣の棚には鶴が描かれた大皿と、日本刀が並ぶ。御影はそれらに囲まれる黒皮の椅子に付着した血痕にそっと触れ、目を閉じる。

 永遠と脳の奥底で渦巻く、胡乱な記憶を求めて。


 数年前。とある薬物の取引で莫大な資金を得て、一躍日本最大のヤクザ組織となった戸津沼組は、数十年来の付き合いがあるチャイニーズマフィアと巨大な取引を行った。それは一度で一年間の取引量に匹敵するもので、信頼関係がある仲だからこそだからこそ実現した取引であった。組長の戸津沼は世代交代を託す意味も込め、当時最も信頼し、次期組長候補としていた若頭に取引を任せた。指定された場所に行き、指定された金と物を交換する。量は変われど、やることは変わらない取引は、難なく終わるはずであった。

 若頭の反逆さえなければ。


 バンッ。襖を蹴破る猛々しい音に反応し目を目を開き、視線を移す。

「やっと、見つけたネ」

 少し息を荒げた民藍は、眉間を貫くかの如く鋭い眼差しで御影を見つめる。

「誰?」

「お前たちに嵌められた仲間の生き残りネ」

「そう。で、殺しに来たの?」

「遊びに来たように見えるカ?」

 両手に装着した=gloveの根本を掴み、今一度しっかりと装着できていることを確認するや、床を強く蹴り出し、勢いそのままに殴り掛かる。が、御影は一切動じることなく、すっと、片手を掲げ──そこへ吸い込まれるように放たれた民藍の拳は、パンっ、と破裂音に似た音を立てピシャリと止まる。

 マザーのように体躯が肥大化しているわけでもない、ただ矮躯な少女にあっさりと止められたという事実に、動揺した民藍は、咄嗟に息が詰まり、マザーとの戦いの記憶が目の前の強烈な事実に塗り替えられる。

 しかし、数年来の憎しみが直ちに民藍のひるみかけた心を立て直すと、即座に態勢を崩し、握られた拳を視点に迅速の蹴りを顔面に見舞い──側面をドンピシャで捉えられ、さすがに衝撃を負った御影は、どこか不思議な感情に襲われると共に拳を離し、距離を取った。

「これで、ちょっとは目が覚めたネ?」

「……あなただったら、思い出せる気がする」

 これまで虫を潰す様に何百と屠ってきた語創者たち。目の前にいる人間もまた特段の脅威を感じられない、ただの肉塊だろうと高を括っていた御影の胸中は、これまで感じたことのない妙なざわめきに襲われていた。

「だから、あともう少しだけ、頑張って」

 右口角から、つーと流れる紫血を甲で拭うと、その血を人差し指に取り、床にばつ印を書いた。すると印を裂くようにひびが入り、床が割れ──やがて姿を現したのは、全身を紫血で染め上げた一体の骸骨であった。

「これ。もしかしたら、あなたの仲間かも」

「──ッ‼」

 そう骸骨を指差しながら露骨に売られた挑発を買った民藍は、沸点に達した怒りに身を任せ、近くにあった書斎机へ拳を落とし、真っ二つにへし折った。

「……すぐに同じ姿にしてやるネ」

 頭に血を登らせ、闘志滾らせる今の民藍に、眼前の得体の知れない物体を分析する思考の余裕などあるはずもなく──感情のままふりかざした右拳は人体の中で最も脆く、且つ急所であるとされている鼻へ放たれ。

 ガンッ。

 人と車がぶつかったときのような鈍い音が証明する、文句なしのクリティカルヒット。通常の人間であれば粉砕は確実である程の威力であった。が、骸骨の鼻骨は一本のひびも入らず──逆に触れたグローブは即融解し拳が露になると、続けて鼻骨と接した部分の拳は、音も痛みもなく、ただ自然の摂理に則るかの如く皮膚が溶け、白骨化した。

