第9話  文学と、


「どんな方だったのですかな、彼は」

 何も知りません、といった顔をして、男は窓の方を向いていた。


 ハンドルを切りながら私は答える。

「小説が、大好きな人でした。読むのも書くのも。特に書く方。ジャンルは、よく分かりませんけど。ファンタジーらしいのと、他は文学だか何だか分からないようなのを」

「貴女のことよりも?」


 私は答えず、奥歯を噛みしめた。呼吸が落ち着くのを待って口にする。

「彼は本当に、小説が大好きな人で。二人で出かけていても、何か思いつくとメモを取り始めるんです。分かります? クリスマスイブ、二人で映画館に行って。見終わった後、トイレに立った彼が、歩きながらいそいそとメモを取ってるの見た気分。……どうでもいいだろ、って、そんな時に」

 男は喉を鳴らして苦笑する。

「いやはや、それは。何と申しますか、ご苦労様で」


「ねぇ。……ねえ」

 男の顔から笑みが消えるまで待って、問うた。

「そんなにいいものなんですか? 小説や、文学っていうのは」


 男の目がわずかに、鋭く細められる。眼鏡を押し上げた。ゆっくりと指を組み、膝の上に置いていた本の上に乗せる。その目はほんの少し彼に似ていた。小説の話をするときの美しい目、輝く刃物のような。


 男はおどけるように笑って肩をすくめる。

「ブンガクについては。ご覧のとおりで、目の前の」

「……わあ、面白い」

 思い切り苦い顔で言ってやった。前を向いたままだったので、男に見えていないのが残念だ。


 男は小さく笑うと、シートに深くもたれる。組んだ脚の上に本を載せた。持ち歩いていた、黒い革表紙の本。それをゆっくりと開き、見るともなくページに目を落とす。

「さよう……このような言葉がございます。『人は誰でも、一冊の本になれる』。さらに言いますと、『人は誰でも、一冊の本である』のでございまして」

「……本」

 男はゆっくりとうなずく。

「さよう、本。どんな人間であれ、一冊の本でしかないのです、なぜなら。どのような人間どのような人生、どのような命いや、どのような存在であれ……一つの物語である事から、逃れ得ないからでございます」


 男は声を高め、指揮者のように腕を振るった。言葉に合わせて何度も。

「人は書くのでございます、おのが自身の物語、己が命の文学を! 神か他人かおのれか我が子か、誰が読むかはいざ知らず。書かざるを得ないのでございます、まさにそれに、最後の終止符が打たれるまでは。その物語は呼ばれます、『人生』と。あるいは時に『運命』と、『神の意思』とも『偶然』とも。『奇蹟』、それとも『軌跡』とも。しかるにわたくしこう呼びます、それら全てを『文学』と! ……ええそう、まさに。人は誰しも一人とて、文学からは逃れ得ませぬ。それはまるで自身の影から、いやいやまさに自身から、決して逃れ得ぬように。えぇ、決して」


 なぜか、なぜだか。男が声を上げ、腕を振るうたびに。私の胸の内は、空白はざわめいた、まるでその手にかき回されるように。それは決して、心地のよい感覚ではなかった。


 私は口を開く。声は知らず知らず強くなった。辺りの道は海と山とに挟まれた、アップダウンの続く直線。

「それが、何だと。人生だとかの話じゃない、彼が書いてたお話のこと――」

 指先で本のページをめくり、静かな口調で男は言う。

「同じなのですよ。それらは全て文学です、どちらも等しき文学です。……『人は誰でも、一冊の本である』と申しましたな。逆に言えば人は、『たった一冊の本』でしかないのでございます」


 鼻で静かに息をつき、男はあごひげに手を当てた。

「ところが、ところが。それが不服とおっしゃる方もおられまして。一冊だけでは飽き足らず、多くの本になるのだと。一冊だけでは足らぬ足らぬと、幾冊もの本になるのだと、自らそれを書くのだと。そういう方々もおられまして」

 それはきっと、彼のような人。


 男は穏やかに微笑む。

「いえいえ、そうとは限りませんな。確かに彼や、世に出た作家、無数の名も無き創作者ら。彼らは言葉どおりにそうなのですが。それだけではないのでございます、存外多くございますよ。無論貴女もそのお一人で」


 私は無意識に眉根を寄せていた。

 男の言ったようなわけはない。読むのなら嫌いというわけでもないが、私は一度も、本を書こうとか、書きたいなんて思ったことはない。そんなことがあれば、もっと彼のことが理解できたのかも知れないけれど。


 男は緩く長く息をついた。膝に乗せた本を両手で支え、ページを繰る。そして笑う、今までで一番、優しく。

「本当に、多く多くございます。それはもう、実のところ。すべての人が、そうなのでございます。えぇえぇ、一人の例外もなく。わたくしの知る限り、ただの一人の例外もなく……人は想うのでございます。自分の文学をすなわち人生を、別のところにも書いておきたいと。その場所とはそう、常に。他人の文学の中、人生の中、でございます」


 空を仰ぐように上を向き、男は続ける。

「ある者は友とつながることで。ある者は恋人と重なることで。ある者は子を生すことで、またある者は敵を打ち倒すことで。後から来る者に何かを教えることで、あるいは次を継ぐ者に、何かを残すことで。書き残そうとするのです、己が文学を、他人の人生の中に。なにせ、すべての文学は知っておりますので。始まった物語には、必ず終わりが来ることを。そして己が文学は、すでに始まっていることを。……さて」

 男は微笑み、ミラーの中から私の目を見た。貫くような見透かすような目だった。鋭く、美しく、まともに見ていられないような目。


「さて。すべての者が、誰かに己を書こうとしている、だとしますれば。果たして、何を書いたのでございましょうな? 彼は、貴女に。そして何より、貴女は彼に。いったい何を、書き残したのでございましょうな」


 私はハンドルを握り、前を見ていた。なのに、ミラーの中の男を見てしまう。まともに見ていられない、しかし目をやらずにはいられない、そんな目をしていた。


 車は直線の道路を過ぎ、海岸線を大きくカーブする。


ハンドルを切る手が震えた。つぶやく。

「何なんですか、あなたは」

「ブンガク」

「誰なんですか」

「ある者は人生と」

「彼の何なんですか」

「ある者は運命と」

「なんで私の所に」

「ある者は神の意思と、またある者は偶然と」

「彼の、私の何なんですか!」

「ある者は奇蹟と、またある者は軌跡と」

 叩きつけるように私は叫んだ。

「いったいなぜ、何なの! 何がしたいの!」

 男は表情を変えなかった。

「――ブンガク。それら全てを以て、文学と」


 私は震えていた。車は集落を過ぎ、小さな港を過ぎた。


「右へ」

 男が短く発した言葉に、私はなぜか従っていた。海沿いに島を周る道ではなく、中央の山地へと続く道。昨日は通っていない道。

 少し行くと登り坂になった。また少し行くと川があった。橋を越えると、もう先に民家は見当たらなかった。ごく細い一車線の道が、木々の間を上へとのたうっていた。


 今すぐ引き返しても、車を止めてもいいのに。私はなぜかそうしなかった。ただアクセルを踏み、ハンドルを切っていた。

 鼓動が速まっていた。道の両側から迫る木々の影の中、彼のことを思い出していた。


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