第2話

Phase 473



『──姉さん、早く迎えに来て』

「はっ──」

 目を開くとそこには見慣れた天井が目に映る。彼是数年間、ノア・エスペランザは毎晩同じ夢で目を覚ましていた。ノアは枕元にあったスマートフォンのスリーブを解除し、まだ深夜の入り口にも達していないことを確認すると、体をゆっくりと回転させ体をベッドに対し半身の状態にし、枕の下から年季の入ったA6サイズのノートを取り出す。そして表紙を開き、一ページ目にクリップで止められていたポロライド写真に写る妹のルナを愛おしくも、どこか儚げな眼差しでぼんやりと眺めながら、顔の輪郭を人差し指でなぞっていく。

 磨き上げられたサファイアのような透き通る青い眼に、それを強調するかのようなカールした長いまつ毛は、姉妹に共通した部分であったが、父譲りの鼻の高さはノアにはない部分であった。その、決して高くはないがかといって低くもない鼻から溜息を吐きながらページを捲ると、そのページからは日付と一文の短い日記が、一日おきに更新され、端から端までびっしりと文字で埋め尽くされていた。その始まり、二ページ目の一行目に記載された、もう何度読んだかもわからない来日した日付と文が言葉としてではなく、意味を持たない独立した記号として目に飛び込んでくると、脳内にある記憶の引き出しに潜り込み、当時の鮮度を保った感情を次々と引きずり出してくる。その度、ノアの心はそれらが持つ力にかき乱された後、最終的に一つの感情に支配されるのであった。

「ルナ……、ごめ」

 ピピピピピピ──

 言葉がスマートフォンのアラームに遮られると同時に、心に広がりかけていた黒いものがすっと引いていく。平心を戻したノアはアラームを止めながら上半身を起き上がらせ、一つ深呼吸をし、ふと窓の外を眺める。煌々と光る電光看板が作る街の下、千鳥足で介抱されながら上司の愚痴をこぼす会社員、適当な言葉を並べて客を引く定員、何重もの嘘で塗り固められた中年男性と若い女のカップル。初めは全てが異様に映った光景も、来日から一年が経った今となっては、どれも当たり前の風景となって認識されるようになった。

 しかし、その街の一寸先、密接するように聳える東京二十三区を覆うコンクリートで形成されたドーム。当然のことながら、部屋の窓からその全体を目視できるはずもなく、表面に描かれた幾何学模様は街の風景や景観といった概念を無視するかのような風情を醸し出し、悠然と聳え立つその佇まいはいつになっても見慣れることはなかった。

「必ず……、見つけ出してみせる」

 窓ガラス越しに決然たる瞳でドームを見つめながら、小さく震える左手には、日記と共にブレスレットから伸びるペンが握りしめられていた。


──一年半前

 二〇XX年。突如として原因不明のウイルスが東京二十三区を襲い、一日も経たずに二十三区内の住民全員が発症した。そのウイルスは感染者の血液を紫色に変色させ、頭部から角を生やすことから『紫血鬼化現象』と名付けられた。

 ウイルスは人から人への感染は確認されなかったものの、紫血鬼と化した人間は自我を失い、正常な血を持つ者を前にすると、突発的にその者を襲う習性があった。ゆえに日本政府はすぐさま東京二十三区を自衛隊で包囲し、紫血鬼たちを隔離するための巨大なコンクリートドームを建設していった。日本政府を含め各国の機関は研究に乗り出すも、前例のない症状に研究は困難を極める中、経済活動の主軸であった首都中枢部を失った日本の景気はことごとく悪化していき、臨時的に大阪に建てられた国会では、一刻も早い経済活動再開を掲げた殲滅派と、ワクチン開発を待つべきだという人権派で様々な議論が交わされた。その最中、アメリカの民間研究機関『※』の研究により、一人をワクチンを作成するためには一人の紫血から僅か数ミリグラムしか採取できない成分が約五万人分必要であり、その試算に基づくと、ほんの数百人程しか助けることができないという発表がなされると、それが長く続いた議論に終止符を打ち、殲滅という結論に至らせた。

 『東京再興計画』と題されたそれは、各国から招集した軍隊を使った、ただの殺戮であり、紫血鬼たちは無残に殺されていくはずであった。がしかし、自らの死を前に紫血が持つ潜在能力を開花させた紫血鬼たちは、全身の皮膚を銃弾も通さぬ鋼鉄の硬さへと変え、紫血を思考した物へと変化させる具現化能力を得ると、軍人たちを返り討ちにしていった。

 なすすべがなくなったかのように思われたが、他機関より研究が進んでいた『※』が、紫血化の原因とされるウイルスを解明し、それを元に紫血鬼の具現化能力と同じ効力を発揮できる対紫血鬼用兵器『創筆(バース)』を開発した。

 その外見は色形は多種に展開されているものの、全てに共通して従来のボールペンより少し太い構造となっており、中では透明の二本の管が遺伝子のように螺旋状に絡みあっている。一本の管は持ち主の血管と繋がっており、赤い血が流れ、もう一本には赤血を紫血に変える作用を持つウイルス成分と同等の効力を持つ培養液が流れている。二本の管の液体がペン先で混ざり合い、具現化したい物の単語を紫血として放出することで、紫血鬼の具現化能力と同等の効力を獲得し、鋼鉄の皮膚を破れる武器を生成することができるといった仕組みであった。しかし、万物を生成できるわけではなく、あくまでも現実世界にあり、且つ、それを構成する紫血の量に見合う体積の物でなければならない。

 そして日本政府は一刻も早い東京再興を目指すため、高額な謝礼金を設定し、軍人のみならず、各国から『語創者』という名の狩人を募り、現行のシステムが確立させたのであった。


 僅かに残った眠気を洗い流す様にシャワーを浴び、冷蔵庫で冷えたミネラルウォーターで喉を潤すと、デニムジャケットを羽織り夜の街に繰り出した。

 夜が深くなり始めるにつれ、飲食店の明かりが次々と消えていく最中、その光景に反比例するように、街を歩く人が増えていく。それも日本人は極少数で、大多数が他国から来日した者であり、皆共通して、手首にはバーコードの刺青と、逆方には髑髏のブレスレットがはめられ、そこから一本のペンをぶら下げている。各人の表情も、悲哀な表情を浮かべている者、泰然としている者、怒りで満ち溢れている者、笑っている者、どの言葉でも形容できない不気味な表情を浮かべている者など、どれも千差万別であった。

 ノアを含めその者たちは、街の中心部、ひいてドームに入るための唯一の入り口の麓に位置する大型クラブ『GOOD LUCK』へと吸い寄せられるように歩みを進める。外観はクラブには珍しい屋敷をモチーフとしており、瓦屋根には数十種類の国旗が所狭しと掲げられている。入口にはこれまた屋敷の風貌には似つかわしくないピンク色のネオン看板が取り付けられ、手首のバーコードをかざし入場ゲートを抜けると、ざっと五百人は軽く収容できるであろう広大なフロアが広がる。その三分の一はバーカウンターが占めており、数百種類のお酒と濃度別のジョイントが用意され、テーブルには裏に設けられたキッチンで作られた各国の名産料理がずらりと並んでいる。

「サングリアを」

 ノアはカウンターに着くや否やそうオーダーすると、バーテンは返事をするでも頷くでもなく、慣れた手つきで果物を切り分け、ほんの数十秒でそれを完成させた。

 ノアは魚介を中心としたタパスをつまみに酒を嗜みながら、店内にに響き渡るクラブミュージックに耳を傾ける。ダンスフロアでは数百人の男と店が用意した遊女がそのビートに体を乗せ入り乱れ、やがて高揚し制御不能となった理性を抱えた男女ペアが、激しい抱擁を交わしながら次々とカーテンで仕切られた部屋へと消えていく。

