燦燦と、皓皓と 中編
「私、思い出したい。君との思い出、忘れたままでいたくない」
だから。
「手伝ってよ」
向日葵は変わらない。このままでもいいんじゃないか、とも思った。
それでも。君がそう言うなら。
「俺に出来ることは、全部やるよ」
「あはは、頼もしいなあ」
ノックの音が鳴る。きっと二人だろう。
「入るよ」
「ゆっくり話せた?」
二人が外で何を話していたのかは分からないが、その雰囲気は柔らかい。
改めて、向日葵の親らしいな、と感じた。
「ね、お父さん、お母さん」
「なあに」「なんだい」
二人が、向日葵が何を言い出すのかをわかっているかのように微笑む。
「私ね、ちゃんと思い出すから!」
「俺も手伝います」
自然と目が合うと、向日葵が微笑んだ。
「なら、明日退院したら二人で出かけるといい」
「そうね!幽君なら向日葵の好きなところ、よく知ってるでしょう?」
沢山ある。彼女の好きな場所、好きなもの、好きな言葉。忘れる訳もない。
「わ、楽しみだな。それに、すぐに思い出せたりして!」
「だといいな」
「今日はもう遅いから、また明日迎えに来てくれるかい。あと、親御さんには僕の方から連絡を入れておいたよ」
しまった、と思った。
報せを受けてから何も考えずに飛んできてしまったので、父と母には何も伝えずにここまで来ていたのだ。
「あー…すみません、ありがとうございます。その、何か言っていましたか」
「迎えに行っているから好きな時に外に来なさい、だそうだ」
優しいというか、息子に甘いというか。
もしかすると、誠一がフォローを入れてくれたのかもしれない。
「わかりました。もう待たせていると思うので、そろそろ失礼しますね」
席を立って、向日葵を見る。
「明日迎えに来るからさ。待っててよ」
「うん、待ってる」
きっと、続きを話そう。
◇
病院を出ると、父がいた。
「父さん、ごめん」
「いや、いい。明希さんから大体のことは聞いた」
日が沈み、月が登りかけている。
父はいつから待っていてくれたのだろうか。
向日葵のことで頭が一杯になっていたとはいえ、きっと心配させただろうと反省する。
ふと、父が足を止めた。
「幽、父さんはな、ずっと思ってたんだ」
「………?」
「ほら、俺と母さんが病院駆け回って、どうにもなんなくて、お前が、"もう覚悟できたから、見守っててくれ"なんて言ったこと、あっただろ」
「…言ったね」
『ねぇ、父さん、母さん』
『俺はもう、この一年半で覚悟が出来たよ』
『俺も、二人もさ、結構頑張ったよね?』
『でもさ、やっぱり俺は二人よりも先に死んじゃうんだと思う』
『親不孝でごめん。でも、俺はちゃんと幸せだ』
『残りの人生さ、俺はどうやって生きてこうかちゃんと考えようと思う』
『二人とも、ちょっと休んでてよ。ほら、俺の状態もかなり安定してきたしさ』
『まだ三年半もあるんだよ?なんだってできるよ』
『だから、暫くは見守っててほしい』
あの時の二人は、見てられなかった。
二人が自分のせいで
「父さんも母さんもさ、わかってたんだ。お前が俺達を気遣って言ってくれたってことくらい」
「………」
「息子に甘やかされてたんじゃ、世話ないよな」
「上手く、言えたと思ったんだけどな」
それを聞いた父が、噴き出した。
「俺の息子だぞ、嘘が下手なんだよ」
行くぞ、と言うと再び歩き出す。
「父さん」
「なんだ」
「俺、置いていきたくないよ」
「そりゃあお前、そうだろ」
「向日葵を幸せにしたい」
「なんだ、自信、ないのか」
「一年しかないよ」
「まぁ、そりゃそうだな」
少し
「なんだよ、そこはもうちょっと背中押してくれよ」
「あんまり父さんを買い被るな」
助手席に乗り込み、シートベルトを着ける。車が動き出す。
「父さんはな、お前が幸せならなんでもいいんだよ」
「俺は幸せだよ。今も」
「なんだよ、恥ずかしいこと言いやがって」
「人のこと言えないだろ」
「父さんはいいんだよ」
こんなふうに、父と軽口を言い合うのはいつ振りだろうか。
適当なことを言う父親だけれど、俺はこの人の息子で良かったと思った。
「向日葵ちゃんは、平気なのか」
「記憶はないけど、向日葵だったよ」
「なんだよ、難しいこと言いやがって」
何が良かったのか、嬉しそうに父が笑う。
「難しいこと考えすぎなんだよ、お前」
「そうかな」
「俺が母さんにプロポーズした時なんてな、思いついてすぐに言ったぞ」
「父さんらしいよ」
父は暫く喋らなかった。でも、何かを言おうとしているのはわかった。
家まで後少しというところで、父が言った。
「仮に今日父さんが死んだとして」
「なんだよ、急に」
「母さんは、父さんと結婚したこと後悔しないと思うぞ」
「それは、父さんが凄いからだよ」
「まぁな」
父はまた嬉しそうに笑った。
「でもな、幽。お前はそんなスゴイ男の息子なんだぜ。だからさ、多分、お前も凄いんだよ」
母さんは人を見る目があると思った。
父の何の根拠もない言葉が、今は何より心強かった。
◇
母は家の前で腕を組んで仁王立ちで待っていた。
いつも通りの無表情で、家族以外から見れば何を考えているのかわからない顔をしている。
「おかえり」
「ただいま、母さん」
何故自分でもわかるのか不思議だが、母は今怒っていない。安堵しているのがわかる。
「ごめん、心配かけた」
「大丈夫?」
その「大丈夫」が向日葵のことであり、幽のことでもあることも、二人にはわかった。
