第3話

Phase 473.5



「くっ……」

 腹部から流れ出る温かい液体の感触で意識を取り戻したノアは、ゆっくりと体を起き上がらせる。会社が入っていたのであろうそのフロアには、埃を被った事務用品の数々が、社員の帰りを待つかのようにしんと整列していた。

 ノアはその一角のデスクに載ったパソコンを払い落すと、仰向けに寝転ぶようにして上に乗った。

 =needle =yarn

 そして針と糸を生成すると、デスクライトを手繰り寄せ、流血が続く腹の傷口に当てる。蹴りの一撃を受けた際、脛から突出した骨が刺さり生まれた傷。だがその骨は短く、臓器までは到達していなかったのは不幸中の幸いであった。

 一度深呼吸をした後、意を決し、自らの手で傷口へ針を通す。

「ゥぁ──」

 麻酔無しで行う縫合の痛みに悲痛な叫びが漏れるも、どこかで潜んでいるかもしれない紫血鬼に見つからないようにと、シャツの前襟を噛み必死で声を殺す。そうして何とか縫い終えたノアは、果てるように机へ全身を預け目を閉じる。瞼の裏に浮かび上がってくる記憶を頭の中で整理していると、次々と疑問が浮かび上がってきた。

 一時的ではあったがフランクはなぜワクチンなしに人間に戻ることが出来たのか。なぜアメリカはウイルスを収めるどころか、増幅させる得体の知れないものを開発し、ライリーに手渡したのか。

 そして今もまだ、ルナは原宿にいるのだろうか。

 ライリーが死に、フランクが消えた今、確かめることができる疑問は一つであった。

 =hole to Harajuku

 ルナに会いたい。その想いに突き動かされるまま創筆を握ったノアは机の上にそう書き記すと、僅かな休息も取らず再び体を起こし、壁に掛けられた時計を一瞥した。

 ゲート再開まで残り十七時間三十六分。


「持ってあと二か月程かと」

 あまりにも短いルナの余命宣告を受けた母親は、言葉を失い項垂れるようにして顔を俯かせた。

「どうすれば助かるんですか」

 同席していたノアが淡々と言葉を繋ぐ。選択肢はないと言われることを恐れ、あえて断定的な言葉を使って。

「日本へ行って下さい。この症状を完治させた実績を持つ医者がいる唯一の国です」

 それに応えるように医者も簡潔に言葉を述べていく。

「ただ、国外での手術となると保険が適用されません。莫大な費用がかかることを覚悟しておいてください。それに加え、手術が成功する確率は──」

「そんなっ……」

 母親の口から漏れるくぐもった悲嘆の声。その絶望的数字を聞いても尚、ノアは怯むことなく

「わかりました。すぐに紹介状の手配をお願いします」

「わかりましたって……。そんなお金、どこにもないわよ……」

「大丈夫よ母さん。お金は私が何とかする」

 ノアは部屋に充満した重たい空気を押し上げるようにして立ち上がり、扉に手を掛ける。そんなあてがどこにあるのかと言わんばかりにノアを見つめる母親の懐疑的な視線を一身に受けて。

「本当に、大丈夫だから……」


「あ、姉さん」

 病室に入って来たノアに気づいたルナはベッドから上半身を起こし、満面の笑みで迎えた。その朗らかな様子からは、難病を抱えていることなど微塵も感じさせない、いたって健康な十八歳の少女であった。

