燦燦と、皓皓と 前編
死は誰にでも平等にやってくる。
誰であろうとも逃げられやしない。
けれど、それは幸せだってそうなのかもしれない。
平等ではないかもしれないけれど。
大きかったり、小さかったりするかもしれないけれど。
それは確かにやってくるんだ。
◇
磨く。
削る。
あの日見た星を思い浮かべる。
綺麗な宝石とは比べものにはならないけれど。
想いを刷り込むように、ひたすらに。
◇
「
そう言って、
一瞬、"ヤナギ"とは誰のことかと思ったが、ここが水族館であり、更に言えばペンギンの水槽の前であることから、彼女の言葉の意味を理解する。
「ヤナギ…って、ああ」
黄と橙色のバンドを羽につけた、"ヤナギ"と名付けられたペンギンが、自分達の方へよたよたと駆けてくるのがわかった。
「あ、石咥えてる……そっか。"マツ"のところに運んでるんだ」
「マツは…」
「ヤナギのお嫁さん」
即答で返ってくる辺りは流石と言うべきか、呆れるべきなのか。
ペンギン達の関係をまとめた相関図が壁に大々的に貼られているのは以前から幽も知ってはいるが、彼女程完璧に覚えてはいない。
「ペンギンにとって石は巣作りに使われたり、珍しいけどプロポーズにも使われるんだって」
「へぇ、ペンギンにもそういう奴らがいるんだ」
彼女は以前からそういった知識には強かったが、大学に入学してからは更に磨きが掛かっている。
きっと立派な学者になって、彼女にしか見つけられないような発見をするんだろう。
そろそろ、ちゃんと話をするべきだと、そう思った。
「ねぇ、向日葵」
「ん、どうかした?」
意を決して、口に出す。
「結婚はしないでおこう」
◇
星が降るあの満月の夜から二年。
幽は十九歳、向日葵は二十歳になった。
幽は少し病院に行く回数が多くなり、向日葵は学業が忙しくなった。
けれど、二人の時間は減らない。むしろ、「恋人」という関係になってからは、それ以前よりも増えたと言ってもいい。
遠出は難しいけれど、出来るだけ色んなものを二人で見ようとした。二人だけの思い出を育んだ。
遠くない未来に死が二人を別つことが確定していたとしても。そうだとしても、君と一緒に居たい。君が死んでも愛したい。
君と生きた証が欲しいと、そう思った。
◇
「結婚はしないでおこう」
彼が、平坦な声でそう言った。
「…でも、私はしたいよ」
出来る限り、いつも通りに言う。
彼の考えてることなら、わかる。
「でも、もうあと一年だ」
「ちゃんと、わかってるよ」
わかってる。そんなこと、もう二年も前から。
幽は、向日葵を見ないまま、言葉を続ける。
「向日葵には本当に、幸せにしてもらったよ」
「そんなこと、今言わなくたって…!」
幽は振り返る。振り返って、正面から向日葵に向き合う。
「これ以上は、贅沢だ」
そう言いながら、困ったように笑った。
言葉が出なかった。
言いたいことは沢山ある筈なのに、言わなきゃいけないのに。
彼がどれだけ悩んでその言葉を振り絞ったのかを想像してしまった。
幽は、「今日はもう、帰ろう」とだけ言って、俯く私の手を取った。
◇
「ここで、いいよ」
水族館を出て直ぐに、向日葵が口を開いた。
その声はいつもの彼女の元気なものではなく、消え入りそうな、震えた細い声だった。
「でも」
「いいから…ごめん。また、ちゃんとお話するから」
それだけ言うと彼女は手を解く。
幽は、離れていく手を掴もうとして、やめた。
決めたんだ。この意思は、渡せない。
◇
走る。俯く自分の心を置いていくように。
こんな顔じゃ、気持ちじゃ、ダメだ。
何も言えなかった自分に腹が立った。
次に会ったら、ちゃんと言わなきゃ、もう一度。
贅沢なんて言わせない、逃がさない。私が、君を──
クラクションの音が響く。
彼女の思考はそこで止まった。
◇
