第17話

「キミには常識がない……か……」


横断歩道の無機質な音を聴きながらあたしは街を歩いていた

もう仕事は終わっている。というか終わったんだ

いつもよりも退勤時間は早かった

と言っても今が夜であたしと同じように通りを歩いている人の顔は近くにいないと分からないくらいには暗くなっていた


「常識がない。常識がない……」


上司の言葉がずっと頭から離れないよ

もう退勤したのに、それどころか退職したからもう会うこともないのに

あんな上司の言葉なんか思い返さなくても良いはずなのに


今日、あたしは仕事をクビになったんだ

上司いわくクビの理由は仕事を休んだから。らしい

本当は別の原因があるのかもしれないけど、あたしには全く分からない

昨日あたしは自分でも何が原因か分からないけど、不思議なくらい体調が悪くなって電話で欠勤を伝えたんだ

そして欠勤明けの今日、出勤して一番に上司のデスクまで呼び出されてさんざん怒られた

それはもうさんざんにだよ

一緒に働いている同僚だったり先輩や後輩たちがいる中で、あたしを睨みつけて拳でデスクを叩いたりしながら

いやもう思い出すのはやめた方が良いよね。無駄に心が傷つくだけだっての


退勤にいつも使っている地下鉄の駅にたどり着いた

でもその駅に行って、いつも乗っている電車に乗りたくはなかった

もし乗ってしまうと上司の言葉が正しいことになってしまう気がするし、あたしの気分はもっと下がってしまう気がする

そんな気分で家に帰ったらどうなるだろう

きっとだけど深く布団をかぶって何もせずにじっとしていると思うんだ

気晴らしにスマホを触って、それでも結局気分を晴らすことはできずに目を閉じて

ひたすら上司の言葉だけが頭から離れずに心に傷ばっかり増えていく

そして、そのままあたしは元気に起き上がることは一生ありえない

そんなことになる気がする。そんなのは絶対にイヤだ


「ちょっと歩こ、少しだけ……少しだけだから」


だからあたしは駅を通り過ぎた

歩いても心にあるモヤモヤとイヤな思い出と、それが体へ生むストレスが消えることはないのは分かってる

このまま歩くのだって無駄に帰るのが遅くなるだけなんだ

それでも歩けば多少は……うん、何かメンタルに良い影響が出ると思う。そう信じたいし


「あれ……」


あたしのポケットの中のスマホが震えた

そっかそういえばもう退勤したからマナーモードは解除しても良いんだよね

職場での上司とのやりとりが気になっていてすっかり忘れていたな


「えっ……?」


スマホに表示された名前は意外な名前だった

お母さんでもなければ職場の同僚って訳でもないし非通知の電話でもなかった

柚季。大学を出て就職してからはほとんど会うことがなかった友達だった


「えっと……」


最初は信じられなかった。でも震え続けるスマホのバイブ機能があたしの意識を元に戻した

電話なんだし早く出なきゃ!

慌ててスマホをタップして耳元に持っていく


「もしもし……柚季?」

「あ……玲香?」

「久しぶりだね。どうしたの?」

「玲香、玲香だよね?」

「あたしだよ、急に電話してどうしたのさ? あたし達のグループとかにメッセージ送れば見たのに。最近どうしてる? 元気?」

「…………」


返事はなかった

さっき聞こえた声は確かに柚季だったけど、どこか様子がおかしい


「柚季? おーい。電波が悪いのかな」

「うぅっうっ……玲香っ……玲香ぁ……」

「どっどうしたの柚季っ? 泣いてるのっ? なんで!?」


思わず耳元にあったスマホを正面に持ってきて画面を見る

そしてまたスマホを耳元に当てた


「ごめんねっ……玲香の声を……聞いたらっ安心しちゃって……」

「ええっ柚季、その……本当にどうしたの?」

「えっと、あのね……その」


泣いていたと思ったら今度は困り始めた

言いにくそうなことなのかな。でも大切な友達の柚季をこのままなんてできない

人間には1人にした方が良い状況もあるけどさ。例え今の状況がそうであってもあたしには無視できないよ


「柚季、今から会ってお話しない?」

「え……?」


弱っている子どもという訳ではないけど、スマホから聞こえてくる柚季の声は誰にも頼れなくて困っている小さな子みたいに聞こえる


「あたし達はお互いそんなに遠くないところで就職したんだから会えるよね。あたしは全然空いているからさ」

「うん……」

「決まりだね、じゃあどこで待ち合わせるかな……」


その後のあたしは勢いに任せて待ち合わせ場所と時間を決めた

その間もスマホの向こうの柚季はか細くて短い返事を返すだけであまり会話にはならなかったな

柚季が何を言いたいのかもどんな様子なのかもほとんど分からないけど、とにかく今は柚季に会わないといけないって思ったんだ

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