 そしてまた一人、爆発寸前の理性を携えた男がカウンターに座るノアを捉えると、踊り狂う人々の群がりを抜け、じりじりと熱い視線を保ちながら近づき、ノアの横に座った。

「なぁネェチャン、俺と一発どうよ」

 鼻息を荒くし、百八十センチ程ある体躯を寄せながら、ノアの顔を覗く。対しノアはあたかも存在していないかのように無視する。

「いいじゃんかよ、一回ぐらい。今日死ぬかもしれねぇんだぜ? だったら、後悔したまま死にたくねぇだろお⁉」

 黄色の肌から吹き出す汗と、口内から漂う酒の匂いが混じった嫌な匂いがノアの鼻孔を突くと、精悍な目つきで男を睨んだ。

「消えて」

「そんな冷てぇこと言わずによぉ」と男の手がノアの首元に伸びた瞬間、ノアは男の手首を捻りながら背後に周り、カウンターにその体躯を押し付けた。

「さっさと消えて」

「チッ! 後悔しても遅せぇぞ。どうせ、お前みたいな女は、あいつらにすぐに食われて終わるんだからな!」

 男は全身の力でノアを振り払い言葉を吐き捨てると、怒りを露わにダンスフロアへと戻ってく。

 内酒池肉林が具現化されたこのクラブが設立された理由はただ一つ。全てはこれから始まる狩りに万全の態勢で挑んでもらい、よりよい結果を出してもらう為であり、その為ならどんな要望でも応えるというのがこの店の方針であった。

「バドワイザーを」

 その男と入れ替わるようにして、ノアの隣に一人の女がカウンターチェアに腰を掛ける。肩程まである茶髪は全て後ろで一まとめにされ、露になった顔肌のハリから、齢はノアと同じ二十代であることがわかる。

「さっきの撃退劇。見事だった」

 彼女は少し口角を緩ませながら注文した瓶ビールを一口飲むと、懐から一枚の写真を取り出し、タパスの隣に差し出した。

「人を探してるの。今夜一緒に来て欲しい」

「用心棒なら、他にいくらでもいるでしょ」

「あなたほど長く生き残っている語創者はそういない。もちろんちゃんと礼もする」

 女は腰に巻いていたウエストポーチから二本の圧縮式注射器を差し出す。その四角い器内に内在された半透明の橙色の液体を目にしたとき、ノアの呼吸が一瞬止まる。それは、これまで狩られた紫血鬼の血で作られた貴重なワクチンであった。

「予備を含めて二本ある。アメリカ政府から提供されたものよ。品質は保証する」

「どうしてこれを──?」

 ノアは疑念に突き動かされ初めて彼女に目を向けると、限りなく黒に近い濃紺のポロシャツと、肩にあしらわれた鷲がモチーフとされたワッペンが両目に映った。

「彼は私の同僚でね。州の命を受けて来日してたの。そして運悪く大疫病に巻き込まれて、紫血鬼になった。もちろん彼の家族が猛反発して、国を相手に訴訟を起こして」

「示談として政府がワクチンを?」

「ええ。そして、私が彼を連れて帰る任務を請け負ったってわけ」

 説明を終えた女は瓶を大きく傾けビールを飲み干すと、ノアの両眼を一点に見つめた。

「これを買うのに、あと何回あの化け物たちと戦うつもり? いつまでも生きて帰って来れる保証なんてどこにもないのよ?」

 静かに逡巡するノアの心に、図星をついた辛辣な言葉が突き刺さっていく。当初、一千万人程いた紫血鬼も三分の一までに減り、それに伴い、僅かではあるがワクチンが作成されていた。だが、それらには当然のように高額な値段が設定され、まだ紫血鬼を百体程狩らなければならない計算であった。

「妹さんのことは風の噂で聞いたわ。まだ死体も上がってきてないんでしょ。でもいつまでもこんな状況が続くとは限らない。助けるなら早い方がいいのはあなたもわかってるはずでしょ。資金を集めている内に他の語創者に殺され──」

 ガタンッ。

「ルナは死なない、絶対にね──」

 咄嗟に立ち上がった反動でカウンターチェアが勢いよく倒れる。ノアは言葉を遮るように女の胸倉を掴み、鼻息を荒げ、怒気が籠った目で女を睨む。一方で女は表情一つ変えることなく、その両目を捉え続けた。

「だったら、なんで怒ってるの?」

 耳元で囁かれた声はノアを我に返し、胸倉を掴む手をはがした。

「……最大限の努力はする。だけど、保証はできない。あなたの命も、彼の命も」

 その返答で女の固まった表情は崩れ、すっと片手を差し出した。

「決まりね。私はライリー・ロバーツ。ライリーでいいわ。短い間だけど、よろしくね」

 だがノアはその手には目もくれず、注射器を手に取りそっと背を向けたそのとき。

 ヴ──ン! ──ヴ──ン!

 店内に鳴り響いていた軽快な音楽が、突如として厳かなサイレン音と変わると、ダンスフロア側の壁が中央から真っ二つに開いていき、店内が諸に露となった。

「いつまで、猿みてぇに踊ってんだ。さっさと出て来い、クズども」

 その男の声に、それまでフロアに流れていた熱気と興奮が入り混じった空気が一気に冷める。

「あぁ!?」「なんだぁ偉そうに!」「ふざけんじゃねぇぞッ!」

 ドームの入り口である巨大な門の前、髪を金色に染め、黒の羽織りを着た若い男女二人組がフロアに精悍な視線を送る。腰には日本刀が携えられ、現代の侍のような風貌を醸し出す両者は、ドーム唯一の出入り口の門番、超特別警戒区域防衛部隊第ゼロ班の皿時漸と裏峰羅美であった。

「何回も言わせんな、クズ」

「ぐぐっ、ガキぐぁっ!」

 漸は煙草の紫煙を燻らせ、呆れ顔で呟くと、大麻で高揚した一人の男が涎を垂らしながらフロアから飛び出し、そのまま漸に殴りに掛かかる。その刹那、隣にいた羅美の刀が閃いたと思えば、殴り掛かった男の腕は既に地面へ切り落とされていた。

「ゔ、ゔわぁぁぁぁぁぁ──」

「……感謝しな。その程度だったら、中に入ってたら死んでたぜ」

 漸は溜息と共に大量の煙を口から吐き、ゆっくりと屈むと、あろうことか、もがき苦しむ男の腕の切断面に煙草を押し付け火を消した。

「ゔヴゔゥゥゥ──アアアァァ──!」

 その無慈悲で残忍な行動に野次を飛ばしていた連中はこぞって息を飲み、開いた壁からぞろぞろと店を出る。

「もう約款も面倒だから説明しねぇ。簡単にまとめると、この先で何があってもこっちは何の責任も取らねぇってことだ。異論は認めない。質問も受け付けない。それを受け入れる覚悟がある奴だけ地面に名前を残していけ」

 皆横柄な態度に不満を覚えながらも、各々手首にぶら下がった創筆で地面に名前を書いていく。紫血で書き残した名前は命が途絶えると同時に消えることとなっており、ドーム内での生存者名簿的役割を果たしていた。

 各人、万感の思いを胸に名前を綴り終わると、突如、文字の節々から線のようなものが飛び出し地面を這って行くと、幾本の紫血の線が入り口の巨大な扉を登るように這う。そして、ゴゴゴゴゴと重々しい音を立てながら扉が開いていき、数分かけ全てが開き終わると、語創者たちの目に禍々しい空気が渦巻く内側の景色が映った。しかしそれも束の間、すぐさま扉の上枠の窪みから紫色をした巨大な幕が下りると、再び語創者とドーム内を遮った。通称『紫幕』と呼ばれるそれは、幕内に大量の紫血が塗り込まれており、そこに創筆で単語を書くことで、紫幕内の紫血が反応し、より強力な物体の具現化が可能となる、紫血鬼をドーム外に出さないための絶対防壁であった。

「待ってて、フランク……」

 ノアの隣で唱えるように呟いたライリーは、胸中に溢れる期待と不安を包むようにして胸元に垂れ下がったタグ型ネックレスを力強く握る。他の語創者たちもいよいよ始まる狩りを前に臨戦態勢に入ると、周囲を取り巻く空気全体に緊張の糸が張り詰める。

「それじゃ、Phase473を始める。幸運を祈っててやる、野郎ども」

 ゴ──ン

 漸の掛け声と、午前零時を告げるチャイムが合図となり、語創者たちは猛々しい声を上げながら一斉に走り出すと、幕をくぐり、ドーム内に入っていく。その異様な熱気たるや、大昔の戦において敵地に出陣する武士たちを彷彿させた。


「さて、今夜は何人生き残るか……。 羅美、久々に賭けでもやるか?」

 数分前まで祭りのように騒がしかった周囲は一転、虫の鳴声すら聞こえない静寂の中、漸の声と煙草に火をつける音が鳴った。

「馬鹿……。久々にって、昨日もやったじゃない」

「あ? そうだったか」

 門の左柱に背を預けていた漸は記憶を探るように、ヘアバンドでパイナップルの葉のように上がった金髪を掻く。同じく右柱を背もたれに佇んでいた羅美は、呆れるようにボブヘアを揺らし、コートの下に着ていたタンクトップから露になった谷間に溜息を落とす。