「また買ってきといたよ」

「ちゃんと熟してるの選んできた?」

 紙袋から一つ桃を取り出し、ルナへふわりと弧を描くよう投げ渡した。

「ふーん。まぁまぁね」

 桃の表面を指の腹で何度か軽く押し、ノアへ投げ返す。

「今から食べる?」

「うん」

 ノアはベッドのすぐそばにあるサイドテーブルの引き出しからナイフを取りだし、慣れた手つきで皮を剥いていく。

「さっきお医者さんと話してさ」

 皮が剥かれていく滑らかさと同じように、いつもの何気ない感じで話しを始める。

「ルナの病気、手術したら治るかもって」

「ほんと?」

「うん。日本で手術を受ければ大丈夫だって」

 順調にひと繋がりで剥けていた皮が、後もう少しのところで途切れ、床に落ちる。

「お金は……?」

 落ちた皮に視線を落とし、ワントーン低くなったルナの声がノアの背に刺さる。

「次の大会で優勝すればまた賞金が入るし、五輪のメンバーにも選ばれる。そうなれば、協会からの援助も受けられるようになるから。何にも心配しなくて大丈夫」

 フェンシング選手であった父親の影響で物心ついたときには既にサーブルを握っていた※ノアは、遺伝として受け継いだその類まれなる反射神経、動体視力、瞬発力で国内のタイトルを総なめにし、女子フェンシング界の期待の星と呼ばれていた。三十半ばを過ぎ選手を引退した父親はノアのコーチ業に専念し、二人三脚で練習に励んでいた最中、突如原因不明の病で父親が急逝すると、医者の勧めにより遺伝を受け継いでいたノアとルナは検査を受けることとなった。可能性としては父親の遺伝を強く受け継いだノアの方だと医者共々推測したが、不運にも病の遺伝を受け継いだのはルナの方であった。

 剥き終えた桃を切り分け皿に盛り、ベッドの淵に腰かける。

「だから、ルナは治すことだけに集中して」

「……ほんとに」

 ルナは、到底受け止めきれない強大な愛情に対する感謝の気持ちを示す言葉を必死に探す。が、こぼれた言葉と共にノアの両腕が自分の体を包み込むと、もはやその思考さえも無意味となり、自分の全てを委ねるようにして体を預けた。

 窓の外に爛漫と咲き誇る白いカーネーションが二人を見守っていた。


 原宿、竹下通り。

 休日になれば若者でごった返す通りも、随所で語創者の死体を紫血鬼たちが取り合うように漁っている殺伐とした状況より、死の一本道(デスロード)と化していた。気づかれればひとたまりもない場景に、ノアはすぐさま息を潜め物影へと身を隠す。

 ルナに会いたいという一心で来たものの、手掛かりはフランクの曖昧な記憶にあった、坊主頭の男というものだけであり、男の写真もない以上、自力で探し出す他なかったノアは、周囲の建物の中で最も高いビルに入り、最上階の廃屋と化したフロアの窓からスナイパーライフルで索敵を試みる。

 蛆虫のように死体に群がる紫血鬼たちに照準を合わせ、容姿を確認していくノア。しかしそう簡単に見つかる訳もなく──諦めスコープから目を放そうとしたそのとき、三人の紫血鬼に追いかけられ、必死に逃げ惑う一人の少年、『矢吹ケン翔』の姿が目に入る。

「何回言ったらわかるんだ。俺はハンターじゃねぇって言ってんだろ」「デハ、お前カラする、人間ノ匂いはナンダ!」

「そんなの知らねぇつーの!」

 その見事に刈り上げられた頭髪に思わず瞠目したノアは、すぐさまライフル弾のボディに=holeと書き弾を込め──再びスコープを覗き込み息を止めトリガーに指を掛ける。

 バゥン──

 重々しくも鋭い銃声がこだまし、少年が駆ける数メートル先の打ち込まれ、落とし穴のごとくホールが生成されると、転げ落ちるようにして少年の体はホールへ落ちていった。

「いててっ……。ったく、何なんだよ次から次によぉ……あ?」

「動いたら撃つ」

 ホールから落ちてきた少年を待ち構えていたノアは、こめかみに拳銃の銃口を向ける。矢吹は顔を引きつらせながら両手を上げ、視線だけをノアの方に動かす。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。もう俺は紫血鬼じゃねぇんだってば」

