第8話  言伝と、想い出と、


「あなた……、ハザマダさん」

 バックミラーの中、男は指で眼鏡を押し上げる。

「その名もよろしゅうございますが。ブンガク。できればそちらでお呼びいただきたいもので」


 無表情に私は言う。

「ハザマダさん。何なんです、あなた」

 男は口の端に薄笑みを残し、ミラー越しに私を見つめる。私はさらに問う。

「何なんですか、あなたは。いったい何、何で私の所に、何をしに来たんです」


 男は大げさに肩をすくめ、かぶりを振ってみせる。

「一つは申し上げたはずですがな。私については、文学と。それは言葉のそのままに。何のためにと申されましても、それは貴女と会うために」


 私はほんの一瞬、男の方を向いて口を開く。

「だから、なぜ私に――」

「知っているからですよ」

 私の声にかぶせるようにその声は響き、間を空けて続く。

「知っているからですよ、よく。彼のことを。ある意味では貴女が知っているよりも」

「どういう――」


 ああ、と思い出したように、男が人差し指を立てる。

「すっかり忘れておりました。お会いしたらば言おうと思っていたのでございますがね。言伝ことづてがございます」


 思わぬ言葉に、ハンドルを握る手に力がこもってしまった。言伝。誰からの――誰からの?


 男は考えるような顔であごに手を当てる。

「ま、言伝ことづてといいますか……伝聞に基づく、わたくしからの忠告と申しましょうか」

 わずかな間だけ振り向いた私の視線を感じてか、男は先を続けた。声をひそめて、口に手を当てて、私の耳元で。昔バーで、彼が私にしたみたいに。

「お怒りですよ」

 誰が?


 私が振り向くより早く男は続ける。

「お怒りですよ、あのお方」

 誰が、誰が? なぜ?

 手が震える。わずかに汗ばんでハンドルが湿る。


 喉の奥で小さくため息をつき、男はささやく。

「ええ本当に、あのお方、あの先生は……誰かお分かりにならない? 大先生ですよ、ロシアの」

 ……ロシア? まったく分からない話になって、私は眉根を寄せた。


「本当にお忘れで? あのようなことをなさっておいて?」

 ため息をついて、それから男は一息に言った。

「ロシアで大先生と言えば――他にも偉大な方が大勢いらっしゃいますが――まず出てくるお名前でしょうに。ドストエフスキー先生ですよ!」


「…………は?」

 私は思い切り口を開けていた。眉間にしわが寄っていた。

 意味が、純粋に分からない。


 男は帽子を手で押さえ、うつむいてかぶりを振る。

「本当にお分かりでないようで……『罪と罰』お読みになったでしょう?」


 確かに昔読んだことはある。正直中身は覚えていないし、難しくて途中でやめてしまったのだが。主人公の名前がラスコーリニコフで、何か殺人の話。思い出せるのはそこまでだ。


「ああ、ええ、それです、それですとも! 上下巻の文庫本を買って、上巻を全部読んで下巻に一切手をつけない。これはいったいなんたることか! そういった風に、先生いたくお怒りでして。ああ、上巻をお読みになったのならお分かりではありませんか? 長いでしょう、あの作品。物語自体や文章というより、台詞が」

 頭をかいて男は言う。

「あの作品、先生が口述するのを筆記者が書き起こしたものなんですな……当時の先生はお体を悪くされておりましたので、そうした形を取ったそうで。それで台詞が長いとは、つまりその……先生、話し出すとえらく長い方で、はい。後々誰もが行く所で、お説教を賜わりたいのでなければ、読んでおくことをわたくしからお勧めいたしますな」


 私が何も考えられずにいると男は続ける。

「そうそう、『カラマーゾフの兄弟』も、中巻の半ばで止まったのでは? あれは下巻からすごいことになるというのに! とんでもないことだ! と、まあ……あぁでも、サン・テグジュペリ先生はたいそう感激してらっしゃいましたよ。『小さな王子様』――日本では『星の王子様』ですな――を、なにも四ページごとに泣きながら読んでくれなくてもいいのに! なんて。あとはそうですな、江戸川乱歩先生は何とおっしゃっていたか……」


「……ご親切に、どうも」

 それだけ言って、私はシートに深くもたれた。あまり深くは考えられなかった。ただ、男の言った読書事情は全部身に覚えがあった。


 もう少しもたれていたかったけれど、上り坂はそこで途切れていた。

空が青く開けていた。不穏な色をした雲の塊が浮かび、太陽はその端で、黄金の刃物のような光を地上へ投げかけていた。道は緩やかに、やがて急に下っていった。木々の向こう、遠く見える青い海に吸い込まれるように、沈む感覚を体で感じた。


