第35話 やさしさに包まれたなら
「なんだこれは。一体どうすればいいのというのだ!?」
モーゴス司教は叫んだ。
地獄絵図に花吹雪が荒れ狂う異常事態は尚も収まる気配がない。
その只中、鎧籠手に引き摺られるようにウォルが動き出す。
──熱い。まるで左腕が燃えてるみたいだ。
指輪の熱が、心臓に送り出されてウォルの全身に広がっていく。
数秒ごとに根拠なき全能感と、訳の分からない多幸感が全身を覆い尽くす。
まるで、誰かの優しい腕に抱き留められているようだ。
濁流めいた渦に飲まれたウォルの視界は水彩画のように滲み、ぼやけていく。
矮小な二本足の生き物が何か喚いている、とウォルは思った。
呼びかけを無視し、現実感が薄れた無感動な心持ちで視線を彷徨わせる。
影絵のようにおぼろげな姿をしたツクヤが、左腕を抱き着いているのに気づく。
ずっと心配してくれたのか、とウォルは理解した。
指輪から心臓へ流れる力は濁流のように激しい。
だが、少しも苦しくは無かった。むしろ心強くさえある。
今なら何でもやれる気がして、ウォルはツクヤの幻影に意識を向けた。
彼女が笑っている。その笑顔に応える。笑顔を浮かべる。
「うぉる。うぉる。ねぇ、だいじょぶ?大丈夫?」
「ああ、大丈夫。ごめん、心配かけたね。僕は一人でもいいさ」
「だいじょぶ!わたしがね!全部ね。全部やっつけちゃうから!」
ウォルは少女めいた言葉を喋る一方、自分自身の言葉も吐き出す。
目の前にその相手は居らず、空転する車輪のように台詞ばかりが尚続く。
それは彼一人きりで行われる奇妙な会話劇だった。
親しい誰かと語っているように表情を変える様は只事ではない。
まるで別の誰かを一人の人間の中に押し込んだかのようだ。
モーゴス司教は眉間にしわを寄せて叫ぶ。
「いけません!すぐにも発狂してしまう!ウォル君!」
──何だろう。小さい。うるさい。かわいくない。
矮小な存在が、またも自分へと喚いているのにウォルは気づいた。
一体全体誰だったか。酔夢のようにぼやけた頭では、判然としない。
考え込み、ウォルはモーゴス司教の事をやっと思い出す。
──そうか。司教様か。じゃあ、言わないと。
石くれのようなウォルの心は、今や司教にいかなる権威も感じなかった。
大嵐の先ぶれめいて静かなツクヤに導かれ、モーゴス司教へと向き直る。
慈悲も無く、許容もなく。ただ青白い怒りだけが娘の横顔に閉じ込められている。
「ウォル君。貴方は」
「司教様。僕は今、何も恐ろしくありません。貴方様も。あなた方さえも」
「手を取ってはなりません!!人の世に帰れなくなりますぞ!!」
「言いたいことがあるみたいですから。聞いてやってください」
ウォルの腕を掴み、人へ繋ぎとめようとするモーゴス司教から軽やかに逃れた。
人の営み、人の正義が茶番劇か何かのように今のウォルには見えた。
膝を付いたモーゴス司教を見下ろして、恐るべき蕃神が力ある言葉を口にする。
「──きけ。さだめの命の子らよ。我が民を手酷く害した者たちよ」
一切の反論を許さぬ、断固たる声であった。
力ある言葉とは誓いであり、いずれ果たされるべき約束でもある。
鬼火のように燃えあがる緑の炎がウォルの瞳に宿り、ヒトという畜生を捉えた。
「ヒトという生き物の行いをわたしは知った。それがどれほど惨いものかを知った。
よくわかった。だからもう容赦はしない。報いとしておまえたちを殺し尽くそう。
うぉる。あなたを私の腕となし、そのちからをおおいなるものとしましょう」
ウォル──蕃神の使徒は左腕を持ち上げ、人差し指で司教らに呪いをかけた。
意味するところは明らかだ。目には目を。歯には歯を。復讐成すは我にあり。
絶対応報の名の下に、憎む神はその使徒を地へと遣わした。
だが、定めの祝い を前に尚、すっくと司教は立ち上がる。
祈りを胸に。モーゴス司教は指で印を結んで怒りの時に対峙した。
「神を気取るか。魔物どもの頭領如きがッ!!喝ッ──神罰覿面(てきめ)ェん!!」
自らを鼓舞するような一喝に続き、朗々と司教の声が響き渡る。
経典を下地とした命令と、西国教会の奉じる神の聖名であった。
「聞け!!汝、不敬なる者よ!重ね誓いて貴様の妄言など叶いはしない!!
我ら神の名において命じる!その子供から去り、あるべき場所へ帰れッ!!」
それでも司教の表情は険しい。心得のある聖句──西国教会の呪いを唱え続け、
己らの神へと祈る詠唱を積み重ね、それが途切れることなく反響している。
どれも効き目が薄い。祈りを踏み砕いてでも突き進むつもりか。
モーゴス司教の心中に、悲鳴めいた叫びが閃いた。
──神よ!何故!!何故祈りにお答えにならないのですか!?