彼女が走り去ってしまった後、暫くその場で立ち尽くした。気付けば日は傾き、空は紅く染まっていた。
心臓のあたりに孔でも空いたんじゃないかと錯覚するような、喪失感のようなものを感じながら帰路に着く。
これでよかった筈なのに。
彼女の幸せを考えれば、自分の存在は将来的に見れば重荷でしかない。
向日葵が幸せならそれでいい、そう思って決めたことなのに。揺らぐ心に嫌気が差す。
自室に戻った後、作業台に置かれた石を見る。
小さく、星にも見える形に加工されたそれは、輝きこそしないが、存在を主張していた。
もう今日は何もしたくない、そう思ってベッドに倒れ込む。
向日葵は今どうしているだろうか。
怒っているだろうか。
泣いているだろうか。
なんにせよ、もっと話をしないといけない。
微睡みに沈みそうになっていたその時、不意にスマートフォンが鳴った。
◇
「向日葵!」
形振り構わずに病室の戸を勢いよく開ける。
頭に包帯を巻いた向日葵がベッドに腰掛け、彼女の両親が傍に居る。
「車に撥ねられたって…!」
「ひとまず、この通り命に別状はないから安心しなさい」
そう言ったのは彼女の母だ。その表情は安堵しているようで、まだ強張っている。
彼女は「でもね」と続け──黙った。
「少しだけ、僕と来てくれるかな」
言い淀んだ彼女に代わり、向日葵の父が言った。
「どうして」と言い掛けたが、向日葵が何も言い出さないこと、自分を見て不思議そうな表情をした彼女に違和感を感じた幽は、彼の言葉に無言で頷いた。
病室の外、待合所まで移動すると、彼は椅子に座った。
幽にも座るように促すと、ゆっくりと口を開いた。
「悪いね。幽君も心配しているだろうに」
「あの…一体何が?見た目以上に怪我が酷いとか…何か障害でも見つかったんですか」
向日葵との交際以降、何度か彼、
もちろん、娘が事故に遭ったのだからいつも通り冷静という訳にはいかないのはわかる。
だが、何かが妙だった。
「向日葵に、何があったんですか」
暫くの沈黙の後、彼は言う。
「向日葵、何も憶えていないんだ」
言葉を失う。呼吸の仕方が一瞬わからなくなる った。
「──っ、そんな」
「幸い、事故での外傷は軽微なものだった。でも、衝撃自体は強かったのか、何かショックなことがあったのか…なんにせよ、向日葵は今、記憶喪失ということだ」
ショックなこと。
その言葉を聞いた直後、嫌な汗が噴き出た。
「俺の、せいかもしれません」
「──…。詳しく、聞かせてくれるかな」
◇
「なるほど、確かに、ショックではあっただろうね」
誠一は少し考えると、幽の方へ向き直り、目を見た。
「幽君。君は、向日葵のことを愛しているかい」
彼のその言葉の真意はわからない。けれど、答えは決まりきっている。
「愛しています」
これだけは、絶対に揺るがない。
誠一は笑うと、「よかった」と言った。
「ここで言い淀んだりしたら、君のことを殴らなくちゃいけないところだった」
誠一が「本当によかった」と呟く。
「僕はね、君が息子になってくれたら、って思っているよ」
「…さっきお話した通り、俺はもう死ぬんですよ」
誠一は柔和な笑みを浮かべる。
「だから、なんだって言うんだ」
「…っ!何だも何もないでしょう!?」
思わず、語気が荒くなる。
「俺が一緒に居ても、もう幸せになんて出来なくなるんです…!」
今まで口に出さなかったことが、堰を切ったように溢れ出る。
「俺がもっと生きれるなら、迷いなんかしないのにっ…!」
生きたい。今になって、そう思ってしまったんだ。
「向日葵には幸せになってほしいんだ」
でも。
「俺は…向日葵の重荷にはなりたくないんだ…」
幽の言葉を黙って聞いていた誠一が、口を開く。
「幽君は、向日葵のことをまだ甘く見ているよ」
「………?」
「あの子が君のことがどれだけ好きか。僕は君よりも知っている自信がある」
