第50話 甘い、甘い、毒林檎

「お、お酒ですか?」

「ふふ、安心なさってください。貴女に飲めと言っているわけではないですから」

「そ、そうですよね」


 田中の説明に、自分を納得させるかのように、無理して安心した顔を作るハルカ。その顔を見て、私――礼香こと遠野麗子は、アイドルってホントちょろいな、と笑う。


「あの……でも、お客様の話し相手……というのは……?」

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。お客様と同じ席に着いて、お客様の愚痴を聞いてあげたり、自分お話をしたりするだけですから……」

「同じ……席ですか……?」


 さすがのボケボケアイドルでも、ようやく自分が何か危ないことに巻き込まれているのではないかと思い始めているようだ。

 でも、今更警戒しても、もうお前に選択肢は残っていないんだよ。


「あ、あの……お酒とか、お話の相手とか……その……お店に来るお客さんて、やっぱり男の人が多いんでしょうか……?」

「そうですね、大抵は男性客ですね。まぁ、たまには可愛らしい女の子が好きと仰られる女性のお客様もいらっしゃいますよ」


 ま、嘘は言ってないな。

 でも、そういう女に限ってドロドロの手練れだったりするから、ある意味アンタにとっては厄介かもだけどね。


 田中は以前から付き合いのある会員制高級風俗店の人間だ。

 都合上、ハルカには自分の部下だと話しているが、そんなのは嘘っぱち。田中と麗子は裏ビジネスで繋がっているだけの、互いの本名も知らない関係。


 田中の店にハルカが売られた後どうなるかなんて知らない。知ったこっちゃない。

 彼女私が興味あるのは、今後懐に入り続ける、ハルカが稼いだ金の三割の使い道だけ。

 このあとアンタがどんなひどい目に遭うかは知らないけどさ、さっさとあきらめた方が楽ってこともあるんだよ、お嬢ちゃん?


「大丈夫、安心してハルカちゃん。確かに大人の男とか、お酒とか聞くと、少し怖く思えるかもしれないけれど……田中さんのお店は、完全会員制で身分のしっかりとしたお客様しか入れないから……ね」


 完全会員制で身分がしっかりしている顧客しかいないからこそ、店内で何が行われていても外部には漏れないようになってんだけどねぇ。


「あ、あの……エ、エッチなお店とか……じゃ……ないんですよね?」


 チッ。この期に及んでごねるハルカに、珍しく感情が波打つ。

 何か言おうとする田中を制止して、自ら最後の仕上げに入る。


「エッチなお店? でも、そうね……もしも、本当にそうだとしたら?」

「も、もし、そうなんだとしたら、私……やっぱり……」

「そう、じゃあアイドル辞める?」


 間髪入れずに言葉の暴力をふるう。

 

「えっ」

「大好きなアイドルの先輩が待ってるんでしょ? 必ず戻るって約束したんでしょ? その約束、破っちゃっていいの?」

「な、何で、そんな酷い……」


 混乱しているな。さっきまで信頼していた人間が急に酷い言葉を投げかけてくる。ただの中学生ごときの思考を奪うには十分な出来事だ。


「じゃあ、やっぱりご両親のカフェを売ってアイドルを続ける?」

「そ、それは……」

「おじいさんが開いた大切なカフェなんだよね? あの店を継ぐのがお父さんの子供の頃からの夢だったって。そして、今はお母さんの夢でもあるんでしょ。……そんな大切なカフェを、娘のアナタの我儘で潰しちゃっていいの?」


 事実を矢継ぎ早に叩きつける。

 私が描いて、形にした最悪のシナリオ。

 そんなことも知らずに、ハルカは息も絶え絶えに苦しみの声を上げる。


「うぁ、それ……は……」

「後で買い戻すとか無理だからね。あの一帯は再開発の話が出てるの。あなた達の大事な星空カフェは、人の手に渡った瞬間に更地決定なのよ?」

「な、そ、そん……な」

 