「阿保。ほんとに阿……、うぷっ──」

「──!?」

 そのとき、突如羅美の口内で言葉が液体に溺れ、咄嗟に口元を抑える──しかし、次々と食道を逆流し口内へ流れ込むそれに耐えきれなくなった羅美は、ついに勢いよく吐き出した。

 数メートルあった距離をわずか数秒で駆けた漸は、眼下に吐血された大量の紫血を目の前にしても冷静で、羅美の喉奥まで指を突っ込み、紫血を吐かせつつ、もう片方の手で創筆を握り、生み出した蛭を首に着け紫血を吸わせていく。

「溜めるな。全部吐き出せっ!」

「ぐあっ──!」

 四つん這いになり苦しみに顔を歪めながら吐血し続ける羅美。そうして、一リットル程の吐血した後、血液は赤色に戻った。

「ハァ……、ハァ……」

 漸はコートの内ポケットから徐に手帳を取り出し開くと、バツ印がついた三日前の日付を見て顔を歪める。

「……」

「……確信。やっぱり、スパンが短くなってきてる……。もう……」

 嘆息をもらし、腰から刀を抜き取った羅美はその切っ先を腹に向け──

「やめろッ!」

 息巻く漸の叱声が、その両手をピタリと止める。

「少し……。あと少しで、申請が通るはずだ。そうすればまた昔の体に……」

「疑問……。こんな門番一人のために、ワクチンが支給されるとは思えない」

「俺等はただの門番じゃない! 俺等には、この門を守る能力がある。加えてこんな汚れ仕事、日本の警官は誰もやりたがらない。明日、担当者に催促の連絡を入れておく。あと少し、待つだけでいい」

 漸はいつにもない温かい言葉を口にしながら、悄然とうつむく羅美の頬に手を伸ばすと、そこに流れる一滴の紫涙をそっと拭った。


「ここが、ドーム内……」

 幕を抜けたライリーたちを迎えたのは杉並区と世田谷区の狭間に位置する場所。辺りは紫血鬼どころか人の気配すらせず、ただ紫血鬼との戦いに敗れた語創者の死体が転がり、所々破損した立ち並ぶ建物は、戦いの苛烈さを物語っていた。

「この一帯の紫血鬼は?」

「いない。早々に全員狩られた。さっきの男の写真を」

「そう……」

 ライリーは非日常に目を奪われながら、ノアに写真を手渡す。同様にその悲惨な光景を目にした初めてドーム内に入った語創者たちは怖じ恐れる一方、手慣れた語創者たちは地面へ=holeと書いていく。四つの文字は地面上で渦巻きながら混ざっていき、やがて人一人が入れるほどの深淵の穴を生成すると、そこへ語創者たちは躊躇なく飛び込み消え去って行く。

 その傍ら、ノアは受け取った写真の裏に=crowsと書くと、同じく深淵を生成したかと思えば、まるでマジックのようにそこから烏が次々と飛び立っていく。探索効果を持つ単語であった。

「妹さんはなぜ見つからないの?」

「……それがわかってたら。もう見つけてる」

「……」

 人為的に作られた暗闇へ飛び立っていく烏たちを眺めるノアの横顔からは、寂寥感が垣間見えた。

「……早く見つかればいいわね」

 どういった理由で来日し、大疫病に襲われたのか。ずっと聞きそびれていたその質問をライリーはぐっと飲み込み、近くにあった電柱に寄り掛かる。

 その数分後、早くも一匹の烏が二人の元に戻ると、一本の羽毛だけを残し、空中で破裂した。ノアはひらひらと揺れ落ちてくる漆黒のそれを手に取ると、羽毛の表面に紫血で記された文字を確認し、地面に※単語を書き記す。

=hole to akihabara

「念のため言っておく。今から会うのは、人間であったときの記憶を全てなくした凶暴な鬼。もうあなたが知っている彼だとは思わない方がいい」

 文字が混ざり、地面に穴が生成されていく。

「ええ」

 ライリーは電柱に単語を書き記す。

「覚悟はできてるわ」

 そうして生成された拳銃を強く握ると、決然たる瞳でスライドをゆっくりと下げた。


 バンッ──、バンッ──、バンッ──

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 男は追ってくる紫血鬼に向かい威嚇するように発砲しながら、隠れるようにして路地へ入ると、崩れるようにしてその場に尻を着き、必死に呼吸を整える。

「……チッ! ちょこまかと動きやがって……。くっ!」

──東京都台東区秋葉原

 多くの電気屋やアミューズメント施設が立ち並び、活気に満ち溢れていたこの街も、今となっては活気のかの字もなく、あるのはただ、誰に向けて灯っている訳でもないネオン看板を纏ったビルと、その灯りに照らされる語創者たちの死体だけであった。

 その中心部。何棟ものビルが双璧のように建ち並ぶメインストリートと呼ばれる通りを、道端で死骸となり朽ち果てる語創者たちを横目に必死に逃げる一人の男。やがて灯りの少ない路地へ逃げ込むと、痛みに顔を歪ませながら腹部から溢れ出る大量の血を手で抑え、その場に腰を下ろした。紫血鬼の爪の形に抉り取られその傷は臓器にまで到達し、意識を朦朧とさせながら、この絶体絶命的状況を打開する一手を思案していると、そこへ

「お、おい、そこの女」

 まるで女神の如く、絶好のタイミングで一人の若い女が通りかかった。スポーツメーカーのロゴが入ったタイトな黒ジャージを履き、紺色のMA1ジャケットを羽織るその女は、自分の前を飛ぶ昆虫のようなものから視線を切らさず、背後からの男の呼びかけに歩みを止める。

「俺の血の匂いを辿って、奴が来る。相手も相当弱ってるが、俺は見ての通り、この有様だ。もう弾もインクも残ってねぇ。だから、お前が止めを刺してくれ。取り分は全部お前にやる」

 その言葉に女は黒髪のポニーテールを揺らし一瞬だけ振り返ると、露になったアジア系の目尻が少し吊り上がった目で男を蔑むように見て、「……興味ない」と毅然とした態度で言葉を返し、再び虫に導かれるように歩みを進めた。

「おい、待ちやがれっ! 弱った鬼を譲ってやるって言ってんだ。だから」

「ヴルルルルルル──」

 そこへ獣のように喉を鳴らし、路地の入口に鬼の手が掛かかり、次に顔を覗かせる。肩まで伸びる長い髪の中から不自然に右脳の辺りから生える一本の角。そしてナイフのように尖った指先は、べったりと人間の赤い血で染まっていた。

「ちくしょおおオオオ──!」

 男は差し迫る表情で創筆を握り、ペン先を力一杯地面へ押し付け、何度も何度も単語を書く。がしかし──

無情にも出てくるのは、自分の血管と繋がった管から伝う赤血のみであった。

「やめろ、来るなっ、来るな──ッ!」

「ヴルルルルラララァァァァ──!!」

 グチャ。

 肉塊が抉れる鈍く、重たい音が路地に反響すると、男の胸部を貫通した紫血鬼の手はそのまま心臓を抉り取り、一瞬にして臓器としての機能を停止させた。そして最高潮に達した高揚は収まることを知らず──男の心臓を片手に女に向かって疾駆する。

 しかし、そんな殺人鬼を前にしても女はいたって冷静で、慣れた手つき単語を書き記すと、ただ胸の前で腕を伸ばし、手を少しだけ開く。記された紫血からは雫が宙へ浮かび上がり、何かを生成していく。

「グルルルルッゥ──!」

 その間も紫血鬼は女との距離を縮め──射程距離に入った頃を見計らうと、凶器と化した爪を掲げ襲い掛かった。そのとき。

 スパッ──

 寸前のタイミングで生成された一本の刀が閃くと、同時に紫血鬼は態勢を崩し、寸毫の差で爪が女の体の隣を薙いだ。

「……くだらない」

 そうして男に吐き捨てたように尖った言葉を口にした途端、紫血鬼の頭が首から滑り落ち、遅れて体が地面に倒れる。その切り落とされた顔の両目からは、それぞれ一滴の紫涙がこぼれ落ちていた。