生じかけた疑念を即座に踏み殺す。振り上げられた杖は振り下ろされねばならぬ。
黒頭巾らや吏員が恐慌しかけたのを認めるや、モーゴス司教は一喝した。
「祈れ!それでも神へ祈れ!だが手は塞ぐな!恐るべき相手ですぞ、諸君!」
坊主の決め台詞を叫ぶ司教に、信徒らも正気を取り戻し、顔を見合わせる。
そして、棒切れやら何やら頼り無げな得物を構えて陣立てを整える。
青筋を浮かべながらモーゴス司教は頭脳を走らせた。
目の前の存在は何か。どう対処するべきであるか。
──やはり蕃神かその化身。そしてその使徒。まさか、まさかの大失敗ですな。
ここに至って、モーゴス司教は自らの破滅的な失策を悟らざるを得なかった。
戸口を開けたら龍が居た。しかも、逆鱗を蹴り上げられてお冠だ。
司教ら西国教会の奉ずる神とは混沌を二つに割き、在り方を定める存在でもある。
夜を覆す暁であり、暗がりに覆い隠されたものを暴きだし定める光だ。
名も無き胡乱な魔物ならば、有り方を固定されて崩れ去る、筈だった。
それが効かぬ。何よりも、語られた言葉が事実でならば。
──拙僧、まず助かりませんなぁ。ならば、悪足掻きしましょう。
決断し、賭け金を肘まで積み上げる。浅慮を嘆きつつも引き下がらない。
滅びの定めか。宜しい。だが、どう死ぬかまでは定められていない。
ならば、呪いを引き受け滅ぶまで、と司教は覚悟を決めた。
「きかないよ。あのこのことばなんてきこえない」
「拙僧は西国教会の司教、人類とその末の安寧を祈る者ぞ!!戯言に惑うと思ったか!!」
「……つまんない。つまんない。あの子みたいですごくつまんない!」
「異端邪教の何するものぞ!敵よ!蕃神よ!人類を嘲笑ったな!!許せぬ!!
魔物よ!人類の怨敵よ!人間を憎むべき畜生、動物だと嘲笑ったか!許せぬ!!」
「そう。じゃあ、さようなら」
ウォル少年の意志は魔物のせいで消滅しつつある、とモーゴス司教は判断した。
そして思う。目の前の魔物の、その暴威や異常性を見れば誰もが理解しよう。
この世界は人を脅かす敵や化け物、死と恐怖に満ち満ちている、と。
だから西国教会は。西国教会こそは魔物と戦い、人類に味方しなければならない。
何故なら西国はその成り立ちから人類の味方であり、その守護者であるのだから。
モーゴス司教は尚も思考を巡らせる。
──ウォル君は本体ではない。物言いから、神の先ぶれ。その代行者。
年代記によれば龍の騎士、でしたか。まさか実物を見る事になるとは。
知る者は少なく、遭遇した者は更に少ない。そういう存在だ。
神々の力の代行者。そして彼らは運命から二度とは自由になれない、とされる。
只人には過ぎた力を与えられる為か、それとも人知を越える計らいの故か。
ともあれ、その末路は大概において悲惨なものだ。
──こんな子供が。何という事だ!
嘆きとも驚きともつかぬ思念がモーゴス司教の脳裏を過り、すぐに消える。
司牧として、あくまで改悛を求めたい所ではあったが、もはや見込みは薄い。
潮時ですね、とモーゴス司教は思考を切り替える。
そも神々の力とは何か。即ち現象それ自体である。
気まぐれに荒れ狂う大海原を前に兵馬を整え何の役に立とう。
燃える岩と硫黄を吹き上げる火吹き山を前に船乗りに何が出来ようか。
ただの人間が相手をするような存在ではない。決して無事ではすむまい。
ならば、粛々と異教の神より死を賜(たまわ)るべきか。否。信仰に賭けて否。
例外は在る。モーゴス司教の脳裏に、しろがねの老騎士の姿が閃いた。
かの人こそは紛れも無き西国最強の騎士。彼ならば、必ずや。
「総員退避!!全責任は拙僧が取る!!散り散りに逃げろ!!インティス卿に連絡を!」
「どうやってです!?背中を見せたら──」
「祈って走って何とかするのです!無理無茶無謀だろうが何だろうが!」
我ながら無茶苦茶を、とモーゴス司教は他人事のように自嘲する。
第一、本来ならば司教が真っ先に退避すべきだ。が、もはや逃げ切れるか怪しい。
瞬き程の時間があるか、ないか。今より司教は残った務めを果たす。
一人でも多く逃がしつつ、先頭に立って時間を稼ぐのだ。
──答えは簡単。拙僧はこの場でやるだけの事をやる。さぁ!!
モーゴス司教が死の呪いと向き合おうとしたその時。
突如、側方の壁が爆発した。土煙を突き破って現れたのは輝く鎧姿。
朱のマントに丸い大盾。そこに背負った紋章は金色も鮮やかな西国騎士団の印。
降り注ぐ瓦礫を跳ね上げ、完全武装の老騎士が大音声を発する。
「まさかの時の西国騎士団!!イィィンティス=メックト!!推惨なりッ!!」
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