「あ……」

 その光景を目の当たりにし、頭に登っていた血が一気に引く。冷静さを取り戻させられた民藍は、すぐさま後退し二人と距離を取る。

「……」

 今一度、確かめるように拳に視線を落とす。触れた部分は甲の第三関節部分のみであったにも拘らず、白骨化は皮膚を浸食していくように、徐々に手全体に広がり始める。

 このままだと時期に全身に広がり息絶えることが確実であった民藍の頭に、二つの選択肢が過る。

 ──切り落とすか。共に朽ち果てるか。

 判断はすぐに下った。

 覚悟の眼差しを向けた民藍は、まだ辛うじて動く右手を強く握り込み、その甲に=airと書き殴る。

 切り落としてしまえば、遠距離戦に比べ、まだ一縷の望みがある戦い慣れた接近戦での勝機が低くなるということと、幸いそれほど速くない白骨化のスピードを鑑みた結果であった。

「……皆が味わった苦しみを受けるネ」

 自分にしか聞こえない声量でそう呟き、獲物を狩る虎のように御影に襲い掛かる。

 そこへ当然のように割って入り盾となる骸骨。が、民藍は一瞬も恐れることなく突き進み、拳が胸骨に触れようとした寸前──拳の先に空気の塊が生成されると、それが触れた衝撃で両者の間に凄まじい反発が起こり、骸骨は窓ガラスを突き破り屋外へと吹き飛んだ。

 不可解な現象に一瞬視線を奪われる御影。その隙を見逃さんとばかりに、懐に入り込んだ民藍はすぐさま左拳に=powerと書き記す。そして、人差し指と中指を合した両手の指で、首の側面にある視覚に繋がるツボを突く。

「──⁉」

 先程までいたはずの部屋から一転、何も見えない暗黒の世界へと隔絶された御影は、ただその場で茫然と立ち尽くし──次いで徐々に失われていく平衡感覚に耐え兼ね仰向けに倒れると、そこへ追い打ちをかけられるように、絶え間なく頭部に衝撃が走る。

「一族の恨みを全部受けるまで、死んじゃだめヨ」

 それは馬乗りになった民藍が放つ、無慈悲の鉄拳制裁。

 ゴンッ──ゴンッ──ゴンッ──ゴンッ──

 真っ暗な視界。肉と肉がぶつかり合う鈍い音。

 ゴンッ──ゴンッ──ゴンッ──ゴンッ──

 一発一発を喰らう度、心に溜まった紫血の沼の深層部に沈んでいた記憶の塊が刺激され、徐々に浮上していく。


「ハァ、ハァ……、組長!」

 息を切らし、組長室に駆け込んで来た部下は青ざめた表情で戸津沼に視線を向ける。

「……若頭と下っ端たちがっ、取引の途中で相手を撃ちやがりましたっ!」

「「「──⁉」」」

 室内にいた幹部たちが一斉にざわめき、顔を合わせる。その中でも唯一、いつもの頑とした表情を保ち続ける戸津沼は、その場を制止するように重たい口を開く。

「何人死んだ?」

「おそらく数百人規模だと……」

 怒りを滲ませ、頭を抱える中、戸津沼は徐に立ち上がり、棚に飾られた日本刀を手に取る。

「組長、どこへ⁉」

「ケジメをつけにいく」

 一切の迷いがなく、凛然の熱を帯びたその声が幹部たちの鼓膜を打つと、感化されるように一人、また一人と立ち上がり、戸津沼の後ろに連なる。

 そんな部下たちにも目もくれず、力強く襖を開けると、そこには全員分のお茶が載ったお盆を持った御影が、顔を俯けながら立ち尽くしていた。

「……行かないで」

 言葉と共に溢れ出てきそうな涙をぐっと飲み込む。

「母さんといつもの場所に隠れてなさい」

 そうとだけ言い横切ろうとした父親の手を掴み、涙を噛み殺して顔を上げる。

「──」

 御影が捉えたのは虚空を映し出す鏡の如く無が渦巻く黒い瞳。あまりにも膨大で受け止めきれない程の暗冥に、気圧されるように手を放す。

「──許してくれ」

「……え」

 父親の口から初めて聞くその六文字に咄嗟に瞠目した瞬間。

 パンッ──! パリンッ──!