 女は大金へと換わる死体に見向きもせず、再び昆虫を追い路地を進むと、やがて路地を抜けた昆虫は、メインストリートから一つずれた通りの一画にある、二階建ての雑居ビルの看板に止まり翅を休めた。

 『メイド喫茶』という文字の『メイド』の部分だけが赤いスプレーのバツ印で消され、その上に『冥途』と乱雑な字で書かれた看板からは、メイド喫茶の必須条件ともいえる萌え要素が微塵も感じられず、そこにビル全体を包み込む不気味な薄暗さが追い打ちをかけ、禍々しい空気が醸し出されていた。

 そんなビルを前にしても女は物怖じする様子を一切見せず、看板に止まった昆虫の右翅に紫色で浮かび上がった『74』という数字を見るや、嘆息をもらす。

「また一本角(シングルホーン)……」

 女は首を横に振りながら言葉を落とし、その期待外れの数字を背に踵を返した。

「……?」

 そのとき、背後から弧を描くように飛んできた一つのシュークリームが女の眼前に落ちたと思えば──突如、猛々しい爆裂音と共にそれが破裂し、辺には黒煙と焦げた匂いが立ち込めた。同時に、昆虫の頭の隣からもう一つの頭が生え出るようにして現れ、気色の悪い双頭虫となると、新たに左翅に『89』という数字が浮かび上がる。


「シュークリームはいかがでしたか、ご主人様?」

「お気に召してくれましたでしょうか、ご主人様?」

 不可思議な言葉と一緒にビルから現れた二人の少女は、厚底のローファーで地面を鳴らしながら、殺伐とした状況に似つかわしくないメイド服を揺らす。各々の片目には眼帯が装着され、その表面には『亜』と『異』という漢字が書かれており、頭上に生えた一本の角の隣には、先端が顔を出す様にして二本目の角が生えかかっていた。

 立ち込める黒煙が徐々に晴れていくと、そこにはかまくらを彷彿させるような、人一人覆う程のサイズのコンクリートドームが形成されていた。そして、衝撃を受け止めたそれにヒビが入ると、頂点から徐々に崩れていき、中から女の姿が露になる。

「これが日本特有のおもてなし文化……?」

「まだ生きてらっしゃいましたか、ご主人様」

「しかし単語を書く時間なんてなかったはずですが、ご主人様?」

 そうして完全にドームが形を失ったとき、異と書かれた眼帯をつけた少女が女の足元に落ちていたトランプ程のサイズのカードに目を向ける。

「亜夢、ご主人様の足元に落ちているあれは」

「……なるほど、合点がいきましたわ異夢。あのカードに途中まで単語を書いておき、最後の一文字を付け加えるだけで完成させるようにすることで、単語を書く時間を短縮させたのですわ」

「……当たり。あと、美味しかったよ。シュークリーム」

 女は皮肉交じりの言葉を吐きながら刀を強く握り直すと、地面を駆け二人に襲い掛かる。対し亜夢と異夢は自分の掌を尖った爪で一の字に切ると、亜夢は紫血で自分の背丈程あるフォークを、異夢はスプーンを生成し構えた。女は少女たちが生成した予測不能な武器を前にしても尚、勢い変わらず進み続け──二人を眼前に捉えると、二人諸共殺すように、同じ位置にある首を狙い凄烈な勢いで刀を薙ぐ。

「!?」

 が、その刀は、突如ビルの二階から飛び降り現れた一人の女の右素手で簡単に受け止められた。

「マザー。なぜ止めたのですか」

「そうですマザー。私達だけで倒せます」

「わからないのですか。この子はこれまでのハンターとは違います。舐めてかかると、死にますよ」

 少女たちからマザーと呼ばれるワイシャツに黒ベストをぴしりと着こなしたその女は、子供を叱りつけるようにそう言うと、受け止めた刀を簡単にへし折った。一方、看板に止まっていた昆虫の双頭は一つに合わさり、左右の数字が書かれた翅が生え変わるように落ちると、新たな翅の左右全面に207という数字が刻まれる。

「やっと会えた」

 ポニーテールの女は、その女の頭部に生える二本の角を見るや、心の底から込み上げてくる歓喜に思わず笑みをこぼすと、すかさずもう片手で刀を生成し、脇腹に向かい剣先を突き立てた。

「とりゃぁぁぁぁぁぁ──」

 そのとき、二人の頭上から甲高い叫び声が鳴り響く。その場にいた全員が宙に視線を向けると、真っ黄色のカンフースーツを身に纏った女が体を縦に旋回させながら落下してきたと思えば、

 ドンッ──!

 着地の寸前、踵を突き出した女はその勢いのままに、二人の間に割って入るように踵落としを炸裂させた。

「ありゃりゃ……。ちょっと、ずれちゃったネ」

 間一髪体を後退させ避けた二人の間の地面は、その凄まじい威力にコンクリートが砕け円形状に凹んでおり、そこに立つカンフースーツの女はとぼけた顔で後頭部を掻いた。

「今日は来客が多いですね」

 呆れたように呟くマザーは肩甲骨辺りまで伸びた長い金髪を後ろで縛り、ワイシャツの袖を捲り上げていく。

「あの、二本角(ダブルホーン)は私が倒してあげるネ」

「部外者は黙ってて。あれは私の獲物」

「部外者じゃないヨ、私には『民藍』いう名前あるネ」

 見当違いな返答にポニーテールの女は静かに怒りを込みあがらせるも、いたって真面目な民藍は両手の甲に=gloveと書き、紫色の手袋で両手を覆う。

「あの二人は私が殺ります。あなたたちは下がってなさい」

 強めの語気で言い放ったマザーは両拳を強く握ると、両腕に幾本もの血管が浮かび上がらせる。いつにもなく厳かなその姿に、二人は有無も言わず、言われた通りに後退る。マザーは上半身を低く屈め標的を定めると、ロケットのように飛び出し、ポニーテール女よりも近くにいた民藍に襲い掛かる。

 対し民藍は、体を縦に向け前足を少し浮かし、片方の手を後頭部に、もう片方を胸の先に突き出す奇妙なポーズで迎え撃つ。

 そして二人が相対した瞬間、体格からは想像もできない膂力を受けた民藍は、その衝撃でぶっ飛ばされると、数メートル後方にあった電柱に体をぶつけ強制的に止まった。

「……貴様、なにをしたっ!」

 が、何故かその状況で先に声を上げたのはマザーの方だった。

「大丈夫ですか、マザー?」「どうかしましたか、マザー?」

 亜夢と異夢は言いつけを守り駆け寄りたい気持ちをぐっと抑え、心配の声を投げる。

「……そんなに喚くことない。片目が見えなくなったぐらいでサ」

 マザーが民藍に拳を打ち込んだ瞬間、その拳を片手で受け止めた民藍は、目にも止まらぬ速さでマザーの首の側面、丁度視覚に繋がる神経が通っている部分を的確に、人差し指と中指を合した二本の指で突き、視覚を奪った。

 一体どれだけの修行を積めばあの一瞬の間であれだけの正確無比な打撃を繰り出すことができるのか。一部始終を背後から捉えていた女は、自分の獲物を横取りされたことへの怒りが少し薄れ、その分、女が持つ底知れない力に少しだけ関心を抱いた。

「でも、こんなに力あるとはネ。さすが二本角だけのことあるネ」

「おのれッ……!!」

 かつてない負傷を負い怒り心頭に発したマザーは女性らしからぬ呻き声を声高々に叫ぶと、それに呼応するように体の各部位が衣服を破きながら肥大化していく。やがて二メートル近い体躯へと成長した頃の叫び声はもはや、猛獣が敵を威嚇するときのそれであった。

「本性を現したネ……」

 民藍は怪物と化したマザーを前に口角を引きつらせ、ポニーテールの女はごくりと息を飲み、先程の関心は小学生の恋心のようにすぐに怪物へと移り変わった。

「殺ス……」

「化け物になっても自我を……?」

 女は動揺する一方、どこか嬉しそう口角を上げると、持っていた刀で構え臨戦態勢に入る。だがマザーは女には目もくれず、その巨躯からは想像もできないスピードで民藍に襲い掛かる。

