燦燦と、皓皓と 後編
それは二人の最寄り駅から二駅、約十分の場所にある。
施設自体は全国的に見て大きい訳ではないが、一つだけある大水槽が代名詞となっている。
また、飼育員達が自らつけている手書きの観察日誌が展示され、学術的な面からもコアなファンがいる水族館…というのは向日葵からの受け売りだ。
「ここ、よく来たの?」
「スタンプカードがあったら十周はしてる」
「常連だ」
向日葵がけらけらと笑う。
「ほら、年間パスポート持ってるだろ」
「わ、ほんとだ。もしかして、いつも私に付き合って来てくれてたの?」
なんなら、昨日も来た。
でも、別にそれを言う必要はないだろう。
「図書館で声を掛けられた日から」
そう言うと、彼女はまた笑った。
平日だからか館内に人は多くない。
いつもは賑わっている大水槽も、今日は独占状態となっていた。
水槽の前を通る度、向日葵が記憶にある知識を声に出していく。
段々と楽しくなって来て解説に熱が入ってくるのも、いつもと同じで笑ってしまう。
「もしかして、これやるの2回目?」
「そんなことないよ」
「いやー、なんか面白くなっちゃって」
「知ってるよ、毎回だから」
「ええ…」
「いいんだよ、別に」
そう言うと、恥ずかしそうにしながら、
「でも、好きな男の子の前で毎回こんなふうになるのは、私ちょっとどうかと思うなあ…」
「それを向日葵の口から聞く時が来るとはなあ」
◇
「あ、海月だ」
彼女が足を止めたのは、ベニクラゲの水槽だった。
「幽君はこの子知ってる?」
「うん、覚えてる」
老いても若返る、不死の性質があると言われる海月だ。
一度だけ、向日葵が説明してくれたことがあった。
「死なないって、どんな感じなのかな」
「向日葵は、自分が死ななかったらいいのに、って思う?」
「え、私は嫌かなあ…だって、みんなに置いていかれるんでしょ?寂しいよ」
「…絶対に置いていかれるなら、一緒にいるのは辛いと思う?」
「んー、どういう意味だろう」
「じゃあ、もし、俺が明日死んだらどうする?」
向日葵は幽の顔をじっと見ると、
「そんなの、起こってみなきゃわかんないよ」
と少し不満そうに言った。
「それより!幽君が明日死んじゃう例えよりも、実際に私は昨日死んでたかもしれない訳だけど!」
向日葵が、幽に詰め寄る。
「死んじゃってたら、どうしたの!」
そう言われて、ハッとする。
まただ。また、自分が先に死ぬ前提で考えていた。
「わから、ない」
辛うじて、声に出す。
「でしょ?」
「どっちがいつ死ぬかなんてわかんないよ、そんなの」
一年後、一ヶ月後、明日。向日葵が死ぬとわかっていたとして。俺が病気じゃなかったとしたら。
そう考えたら、思ったよりも答えは簡単な気がした。
「にしても、幽君は私のどこがそんなに好きなの?」
そんなことを向日葵が急に言い出す。
なんて言おうか、と少し考えてみる。
「全部なんだけど、どうしたらいい?」
「その答えはさ、狡いよー」
また彼女が不満気な顔をする。
「向日葵はさ、もしも記憶が戻らなかったら、また俺のこと好きになってくれるの?」
思い付きで聞いてみる。
向日葵は、顔を赤くした。
「その質問はさ、狡いよ…」
◇
昨日も来た、ペンギン水槽の前。
向日葵は相関図を見て興味深そうにしている。
ヤナギとマツは、一緒にいた。
「向日葵」
「なに?」
向日葵が振り返る。
「実は、昨日も二人でここに来てたんだ」
「え、そうなの!?」
「ここで、俺が一人で大事なことを一方的に向日葵に言ったんだ。それで、ちょっとぎこちなくなってた」
「そうだったんだ…」
「次会ったら、話の続きをしようと思ってた」
「なんで事故に遭っちゃうかなぁ、私」