 銃声と同時にお盆の上の湯飲みが割れる。「伏せろッ────‼」直後、戸津沼の怒号に似た激声が響き渡ると、皆一斉に伏せ、なだれ込むように屋内へと戻った。

「怪我は⁉」

 何が起こったのか理解できないまま、強引に手を引っ張られ屋内に引きずり込まれた御影は、ただ茫然としながら首を横に振る。

「あの机の裏に隠れてろ。何があっても、絶対に出てくるんじゃないぞ!」

 もうこれが父親との最後の会話になるということが、直感で理解できた。引き止める気力すら残っていなかった御影は、言われるがままに指示に従った。

「……」

 そこで膝を抱え縮こまった御影は、唱えるように心の中で一つの言葉を反芻し続ける。

 どうして。

 屋敷に押し掛けた数十人のチャイニーズマフィアたちは、なりふり構わず、組員たちに襲い掛かる。

 どうして、普通の家庭に生まれてこれなかったの。どうして、こんな抗争に巻き込まれているの。どうして、こんな思いをしなきゃならないの。

 幼少期から心の中に芽吹いていたやりきれない感情の芽は、徐々に怒りへと姿を変えていき──絶え間なく鳴り響く数多の銃声と、肉と肉がぶつかり合う音が御影の中に蠢くそれを増大させていった。


 ぶたれ続けていた御影の顔は、最終ラウンドを戦っているボクサーのように内出血膨れ上がっていた。それでもまだ足りないと言わんばかりに、一心不乱に殴り続ける民藍の瞳には、復讐の焔がめらめらと燃え盛っていた。

「ハァ、ハァ……、これが最後ネ」

 一族全員分の数の殴打を終えた頃、右手の白骨化は手首にまで迫っていた。

「……どうして」

 止めを刺すため、左の人差し指にコードを書いていた民藍の手が止まる。

「どうして、そこまで一族のために頑張れるの」

 その返答に少しの逡巡もなかった。

「怒りがそう囁くからネ」

「……怒り」

 そう静かに反芻した言葉が脳裏突き刺ささったとき、湧き水のようにあの日の記憶を鮮明に蘇り、脳内を埋め尽くす。

「だけど、それも今日で終わりネ。あなたを殺して全部──」

 息を大きく吸った民藍は○○と書かれた人差し指を振りかざそうとした──その瞬間。同時に民藍の心臓を一本の白骨の人差し指が勢いよく貫くと、吐血した血が飛沫となり御影の顔全体を覆う。

「ぐふっ……」

 心臓が鳴りやむと、そこから全身を浸食するように白骨化が始まり、全身の機能が次々と停止する。それでも尚、凄烈な執念が民藍を突き動かすと、体内に僅かに残る生命力を全て指先に注ぎ、じりじりと御影の額に迫る。


 その姿は御影の脳内に蔓延る記憶と重なる。


「……」

 激しい抗争が終息すると同時に、御影は隠れていた机から身を出す。襖は血飛沫に染まり、床には横たわる数十人の死体。その中でたった一人、唯一虫の息で命を繋ぐ父に駆け寄る。

「……御、影……」

 いつもの有り余る精気に満ち溢れた姿とは正反対の様子を目下に捉えると、先程まで渦巻いていた怒りの感情が徐々に形を変えていく。

「……こんな、父親を……」

 細い言葉と共に、震える手が顔へ伸びる。

「どうか……ゆる」

 パンッ──

「え」

 風前の灯火の声を引き裂くように御影の背後から飛んできた銃弾は、戸津沼の眉間を貫き──傷口から吹き出した鮮血を浴びた御影の額にコン、と軽く当たった戸津沼の人指先は、御影の顔をなぞるようにゆっくりと縦断し、地面に落ちる。

「……」

 地面にひれ伏すように倒れる父親 を眼下に茫然自失となる御影。そこへ発砲者が近づくと、ポケットから取り出した注射針を御影の首元へ、のめり込ませるように突き刺す。

「さぁ、怒りの奴隷になりなさい」

 身体中が熱く、息は乱れ、鼓動が早まり、これまでの記憶が次々と消え去って行く。やがて全身にウイルスが行き渡ると、意識が薄れていき──父親の隣へ頽れていく。

 狡猾な笑みを浮かべたロメロを視線の端に捉えながら。


 迫る指先が額に触れようとしたまさに寸前。民藍は完全に白骨の屍と化すと、コードの効力が消えた指が額をコン、と突く。


「……ゆるしてくれ」


 あのとき、戸津沼が紡げなかった言葉が、御影の心身に爆散される。

 ピキッ──

 その言葉に呼応するようにヒビが入った角は、ぽろぽろと先端から崩れていき──同時に紫色の涙が頬伝う。

 そこへ、ロメロが麻酔弾を抜いた際に出血した数滴の血を=working dog(使役犬)に嗅がせ、屋敷に辿り着いたララと、応急処置を施したザイラを背負ったニーナは、その異様な構図に息を吞む。