「黙って。あなたはこれから私がする質問に答えるだけでいい」

 矢吹の話を聞く耳さえ持たず、ルナの写真を少年の目の前に掲げる。

「この女に見覚えは?」

「し、知ってる。ルナちゃんだろ? なんでハンターのあんたがルナちゃんを」

 少年の口から出たその二文字に一気に心拍数が上がり、無意識に拳銃を握る手に力が入り、食い込ませるように銃口を強く押し当てる。

「今どこにいるの⁉」

「……それは、わからない」

「……そう」

 期待外れの返答に我に返ると、トリガーに掛かった指に力が入る。その僅かに金属が軋む音を察知した少年は、咄嗟に声色を変える。

「まてまてまてっ! でも大体の行き先はわかる。俺をドームの中から出してくれたら教えてもいい」

「何を言い出すかと思えば……。第一、外に出れたとしても、警察に見つかって殺されるだけ」

「いやだからさ、俺はもうほとんど人間なんだってば」

 それを照明するように、片方の手の親指の腹を噛むと、そこからは常人と何ら遜色ない赤い血が流れだした。

「な? 角もヒビ割れてきてるし、能力も使い物になんねぇ。挙句の果てに紫血鬼たちにはハンター扱いされて困ってんだよ」

 次々と明らかになる不可解な事実に戸惑いを隠せないノア。だがその何よりも、出会ったときから紫血鬼特有の殺気が全く感じられなかったことが、主張の一番の裏付けとなった。

「なぜあなただけが人間に戻っているの?」

「そんなの俺にもわかんねぇよ。けど、体がこうなり始めたのはルナちゃんと会ってからだ。ルナちゃんが何か知ってるに違いねぇ」

 ここぞとばかりにルナの名前を連呼する矢吹。限りなく人間に近いとはいえ、目の前の少年は未だ紫血鬼であり、連れ出したことがバレれば、特別に定められた法律により紫血鬼と共に葬られることは確定していた。そのリスクを負ってもこの少年を連れ出す価値があるか。それとも振り出しに戻り、また一から手掛かりのない状況でルナを探すのか。心の中でその二つを天秤にかける。

「居るのは分カッテイルぞ! サッサと出テコイ、人間!」

 銃声を聞きつけた紫血鬼たちが鍵のかかったドアを乱暴に叩く。

「おい、まてっ──」

 パンッ──

 発砲音と同時に体制が崩れ、床に横たわる矢吹。ノアはその少年を担ぎ上げると、床に単語を書き記しフロアを後にした。

 ドガンッ。紫血鬼たちの力に耐えきれなくなったドアはついに蹴破られ、複数の紫血鬼が部屋になだれ込むも、そこは既にもぬけの殻であった。

「チッ、逃げラレタか……。んッ?」

 その中の一人が足元に違和感を覚え視線を下げる。一本の糸が窓から差し込む月光を浴び閃くのを確認した瞬間──天井に貼り付けられたダイナマイトが起爆し、崩壊した天井の下敷きとなった紫血鬼たちは一斉に屍と化した。


 バーカウンターに両肘をつき、誰かを待つように虎視眈々と一点を見つめる女。黒のニット帽にタイト目な黒のロングシャツにスキニー。おまけに右目に掛けられた黒の眼帯。黒で覆いつくされた女から醸し出される凛禅とした空気は、ダンスフロアで踊りハイになっている男さえ、近づかせない程の棘を帯びていた。

「彼女にマティーニと冷えたヴァイスヴルストを」

 そこへ鈍色の軍服を携えた女がその女の隣に座ると、迷いなくバーテンダーに奇妙なオーダーを伝える。しかし、バーテンは動く素振りすらみせず、黙ったまま佇み続ける。

「三等分のライムが入ったモヒートを二つ」

 そこへ黒づくめの女も続くと、バーテンダーは注文を受けた品ではなく、両者の間に一枚の写真を置いた。

「あのララ・マルティと組めるなんて。光栄だわ」

 ララ・マルティ。軍事関係者であればその名を知らぬ者はいないという程の天才。IQは200を超え、どれだけ不利な状況であっても、最後は必ず戦況をひっくり返し敵を殲滅する指揮力で、数々の戦場で成果を上げ、周囲からは現代のナポレオンと称されていた。

 黒づくめの女は、ニット帽からはみ出た唯一の暖色であるライトブラウンの髪を揺らし、その女に視線を向ける。

「こちらこそ。よろしくねGSG9の悪魔さん」

「その呼び方はやめて。もう今はただのニーナ・ハッセルバッハよ」

「そう。じゃぁ改めてよろしくね。ニーナ」

 ララは照れを隠す様に言うニーナの顔を覗き込むように微笑むと、胸元についたフランス国旗のバッチが照明の光を帯び僅かに閃く。

「で、今回の標的は?」

「この男よ」

 置かれた写真に写っていたのは、黒のサングラスに黒スーツをぴしりと着こなし、複数人の部下を連れ街を歩く男性。綺麗に生え揃う白髪からして齢は五十から六十の間だろうと推定できる。

