第九話 何もできない
ぼくの目の前に星が飛んだ。
いきなり胸倉を掴まれ、頬を殴られる。その拍子に足元がぐらつく。
ぼくは地面にあおむけに倒れ、後頭部を嫌というほど打ちつけた。
ほんの一瞬意識を失っていたようだ。目覚めたぼくは
まだ夕焼けの中、麻衣と手をつないで歩いているような気がする。
あれが夢だと気づくまで、少しの時間が必要だった。
でもなぜあんな夢を見たんだろう。
体に響く重低音。夜空を彩る色とりどりの光たち。ああ、そうだ。ここは花火大会の会場近くだ。
狭い路地からでも、打ち上げられる花火がなんとなく見える。きれいだな。背中がひんやりする。
土の上って思ったより硬いけど、アスファルトと違って冷たいんだ。知らなかったよ。
「いってえ」
ぼくは後頭部をなでながらゆっくりと起き上った。
目の前には、倉田先輩が麻衣をかばうよう屈み込んでいる。麻衣は先輩の赤くなった頬にそっと手を触れる。
なぜ? 重傷なのはぼくの方なんだよ。
「……麻衣、大丈夫か?」
声をかけると、麻衣は顔を上げてぼくを見る。でもその視線は鋭く、ぼくを非難しているようだ。
なんだよ、なぜそんなに
「ハヤト、いきなり何をするの?」
「何って……さっき、いやだって言ってたじゃないか。倉田先輩にひどいことされ……」
「ひどいことなんてされてない。コウちゃんがそんなことするわけないでしょ」
――コウちゃん?
だれのことだよ? コウちゃん……浩一……倉田浩一。え、倉田先輩のことなのか?
ちょっと待て。いつからそんなに親しげに呼んでいるんだよ。
ぼくはまだ夢を見ているの?
頭をぶつけたせいか、事態がよく飲み込めない。
倉田先輩はぼくに殴られたほおを手の甲で撫でながら口をひらく。
「いいよ、麻衣。ぼくは大丈夫。この程度はかすり傷さ」
っとまてよ、麻衣なんて気安く呼ぶんじゃない。コウちゃん? 麻衣?
「ひどいことしてないなら、どうして『嫌だ』なんて言うんだよ。先輩、麻衣に何をしてたんだ」
「な、何って……きみには関係ないだろ」
倉田先輩はわずかにほおを赤くしながら顔をそむける。
寄り添うように座っている麻衣は、軽く握った右手を口元にあてて、これ以上にないくらい耳まで真っ赤に染めて目を伏せた。
そのときになってぼくはやっと、ふたりがどういう関係で何をしていたのかを理解した。
麻衣と先輩はカップルで、人ごみをさけてキスしようとしていたのだろう。
なんだよ、なにが麻衣のヒーローだよ。
このふたりがつきあっている。そんなことに気づきもしないで……とんだ道化師だ。
「あたしたち、もう行くね。ハヤトもいつまでもこんなとこにいないで、みんなのところに戻りなさいよ」
麻衣の言葉はぼくの耳を素通りする。動けないぼくの横を、麻衣と倉田先輩が腕を組んで通りすぎた。
空には花火が次々と上がり、狭い路地を照らす。
ドン、ドン、という音がぶつけた頭を直撃する。
しばらくしてぼくは立ち上がり、服についた砂を払った。
こんなところで何をしているんだろう。花火大会に来たのに。兄さんや小学生たちと楽しむはずだったのに。
戻ろう。みんなが待合所で待っている。いつまでも姿を見せないと、心配させてしまう。
この状況は、だれが考えても失恋だよな。なんだよ、麻衣のやつ。自分からぼくにプロポーズしておきながら、よりによって倉田先輩と両思いになるなんてさ。
学校一のモテ男、地域のアイドルだぞ。ライバルが多すぎて、麻衣は絶対にフラれると思っていたのに。
甘かったよ、考えが。
悲しいけれど、もう前みたいに麻衣とは話せない。少なくともぼくがこんな気持ちのままじゃ……。
ブロークンなハートを抱えたぼくは、重い体を引きずるようにして路地を出た。
「あ、兄さん……」
兄さんが悪ガキ軍団を連れて、さっきのコンビニ前に立っていた。ぼくを見つけると黙ってそばまで歩みより、頭をくしゃっとなでた。
「な、なにするんだよ、小学生の前だぞっ」
「残念だったな。でもこれは多くの人が通る道だから」
そうか、麻衣と倉田先輩が連れだって出てくるのを見たんだね。腕組みしているところなんて、だれが見てもカップルだもんな。
ちょうどそのとき次の花火が上がり、大きな音があたりの騒ぎをかき消した。でも兄さんの言葉は、確かにぼくの耳に届いた。
――多くの人が通る道だから。
「ハッちゃん……?」
昭が不安げな目でぼくを見る。一番おませなきみなら、ぼくがどういう気持ちなのか、言わなくても解るよね。
「な、なんだよ、みんなして。ぼくが迷子になるわけないだろ。約束のところで待っててくれたらよかったのに。
それよりも、早く花火の見えるところに行かなきゃ。アーケードの下にいたんじゃ、ちっとも見えないじゃないか」
ぼくはそう言うと、みんなの先頭に立って走り出した。悪ガキ軍団がすぐ背後を追いかけてくる足音が聞こえた。
アーケード街を抜けた。
視界が開け、目の前に大きな花火が見える。
終わりの時刻が近いのか、次から次へと切れ間なく上がる。
絶え間なく響く大きな音。それに負けないくらいの歓声――。
光に遅れて届く音は、周回遅れのぼくの気持ちみたいだ。胸がしめつけられる。でも立て続けに上がっているおかげで、今は音の遅れも解らない。
お盆の終わりの花火大会。光で作られた花が夜空に咲き乱れる。
苦いものが胸に広がる。
ぼくは空を見上げる。何度も何度もまばたきをしながら、ぼやける花火をずっと見ていた。
無理だよ。
大好きな女の子のために何もできないぼくが、彼女の気持ちが理解できないぼくが、地球のために何をできるっていうんだろう。
あんな作文の宿題は、もう忘れてしまいたい。
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