 性別すらもわからない二体の骸骨と、前方で顔面を腫らし横たわる少女。一見、どちらも紫血鬼の餌食としか思えない有様に、一抹の疑問を抱いたララは恐る恐る二人に近づく。虫の息の少女の周囲に散らばった角の破片を捉えた瞬間、思考にかかった靄が一気に吹き飛ばされると、我が子を扱うようにそっと抱き上げた。

「そんな子供、連れ帰って……」

「ただの子供じゃない。もしかしたら、全てを解決する救世主になるかもしれない」


 気がつけば民藍への苛立ちも消えていたソヒョンは、体内の血を闘志という熱でふつふつと煮えたぎらせていた。

「なんや、全然ビビれへんやん。死ねへんって意味わかってる? 絶対に殺されへんってことやで?」

 嫌味を帯びた声が鼓膜を打つと、それを出すように短く鼻から息を出す。

「これから、身をもって学ぶことになる。生は死と共存することでしか成り立たないってことをね」

 言い終わると同時に、=smoke grenadeで視線を切ると、立て続けに生成した=assault rifleを煙越しに連射する。が、煙を突きぬけ桑原に着弾した銃弾は、まるで壁にぶつかったように勢いを失い、地面へと落ちていく。御影の能力で作り出された紫血が練り込まれた堅固な白骨は、語創で作られる全ての攻撃を跳ね除ける。

「だから言うてるやろ、無理やって」

「……ッ」

 ソヒョンは間髪入れず嘲笑うような声を遮るように、=poisonous gas grenadeで再び視線を切る。

「なんべん言うても、わからん奴やなぁ」

 繰り返される攻撃に呆れるように溜息を漏らすと、自ら毒ガスの中に入り、煙越しに薄っすらと浮かび上がるソヒョンの影へと襲い掛かる。

 しかし、その先にいたのは=avatarで生成された、身代わりの人形で、それを認識した瞬間、背後の煙から=powerと記された両腕が桑原の胴体を締め付けるように絡まる。

「チッ、めんどくさいなァ──ッ!」

 見た目には変わりはないが、=powerで増強されたソヒョンの両腕に圧迫された桑原の体は、パキパキ、と撓る音を立てながら、圧迫されていく。

 ガスマスクを装着したソヒョンを視界の端に捉えもがく桑原は、先程までの余裕が嘘だったかのように息を荒げ、咄嗟に十本の爪を両腕に突き刺す。

「──ッ」

 傷口から滲み出る鮮血と走る激痛に、あまり感情を表に出さないソヒョンですら顔を歪め──すぐして耐え兼ねると、残る力を振り絞り、数メートル先にあるため池へと放り投げた。

「おうおう、えらい派手にやってくれたやんけ……」

 盛大な水飛沫と共に着水した桑原は、全身から水滴を滴らせながら体を起こし、びしょ濡れになったスカジャンの端をぎゅっ、と絞る。

「お返しにこっちも派手にやりかえ……。⁉」

 その刹那、スカジャンの右ポケットが突如として凍てつき始め──妙な違和感を覚えると共に、恐る恐るポケットに手を突っ込むと、そこから出てきたのは、=freezeと記されたカードであった。

「……死を恐れなかった罰よ」

 すぐさま捨てようとするも、既に指先とカードが接着するように凍り付き、手放すことができない。

「く、クソ女がァァァァァァッ────……」

 全身に纏った水滴が瞬く間に凍り付いていき──憤怒の雄叫びが飲み込まれた頃、ため池の全ての水も氷床と化した。

「ハァ、ハァ……」

 ガスマスクを外すと同時に、=powerの反動で全身の筋肉の活動が停止したソヒョンは、重力に押しつぶされるように倒れ込む。

 意識ははっきりしているのに、指の一本もまともに動かすことができない不甲斐なさに愕然としていると、遠くから微かに砂利が擦れる音が聞こえ──それは少しずつ、着実に大きくなっていき。