 民藍は咄嗟に態勢を立て直し、先程の構えとは対照的に両足をしっかりと地面に着け低く腰を下ろし、来る強撃に最大限耐えうる構えでマザーを迎える。

 だがほんの数秒後。化け物、否、完全なる鬼と化した相手に、カウンターを仕掛けるなどという思考がどれだけ甘い考えであったかを理解する間もなく、大型トラックにでも轢かれたような鈍い音を置き去りにする程の凄烈な勢いで吹き飛ばされると、コントロールを取る間もなく冥途喫茶の看板に衝突し、地面に落ちた。

「あーあ。もうしーらないっ」「ほんとにしーらないっ」

 亜夢と異夢は無表情のまま口だけを動かし、冷たい声を口にする。

「元はといえばだれのせい」「襲ってきた、ご主人様たちのせい」「じゃぁ、殺るべきは」「決まってる」

 言葉を重ねる度に怒気が帯びていくと、亜夢は持っていたフォークの先端を女に向け、異夢は刀のようにスプーンを構えた。

「「逝ってらっしゃいませ。ご主人様」」

 不気味な言葉がシンクロした瞬間、亜夢のフォークの先端部分が折れ、そこから銃口が露になると、夥しい数の銃弾が女に放たれる。

 その奇襲に女は履いていた靴に素早く=flyと書くと、人間離れした跳躍力で宙を舞い、銃弾を躱した──直後、それを予測していたかのように先に跳躍していた異夢は、まるでハンマーのようにしてスプーンの腹を振りかざした。女は咄嗟に身を翻し刀の刃で防ぐも、衝撃までは防ぎきれず、背中から地面に落下した。

「あれだけの実力で我々を狩ろうとしていたなんて」

「身の程知らずにも程がありますわ」

 口角からツーと垂れる血を甲で拭い、空を薙ぎ刀についた砂埃を払う。

「あぁ……」

 女はため息交じりの言葉を吐きながら、虚ろな顔で虚空を見上げると「……楽しい」と言葉を落とした。

「何か言いましたか」

「聞こえませんでした。神にでも祈っているんじゃないですか」

 暫くして少女たちの方へ視線を戻した女の表情は、何故か恍惚感で溢れていた。

「もう殺してしまいましょうか」

「そうしましょう」

 不気味さが少女たちの癇に障り、先程と同じ構えで武器を握る。女は掌に単語を書き手榴弾のようなものを生成するや、振りかぶって投げた。

「そんな不細工なもの戴けないですわ」

 異夢はそれを打ち返そうとバットのようにスプーンを薙ぎ、腹の中心で捉えた──その瞬間、機を見計らったようなタイミングで起爆したそれからは大量の黒煙が発煙され、あっという間に二人を覆う。

「小賢しい真似をっ。亜夢、早く銃弾の雨で蹴散らし──」

 言葉を遮るように何かが自分の真隣を通過したのを感じると同時に、全身を妙な寒気が襲う。

「異……む……」

「!?」

 直後、消えそうな亜夢の声を耳にした異夢は、嫌な予感を振り払うようにして懸命にスプーンを薙ぎ、黒煙を扇いでいく。

「あ、あっ……」

 だがその予感は、刀に心臓を貫かれた亜夢の姿が露になったことで見事的中する。

「亜夢ッ──!」

「……よく怒られたなぁ。あくまでも殺し屋の仕事は標的を殺すことだって。その過程を楽しんじゃいけないって。だから武器も非効率な接近武器じゃなく、銃を使えってさ」

 女は亜夢の血液が滴る刀を突き刺した心臓を抉るように半回転させ、完全に亜夢の息の根を止める。そして刀を抜くと、傷口から勢いよく噴き出した血飛沫が異夢の顔にかかる。

「でも、そんなのつまんないじゃん。銃じゃ伝わってこないんだよ。心臓の中に渦巻いてる絶望のもっと奥にいる、命の平等を謳う神に抗う瞬間の感触がさっ」

「おのれ──ッ!!!」

 亜夢の死を前に冷静さを失った異夢は、狂人のごとく乱暴にスプーンを振るう。女は出鱈目な攻撃を刀で適当にいなしつつ、異夢の背後を取ったときと同様に靴に=speedと書き、その恩恵を受け高速で背中へ回ると──亜夢と同じ運命を授けたのであった。


「ハァ、ハァ……」

 その傍ら、狂乱するマザーとの激しい死闘を繰り返していた民藍は片膝を着き息を荒げる。既にカンフースーツはボロボロになり、痛々しい傷口の数々が顔を出す。対し、肥大化した筋肉を纏い、鋼の体と化したマザーはかすり傷の一つさえ負っておらず、唯一の負傷は肥大化する直前に失った左目の視力だけであった。

「グローブをつけた打撃が効かない相手なんて初めてだヨ……」

「フンッ。これガ、私のチカラ。他の紫血鬼ニハ、無イ特別ナ能力」

 マザーの女声としゃがれた野太い声がシンクロし、奇妙な発声で言葉が紡がれていく。

「お前モ他のハンターと同ジヨウニ、なすスベなくヒレ伏すがイイッ!!」

 溢れ出る怒りを潰す様に拳を握り直すと、腕から浮き出た血管がより膨張し、色が更に濃い紫色に染まった。

 そこからの民藍を襲った壮絶なパンチの連打は、威力、速さ、精度、全てを兼ね備えた非の打ち所がない攻撃であった。民藍は負傷している体に鞭を打ち、持ち前の反射神経で攻撃を躱していくも、一向に衰えないマザーのスタミナに反し、徐々に疲弊していった民藍の判断能力が鈍っていき──

 ドンッ──

 ついに拳が民藍の腹部に直撃すると、口から血反吐を吐きながら高く弧を描くように飛ばされた。

「ぐぷっ……」

 最後の止めを刺そうと歩み寄ったマザーは、生まれたての小鹿のように体を震わせながらも立上ろうとする民藍の首を片手で掴み、軽々とその体を持ち上げる。

「オ前タチは間違ってイル。ワクチン開発以外ニモ、我々ヲ助ケル方法ガあったハズダ。なのに、お前タチハ、ソノ議論すらシナカッタ」

「っ……」

 首を握るマザーの握力は言葉数に比例し、次第に強くなっていく。

「我々ハ、必ずお前タチに復讐スル。自分達ガ間違ってイタと、必ず後悔させテヤルッ!」

「あっ……、あぁぁ、ぁっ」

 民藍の悶絶の声と骨が軋む音が重なる。マザーは更に首を締めるを強める。

 何故か、右目から一滴の紫血涙を流しながら。

「!?」

 その涙が頬伝い、地面に落ちた刹那。視力を失い、完全に死角となっていた左側から人の気配を感じ視線を向けると、既に眼前に迫り来ていた刀を掲げたポニーテールの女が、奇襲の一撃を民藍を握る腕へ放つ。が、マザーの筋肉の鎧が拒むのは刀さえ例外ではなく、腕に触れた途端、刃は小枝のように折れると、マザーは空いていたもう片方の手で女の胸倉を掴み、その剛腕で遠くに投げ飛ばした。

 失敗に終わったとみられた奇襲であったが、その一瞬、僅かに自分から気をそらしたマザーから生まれた隙を見逃さなかった民藍は、掴まれていた手の甲に震えた文字で=slipと書く。するとローションに似た液体がマザーの掌から滲みだし、それによって低減された摩擦を利用し、見事脱出に成功した。

 同時に○○程あるマザーの人差し指を両手で掴み、無理矢理骨ごと甲側にへし折使用不能すると、続けざまに指の根本を掴み全力で引きちぎった。

「……キサマ、一体何ノ真似ダッ!」

 普通の人間なら悲鳴を上げる程の激痛。だがマザーは、すぐさま無くなった人差し指の根本を指でつまみ、力づくで止血を完了させる。マザーのほむらが宿った両目には、引きちぎった人差し指を胸の前に突き出し、片足を浮かした構えで待つ民藍が映る。それは、最初の対峙で視力を奪われたときに見せた構えであった。

「ふザけヤがッてッ! 指ノ一本無くナッタ所デ、結果ハ同ジダッ──!」

 持ち合わす怒りは全て使い果たしたと思っていたマザーであったが、体の深層部に眠っていた最後の怒りの源泉が沸々とマグマのように煮えたぎる感覚に襲われると、その全ての怒りを原動力に最後の攻撃を開始する。