 あはは、この瞬間はいつも、いつでも楽しいな。

 他人から奪う瞬間。何も持っていなかった自分が、持てる者から多くを手に入れる瞬間。

 おっと、楽しんでるばかりじゃ仕事とは言えない。

 ここらへんで、飴もくれてやらないと……そう、甘い、甘い、毒リンゴをね。 


「でも大丈夫。酷いことばかり言ってごめんなさい、ハルカちゃん。でも、あなたはまだ子供だから、少し厳しいことを言ってでも、間違った道に進んでほしくないのよ」

「礼香……さん?」

「田中さんのお店で働きさえすれば、ハルカちゃん、あなたはアイドルを続けられるの。ご両親の星空カフェだって守れるのよ」

「で、でも……わ、私は――」


 私の再びの手のひら返しにハルカはさらに混乱する。

 呼吸も定まらない、視点もあやふやだ。

 

「そりゃ、ちょっとは嫌なことだってあるかも知れない。でも、きっとアイドルだって同じだと思うわ」

「アイドルも……同じ?」

「あなたの大好きな黒帳先輩? その人だってきっといろいろな辛い思いをして、たくさんの努力をして、それで今の地位に立っているんじゃないのかしら?」


 美夜の名前を出した瞬間、ハルカの瞳にほの暗い覚悟が宿る。


「そんな先輩を追いかけたいんでしょ? 何の努力も犠牲も無しに夢を叶えようっていうのは少し考えが甘いんじゃないかな? 目標が高ければ高いほど、何かを犠牲にする覚悟も必要なんじゃないかしら?」


 よくもまぁ、心にもないそれっぽいセリフがつらつらと出てくるものだと、自分でも感心してしまう。


「美夜さんも、何かを犠牲に……」


 ――あと一押しね。


 ここまできたら、自分の夢と、両親の店を人質に、頭を押さえつけて無理やり契約させたって構わない。

 だが、それでは駄目なことを私は経験上分かっていた。


 回りくどい方法だが、最後の決心は自分自身にさせる必要がある。


 納得していない人間に無理やり契約させても長続きしない。最悪逃げられる可能性だってある。

 けれど、こういう愚直な人間ほど

 それが間違った決断だったと後々気付いても、それは自分の責任なのだと、歯を食いしばって働き続けてくれる。

 そう……私のために。


 私からすれば、理解の到底できない笑える理屈だが、こいつらは〝そういう商品〟なのだと、今では有効活用すらさせて貰っている。


 ――商品の特性を理解して、より高く売るのは商売の鉄則だからねぇ。


「大丈夫、お客さんは優しい人ばかりだから、それにアナタがお店で働いていることは絶対に誰にもバレないから。そのための完全会員制なのよ。だから、その点は安心して……」

「絶対に……バレない? 星空カフェも……無くならない? アイドルも……美夜さんとアイドルを続けられる……?」


 無感動に、無感情に、心から溢れ出す感情に蓋をするように。

 俯いたままのハルカは、肩を震わせ、うわ言を続ける。

 

 ――落ちたな。


「私は、私だけはずっとハルカちゃんの味方だから……ね」


 心にもない優しさで、ハルカの手を握る。

 ハルカから返事がないことを確認すると、田中に視線を送り、契約書の用意をさせる。

 震える手でペンを握るハルカ。

 その切っ先が紙の上をぎこちなく滑っていく。


「これで契約完了ね」


 あはははは。あーおっかしい。

 これで首の皮が繋がったとでも思っているのだから救いようがない。

 たった今、全てが終わったとも気付かないでさ。


 善人を食い物にするのは何度もしてきたが、アイドル相手は初めてだった。けど、コイツは想像以上に美味しい獲物だ。


 ――しばらくはアイドルって生き物から奪うのも良いかもしれないな……。


 星空ハルカは、なんだかんだ理由をつけて、生かさず殺さず、最低でも高校卒業までの五年間は飼い殺しになるだろう。

 このガキのレベルなら、稼ぎは年に億は下らないはずだ。その三割が私の懐に入るわけだ。

 

 あんなちんけな店を売り払うより、こっちの方が何十倍も実入りが良い。

 笑いが止まらんね、こりゃ。


「大丈夫。田中さんもちょっと顔は怖いかもだけど、優しいお姉さんだから……ね」

「はい、礼香……さん……」


 ――ちゃんと言うことを聞いていれば……だけどね。

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