二章: 玃猿の災

二章:一、昼の悪夢

 月も星もない夜空だと思った。

 だが、毛先が鼻をくすぐる感覚で黒く長い髪が俺に垂れてるとわかった。


 誰かが俺にのしかかっている。そいつは泣いていた。

雲嵐うんらん、いかないで……」

 若い男の声だった。どこかで聞き覚えがある。

「どうしよう、私のせいで、ごめん……」

 誰か知らないが、あまりに悲痛で、泣くなと言ってやりたかった。


 頭上に黒い影が差した。

 俺の身体から重みが引く。俺に縋っていた男が影の方を振り返って何か言う。

 やめろ、と思った。そいつに助けを求めるな。そいつは……。



 ***



 飛び起きた俺に、夢と似た黒く長い髪が垂れていた。


 思わず叫んだ俺を煬烏よううが呆れたように見下ろしていた。

「お、おはようございます……」

「女官が起こしても起きない上にうなされておるというから来たのだが……」

「すいません、変な夢を見て……」

 俺は額の汗を拭う。背中までびっしょりだ。

 煬烏は無言で俺の頭を小突いた。


 夢の内容を思い出そうとしたが、できなかった。



 時刻は既に昼近くだった。

「どんな悪夢を見た?」

「それが覚えてないんです」

 煬烏は何故か満足気に笑った。


「朝寝とは三兄を見習っておるのかと思ったぞ」

「妓楼に入り浸っていいなら見習いますよ」

「さて、どうだか。お前は短気故にな……あれも早そうだ」

「何の話ですか」

 煬烏は含み笑いを浮かべる。俺は舌打ちした。

「皇子が昼間から下ネタ言わないでくださいよ」

 煬烏は扇を広げて哄笑した。


「猥談で思い出したが、侍医に診てもらうといいかもしれんな」

「その流れで思い出す医者って何ですか」

「侍医の大猫だいびょうは方士でもある。何でも死者の魂が見えるとか」

 戸惑う俺を煬烏が扇で指す。


「お前は時折頭痛に悩まされるような仕草をするであろう。加えて今日の悪夢だ。祟られているのでは?」

「嫌なこと言わないでくださいよ」


 だが、言う通りだ。

 最初に女官が殺されたとき、小窩を問い詰めたとき、幻覚や幻聴のようなものが確かにあった。

 何か憑いているのかと思いたくもなる。


「侍医は天鸞てんらん兄上と懇意だ。訪ねれば会えるだろう」

 煬烏はそう言って、朱の漆塗りの廊下を進んだ。



 天鸞の住む宮殿の壁には瑠璃色の陶器製の浮き彫り細工が埋め込まれていた。

 廊下の柱にも異国風の彫刻が施され、豪華な宮殿の中でも一際別世界のようだ。


「兄上は芸術をお好みでな。画才もおありだ。政才は全てそちらに吸い取られたようだが」

 煬烏は扉を叩きながら言う。ひとつ貶さないと褒め言葉を言えない男だ。


 気弱そうな声が聞こえ、扉が開いた。



 寝込んでいたのか、夜着のままの天鸞が現れた。

「五弟、雲嵐方士もよく来たね……じゃない、ええと、楽にせよ」


 天鸞は慌てて表情を繕った。煬烏は扇を広げた。

「御加減は如何ですかな」

「だいぶ良くなったよ。私が倒れていた間大変だったみたいだね……」

「我が方士の尽力により万事恙なく」

 勝手に言ってくれる。


 俺は室内を見回した。

 一目で高名な画工の物とわかる鳥や花の絵画が所狭しと飾ってある。

「皇太子にもなると国宝級の芸術も飾り放題なんだな……」


 独り言を呟くと、煬烏が肩を竦めた。

「上手くなったものだな」

「何の話です?」

 途端に、天鸞が目を輝かす。

「国宝だと思ったの?」

「違うんですか」

「これは私が描いたんだ」

「本当ですか?」

 天鸞は子どものように頷いた。確かにすごい才能だ。


 煬烏は鷹揚に笑う。

「兄上は世辞には慣れておられる。素直なお言葉が一番嬉しいのだろう」

「うん。皆私に気を違うから……そうだ、君は真実が見えるんだってね」

 天鸞は俺を引っ張って奥に連れ込む。最近皇子に引き摺られてばかりだ。


 奥の間には絵だけではなく、木彫りの彫刻や青磁器が並んでいた。

「ここは僕が集めたもので、あっ、みんなも持って来てくれるんだけど、偶に本物と見分けのつかない贋作もあって……君ならわかるかな」


 天鸞は屈託なく金縁の絵画を指す。

 勘弁してくれ。美術の真贋なんてわかる訳がない。

 煬烏を盗み見ると、犬歯を見せて笑っていた。くそったれ。


 俺は天鸞の手を取って、煬烏が侍従に見せるようなわざとらしい笑みを作った。

「私はひとの信じる心が見えるんです。殿下は皆全てを本物のように愛し、慈しんでいらっしゃる。私にはどれも真作に見えました」


