第八話 ぼくのプリンセス

 家の近くの観光街にある広い公園で、ぼくと麻衣は遊んでいる。

 あれ? 麻衣、それって幼稚園の制服? ぼくも?

 ああそうだ。いつも幼稚園の帰り、母さんたちにカバンを渡して、そのままふたりで道草していたんだっけ。

 ぼくら、あのころから今まで、本当に仲良しだよね。


 ブランコをいでどっちが高く上がれるか競争したら、次はシーソーでギットン、バットン。

 すべり台で心行くまで遊んで、公園内を思い切り走りまわり、砂場で泥んこになる。

 毎日服が泥だらけになっても、母さんは叱りもせずに笑顔で「お帰り」って迎えてくれる。


 その日ぼくと麻衣は、いつものように公園を走りまわっていた。

 いつの間にか足元の影が長く伸び、街が赤く染められている。どこかの家からおいしそうな匂いが漂い始め、ぼくのお腹がぐうっと鳴った。


「そろそろ帰ろうか」

 と麻衣の手を取ったとき。

「ワン、ワン、ワン!」

 突然目の前に犬が飛び出し、ぼくたちに向かって走ってきた。


「きゃあっ」

 耳元で悲鳴が聞こえる。ぼくはとっさに麻衣を背後にかばった。

 目の前には激しく吠える茶色い犬。ものすごい勢いで、ぼくらに突進してくる。


 膝が震えた。逃げたい。でも体がいうことをきかない。

 どうしたらいいんだ。ぼくらふたりとも、あの怖い犬に咬まれてしまうのか?

 ぼくは途方に暮れて立ちすくむ。


 頭の中が真っ白になって、とにかく逃げることしか頭にない。犬に背を向けて走りだすしかしかない。


 そう思ったとき……。


 麻衣がぼくの肩にしがみついた。腕を通して震えが伝わる。

「麻衣……」


 そうだ。ここで麻衣を助けられるのはぼくだけだ。

 何があっても、ぼくが怪我をしても、麻衣にはかすり傷ひとつ負わせやしない。


 ぼくは歯を食いしばり、両手をギュッと握りしめる。今にも飛びかかろうとする犬をじっと睨んだ。

 絶対に目をそらしちゃだめだ。くじけそうな自分にそう言い聞かせて、犬とにらみ合いを続ける。


 でも怖くてたまらない。幼稚園児のぼくに、何ができるというんだ?

 もう、だめ、だ……。


「ココアっ! お座りっ!」


 突然知らないおばさんの声が響いた。

 吠えていた犬は急に向きを変えておばさんに駆けより、尻尾をふりながら足元をぐるぐると回っている。


「ごめんね、きみたち。うちのココアが驚かせてしまって」

 おばさんは肩で息をしながら、ぼくたちに謝った。そして手放してしまったリードをしっかりと握り、犬がぼくたちのそばに来ないようにしてくれた。


「ココアは自分と同じような小さい子供が好きなのよ。きみたちと遊びたくて、おばちゃんが手を緩めたすきに逃げだしちゃったの」

「う、うん……」


 よく見ると犬は吠えも唸りもせず、嬉しそうにぼくたちを見て尻尾をふっている。

 拍子抜けだ。どうしてこんな小さくて可愛い子が、あんなに怖い犬に見えたんだろう。

 ああ、そうだ。麻衣は犬が苦手だった。なんだ、ぼくまで影響されたのか。


おばさんは何度も何度も謝ったあとで姿を消した。ぼくは麻衣を背に、おばさんと子犬に手をふって見送る。おばさんたちが見えなくなってから、

「大丈夫だった?」

 ぼくはふりかえり、麻衣のようすを伺った。青ざめた顔で口ががちがち震えている。

「怖い犬はいなくなったから、心配しなくてもいいよ」

 優しく声をかけながら、麻衣を下から覗きこむ。


「でも……帰る途中でまた会ったら……」

 麻衣はぼくよりずっとしっかり者で、背も高い。いつも世話をしてもらうばかりなのに、このときはなぜか小さく弱々しく見えた。

 ぼくは泥で少し汚れた右の手の平を、服でぬぐう。


「そんなに怖いなら、ぼくが家まで送るよ」

 右手を差し伸べる。

「ほんと……?」

「うん、本当だよ」


ぼくの返事を聞くと、麻衣は恐る恐る左手を出し、ぼくの右手をしっかりと握り返した。かと思うと急に、大声で泣き出した。

「あーん、こわかったよう」

 ひとしきり泣いたあとで麻衣は、空いた右手でほおの涙をぬぐいながらぼくに言った。


「ハヤト、助けてくれてありがとう」

「い、いやあ。これくらい、なんてことないよ」

 本当は麻衣につられて怖がっていたけれど、それは黙っておこう。だってその方がかっこいいよなって、幼いながらぼくは思う。


 そんなときだ。麻衣は急に泣き止んだかと思うと、ぼくの目をじっと見据えた。

「ねえ。お礼にあたし、ハヤトのお嫁さんになるね」


「……え? お嫁さんって?」


 なんのことか理解できず、ぼくは聞き返す。

「うん、お嫁さん。あたし、ハヤトが大、大、大好きになったもん」

 涙でくしゃくしゃになった顔に、麻衣は満面の笑みを浮かべた。


 そのときのぼくは、お嫁さんという言葉の意味はよく解らなかった。

 でも麻衣のことは好きだったし、結婚すればいつまでも一緒にいられるって聞いたことがある(そのときは自分の両親が離婚したなどということは、頭の片隅にすら浮かばなかったんだ)。


 そう思うと、うれしくてたまらなかった。

 断る理由なんてあるはずがない。


「いいよ。お嫁さんにするね」


 ぼくの返事を聞いた麻衣は、少し照れたように微笑んだ。

 ぼくたちは手をつなぎ、夕暮れに染まる街の中をずっと歩いた。このまま麻衣の家を通り過ぎて、いつまでもいつまでも歩いていたかった。


 頬を赤く染めていたのは、夕日だけではなかったかもしれない。


つないだ手のぬくもりと強い絆を、ぼくらふたりは幼いながら感じていた

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