「集中……」

 地面を蹴り出し、数十メートルの距離を僅か一秒足らずで駆け、当たれば最後、確殺のパンチが民藍の顔面を捉える──だが、ほんの一寸。すんでのところで攻撃を躱すと、体を屈めマザーの懐に素早く入り込み、構えていた人差し指を心臓へ──。

「……最強の盾あれば、最強の矛ありネ」

「アっ、アリアエナイっ……」

 鉄壁だと自負していた自身の鎧が破れた場景を目にしたマザーは、胸部から滴る紫血と共に、これまで積み上げてきた自尊心がこぼれ落ちていくのを感じた。

 民藍は、指が突き刺さった胸部から一歩程距離を取り、一点にそこを見つめ狙いを定めると、有り余る全ての力を振り絞り掌底打ちを放ち──衝撃で人差し指がマザーの背中を貫通すると、膝から崩れるようにして巨躯が倒れた。

「……まだ死ねない。父の仇を打つまではネ……」


 秋葉原メインストリート。その中心の地面から二メートル程離れた高さに黒い穴が生成されると、ノアたちはそこから落ちるようにして秋葉原の地に足を踏み入れた。

 そしてすぐ、道端で朽ちる語創者たちの死体から漂う腐臭がライリーの鼻孔をつくと、咄嗟に鼻を手で覆った。

「酷い臭い……」

「すぐに慣れる」

 ノアは表情一つ変えず、淡々と地面に=bugと書き一匹の昆虫を生成すると、吸い寄せられるようにネオン煌めく通りへと飛び立った。二人は後を追うようにして道を進んでいると、一軒のネットカフェの看板に止まり、翅の全面に213と刻まれた。

 すると、これまでずっとノアの後ろを付いていたライリーは、見えない何かに突き動かされるようにして歩速を速め、ノアを追い越す。そして入口の前に差し掛かろうとした──その時、突如頭が取れた語創者の死体が通りに向かって投げ飛ばされると、ライリーはその足をピタリと止めた。恐る恐る店内を覗くと、そこには頭部がもぎ取られた人間の首から貪るように血を吸う、紫血鬼の後ろ姿があった。

「……フランク」

 頭上に生えた二本の角に加え、血まみれの露出した上半身には無数の戦傷が残っている。それは常人の格好からは遠くかけ離れた姿であったが、ライリーは幾度となく見てきた広々とした背中を一見しただけで、共に切磋琢磨してきた同僚であるという確信が生まれた。

「ちょっと待っててくれ。見ての通り、今食事中だ。お前たちは後で相手してやる」

 ライリーを一瞥だけすると、再び語創者の死体を貪る。その行為は、人体を食すというよりも、血を吸いつくすという行為であった。ライリーは再会の喜びも程々に、その警察官として、否、以前に人としてあるまじき行為を前に湧き上がってくる怒りを胸に、震える手で銃口を向けた。

「感情は殺した方がいい。感情に殺される前にね」

 ノアは拳銃の震えを抑えるようにして先端にそっと手を掛ける。

「なってないわ。現に、こっちに気が向いていない今がチャンスなのがわからない?」

「いいえ、弾の無駄遣いになるだけ。二本角相手に素直に弾が当たるとは思えない」

「じゃぁ、どうするって……」

「私に任せて。あなたはワクチンを刺すことだけに集中していればいい」

「……」

 ライリーは渋々拳銃を下ろし、目を伏せるようにしてフランクから視線を切る。ノアは緩みない表情を更に引き締め入り口に近づき地面に創筆を走らせると、その文字は何も生成せず地面に溶けるように消えていった。

 店内に足を踏み入れると、禍々しい戦いの痕が刻まれており、死体となり横たわっていた三体の語創者の内、既に二体は首がもぎ取られ、元は受付であろうカウンターの上に、食べ終わった料理のごとく放置されている。ノアは三体目を貪るフランクに剣先が届く範囲まで近づいても尚、フランクはお構いなしに吸血を続ける。

「敵を前に悠長に食事なんて、よっぽど自分の力に自信があるのね」

「黙ってろ。せっかくの飯が不味くなる」

「……わかったわ。このワクチンを打たせてくれたらすぐに去る」

 ノアはそう言ってライリーから譲り受けたワクチンを懐から取り出す。それを見たフランクは吸血を止め、どこか気だるそうに立ち上がり、血まみれになった口元を舌で舐め取っていく。

「……おい。俺がそんな話を信じる馬鹿に見えるか?」

「……えぇ。とんでもない間抜けに見えるわ」

「……そうかい。じゃぁ、その間抜け面を拝みながら死ぬんだなッ!」

 ノアの挑発の一言で、戦いの火ぶたが切られると、フランクは持っていた死体をノアに向かって投げつけ、距離をつめる。ノアは咄嗟に避けると同時に=whipと書き記し一本鞭を生成すると、迫りくるフランクの上半身を縛り付けるようにして絡ませ、両腕諸共封じることに成功した──と思われたのも束の間、フランクは突如両の前腕から刃のような湾曲を帯びた幾本もの骨を突出させると、絡みついた鞭を易々と裁断してみせた。

「こんなもんで俺を捉えられると思ったか?」

「……!?」

 間髪入れず襲い掛かってくるフランクに対し、ノアはすぐさま生成した刀で応戦する。しかし、凶悪な双剣と化したフランクの両腕から繰り出される壮絶な連打に隙は無く、攻撃を防御することで精一杯であったノアは大きく後退し、店の外へ出て距離を取った。

「中々の剣裁きだ。ちょっとは楽しませてくれそうじゃねぇか!」

 入口を挟んで対峙する二人は相対し、フランクは満足げな表情を浮かべる。

「笑った顔はもっと間抜けね」

「……同じ冗談は笑えねぇぞ。女」

 フランクの顔からふと笑みが消えると、怒りをバネに全速力で駆け出し、再びノアに襲い掛かかる。しかし、その行動を見るや、何故か不敵な笑みを浮かべるノア。

「恐怖で頭でもおかしくなったか、女!」

 気に掛けることなく疾駆を続け、店内を出たその刹那──突如=hook land mineという単語が地面から文字が浮かび上がり、アスファルトから数十本の鉄のワイヤーが延びると、その先端に付いた銀色の○○がフランクの体を貫通していく。僅か数秒で地面と繋がれたフランクの体は自由を奪われ、一切の身動きを取れなくなった。

「チッ! ふざけた攻撃しやがって!!!」

「今よ!」

 身をよじり必死で抵抗するフランクを片目に合図を送る。それを受けたライリーは苦しむ同僚を前に痛む心をぐっと押し殺し、手を震わせながら取り出したワクチンをその首元へとかざす。

「帰ってきて」

「やめろぉぉぉぉ──!」

 紫血でコーティングされた紫色の針が振り下ろされた──しかしその刹那。フランクの怖じ恐れる表情一転、窮地に立つ人間が浮かべるはずもない不敵な笑みへと急変する。

「なんてな」

 余裕がたんまりと詰まった言葉を漏らし、舌の先端を前歯と直下の中切歯で挟んだかと思えば──グチュ。という生々しい切断音と共にその先端を切り取す。直後、その先端から滴る紫血が瞬時に凝固していき、血の刃を生成すると、迫るライリーの手を迎撃する。

「きゃっ──!」

 想定外の攻撃に一瞬たりとも反応できなかったライリーの手からは血潮が飛散し、手を離れたワクチンが地面に落ち転がる。

 数多くの紫血鬼と対峙してきたノアですら想定できなかった奇襲で計画が失敗に終わるや、ノアは傷口を抑え方膝を付くライリーの頭上を飛び越え、空中で刀を振り落とし──しかし、既にその頃には器用に舌を動かし全てのワイヤーを切断し終えていたフランクは、自由になった腕を盾に突出した骨の部分で斬撃を受け止めると、もう片方の腕から放った突きをノアのがら空きとなった腹部へ直撃させた。

「ぐふっ──」

 常人であれば気を失ってもおかしくない程の激痛がノアの体内を走り、衝撃で宙を舞う。その痛みを裏付けるようにして、幾本のあばらが骨折しているのを感じながら地面を跳ね転がった。