 ジャリッ。

 耳元で止んだ。

 敵か、味方か。咄嗟に淡い希望を含んだ二択が頭を駆け巡る。が、常に死と隣り合わせのこのドーム内において、後者であることは望み薄であることを察したソヒョンは、死を覚悟するようにそっと瞼を閉じた。

 そのとき、首元に何か尖った物が触れた触感を得ると、反動で得た疲労が地面へ抜けていくかのように取り除かれていき、十秒も経たない内に全身は戦闘前の体に戻った。

「……。」

 ソヒョンは、ほんの僅かな希望の光を手繰り寄せることができた幸運さを噛みしめながら、救世主に視線を移し──「──⁉」最初に目に飛び込んできたのは、赤みがかった二本の角であった。

「……ねぇ、殺し屋さん。殺して欲しい人がいるんだけど」


「準備はいい?」

 閉門三十分前。狩りを終えた語創者たちが続々と門へ向かう中、人気のない路地で二人の男女の声が轟く。

「……もう一思いにやってくれ」

 病院から一緒に持って来た遺体袋の中で、上半身裸で仰向けになった矢吹は、電極パッドが貼れた胸に手を当て、諦めるように目を閉じる。それを確認したノアは、AEDの起動ボタンに指を近づけた、そのとき。

「……おい、待て。嫌な匂いがする。匂ったことのある匂いだ」

 眉間に皺を寄せながらむくりと体を起き上がらせた矢吹は、ふと隣の大通りに目をやる。御影を担いだララを捉えたとき、思わず息を詰めた。

「あの女、匂いはするのに角がねぇ……。っておい、どこいくんだよ」

「あなたはここで待ってて」

 そう足早に矢吹を横切ったノアは、すぐに大通りに出た。

「そこの語創者」

「……?」

 ララとニーナは徐に足を止め振り向く。

「なぜまだ生きてる紫血鬼を担いでるの?」

 ノアの鋭い視線から自分への問いかけであることを理解したララは、表情を一切変えずに淡々と答えた。

「彼女は紫血鬼じゃない。私たちの仲間よ」

「嘘つくんじゃねぇ、俺の鼻は騙せねぇぜ」

 そこへ自慢気な面持ちで、路地から顔を出す矢吹。事情を全く知らない二人は、当然のように創筆を握り構える。

「……タイミング最悪」

「そっちのお友達の方が訳ありじゃない?」

 嫌味と共に口元を歪ませたニーナは、=gunを生成し、銃口を向けた。が、目の前の二人の関係に違和感を覚えたララは、銃に被せるように手を掛けた。

「なぜ彼女が紫血鬼ってわかったの?」

「……まだ匂いが残ってる。そんな奴連れ出したら、お前らまとめて門番に皆殺しにされるぜ」

 声の威勢こそいつも通りだが、その姿はノアの後ろに隠れ恐々としたものであった。

「その言いようだと、無事に出られる方法を知ってるように聞こえるけど」

「ああ、もちろんだ。だから今から俺は……ん、んんん──っ」

 ノアは咄嗟に口を塞ぎ、声を被せる。

「取引がしたい。私がその少女を無事に外に出す。その報酬として、少女が目覚めたとき、どうやって紫血鬼を克服したのかを教えてもらう」

 提案を受けたララは少しの間逡巡した後、口を開く。

「あなたたちがどういう関係なのかはわからないけど、目先の目的は一致しているみたいね。いいわ、その条件で取引してあげる。その代わり、私たちはあなたを監視させてもらう。少しでも妙な真似をしたらすぐに、紫血鬼を担いでいることを密告するから」

「ええ。門から西に一キロ行った先に小さなバーまで運ぶ。そこなら警察の目も届かないわ」

「わかったわ。じゃ、よろしくね」

 以外にもあっさりと了承したララは、担いでいた御影をノアに託し、門へと向かった。

「しかし、どうやって彼女を外に……」

「AEDよ。彼のはだけた服の胸に、電極パッドが貼り付いていた痕が見えた。多分、心拍を消して、外に出てからもう一度起動して、心拍を戻す計画なんでしょ」

 そう食い気味に答えたララの横顔を、ニーナは目を眇め見つめる。

「わかってたなら、なんで……」

「それが本当に成功する保証なんてないでしょ? それに、あの紫血鬼もどきの少年に嗅ぎ付けられてなかったら、今頃門番に殺されてた。そのお礼も込めてね」


「……ルナちゃんのためか」

 再びAEDがセットされ、仰向けになった矢吹はぼそっと声を漏らす。

「別に、外に出す数が一体増えたぐらいで何も変わらない。それにあなただって、外の世界で生きていきたいなら、紫血鬼から完全に脱する方法を知る必要がある。あの二人に協力した方が得策だと思うけど」