「大丈夫だよ。俺も、向日葵も」
「そう」
母がじっと顔を覗き込んでくる。
「すっきりしたね?」
「そうかも」
「お父さん?」
「そうかもね」
本当になんでもわかるんだなと思うと、隠し通せていたと思い込んでいた過去の自分が恥ずかしくなる。
「母さん」
「なに?」
「もしさ、母さんが結婚してすぐに父さんが死んじゃってたら、今どうしてると思う?」
「さあ」
母は、特に考える素振りも見せず即答する。
「でも」
「でも?」
「幸せに生きてると思うよ」
母はそう言って微笑んだ。気がした。
◇
一人で考えていた。
きっとそれは愚かで、傲慢だったんだろう。
見渡してみれば、頼れる人が沢山居たことに気付けたんだ。
あんな格好良い大人達みたいになる時間は俺にはないけど、少なくとも、一人じゃなかったんだ。
◇
「あ、待たせたかな?」
誠一と向日葵が病院から出てくると、彼女はすぐに幽を見つけた。
「さっき来たとこだから、大丈夫」
そう言うと、彼女は幽の顔を見て、何か考える素振りを見せた。
「手、貸して」
意図がわからないままに手を差し出すと、彼女はその手を取り、「あ」と言った。
そうなってから彼女の意図に気がついて、「あ」と零す。
「幽君、嘘下手でしょ」
「俺も昨日初めて知ったよ」
もう、と少し拗ねたように言う彼女を見て、胸が暖かくなる。
「今日はありがとうございます」
「なに、君に任せたのは僕らだからね。このくらいはさせてもらうさ」
今日向かう所は事前に連絡をしてあった。
病院からそこまでは誠一が送ってくれることになっている。
「どこに行くの?」
「あー…その、初めて会った場所」
「ふーん?」
「さ、行くよ」
今の彼女にとっては初めての場所。
俺にとっては、青春というべきものを置いてきた場所。
向かうのは、なんてことはない市営図書館だ。
◇
二年半前、向日葵と幽は図書館で出会った。
父と母を心配させたくなかった幽は、体調に問題がない時は逃げるように図書館に足を運んでいた。
興味があるわけでもない本を適当に開いては流し読み、無為に時間を浪費した。
そんな幽を、向日葵が見つけた。
同年代の異性とは違う雰囲気を持つ彼を、何度か見かけていくうちに気にかけるようになった。
そんな二人を繋げたのは些細な偶然。
「ここが初めて会ったところ?」
「そう。俺が本を眺めてたら、向日葵が急に話しかけて来たんだ」
「えっ、大胆だなぁ私」
いつも座っていた席。最近は来る機会は減ったけれど、毎日のようにここにいた。
「私、なんて話しかけたの?」
「なんだと思う?」
向日葵がうーん、と頭を捻る。
「『君、格好良いね!』とか?」
思わず噴き出してしまう。
「イメージつかないなぁ、それ」
「あれ、違った?」
「違うよ、向日葵、自分がそんなこと言うタイプだと思う?」
「うーん、今の私と記憶がある時の私は違うかなぁと思って」
彼女は少し気不味そうに笑った。
「変わらないよ、向日葵はずっとこんな感じだ」
「そうなんだ?なら…私が好きな本を読んでたとか?」
「そう、そんな感じ」
「あはは、やっぱり?じゃないと、男の子に話し掛けたり出来ない気がするよ」
本棚の間をゆっくりと通り抜けていく。
相変わらず人は少ない。
「これ」
一冊の図鑑を手に取った。
「魚の…図鑑」
「これを偶々読んでたんだ。…ああ、読んでたと言うよりは眺めてた、かな」
不思議そうに向日葵が首を小さく傾げる。
「向日葵は、海洋学者になりたいって言ってた」
「海洋学者に…そうなんだ。目標があったんだね」
「だからなのかわからないけど、向日葵はこれを読んでた俺に、『君も魚が好きなの?』って」
あの時のことは、昨日のことのように思い出せる。
「もっちー」と呼ばれたのも、あの日が初めてだった。
「あはは、それ、絶対勢いで話しかけてるよ」
「俺もそうだと思う」
「多分、話しかける理由を探してたんじゃないかな。私、きっとその時から幽君のこと気になってたんだよ」
向日葵からそんな話は聞いたことはなかった。
どうして話しかけてきたのかを尋ねたことはあったが、慌てたように「忘れちゃった」と誤魔化されていた。
「そういうの、色々思い出した時に言ったこと後悔しない?」
「へ?…あ。確かにそうかもしれない…!」
そう言うと、顔を赤くする。
「なんか他人事みたいに想像で話してたけど、これ私の話だもんね!?」
「そうだよ、目的忘れてる?」
「わ、忘れてない!思い出すんだから、ちゃんと」
彼女が誤魔化すように魚の図鑑を見ていると「あ」と声を上げた。
「どうかした?」
「あ、いや、なんか…見覚えあるなぁって」
そう言いながら、ページを捲っていく。
「というか、知ってる。覚えてる」
「意味記憶…」
向日葵が失ったのは思い出だけで、彼女が学んできたことはそのままなのかもしれない。
「前の私がどうして魚が好きなのかは思い出せないけど…私、覚えてた」
向日葵が「良かった…」と小さく呟いた。
「本当に、今日にでも記憶が戻るかもしれないな」
「だと、いいな…!」
少し涙ぐんだ彼女は、安心したように笑った。
きっと、不安だったのだろう。
思い出したいのに思い出せないことがあるというのは、自分が想像出来ないくらい、怖いことなのかもしれない。
「次に行こうか」
そう言って、彼女の手を取った。
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