第7話  空白の島と、


 民家の間を抜け、ガソリンスタンドの前を通り、目的地もなく町の中を走る。本当に目的地はなかった。

 島を一周するだけなら昨日してしまった。特に観光しようという気もない。

彼の家とかあるいは、墓、とか、そういった所に行くつもりもなかった。

 それは『行くのが嫌で』行きたくないのではなくて。『行こうという気持ちが湧かない』のだった。なぜそうなのか、自分でもよく分からないけれど。


「いかがでございますかな、この島は」

 さえぎるように言った男の声が少しだけありがたかった。続けたくない思考だった。

 少し考えて私は答える。

「何もない島。いえ……『何もない』という島」


 島には何もなかった、私の住んでいる街に比べれば。そして、私が求めてきたもの、空白を埋めるものも、まだ何もない。

 そして。彼に関する何かも、具体的には何もなくて。だからこそ逆に、この島は彼で満ちていた。どの道も、彼が通ったかも知れない道で、どの家も、彼が住んでいたかも知れない家だった。


 彼の不在という空白が、この島には満ちていた。


 男はシルクハットのひさしに手をやり、目深にかぶり直す。

「なるほど、満ちているゆえ逃げられぬ。たとえ島から逃げたとて、つきまとうでしょうな空白は。どれほどかは存じませんが」

 男は窓の外に目をやる。

「逃れ得ぬものでして、人は己の文学から。逃げようとてもそれすら文学。たとえば仮に死んだとて、それは単に書いただけ、話の終わりの一幕を。それすら変わらず文学の内」


 膿んだまま放っておいた傷口に触れたような感覚が、胸の中にあった。

「嫌なことを、言う人ですね。わざわざ、人が亡くなったときに」

「何かお気に召しませんで?」

 何もかも分かったような顔で男は笑う。


 私は黙ってアクセルを踏んだ。民家はまばらになり、道の両側には代わって田畑が続いていた。道は細い坂道になり、山へと続いていた。


 男が言う。

「さてさて、どちらへお向かいですかな。目的地は……『ない』、相変わらずに。『一周するだけなら昨日してしまった。特に観光しようという気もない』……ふむ、いったい何をしにきたのやら」


 私の頬が引きつったのを察したかのように、バックミラーの中で男が笑う。

「これはしたり、いささか口が過ぎましたな。いやはやしかし何ですな、目的地もなく走り回るとはまるで……そう、あたかも」

 掌を上に向け、手を掲げながら私の方をうかがう。まるで続きを聞きたいか尋ねるように、にたりと笑って。


 そこで止められるよりはいい――思うと同時、私の中の肯定を耳にしたように声が続いた。

「えぇそう、あたかも。彼の死に場所を、お探しであるかのようで」


 ほんの少し、ブレーキを踏みそうになって。私はアクセルから足を動かさなかった。どうにか。

 図星だった、のではない。まったく思いつかなかったのだ。死に場所を探すだなんて。それ以前に、そんな場所が存在することさえ。

 この島で彼が暮らしていて最近死んだ、なら。島のどこかには彼の死んだ場所がある、島の外でそうなったのならともかくとして。

 どの辺りで? どこで? 道路? 山、海? 病院? 家? それは分からないけれど、どこかにある。

 なぜ思いつかなかったのだろう――そう考えたとき、胸の内を圧迫するものを感じる。そうだ、きっと。飲み込まれていたのだ、この胸の空白に。


 考えて、私は長く、しかし軽い息を吐く。

 今でも、彼の死んだ場所を探そうという気持ちは起こらなかった。彼の家や墓に行こうという気持ちと同様。これらもきっと同じだ、空白の中に取り込まれて、私の胸には残っていない。


 無神経に男は笑い、人差し指を立てて話し出す。

「もしも、もしもの仮のお話。お探しだったとしたならば、見つけられたとしたならば、そこでいったいどうするのですかな? 死者を想って冥福を祈る……それは普通の事として」

 嬉しげに顔全体で笑い、助手席と運転席の間に顔を突き出す。

「まさか、まさかもしかして。そうするつもりではありますまいな? 彼を亡くしたその場所で、ご自分までも失くそうと。彼を追ってしまおうなどと! だとしたら、仮にもまさかそうだとしたら! おぉおぉなんと、美しく! 哀しい想いでございましょうか!」


 道は緩い上り坂。長い直線でよかった。

 手をシフトレバーから離す。何も言わず肘を、男の鼻先に叩きつけた。骨と骨のぶつかる、硬い感触と音。


 ハンドルを握り直す。努めて抑揚のない声で言った。

「滑りました。手。失礼、あと――」

 前を向いたままつぶやく。

「――うるさい」

 ああ、本当に。こんなにイラつくとは知らなかった。まったく自分の内に無いものを、こうもしつこく言われることが。しかもその無いものを、賛美されるなんてことが。


 身を引いて、鼻を押さえながら男は笑う。眼鏡がずり落ちたまま。

「ンフフ、これはこれは失礼をば。どうやらわたくしの思い違いで。フフ、ンフフ」

 私は黙って、長いこと黙って、鼻から強く息を吹いた。辺りはまだ坂が続いていた。周りには木が少なく、開けた所のようだったが、景色に目をやる気はなかった。


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