第16話
植物園からの帰り道。あと少しであたし達のマンションにたどり着こうというところだ
道を行く人もまばらだ
それを見た美海が植物園の時のようにあたしと柚季の手をつなぎたがったのでしっかり2人で美海の手をつないで歩いている
まだ夕方でもないしそれどころかまだ昼過ぎという時間帯だ
そんな訳であたしは帰ったら何をしようかとぼんやり考えていた
「ごめんね。玲香」
美海の肩越し、いや頭越しに柚季の声が聞こえた
「え、何が?」
「キス……できなかったから」
柚季は、歩きながらだからうつむいてはいなかったけどそれでも落ち込んだ顔をしている
さっきの植物園であたしと柚季はキスしようとしたんだけど、できなかった
人の目があるしいきなり美海に振られたし恥ずかしいし……理由はいろいろとあるんだけど一番はやっぱり勇気が出なかったんだ
多分そうだよね
柚季だってそうだと思う
「お互い様だよ。あたしだってキスできなかったし」
「うん……」
柚季は深呼吸をして、あたしを見た
「でもねっえっとね……玲香のことが好きなのは本当だからっ!」
そう言って柚季はあたしから目をそらして顔をまた赤くした
それこそお互い様だよ、あたしだってできなかったんだから
「うぅ~……」
「柚季がここまで言ったんだし、2人とも少しだけ恋人として進展したんだねぇ。まだまだ足りないけどさ」
「美海、あんた最終的にあたし達に何をさせるつもりなのさ?」
「あ~そういえばあんまり考えてなかったかも。ちょっと待って考えるから」
「いやしなくて良いって。どんな恥ずかしいことを思いつくかコワイし」
「え~? 恋人らしいことなんだからそんなに大したことじゃないってー」
「いや怪しいって……柚季はどう思う?」
「私は、そのっ! 玲香となら大したことでもっ……」
「柚季、そこは乗らなくても良いんだって!」
あーんを乗り越えたせいなのか柚季の中のブレーキが少しおかしくなってるみたい
犯人は言うまでもなく美海だよね
まあ感謝はしてるけど、それでも疲れたよ
今日のデートは最初から最後まで美海に振り回されっぱなしだったな
「おりょっ玲香疲れた顔をしてるね? なんでそんな顔してるの?」
「あんたのせいだって……分かって言ってるな?」
「へっへー。でも嬉しいんでしょ?」
「そうだからまっすぐ怒れないのが悔しいんだよ」
そろそろあたし達のマンションが見えてきた
こいつめニヤニヤしやがって、帰ったらゲームで美海をぼこぼこにしてやるから
柚季も巻き込んで美海を懲らしめてやろう
あたしはどのゲームで美海退治をしようかと考えていた時だった
「加賀さん? 加賀さんですよね?」
知らない声があたし達を呼び止めた
あたし達というよりも
「えっ……?」
その声に反応した柚季は足を止めた
手をつないでいた美海とあたしは柚季と少し遅れて立ち止まる
柚季の視線の先には、スーツを着た女の人が立っていた
「加賀柚季さんですよね? 電話がつながらないから探しましたよ」
「えっと、その……なんでしょうか……?」
知らない人にいきなり呼び止められたせいか柚季がかなり戸惑っている
片手を胸に当てて少し困った顔をしている
「えっと、柚季のお知り合いですか?」
柚季の困った顔を見たあたしは反射的にスーツの人に声をかけた
あたし達は手をつないだままスーツの人を相手に向かい合った
「あぁごめんなさい。私こういう者なんです」
スーツの人は少し慌てて財布から紙の名刺を取り出してあたし達の前に差し出した
あたしが自由だった片手で受け取る
そういやあたしも社会人だったんだよな
こういう名刺を渡したり受け取ったりしてさ。だけど今は生活費を何もかも出してくれるこの美海の飼い主なんだからビジネスマナーなんて意識しなくても、気を付けなくても良いよねっ
うん。全然誇れないわ
「すみません急に話しかけたりして、びっくりされましたよね」
「いえ全然大丈夫ですけど、何かご用ですか? 柚季を知っているみたいでしたけど」
「柚季、この人と知り合いな感じ?」
美海も気になったのか柚季を見上げた
「ううん私は知らないけど……」
「この会社に在籍してらした加賀柚季さんですよね? その会社は弊社の子会社なんです」
スーツの人はスマホを差し出して会社のウェブサイトを見せてくれた
その会社の名前はあたしにも聞き覚えのある名前だった
大学生の頃に柚季がこの会社から内定をもらったって喜んでいたっけ
「勝手ながら柚季さんの退職周りの話はお聞きしました。あの後柚季さんが在籍してらした会社と弊社と……まあ色々ありまして」
「色々ね……というか柚季の退職周りって」
「柚季とそれと玲香の、あの話だよね」
「うちの子会社の者がご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ございませんでした」
スーツの人は軽く頭を下げてきた
この人の言ったうちの子会社の者って、多分柚季をクビにした上司のことだよね
上司、この単語を頭に浮かべるだけであたしをクビにした上司の顔や思い出が蘇ってくる
そして2人で荒れたあの夜での柚季の顔もね
少し前の職場での思い出のせいなのか頭の回転が徐々に遅くなっていって、止まりそうになるよ
詰められて、怒られて、自分の意見や感情を殺して。そして周りに合わせた方がイヤな思いをしなくて済むからと思考を停止させていたあの職場での思い出だ
「玲香?」
あたしは美海とつないでいる手にきゅっと少しだけ力を入れて握りなおした
美海の手の温かさと柔らかさが、イヤな思い出のせいでまた死にかけているあたしの頭を正常に戻してくれた
今あたしは美海とそして柚季とつながっているんだ
「柚季、話があるみたいだし聞いてみる?」
「うん……大丈夫です、もう終わったことですから」
柚季はいきなり頭を下げられたこの人に困っているのかとりあえずなだめている
「ありがとうございます……それで本題なのですが」
ようやくたどり着いた本題だ
柚季はもちろんのこと、あたしも美海もじっと笑顔を作ったこのスーツの人を見つめる
そしてスーツの人はビジネススマイルのまま、柚季に言った
「加賀さんさえ良ければなのですが、弊社で働きませんか?」
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