そう言って、申し訳なさそうに笑う。
「そろそろ、出ようか」
記憶が戻らなくても。話の続きが出来なくても。
今日、君に言いたいことは出来たよ。
◇
「海、おっきいねえ」
「そりゃ、海だしね」
「ちょっと寒い?」
「もうすぐ、冬だからね」
特に意味もない会話をする。
水族館の側は海があり、海浜公園となっている。
太陽は既に沈みかけていた。
「ここも、二人でよく来てたの?」
「よく来たよ。向日葵は、海も好きだったから」
「うん、好きだなあ」
向日葵は度々立ち止まっては、貝殻だったり、漂流物を見たりしている。
「幽君はさ、夢とかあるの」
「夢かぁ…。うーん…なんていうか、幸せに生きること?」
「疑問系なんだ」
「難しいじゃん、夢って」
向日葵が足を止め、むー…と唸った。
「じゃあ…最近何してるとき楽しいな、って思う?」
「どうしたのさ、急に」
「幽君と前の私にばっかり思い出があって、狡いなって」
「…これは、まだ言ったことないんだけど」
足元に落ちていた、小さな綺麗な石を拾う。
「少し前から、石でアクセサリーを作ったりしてるんだ」
「え!すごい、手作り?」
「まだ、大したものは作れないけど」
向日葵は目を輝かせて、
「でも、すごいよ。何かを作る、って」
俺の目を見て言った。
「いつか、ちゃんと見せるよ」
◇
向日葵を家まで送ると、玄関に手書きのメモが貼ってあった。
『お母さん達はデートにつき家を空けます』
『材料はあるから二人でごはんを作って食べていきなさい』
「自由だなあ」
「向日葵の親らしいよ」
「どういう意味かなあ」
冷蔵庫の中は、大抵の物は作れそうだと思うくらいに充実していた。
「向日葵は何が食べたい?」
「うーん…オムライス、かな」
「オムライスなら、俺も作れるかな」
「あ、でも二人で作るんだからね」
向日葵はどこか慣れた手付きで料理を始めた。
以前に肉じゃがを作ってくれた時よりも、要領良く。
「なんか、不思議だね。作った記憶がないのに作れちゃうんだもん」
「前見た時は、そんなに手際良くなかったよ」
「じゃあ、練習したんだ」
「偉いなぁ、私」と満足そうにしている。
「みたいだ。俺も知らなかった」
「幽君は、たまに料理するの?」
「本当にたまにだけど」
チキンライスが出来たところで、向日葵が「じゃあ」と言い出す。
「私の分の卵は幽君にお願いしよう」
「あー…。いいけど、多分下手だよ」
「いいの、こういうのは一緒に食べることが大事なんだから」
そう言いながら、おそらく幽の分であろうオムライスを綺麗に仕上げると「次、どうぞ」とフライパンを差し出される。
案の定、失敗した。並べると尚酷さが際立つ。
「ほら、穴だらけだよ」
「あはは、笑っちゃうくらい穴だらけだね」
オムライスは、笑っちゃうくらい美味しかった。
◇
時計を見れば、いつの間にか二十時を回っていた。
「もう結構遅くなっちゃったね…二人共、どこまで遊びに行ってるんだろ」
「まぁ、流石にそこまで遅くはならないと思うんだけど」
なんてことを言っていると、玄関の鍵が開く音がした。
二人の「ただいま」と言う声が聞こえてくる。
「おかえり!」
「今日は楽しかったかい?」
「楽しかった!でも、魚のこととか、勉強したことは憶えてたのはわかったんだけど、他は全然。ごめんね」
向日葵がそう言っても、誠一は残念そうな素振りを一切見せなかった。
「その内戻るさ。それに、もしそのままでも向日葵は向日葵だ」
誠一の言う通りだ。
昨日病室で感じたことは、今日一日で証明された。
記憶は大事なもの。だけど、絶対的なものじゃない。
もう一度、やり直せばいい。
一年しかないなら、一年で十分だ。