「…君の名前を聞かない日が無いんだ、三年前からね。僕が拗ねる間もないくらい、向日葵は君のことを想っているのさ」
「君が死んでも、向日葵は君を忘れないよ。それに、今更突き放したところで…向日葵の意思が変わるわけないだろ?」
そう言うと、誠一は笑った。
「貴方は、向日葵に引き摺っていけと言うんですか」
「それは向日葵次第さ。少なくとも…」
「君が一人で決めることじゃない」
厳しく諭されたような、優しく叱られたような、そんな不思議な感覚がした。
「なんにせよ、向日葵の記憶が戻らないことには話の続きが出来ないのは確かだ」
「……そうですね」
誠一は少し考える素振りを見せると、
「娘を、任せていいかい」
と言った。
「…どういう意味ですか」
「言っただろう?向日葵は君のことが好きでどうしようもないんだ。記憶が戻るのなら、君との思い出を最優先にしたいに決まっている」
誠一は「癪だけどね」と冗談っぽく口を尖らせた。
まだ、自分の中で結論は出ていない。向日葵と話の続きが出来るかもわからない。
それでも、今したいことははっきりしている。
「向日葵に、会わせてもらえますか」
◇
「僕は外で待ってるよ。多人数に囲まれてしまったら、向日葵が困るかもしれないからね」
誠一はそう言うと、どこかへと歩いていく。
なんて声を掛けようか。
恋人です、なんて言っても困惑させてしまうだけではないか。
幽が病室の前で考え込んでいると、不意に戸が開いた。
「あら、お話は終わった?」
「ええ…まぁ」
向日葵の母、明希さくらは先程よりも朗らかに見えた。
「ほら向日葵、さっきお話してた幽君よ」
そう言うと、幽を病室に引き入れる。
「えっ、ちょっと、急だなぁ」
「こういうのは勢いが大事なのよ、いつも言ってたでしょ」
「あはは、だから憶えてないんだって」
さっきの間に話をしていたのか、二人はごく自然に会話をしていた。
まるで記憶喪失なんてことは嘘だったんじゃないか、と思ってしまう程に。
「いいえ、きっと身体が憶えてるわ」
彼女はそう言うと、「それじゃ、私はお父さんとお話してくるから」と引き止める間もなく出て行ってしまった。
「あー…えっと、なんかごめんね?」
「いや、いつも通りで安心するよ」
向日葵はベッドに腰掛けたままこちらを真っ直ぐに見る。
「ね、幽…君、だよね。さっきお母さん?から聞いたの。…その、恋人だって」
「…そうだよ。でも、急にそんなこと言われても困るよな」
「あはは、まぁね。でもね、なんにも憶えてないけど、目が覚めたらこうやってお父さん、お母さん、それに恋人だって人がすぐ居てくれるのって、私すごく幸せなんだな、って思っちゃった」
彼女は少し恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうにそう言った。
「怪我、痛くない?」
「心配してくれるんだ」
「そりゃ、するよ」
ふふ、と彼女が笑う。
「ちょっと痛いけど、平気だよ。もう明日には退院も出来るって」
「そっか」
短い沈黙。
「私ね、憶えてないけど、君が恋人なんだってすぐわかったよ」
「──…。どうして?」
「君がここに来てくれるまで、まだ何もわからなくて不安だったの。でもね?君の必死な顔を見たら、そんな不安どっか行っちゃった。どうしてかわからないけど、安心しちゃったの」
何も変わらない。
表情も、言葉も、想いも。
彼女は、記憶が無くたって向日葵で。
俺は向日葵が大好きなんだ。
必死に泣いてしまいそうになる自分を抑えた。
俯いて、震えた声だっただろう。
それでも。
「ありがとう」
それだけは、言うことができた。
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