第3話

 翌朝、私はカーペットのうえで目覚めた。私は、愛用の抱き枕を丁寧に股のあいだに挟み込まなければ熟睡できないのだが、不思議と目覚めは悪くなかった。おそらくよろこびが功を奏したのであろう。


 小指はたしかに痛むが、昨日ほどではなかった。


 私は気分を清潔に保つために、スマイルの素敵な彼に会いに行くことにした。日々の日課としての器械体操を行い全身をパンプアップし、朝食に〝とアスパラのソテー〟を摂り、それから目的のコンビニエンスに向かった。


 そのコンビニエンスは新時代的だった。ここ数年に全国展開しはじめたらしく、この街にだって、この店舗のみがあるだけだ。新しいコンビニエンスに、若いアルバイト店員さん。うん、いいね。やはり新しいものはいいよ。ただそれだけでこころが瑞々しくなる。


 私は入店前の〝ルーティーン〟として、懐から手帳をとりだし、そこへ、目の前のコンビニエンスの店名、住所、外観の詳細をしたためた。

 この手帳もあとすこしで仕舞いだ。最後の数ページ以外を残し、ほとんど余白のないほどに〝えんぴつの黒いの〟で染まっているのでね。

 〝ルーティーン〟をこなす。ただそれだけで気分がすこし良くなる。上がるのである。


 自動開閉式の、店内を覗きこむことのできる透明なウィンドウをくぐりぬけ、私は、陳列棚には目もくれず、レジに直行した。


 彼は、いた。


 今日も彼は、いつもと変わらずに、いいスマイルを浮かべていた。


「いらっしゃいませ」と彼は言った。

 だから私は当然、こう返す。「いつも、ありがとうね」

「いいえ、おそらく当然のことをしているんですよ、ぼくは。お客さまがなんのことを言われておられるか分かりませんが、こう見えてもぼくは感謝されるということをとても好いているんです。だからきっと、ぼくは当然のことをしているんです。だってそうでしょう? 目の前でフェロモンがかれていたなら、あなただって嗅ぐでしょう? 気がすむまで嗅ぎますよね?」

「だね」

「だからお気になさらずに。全身の力を抜いて、そうして思うぞんぶん店内を物色してください」

「ああ失礼。今日はね。買い物をしに来たわけじゃないんだ。目的は〝君〟さ」

「〝ぼく〟? ……ああつまり、ぼくのこころに何かをしたいわけですね?」

「話がはやくて助かるよ、すごくいいよ」

「それで?」

「うん、えっとね。〝君とじっくり話がしたい〟。私はそう思ってる」

「レジ越しじゃなく、〝じかで〟ってことですか?」

「ああ」

「いいですよ。……なんだか、とてもおもしろそうです」

「じゃあ来てくれ」

「いまですか?」

「うん。その方がいいと思うんだ。性急に事を進めることも時には大事なことさ。あんまり伸び伸び生きていると、何事も延び延びになってしまって、本当にやりたいことをし損ねることだって、充分にあり得ることだよ。……だから、ね?」

「とても強引だけど……悪くないですね。すこし待ってください。店長に話してみましょう」


 そう言って彼は、店の奥の暗がりへと消えていった。するとすぐに、彼と彼ではない男性の話し声が聞こえてきた。しかし届く声は不鮮明で、何を言っているかまでは分からなかった。なので私は、いつも持ち歩いている小型の盗聴器を懐からとりだし、それを暗がりのほうへと滑らせた。そしてすぐさま懐に忍ばせた受信機からのびるイヤホンを両耳に挿入し、その場にうずくまりながら耳を澄ませた。


『いいぜ、シッポリ話してきな』それは彼の声ではなかった。声の感じから察するに、私と同年代ほどの男性のようである。おそらくこの声の主が、このコンビニエンスの店主なのであろう。男性は、言葉をつづけた。

『いいよな、若いって。うらやましいぜ。さぁ行けよ。次のシフトのときには、脂ののった土産みやげ話を期待してるぜ。それで俺を興奮させてくれよ。ほら、はやく行け。もたもたしてんな、そんなのダサすぎるぜ。まったく……グズグズすんなってんだこの呑気者……チュッ……、チュッ……、……さあほら行け』


 それからしばらくの後、暗がりの向こうから頼りない足音が聞こえてきた。私は慌ててイヤホンを懐のなかに戻し、穿いているブルージーンズのジッパーを上げた。


 暗がりから戻った彼は、すこしばかり頬を赤らめ、そしてどこかすっきりしたような表情を浮かべていた。


「お待たせしました」彼は言った。

「いいや。ぜんぜんさ。ちょうど今、こころの準備を終えたばかりだよ」

「ああそうでしたか。それはベストなタイミングでしたね。それでどこで話しましょう? 店の奥に寝室がありますけど……」

「ありがとう。だけど……よかったら、外を歩きながらにしないか?」

「ええ構いませんよ。で、どれくらい闊歩かっぽします?」

「そうだな……、……君がいいなら、気分で決めないか?」

「こころのおもむくままに、ですか……うーん、分かりました。ほんとにあなたは強引な方だ……」

「すまん……私はただ――」

「――いえ、そういうの嫌いじゃないですから。だってこの世界には、受け身で居続けることでしか感じることのできない快楽がありますからね」

「そう言ってくれると助かるよ、すごく助かる」

「じゃあ行きましょうか」


 彼はそう言うと、まるで舌を這わせるように店内をぐるりと見渡し、ひとつ満足げなスマイルを浮かべ、ぞんがい力強い足運びで歩き出した。そして、自動開閉式の、外の様子をさり気なくうかがうことのできる透明なウィンドウをくぐりぬけて、コンビニエンスから逃げるように出ていった。私もそれに追随した。

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