23

 夜の校舎内は静かで暗い。自動販売機の明かりだけが廊下を照らし、駆動音しか聞こえない。

 練習後に校内の自動販売機前にあたしだけ来るように曜さんに言われたからここにいる。曜さんとは千屋さんのお母さんのことで、「曜さん」と呼ぶように強制された。それは千屋さんも例外ではなく、千屋さんは露骨に嫌そうな顔をしていた。現役時代にそう呼ばれていて、そう呼ばれることで選手としてのスイッチが入るらしい。

「お待たせ。で、なにがいい?」

 曜さんが現れたかと思うと、財布を取り出しそうあたしに聞いた。

「いや、大丈夫です」

「遠慮なんかしなくていいから、ほら、選びな」

「えっとじゃあ、これを」

 遠慮がちにレモン味の炭酸水を示すと、曜さんは小銭を入れてボタンを押した。渡されたペットボトルはよく冷えていて練習後の火照った体にとって心地よかった。

「ありがとうございます」

「お礼を言うのはこっちだよ」

 曜さんにお礼を言われるようなことをあたしはしてないから困惑してしまった。むしろお礼を言わないといけないのはこちらのほうだ。曜さんは正式にあたしたちの指導に当たってくれることになった。日本一になりたい、とあたしたちが言うと、

「じゃあ日本一になれるように指導をしてあげよう」

と自信満々に言ってもらえた。千屋さんがいるからだろうが、一高校生が元世界トップレベルの選手に教えてもらえる環境は本当に貴重だ。

「阿河さんがいなかったら今の唯はなかったわけだからね」

 思ってもいなかった言葉にあたしはしばし固まり、曜さんの顔をまじまじと見つめた。

「小学生のときは無邪気にセパタクローをやってたんだけどね。中学生になると全然笑わなくなっちゃって。反抗期かと思って見守ってたけど、どうもそれだけじゃなさそうで」

 千屋さんが無邪気に笑いながらプレーする姿はちょっと想像できないが、そういう時代もちゃんとあったのだと、なぜか安心した。

「どうしたらいいか分からなかった。時間が解決するかもと希望的観測を持ってたけど、中学生の間はすっかり笑顔を見ることがなかった」

 千屋さんが中学生のときはたぶん、周りと上手くいってなかったときだ。一年生のときの大会で当たった相手が偶然千屋さんの中学の同級生で、相手の態度からそのことが手に取るように分かった。異質な存在、つまり千屋さんのずば抜けた実力は目の敵にされたはずだ。

「一昨年の夏に唯が怪我して帰ってきたからびっくりしたよ。びっくりしたのは怪我したことよりも、なんか少しだけ雰囲気が丸くなったことだけどね」

 曜さんは自動販売機に小銭を入れ、あたしと同じものを買い、一口飲んだ。

「で、去年の夏はすごい形相で帰ってきたかと思ったら部屋にこもるし、暴れているしで大変だったよ」

 曜さんが言っているのはたぶん、試合の日のことだ。試合の次の日、千屋さんは体育館で一人鬱憤を晴らすかのようにボールを蹴り続けていたが、どうも部屋で八つ当たりまでしたらしい。

「まあそれだけ真剣にやっているのかと思って少しは安心したよ。で、しばらくしてから唯に部長にでもなったの? って聞いたらなってないって言うからもうびっくり。唯を凌ぐ実力の人が部長になったのかと思ったけどそうでもなさそうだし。でも納得はした、唯をあれだけ真剣にさせることができた器の人だってね」

 曜さんは千屋さんに見せたのと同じような視線をあたしに送り、あたしの手にあるペットボトルを指さした。

「それはそのお礼」

「……一〇〇円ですか?」

 あたしが冗談ぽく言うと、曜さんは大笑いして、

「おもしろいね。なんなら全部買ってあげてもいいよ」

「いえ、そうじゃなくて。あたしはなにもしてないですよ。あたしは成り行きでこの部に入っちゃって、初対面の千屋さんが気にくわなくて必死に練習してただけです。気がつけばそろそろ二年近くになりますけど、それだけです。だから、一円の価値もないですよ」

「お金じゃはかれない価値ってやつね。言うことが若者っぽくていいなあ」

 そんなことを言われると急に恥ずかしくなってしまった。そんなつもりはなかったのだが。

「でも、それがよかったんだと思うよ。ただただ必死なのが。今まで唯の周りにはいなかったタイプじゃないかな、阿河さんは。阿河さんがいなかったら今でも唯は心を閉ざしたままだった。阿河さんに出会ってなかったら、と思うとぞっとする。本当にいてくれてよかった」

 曜さんが真顔でそんなことを言うものだから、あたしは練習とは違う熱がこもるのが分かった。

手元のペットボトルを開け、炭酸でお腹が膨れるのを気にせず半分くらい一気に飲んだ。

「まあそれはそれとして、指導はビシバシやるけどね」

「お願いします。今度こそ勝ちたいんです」

「任せなって。北原さんも阿河さんも伸び代だらけだよ。それに、唯もね。唯がこの先もセパタクローを続けるかは分からないけど、続けるなら近いうちに完璧な強さを手に入れるはずだよ」

 仰々しい物言いだと思ったが、曜さんの顔は真剣そのもので本当にそう思っているらしい。

「今日の練習前に唯がアタックで私のブロックをあっさり打ち破ったでしょ。あれは空中で態勢をむりやり変えてブロックをよけたの。ちょっと危ない着地してたから、まだ使いこなせているわけじゃないけど、そんなことできるの唯くらいだよ」

 千屋さんが曜さんに勝った理由がようやく分かった。見てるだけだと普段通りのアタックと違いが分からなかったが、そんな高度なことをしていたのか。

「唯なら世界一にだってなれる可能性もあるね」

「そんなに、ですか。ずいぶん評価してるんですね。……もしかして親バカですか」

 あたしが少し呆れながら言うと、曜さんはまた大笑いした。

「そりゃあねえ。なんていったって唯は私の娘だからね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る