 しばらくそのままの時間が流れた後で。男は窓の外を見上げる。

「美しゅうございますな。山、海、空、それにどうですこの光は。ただ温かに降り注ぐのではないような、何かが起こりそうな光は」

 男が開けた窓から入り込んだ風が、車内の空気を軽くかき混ぜる。


 坂をだいぶ降り、道は海沿いを続いていた。カーブの向こうには島々の浮かぶ瀬戸内海が見えた。海にはまるで織物のように、細かな波が光を受けて白く輝いていた。

 目を上げれば、男の言うような光が、刃物を内に包んだベールのような光が、雲の間から波の上へと降り注がれていた。


 その光景は、空白で満ちた私の胸すらざわめかせた。ほんの表面をそうしたに過ぎなかったけれども。


 男は帽子のひさしに手をやり、雲の方を見上げてつぶやいた。

「本当に、何かが起こりそうな空でございますね。まるで天使が降りてきそうな。あるいは……降ってきそうな、たとえば。美少女が、空から」

 その妙な言葉に、私は聞き覚えがあった。





――「『曇りときどき、美少女』」

 彼は真顔でそう言った。机に向かって、開いたノートの前で万年筆をもてあそびながら。

「……何、それ」

 休日の昼。彼の好きなオムライスを台所から運びながら、私はそう言った。えらく不安そうな顔をしていたと思う。


 椅子の背もたれに体を預けながら彼が振り向く。

「タイトル案、次書く小説の。次、かどうか分からんけど、とにかく書くやつの。んで、賞に送る。ライトノベル系で、締め切りに間に合いそうなやつ」

「へー」

 背中で聞きながら、台所へお茶を取りに行く。


椅子が規則正しく揺れて軋む音と、彼の声がする。

「ほら、アニメとか漫画で――って、知らんか――ときどきあるんやけど、そういう話のパターン。お話の冒頭で美少女が空からすうっ、と降りてきて。主人公の少年と出会う、ボーイミーツガールやの。んで、その少女を少年が守って、少女にまつわる謎をめぐって冒険のはじまりはじまり……っていうのが。ほら、『天空の城ラピュタ』とかまさにそうやん、ジブリの」

「ふーん」

 聞き流しながらテーブルに急須きゅうすとカップを置く。


 彼の話はさらに続いた。椅子のきしむ音。

「で、のぅ。いっそのことそれが、わんさと降ってきたらどうかなーっ、て。そう美少女が、ゆっくり落ちる雨のように、灰色の綿雲、金色の光降り注ぐ中を風はなくそう光の中、雨のように雨のように――」

「楽しそうなお話だけど。それより、食べよ」

 笑ってそう言ったのだが。彼は跳ね起きるように身を起こし、私を見た。


「そうか! そうや、そうや! 少女である必要はないんか、美少女は比喩や! そう比喩、『運命』の――この手の物語はいつも、美少女が降ってきて始まる、少年のそれまでの暮らし、平凡な日常が一変する。少年は出会でおうた、美少女に――いや、『自らの運命』に!」

 かぶりつくように机に向かい、万年筆を走らせる。

「そう、そうっ、そう。『曇りときどき美少女』、美少女が空から降ってくる日は『全ての人が、己の運命と出会う日』! そうまさにノックする、運命が扉を。美少女の形はしとらんでええ、他の生き物あるいは物、何かの事件? 絡み合う互いの運命、きっかけとなる何か、真実への……そう、でも何人かは美少女が要るのぅ主人公の所と後々出会って敵となる奴と……他にキーパーソン何人かの所にも来た方がええか、ああそうやおれ的には竜とか降ってきて欲しいのぅ、そうドラゴンに乗って空をバーッと駆け――」


「ねえ。後にしたら、冷めるよ」

 努めて笑ってそう言ったというのに。


「ああ冷めるわ、こんなアイディアほっといたら冷めてしまう! ある程度まとめとかんと、そう彼女らはいったい何なんか、それにやっぱ世界中、は無理か? 話をどう絞るか……」

 刻みつけるように書きなぐる彼の横で、私は黙ってオムライスを食べた――。





「大変ですな、実に」

 バックミラーの中で、男が笑ってかぶりを振る。


 例によって読まれているのかも知れないが、もはやこの男に怒るのも疲れた。心を読むだのなんだのについて、いちいち疑うのも。第一今は、彼に対する不機嫌でいっぱいだ。ありがたいことに、空白は少し埋まったが。わざわざ来て得たのがこれというのは、正直無駄足な気がする。


 下り坂を過ぎ、海沿いのなだらかな道を走る。窓を開けた。流れ込む風に髪と、ため息がなぶられる。





 ――ひとしきりアイディアをメモした後、彼は食卓についた。私はもう食べ終わって、彼のオムライスは冷めていた。


 風呂上りみたいに、あるいは存分に二人で寝た後みたいに。彼は満足げな、半ば放心したような顔だった。笑いながらオムライスに手をつける。

「いやー、よかったー。ほんま、スッゴいの出て。ラッキーやわ、ほんま。美味《うま》っ! オムライス美味《うま》っ!」


 もっと美味しいうちに食べて欲しかった。それに、彼が感じている美味しさは私の手柄じゃなかった。


 彼は食べ終えると、ころん、と横になった。ひなたぼっこする猫みたいに。ころ、ころ、ころと体を揺らし、それからこちらへ転がってくる。陽だまりの中、私の脚に頭をもたれさせてつぶやく。

「ありがとう、ほんまありがとう。美味しかった」


 私は思わず息をこぼした。本当に、彼は。小動物というか、子犬、子猫。そんな感じの男の子だった。草食系どころか、たとえるなら、ぬいぐるみのような人だった。


 私は微笑み、彼の頭をなでた。

「よかったねぇ、よかった。よしよし」

 彼は笑って目を閉じる。何も心配することなどないかのように。


 だから私は、彼に調子を合わせてみたのだ。

「ね、さっきの話。美少女が、運命が、っていうの。運命っていうのが実際あったら、どんなものなんだろうね。どんな風に出会うんだろうね」


 彼の目が素早く開いた。光の中、鋭く輝いていた。

「そうやの、おれはもう出会ったよ。おれにとっては――」

 玖美サンや。そう言うと思っていた、どうせ。彼はことあるごとにそういう、恥ずかしいことを言いたがるのだ。そういう風に私は身構えて、苦笑して、そう、確かに笑っていたのに。

「――小説やの」

 そう言った。穏やかに、光が染みこんだように澄んだ笑顔で。


 彼は続ける。

「ほんまにこれだけは、出会って人生変わったっちゅうか、逃げれそうにもない。なかったら死ぬ。死にゃあせんとしても、生きられる気もせんわ」

「……そう」


 光の中、私は笑うふりをしながら。ぬいぐるみに手を噛まれた気分だった――。


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