「幽君、今日はありがとう。もう少し、ゆっくりしていくかい?」
向日葵にまだ、見せてないものがあった。
「一つ、お願いがあるんです」
誠一が、口元を緩ませた。
◇
駐車場からそこまでは、少しだけ歩く必要がある。
「わ、結構暗いね」
「今日は月も出てないからね」
手を差し出せすと、自然と向日葵は握り返す。
「ここはどんな思い出があるの?」
「上で話すよ、全部」
「じゃあ、楽しみにしとこう」
星の良く見える、いい夜だった。
なんの偶然か、また満月なのも、あの日と同じだ。
違うのは、流れ星が見れないことくらいだ。
「わ、すごいね」
「俺も、久しぶりに来たよ」
「そうなんだ、私は初めて来たよ」
冗談っぽく彼女が笑う。
「今日はたくさん、初めての日だったんじゃない?」
「私にとってはね。でも、本当はそうじゃない」
「いいんだよ、回数なんて。また積み上げたらいいんだから」
「でも、私は諦めないからね?」
「俺だって、別に諦めてない」
「ならよし」
彼女が色んなことを思い出しても、思い出せなくても。
もう俺に出来るのは、時間を無駄にしないことだと思った。
「──ここでさ、告白したんだ」
「幽君から?」
「…しようとしたら、先を越された」
あはは、と向日葵が大声で笑う。
「幽君らしいというか、私らしいというか」
まったくだ。
でも、今度は。
不意に、星が尾を引いて瞬いた。
「あ、流れ星…」
真っ直ぐ空から落ちてくるように、空を線で裂いた。
線は瞬きするうちに消えて、満天の夜空へと戻る。
あの、満月の夜を思い出す。
「向日葵が好きだ」
向日葵が、ゆっくりと幽を見た。
「俺、病気でもうちょっとしか生きれないんだ」
「だからって、一人で勝手に考えてた。置いていってしまうんだから、結婚なんてしない方がいいって」
「でも、わかった。関係ないんだ」
「俺が明日死ぬとしても、向日葵が俺を忘れてしまっても」
俺は幸せになりたい。向日葵と。
「向日葵が憶えていなくても、俺が全部憶えてる」
「俺があと一年しか生きられないとしても、一生分愛してる」
これが、俺の意思だから。
「俺と、結婚してほしい」
ずっと握っていた、星を象った首飾りを取り出した。
渡す勇気もないのに作ったそれは、いつか、流れて消えていく筈だった。
「手作りだけど、受け取ってよ」
向日葵は、泣いていた。
嬉しそうに涙を流しながら、頷いた。
「こんな気持ち、初めてだよ」
「俺もだ」
「ね、びっくりすること言っていい?」
「なに?」
そう言うと、向日葵は勢いよく抱きついた。
「全部、思い出しちゃった!」
◇
流れ星が空を裂いて、戻って。
そしたら、急に頭の中の靄が晴れて。
今日のことも全部憶えてる。
昨日のことも思い出して、話の続きをしなきゃ、って思ったらこれだもん。
狡いよね。
でも、もう忘れない。思い出も、これからのことも。
君が死んじゃっても、私が死ぬまで生きるんだ。
◇
「思い出した、って、いつ」
「もう、さっきだよ!流れ星見たら、思い出したの!」
「聞いたから!あとから『やっぱり』なんて、絶対無しだよ?」
「言わないよ」
「逃がしてなんかあげないんだから」
「逃げないから」
「私が幸せにしてあげるんだから」
「俺だってそのつもりだよ」
向日葵が燦燦と笑う。
負けないように、皓皓と笑う。
死は誰にでも平等にやってくる。
誰であろうとも逃げられやしない。
けれど、それは幸せだってそうなんだ。
平等ではないかもしれないけれど。
大きかったり、小さかったりするかもしれないけれど。
俺は確かに、幸せになったよ。
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