 そう口早に反論しながらAEDの本体をこじ開けると、正常な人間に電気ショックが作動するよう、何本かのコードを引き抜いていく。

「素直じゃねぇな。ルナちゃんとは大違いだぜ」

「永遠に眠りたいの?」

「じょ、冗談だよ。心の準備はできてる。ぱっぱと済ま──」

 ピ──ン、ドスッ。

 必死に取り繕おうとする声が起動音に遮られると、朗らかな表情から一転、血色を失い、死人と化す矢吹。続けて手早く御影にも行うと、二人が入った遺体袋を担いだノアは足早に門へと向かった。

 門を出た先では、いつも通り紫血鬼の遺体を担いだ語創者たちが換金を待つ列がなされており、ノアはその者たちに紛れるようにして、集合場所のバーへと足早に向かう。

「おい、そこのスペイン人」

 討伐に参加してから一年半。これまで一度たりとも掛かったことがなかった漸の声が、初めてノアの肩を掴む。

「その袋の中身は何だ?」

「仲間の遺体よ。私も仲間もカトリック教徒だから、埋葬するために持ち帰ったの」

 あくまでも平然を装いながら、用意していた口実を流暢に放つ。これまでも、仲間の遺体を袋に入れ持ち帰った語創者をノアは何人も見てきた。しかし、その者たちが門番の二人に詰め寄られている姿は見たことがなかった。

「……ほう、そりゃ結構なこった。死んだお友達も天国に行けて、さぞ喜ぶだろうなぁ」

 目を眇め、吸っていた煙草の紫煙をノアの顔に吹きかける。ノアは瞬き一つもせず、凛然と立ち振る舞いながらも、脳内ではこの場を離れる口実を必死に考えていた。そのとき、突如、換金を待つ列から火が巻き起こると同時に、二人の男の怒号が飛び交う。

「おい、テメェ! 俺の獲物に何してくれてるんだ⁉」

「アンッ⁉ 知らねぇよ、勝手に燃えだしたんだ」

「嘘つくんじゃねぇ、死んでる奴がいきなり燃えるわけねぇだろッ!」

 それは、漸の疑念で満ち溢れた眼差しを数メートル離れた場所から捉えたララが、列の間を潜り抜けるふりをして、並ぶ一人の語創者が担ぐ遺体に=fireと記し、発火させたものであった。

「……ったく」

 漸は嘆息を吐き、投げ捨てた煙草の火を靴裏ですりつぶすように消し、仲裁へ向かう。そうして何とか尋問から免れたノアは、すぐさまその場を立ち去り、バーへと向かった。


 ピ──ン、ドスッ。ピ──ン、ドスッ。

 カウンター八席と四人掛けのテーブル席が二つしかないこじんまりとした店内に、二人の心臓を打つ機械音が二度反響する。衝撃で活のいい魚のように上半身が跳ね上がった直後、矢吹は深い眠りから目を覚ますようにゆっくりと目を開けた。

「……成功か?」

「ちゃんと意識があるならね」

「……一年半ぶりに吸う外の空気がこんなに酒臭いとは思わなかったぜ」

 冗談を交えつつ、ノアから差し出された手を掴みテーブルから体を起こす矢吹。一方、ザイラの応急処置を終えたララは、心拍は取り戻したものの、未だ意識は戻らない御影の容態を心配そうに見つめる。