「我ながら名演技だったぜ」

 一気に形勢を逆転させたフランクは、肩で風を切るようにして地面に転がるワクチンに近づき

「……ダメッ!」

 ライリーの悲哀の叫びも虚しく、唯一の頼みの綱を足裏で踏みにじるようにして潰した。

「……お願い、目を覚まして」

「見えねぇか? 目はとっくに開いてるぜ」

 フランクはまともに取り合う素振りすら見せず、片手でライリーの首元を掴み空中へ持ち上げる。

「ウッ……」

「安心しろ、すぐには殺さねぇ。まずは腹ん中の血から吸ってやる」

 悪辣な言葉と同時にもう片方の手の人差し指をライリーの腹に向ける。そして鋭利に尖った黒紫色の爪がライリーの腹の中心へと徐々に伸びていき、もう間もなく衣服を突き破ろうとした。その寸前。

「……」

 ピタリと爪の成長が止まると、突如フランクの顔に動揺の色が滲む。その様子が目に入るや、ライリーは絞められ続ける喉の僅かな隙間から必死に言葉を紡ぐ。

「……私達の、子……よ……」

「子……?」

 フランクは理解に苦しんだ。その言葉の意味も、何故女の腹を貫くことを躊躇しているのかも。

「……」

 痛みに顔を歪めながらも態勢を整えたノアは、完全に戦意を喪失したフランクを捉えるや、思わず固唾を飲み、構えた刀をそっと下ろす。

「俺達の……」

 フランクの両目から落ちた紫血涙が流れ、首を締める力が徐々に弱まっていく。そうして僅かな余裕を取り戻したライリーは、首元のタグ型ネックレスを勢いよく引きちぎり、その裏面をフランクの眼前へと掲げる。

「──」

「……あの日、海の見えるレストランで、言ってくれた……。結婚しようって……」

 フランクの眼に映る幸せそうに肩を取り合うカップルの写真。加え、二人の中だけにあるその記憶を象徴する、ぶつ切りの言葉たちがフランクの鼓膜に響き脳内を跳ね回る。

「うっ……う……わああああああ!!」

 耐え難い頭痛がフランクを襲い──同時にライリーは、殆どの握力が失われた手から抜け落ちるようにして開放されると、激声を上げながら両手で頭を抱え、蹲るフランクへ、泣き叫ぶ子を助けに行く母親のごとく身を寄せる。

「フランク、思い出して! 幸せな家族を作ろうって、抱きしめてくれたあの日のことをッ!」

「うわああああああああ──」

 戦意がないとはいえ、相手は凶悪の殺人鬼。また戦意が戻れば、瞬殺される距離に留まるライリーに近づき、前のめりになったライリーの体を、力づくで引き剝がそうとする。

「ハァハァ……。らい、……りー」

「──」

 荒い息の中に垣間見える棘のない丸い声音。その聞き馴染みある声に、ライリーは絶句し──頭上の二本の角にヒビが入り、先端からポロポロと崩れ落ちていく様子に引き剝がそうとするノアの手が鷹揚と止まる。

「ありえない……」

 これまで絶対的不可能と言われてきた紫血鬼の常人化。それがまさに今二人の目の前で起こっている。その空前絶後の奇跡に、滅多に本性を顕にしないノアでさえ、無意識の内に本心から言葉が漏れ出した。

「……悪かった、心配掛けて」

 腕から吐出した骨は体内へと収まっていき、頬を流れる紫血涙の淀んだ紫色は徐々に薄まっていき本来の色を取り戻そうとする。

「掛けすぎよ馬鹿っ……」

 浮かべる安堵の表情を隠す様にして顔を俯かせ、手に負った傷口を抑える。

「その傷……。早く治療しないと」

「大丈夫よこれくらい。あなたがいなかったときの痛みに比べれば大したことない」

「でも!」

「かして」

 前のめりになるフランクを遮るようにして二人の間に割って入ったノアは、着ていたシャツの裾の一部を刀で切り、そこへ=bandageと書き記す。切れ端はたちまち包帯へと変化していき、簡易的な処置が行われた。

「ありがとう。こうして人間に戻れたのも君がライリーと一緒に戦ってくれたおかげだ。本当に何て礼を──」

「記憶は全て戻ったの?」

 言葉を言い終える前に、ノアは口を開いた。

「……あ、ああ。ただ、紫血鬼になった後の記憶の方が強くて、鮮明には思い出せない」

 その問いに表情を急転させ悄然としてうつむく。意に反した形ではあるが、何百人という人間を自らの手で殺めてしまったという罪悪感の深さは到底計り知れず。加え、フランクが対極に位置する命を守る側の人間であったことが更に深みを大きくした。

「なにか些細なことでもいい。化ける直前に何か変わったことは?」

「……すまない」

 必死に思い出そうとするも、出てくるのは残忍な記憶ばかりで、辟易するようにして首を横に振った。

「ノア、貴方には感謝してる。だけど、今は気持ちを整理する時間を与えてあげて欲しい」

「……」

 ライリーは矢継ぎ早に問いかけるノアを咎めるように言った。現にフランクは人間化の際に心身共に酷く消耗しており、ノアの詰問に近い質問は、フランクを衰弱させる一方であった。ノアは少々自省しながら諦めるようにして二人に背を向け、現状を書き留めるため懐からノートを取り出すと、クリップで止めていたルナのポロライド写真が衣服に引っ掛かり、ひらひらとフランクの眼前に落ちた。

「……この女」

 その不意に飛び出した言葉を、ノアは地面に着く前に拾い上げる。

「見覚えが?」

「あぁ。坊主頭の男と一緒に歩いているのを見た気がする。でもなぜこの記憶だけ……」

 妹の居場所がわかるかもしれない。突如刺し込んだ一筋の希望の光に照らされたノアの鼓動は一気に加速する。が、ノアは自制を活かし、早まる気持ちをぐっと押し殺し返答を待った。

「そうだ! 日本に着いてそうそう、上司から原宿という街へ行けと連絡があってその後に……ウッ……!」

 脳内で垣間見える紫血鬼となったときの記憶。それを手繰り寄せるようにして手を伸ばしたそのとき、それを阻止するかの如く頭が割れる程の頭痛がフランクを襲い、再び頭上から二本の角が顔を出し始める。

「ぐ……ううっ……ああああ──」

「フランク!」

 掴みかけた希望がするりと指の隙間から落ちていく。それを拾い上げるようにライリーは必死にフランクへ呼び掛けるが、角の成長は一向に留まる気配を見せない。

「嫌っ! いかないでっ!」

 ネオンの光を突き破るように響く嬌声。もう二度と親愛なる人間を手放さんとばかりに、フランクを抱きかかえるライリー。

 その希望と絶望が入り混じる場景に、ふとその二人を自分とルナの姿に照らし合わせたノアの両目は一瞬の逡巡の間を置いた後、決然たるものとなり──出発前にライリーから受け取ったワクチンのキャップを取ると、不気味な光沢を帯びた紫色の針を、悶えるフランクの首元へ突き刺した。

「……」

 血液に乗って体内を駆け巡ると角の成長は止まり、再び呼吸は平常へと戻っていく。その様子に正気を取り戻したライリーの潤んだ瞳がノアに向く。

「これ……」

「ワクチンを使わなくても人間に戻れる術が見つかった以上、まずは彼を助けることが最優先」

「……ありがとう」

 仏を見るようなライリーの眼差しを受け流すようにして地面へと視線を向けたノアは、創筆を握り単語を地面へ書いていく。

「とにかく、もう門が閉まるまで時間がない。早くここから」

 グサッ。

「──?」

 =holと書き終えた辺り。一滴の血が文字の上に落ち、その一部を隠す。

「グルルルル……」

 人肉を貫くなまめかしい音と、猛獣のような喉鳴り音。ノアは顔を上げずとも、その二つの音から、ライリーがどのような状態になっているかが安易に想像できた。しかし、ワクチンを打った直後に何故──いくら思考を張り巡らせても合点がいかないノアは、答えを確認するように顔を上げる。

 だが、その予想は裏切ることはなく──目に飛び込んでくるライリーの心臓に貫通した槍のような骨に先端から滴る鮮血。その凶器の持ち主は言わずもがな、完全な紫血鬼へと変貌したフランクであった。

「グルルルァァァァ」

 両眼にほむらを灯らせ、口元から唾液を垂らし、最初に戦ったときとは比にならない程の骨が全身から突出ことから、凶暴性が増していることが火を見るよりも明らかであり、そうなった理由もまた明快でった。

「逃げ……て……」

 瞳孔を開かせながら絞り出された最後の言葉。その言葉の裏に潜んだ深淵の恐怖がノアに触れたとき、持ち合わせる全ての防衛本能が目を覚まし、乱雑に残りの一文字を刻む。死体となったライリー挟んだフランクとの距離と、ホールが生成されるまでの数秒。