 天鸞は感動したように何度も頷いた。

「そっか。そうだよね。皆が集めてくれた物だから……」

 ぼんくらで助かった。俺が天鸞の手を離して身を引くと、煬烏の扇が肘を打った。


「随分演技も上達したものだ」

「なら何で小突くんですか」

「さあな」



 煬烏は筒袖を翻した。

「兄上、今日はその辺りで。侍医は何処か存じませぬか?」

「大猫なら一緒に紙牌をしていたけど、私の侍従が具合が悪いと聞いて、今相談に乗っているよ」

 天鸞は庭先を指す。


 咲き乱れる白牡丹の中に白髪の侍医が背を向けて立っていた。

 老人のような髪から覗く横顔に皺はない。どこか仙人のようで、年齢どころか男か女もわからなかった。



 俺たちが庭に降り立つと、侍医と向き合う宦官の低い声が聞こえてきた。

「やはり祟りではないか。あの第五皇子が禁を解かれてから陛下のお加減は悪くなるばかり……」


 扇の上に覗く煬烏の目がスッと細くなる。

 俺も苛ついた。

 煬烏は性格が屑だ。それに関しての悪口なら俺も参加したい。

 だが、自分のせいじゃないことで責められるのは違うだろう。


 宦官が顎に手をやる。

「あの方士も怪しい。真実が見えると言うが誠だか」

 俺のことまで来やがった。侍医は頷きもせず、薄い笑みを浮かべて聞いている。

「第五皇子は愛知らぬ故に絆しやすい。あの寵愛ぶりを見よ。方術とは別の術で取り合ったのでは?」


「野郎、何の話してんだ……」

 呟いた俺に、煬烏が扇のうちで囁いた。

「お前が私の愛妾だと嘯いているようだ」

「知人でもこんなにきついのに?」

 煬烏は俺の肘に一発食らわせ、止めるまでもなく宦官の背後に歩み寄った。



「面白い話ですな!」

 デカい影とデカい声が降って宦官は身を竦める。

「おや、殿下」

 侍医の大猫は事もなげに礼をした。宦官は慌てふためいて弁明する。

「いつから其方に、いや、私は……」

「いや、実に面白い推論であった」


 煬烏は大木が倒れるように宦官の肩を抱き込む。少し哀れだ。

「だが、事実無根。何しろ侍医殿に相談があってきたのはその件でな……」


 煬烏は大袈裟に眉を下げた。

「我が方士の方術は無二だが、房中術の神に見捨てられておる。基本が八浅二深だとすれば、彼は十浅無深……」


「殿下、何の話ですか」

 割って入った俺に、大猫が爽やかに言った。

「成程、つまり、物凄い早漏ですね」

「何言ってんだてめえ……」


 宦官が俺を見る目が侮蔑から哀れみに変わった。

「何と……軽はずみなことを言って申し訳なかった。男として辛さはよくわかる」

「違いますよ、俺は……」

「恥じることはない。私の弟も昔はそうだった。漢方で治ったとそうだから、今度都合できるか聞いておこう」

「急に優しくなってんじゃねえよ」



 宦官はそそくさと逃げ出す。

「殿下、あんた何言ってくれたんだ……」

「争わずして事を収めたであろう」

 煬烏は扇で隠れないほど大口を開けて笑った。 


「先程の、詳しくお聞かせ願えますか?」

 白髪の侍医が俺に詰め寄る。

「何だよ……」

「申し遅れました。私は侍医の大猫。趣味は腑分けと猥談です」

「最悪の自己紹介だな」



 煬烏は扇で手を打った。

「して、我が方士の不運は物の怪や霊魂によるものか?」

「そこに繋げんなよ」

 何てやり方だ。


 大猫は俺の顔と下肢に視線を上下させる。

 片目が隠れるほどの前髪を掻き上げ、大猫は言った。

「霊は憑いていますね」

「簡単に言うなよ!……本気ですか?」

 煬烏も目を丸くした。俺は祟られるような覚えはない。近しい人間で死んだのはお袋くらいだ。


「その霊って、誰ですか?」

 大猫は少し表情を曇らせた。

「今言うべきではないでしょう。ご心配なく。貴方を祟っている訳ではないようです。つまり、ただ早漏なだけですね。御気の毒」

「だから、違うって……」



 煬烏は扇の上の瞳をまた細くした。

 理由はわからないが、訝しむような視線だ。大猫は素気なく視線を避け、庭の牡丹の先を眺めた。

「憑かれているのは別の方士のようです」

「何の話だ?」

「じきにわかるでしょう。また嵐が来るかと」


 大猫は晴天の空を仰ぐ。

 煬烏は鋭い目のまま侍医を見つめた。


 またろくでもないことが起こりそうだ。

 その前に、誤解を解くにはどうしたらいいだろう。

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