「約束は守った。早くルナの居場所を教えて」

「わかったよ、ルナちゃんは……」

 ──カランコロンカラン

 そのとき、バーの扉が勢いよく開くと、外で見張りをしていたニーナが切迫した表情で声を放つ。

「──門番の二人が」

 その一言で、緩みかけていた緊張の糸が再び張り詰める。

「マスター、裏口はどこに?」

 その問いかけに、カウンターの裏のバックルームをちらりと見て、視線だけで応える。

「とりあえず、二人を袋の中に」

「もう遅せぇよ」

 低く乾いた声と共に手錠を掛けられたニーナが、二人の前に放り投げられる。

「「──⁉」」

「バレてねぇとでも思ったか?」

 次いで漸を跳び越すように跳ねた羅美は、腰から抜いた刀を矢吹の首へ振り落とし──矢吹は咄嗟に生成したバットを構え、間一髪斬撃に耐える。が、そこへ追い打ちをかけるように炸裂した漸の掌打がバットをへし折ると、そのまま矢吹の首元を掴み、壁へと打ちつけた。

「うッ……」

「ったく、舐められたもんだ。これがどれだけの重罪かわかって……」

「うぷっ──」

 語彙が徐々に強くなり始めたとき、突如として羅美は跪くと、たちまち大量の紫血を吐き始める。同時に漸は矢吹を放し、羅美に駆け寄った。

「大丈夫か羅美っ、しっかりしろッ‼」

 喉奥まで指を入れ、無理矢理吐き出させると共に、生成した蛭を首元につけ紫血を吸い出す。

 その間にララはニーナの手錠を外し、矢吹は咳込みながらノアの後ろへと回る。

「……なぜ、なぜ紫血鬼が人間に助けを乞う⁉」

 理解の範疇を超えた光景に苛立ちを覚えた漸は、怒りを滲ませ矢吹を睨みつける。

「俺はもう紫血鬼じゃねぇ! 角はまだ何でか生えてるけどよ、もうほとんど元に戻ってんだ!」

「……テメェ、俺を馬鹿にするのもいい加減にしろッ‼ ワクチンなしで人間に戻る方法など──」

「あるわ」

 漸の瞳の奥に殺意が滲み始めたとき、完全に意識を回復させた御影の丸い声がそれを汲み取った。

 東京が大疫病に見舞われてから一年半。世の中に数本しか存在しない高価なワクチンを打つ以外に人間に戻るなど不可能だと考えられていた通説が今、打ち砕かれようとしている。その歴史的瞬間に、その場にいた他の者は息を飲み、数秒間だけ、宇宙空間のような沈黙がその場を支配する。

「自分の中にある最も大きい『怒り』を消し去ること。それが私が人間に戻れた理由よ」

 その予想だにしなかった回答に皆、頭上に疑問符を浮かべる。ただその中でノアだけは、「怒り……」と自分にしか聞こえない程の声量で復唱した。

「ふざけるなッ! 第一、あんな化け物たちに感情などあるわけないだろう⁉」

「本当に何もわかってないのね。怒りは紫血鬼たちの核なる原動力。それが体内のウイルスと反応して、人外な機動力を可能にしてる」

「フンッ、あぁそうかい。じゃぁ今すぐ、その怒りとやらで俺を殺して見せろッ!」

 御影の嘲笑が漸の癇に触れると、逆上するように腰から日本刀を引き抜き、剣先を御影の眉間に突き立てた。

「やめなさい」

 そのとき、最奥から鳴った艶美な声色が漸の背中に当たる。

「この世に一つしかない希少な宝石を自ら壊す気?」

「悪いな、死にぞこないの戯言に付き合ってる暇はねぇんだ。俺たちにはもうすぐ国からワクチンが支給される。こんな絵空事、聞くだけ無駄だ」

 振り返る素振りすら見せず、今一度柄を強く握りしめた漸は剣先を天井に向けた。

「このウイルスを治すワクチンは存在しない、って言っても?」

 二度目の背に当たったその言葉は、握力を少しだけ緩ませた。

「……一言だけ聞いてやる。何を知ってる?」

「アメリカの民間研究機関がワクチン開発に成功したっていう声明を信じてるんだろうけど、そんなの全部嘘。そもそも、そんな研究機関すら存在しない」

「えらく詳しいじゃねぇか。だが生憎、どこの国から来たのかもわからねぇ初対面の女に何を言われても、ただの出鱈目にしか聞こえねぇぜ」

「これを見てもかしら」

 そう着ていたキャットスーツのファスナーを胸元まで下げると、谷間から取り出したスマートフォンをバーカウンターに滑らせ、漸へと渡した。

 そこに映し出されていたのは、研究機関が架空の存在である旨が英文で書かれた超国家機密文書でだった。

「……お前、一体何者だ?」

「イタリア最大のマフィアの組員。って言っても、こう言った方が分かりやすいかしら。あなた達が捕り逃がした、アニェッリ・ロメロの元部下、ってね」

 その名が漸の鼓膜を打った瞬間、刀を握っていた手が怒りに震え出し、徐々に剣先が降下していく。

「……あぁ。その名前を聞いただけで吐き気がする」


 一年前。何らからの裏口を使い、ドームに自由に出入りしている者がいるという情報を得た漸と羅美は、数ヵ月に及ぶ捜索活動の努力が実り、ロメロを追い詰めることに成功した。