 逃げられる。

 確信した刹那。フランクの顔面がノアの瞳を埋め尽くす。

「──⁉」

 死体を保持していないもう片方の腕から放たれる強撃。本来なら直撃してもおかしくないそれを、呼び覚まされた防衛本能により超反応で躱す。が、無理に躱した為に崩れた態勢へ、蹴りの追撃が腹部へ飛び──直撃した脛の衝撃はノアの体をボールの如く吹き飛ばし、背後にあったビルの窓ガラスぶち破ると、そのままフロアの壁に強く体を打ちつけ床へ落ちた。

「グルルララララアアアア──」

 秋葉原の街に響く激声。それは勝利の雄叫びか、はたまた強大な力を手に入れたことへの歓喜の叫びか。どちらであれ、語創者側にとっては絶望を与えるものでしかなかった。

 フランクは吹き飛んだノアを追う素振りは見せず、腹いっぱいに息を吸う。そして全てのあばらを一斉に突出させると、胸骨と十二本のそれを分離させ、それぞれの先端部分を地面に着けるようにして体を地面と水平にする。その人間離れした異様な姿に、人情で溢れていたフランクの面影は影もなく、ただ節足動物のような挙動であばらを動かし、夜の街へと消えていったのであった。


 紫血鬼との死闘を終え戻って来た語創者の総数は、入った者たちの三分の一にも満たなかった。そしてもちろん、無傷で狩りを成功させた者ばかりではなく、体の一部を犠牲にし成功させた者や、負傷だけを負い命懸けで帰還した者がほとんどであった。だが後者の者たちは本来の目的を忘れ、混沌とした地獄から生きて帰ってこれたことにただ感謝し、命の危険がない安全な街へと消えていった。

 門を出たすぐに先は入場時にはなかった簡易的なパイプテントが設置されていた。そこは持ち帰った死体を金に換える引き換え所となっており、狩りに成功した者たちは列をなし換金を待っていた。

 その先頭。換金の番が回って来たポニーテールの女は、持ち帰った亜夢と異夢の死体をビリヤード台程の大きさのステンレス台に置いた。

「おらおら、邪魔だ邪魔だッー! ゴーバム様がお通りだ」

 そこへ二人組の男が列を無視し、我先にとテントへ向かって行くと、換金を始めようとした女の隣へ立つ。

「おい女、ゴーバム様がお待ちだっ。さっさとどきやがれ!」

 その一人、やせ細った赤いモヒカン頭の男は女の耳元まで顔を近づけ、甲高い声で言う。

 そのやり取りを前に真っ白の化学防護服に身を包んだ職員は、換金手続きを躊躇ったが

「早く始めて」

 女は毅然とした態度でそう言ってのけると、職員は言われるまま死体の検査を始めた。

「おいおい、聞こえなかったか女!? 早くゴーバム様に譲れってんだよ!」

 女の態度にモヒカン男は眉間に皺を寄せm威圧するように叱声を放つと、その状況を見かねたもう一人の男が巨躯を屈め無理矢理二人の間に割って入り、叩きつけるようにして台に四体の死体を置いた。

「悪いなァ、ネェチャン。ちょっとばかし重くて、肩凝っちまいそうでなァ……」

 モヒカン男とは対照的に泰然とした口調で話す男は、首を左右に倒しポキポキと骨を鳴らす。血に染まった白のタンクトップから露出する腕は丸太のように太く、無数の刺青が彫られており、死体を四体担ぎ続けたところで肩凝りしそうにない体格から、皮肉であることがわかった。

「……そんな雑魚ばっかり狩ってどうするの?」

 台に置かれた一本角ばかりの死体を一瞥した女は、皮肉を軽々超えた侮蔑の言葉を呟く。

「お前! ゴーバム様に何てこ、……んぐぐ」

「……ァァン? 聞こえなかったなァ……」

 ゴーバムは巨大な手でモヒカン男の顔を掴み、黙らせると、もう片方の手で作られた拳を台に振り落とし、けたたましい衝撃音を鳴らす。

 だが女は依然として挑発に乗らず凛と佇んでいると、すぐさま先程の衝撃音で漸と羅美が駆け付け、腰の刀に手を掛ける。

「それ以上揉めれば、二人ともこの台に寝ることになるぞ」

「チッ! 顔は覚えたからな女……」

「……。」

「あ、あのぉ……、バーコードの提示を……」

 ピリついた空気の中、職員は居心地が悪そうにそう漏らすと、女は銀行口座が登録されている手首のバーコードを職員に向け、男たちを一瞥もせずテントを出た。


「ちょっと待つネ~」

 その数分後、換金を終えた民藍が女の後を追って駆けて来た。

「お礼を言おうと思って来たネ。二本角の方譲ってくれてありがとネ」

「……譲ってない。あんたが勝手に奪ったんでしょ」

 女は呆れた様子も見せず、また一瞥もせず、ズボンのポケットに手を入れ、淡々と歩み進める。

「やっぱ怒ってるネ。お金ならまた」

「別にお金のためにここに来てるんじゃない。殺しを楽しみにここに来てるの」

 自分の声に上塗りされた奇想天外なその返答に民藍は言葉を失う。真っすぐに前を見つめる彼女の目に偽りはない。

「怖くないノ。死ぬことが」

「楽しいだけ。それ以上に、殺すことが」

 常人離れした言葉を続けざまに浴びた民藍は思わず足が止まり、遠ざかっていく彼女の背中を凝視する。

「……私、知ってるヨ。今日よりも強い奴らがいる場所。私もそこに用ある。明日、一緒に行くネ」

 そして確信する。彼女となら、あの場所に行けると。

「……嘘だったら、殺すから」

 女は足を止め、緩慢と振り返り──このとき、初めて民藍と目を合した。殺気に満ち溢れた両目を見た民藍は、思わず笑みをこぼしそうになり、

「いいネ。ま、その前に、あいつらに殺されるかもしれないけどネ」

 と、バレないようにいたずらな表情を浮かべ彼女に近づくと、そっと手を差し出した。

「自己紹介まだだったネ。私は民藍。あなたは?」

「……ソヒョン。偽名だけど」

「本当の名前はないノ?」

 ソヒョンはその手に触れるどころか、拒むように尖った言葉を残し、再び夜の街へと歩き出した。

「殺し屋に本名はない」


「努さん、もう夜も遅いんですから。早く寝てくださいよ」

「おう、わかっとるわい」

 夜の見回りで病室を訪れた看護師は困った表情で病室の明かりを消し、車椅子に座り窓から月を眺める老人に念を押すと個室の病室を後にした。既に深夜を過ぎていた病棟に昼間の賑やかさなど当然なく、看護師の足音が消えた後の廊下はしんと静まり返っていた。

 ガラッ──

 が、そこで突如と病室の扉が開くと、十代後半頃の少女が足音一つ立てずに病室へ入る。

「……そろそろ来る頃と思っとったわい」

 その気配を感じ取った老人は、こんな深い時間であるにも拘らず、あたかも来ることが分かっていたかのような落ち着きで、後ろも一切振り返らず月を眺め続ける。

「猿金努?」

「……ほっほっ。孫に名前を呼んでもらえるのがこれほどまでに嬉しいとは……」

 少女は黒の袴を鷹揚と揺らしながら歩みを進め、老人の背後に立つ。

「そういえば、お前さんが生まれた日もこんな月じゃったのぉ……、静よ……」

「父からの命令です。最後に言い残す言葉があれば」

 老人の問いかけに返答する素振りすら見せず、少女はただ、冷たく尖った言葉を並べていく。

「……月光が、照らす愛孫、憎悪あり。なんての……」

 少女は宣言通り、老人の言葉を聞き終えると、自身の爪で掌の皮膚を切るや、滲んできた紫血で刀を生成していく。それはまさに紫血鬼の芸当そのものであったが、少女の頭部には角らしきものは一切見当たらない。

「憎しみを掻き消すほど、月の光が強ければの……」

「……。さらばっ」

 老人は月を眺めるその両目に叶わぬ所望浮かべた後、諦めるようにしてそっと目を閉じた。刀の生成を終えた少女は、人畜無害の権化のような存在である老人の首元へ容赦なく刀を薙ぎ──身に纏っていた真っ白の剣道着は血飛沫で赤く染まった。

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