「イタリアで最も大きい勢力を誇るマフィアグループのボスよ。フランス政府の諜報員による情報筋からは、今回の大疫病に大きく関わってる可能性が高いって話」

 ララは話の続けざまにスマホを取り出し、一枚の画像を表示させる。それを見たニーナは彼の姿に強く違和感を覚えた。

「これは三日前にドームに入った調査員が、渋谷にあるクラブへ入っていく男を捉えた写真。お気づきの通り、何故か彼の頭部からは角が生えていない」

「……彼は何かしら紫血鬼を回避する術を知ってる」

「えぇ、その可能性が高い。今回の任務は彼が知ってる全ての情報を引き出すこと。どんな手を使ってでもね」

 次いで画面をスワイプすると、煌びやかな装飾が施されたクラブの外観を表示させた。

「ここ一帯の地権はほとんど戸津沼組という日本で最も勢力が大きいヤクザが握っていて、このクラブもそこが経営しているっていう情報よ」

「イタリア最大のマフィアと日本最大のヤクザ……。これはかなり裏がありそうね」

「えぇ。前情報では組員らしき人間はいなかったらしいけど、こんな立派なクラブを護衛ゼロでやるとは到底思えない。戸津沼組との戦闘も十分にありうる」

 静かに頷くニーナを確認したララは、再び画面をスワイプし、各フロアの設計図を表示さた。

「クラブの設計はとても単純。入口を抜けると、最大七百人を収容できるダンスフロアが広がっていて、毎晩数百人のヴァンパイアたちがひしめき合ってる。そして男がいるのは入り口の対面に位置するビップルーム。ここに辿り着くまでには当然のようにフロアを突っ切るしかないって話」

「問題はどうやって気づかれずに行くかね……」

「そこは心配しないで。そのために秘密のアイテムを政府に依頼しておいた」

 ララはそう言って得意げにバーテンに視線を送ると、バーテンは厨房の方から真っ白のケーキボックスを持って来ては、二人の間に置く。

 状況が把握できず困惑気味のニーナは、開かれた中身を見てより一層戸惑いの色を強めた。

「これは……、なに?」


「約款は面倒だから説明しねぇ──」

 漸は門前に集まった語創者たちに対し、煙草の煙と共に常套句を吐き捨てる。地面に自分の名前を書き残した語創者たちは、零時を告げるチャイムを今か今かと待ちわびている中、群衆の渦中にいた民藍は、迷子になった子供のように周囲を見回していた。

 門が重々しい音を立て徐々に開いていき、幕が露になるに連れ、群衆の熱気も沸々と高まっていき

 ゴ──ン

 チャイムを合図に皆、欲望と殺気が渦巻くドーム内へと我先にと駆け出した。群衆の勢いに押されるようにドーム内に入った民藍は、改めて周囲を見渡すが、一向に待ち人の姿は見えない。

 あのとき、初対面でありながらも、彼女の口から出る異質な言葉の数々に魅了され、彼女なら自分の背中を任せられると多大なる信頼を寄せた自分がいた。しかし今となっては、プラスの方向に振れた心の反動も相まって、幻滅感に襲われそうになり──だが、これから戦う相手の醜貌が頭を過ると、その怒りを原動力に腹をくくり、筆圧強く地面へ単語を書き始めた。

「ちっさくて全然見つけられなかったんだけど」

 皮肉交じりの言葉が頭上から降ってくると同時に、見覚えのある白の厚底スニーカーが視界に飛び込んでくると、筆圧がすっと緩んだ。

「てっきり、来ないかと思ってたヨ」

「あんな上物を目の前で取られて、黙ってられるわけないでしょ」

「ふふっ。ま、威勢のいいこと言えるのも今のうちだヨ」

 書き終えた民藍は、安堵と緊張が半分ずつ混ざった面持ちで顔を上げると、地面に刻まれた=hole to shibuyaという文字が、夥しい殺気で満ちた深淵穴へと変わり、今か今かと二人を待ち構える。

「地獄に落ちる準備はいいネ?」

 その問いかけに応えるように穴の淵に両足を掛ける。

「早く落ちさせてよ」

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