「頼むから大人しく捕まってくんねぇか、オッサン」

「私を捕まえたところでどうする? この国に、私を裁ける法律なんて存在するのか?」

「ねぇよ、そんなの。だから俺の手で裁いてやるって言ってんだ」

「馬鹿。生け捕りにするように言われているの忘れないで」

「あぁ、そういえばそうだったっけな。ま、要は殺さなきゃいいんだろ? じゃぁ」

 腰を落とし柄に手を掛けると、シンクロするように羅美も同様の構えを取る。

「命以外の全てを剥いでやる」

 構えだけではない。踏み込みから、距離を詰めるスピード、刀が振り下ろされるタイミング。神経が繋がっているかの如く合わされた、完璧な攻撃で、夜の空気に二本の残光を描き──が、二つの刃がロメロに触れた瞬間、凄烈な金切り音と共に刃が根元から折れた。

「「⁉」」

 予想だにしなかった展開に二人は、すぐさま態勢を崩し退避を試みる──が、その隙を見逃さんとばかりに放たれ高速の拳が二人の腹部を襲う。

「ぐはっ……!」

 何本かのあばらを折れ、地面へ血を吐き散らした漸は、激痛に耐えながら顔を上げる。その視線の先では、意識を失い髪を掴まれ宙に持ち上げられた羅美と、その首筋に注射針が翳すロメロの姿。

「君は、きっと良い紫血鬼になれる……」

「やめ……ろ……っ」

 決死の思いで絞り出されたその掠れ声は、無情にも羅美の悲鳴に掻き消された。


「で、そのマフィアの組員がなぜ日本に来たの?」

 口を閉ざし、ふつふつと怒りを煮えたぎらせる漸に変わり、ララが問う。

「あいつは得た紫血鬼の力を使って、自分の考えに反対する組員を根こそぎ殺し、組織を崩壊させた。私は、その仲間の仇を取りに来た」

 一切の淀みなく言ってのけたザイラの瞳の中に燃える復讐の焔は、バーの薄暗い照明下ではより強調して見えた。

「なるほどね。だから、あのクラブにいたってわけ」

「あなた達もあのクラブに?」

「えぇ。あなたがやられた直後にね」

 その一言で反撃を喰らったあのときの記憶が蘇ると、瞳の中の焔がより一層強くなる。

「……そう。助けてくれたお礼もある。あなた達の望みはなに?」

「もう一度、あの男に会わせて欲しい。そして、このウイルスの全てを知りたい」



 その要望に二つ返事を返すように深く頷くと、スマートフォンの画面を何度かタップし、一枚の写真を表示させた。

「組員の調査から、決まって一か月に一度のペースで都庁に出入りしていることが確認されている。そして、明日が丁度その日に当たる」

「……好都合。私も連れて行って」

 意識を取り戻した羅美は体を起こし、心を入れ替えるように深呼吸した。

「もし、そこの少女の言うことが正しいなら、私はあの男に怒っている。彼を許すことが、人間に戻れる唯一の方法なら、私も行くしかない。もし怖くないなら、あなたも一緒に来て欲しい」

 そう羅美に向けられた視線を、漸は鼻で笑い返す。

「馬鹿言うな、怖いわけがねぇ。今回は手加減もなしだ。心臓の皮まで剥ぎきってやる」

「決まりね。で、あなた達はどうするの?」

 ザイラの視線と声が、これまで蚊帳の外だった二人へ向く。

「私たちは他にやることが」

「いいや、俺たちも一緒に行く」

 そう被せ気味に発した矢吹の横顔を、ノアは約束を忘れたのかと言わんばかりに見る。

「ルナちゃんも言ってた。やらなきゃならないことが新宿にあるって」

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