第34話 血と泥まみれの道 



 司教と共にウォルは子羊のように歩く。

 行き交う人々はウォルなど存在しないかのように無関心だ。

 きっと大丈夫、まだ大丈夫だと思い込もうとしていた。

 それは愚かさ以上に、世界への無邪気な信頼の故だった。


 神様はいつだって正しく物事の帳尻を合わせてくれる。

 例えば、罪には罰が下されるように。魔物が人に倒されるように。

 それこそ人の世の理。そうあるべき姿。否定しようもない。


 しかし、だ。

 己や親しい人々が、その応報の理に含まれていたか。

 含まれていない。含まれていなかった。だが報いは速やかに来た。

 神の正義の名の下に。その信奉者たち、つまりは西国教会を伴って。


「そも、この場所は古の時代に教会の偉大な先達が建てたものです。

 元は魔物に抗する砦の一つでもあったとか──感謝の念に絶えませんな」


 誰に聞かすでもなく、気楽な調子でモーゴス司教が言う。

 重い鉄の扉が開かれる。生暖かい空気がウォルの鼻を突いた。


 記憶の底に押し込んでいた匂いだ。

 蠅が群がる獣の死骸めいた悪臭が入口まで漂っている。

 ぬるい風が途方もない悲惨を運び、かすかな呻き声が聞こえていた。


「忠告しておきますよ。この先はあらゆる希望を捨てなさい」

「何故ですか。司教様、僕をどこに連れて行こうというんですか」

「悪と、それを罰する者にとっての地獄。今なら引き返せます」


 ウォルは無意識に卑屈な笑みを作りかけてこらえた。

 司教様に全てを話せば自分だけは助かる、のではないか。

 決断一つで長かった夜が終わり、人の世に引き返す事もできよう。

 これまでを全て否定し、売り渡す事さえ出来れば。


 実に馬鹿げた妄想だと切って捨てる

 ごろつき共の横顔を覚えている。これまでの旅路を覚えている。

 あの娘の笑みが、しるしのように焼き付いて離れない。

 それら全て放り出し、かつての無価値な生き方に戻れ、など。

 はいそうですか、と頷ける訳が無い。ウォルは、やっと答えた。


「僕に信義を売れと言うのか」

「貴方は人の側へ立ち戻る事も出来る。今ならまだ、ね。

 残念ながら、意志は固いようですな。行きましょう」


 司教は指を鳴らし合図する。その足取りは、死の谷を行くように重い。

 モーゴス司教を支えるのは信仰だ。やがて、松明が闇を照らし出す。

 血生臭く、獣臭に満ちたそこは、死の影住まう人の世の暗部であった。


「………ぁ」


 一瞬、脳が認識を遮断した。ウォルは目を閉じる事が出来なかった。

 耳をふさぐことも出来ない。その癖、歯はガチガチと震えてうるさい。

 黒頭巾共の支えが無ければすぐにも卒倒していただろう。

 血油でぬらぬら光るノコギリが無造作に吊り下げられている。

 まるで屠殺場のような光景が、そこにはあった。


「皆さんお疲れ様です。それで、今日の業務の方は?ふむ、なるほど。

 黒い男も、蕃神についても新情報は無し。全く、無知蒙昧な魔物共で困る」

「ま、まも……の?アンタ、一体何を。これは一体何だ!!どういう事だ!?」

「ちと刺激が強すぎましたか。ですが、その方が却って都合が良い。

 さてウォル=ピットベッカー。君の尋問を開始したい。よろしいか」


 男に女。若者も年寄りもいる。その一切合切が区別無く、皆裸だ。

 そして、彼らの頭にはどれにも様々な種類の獣の耳が生えている。

 成程、確かにここは地獄だ。人の力で地上に拵(こしら)えた地獄だ。

 ウォルは口元を抑え、真横を見る。司教は相変わらずにこやかだった。


「お前ッ!自分が何をやってるのか解って──」

「何って、魔物退治ですよ。それがどうかしましたか?

 魔物も生き物。傷つければ呻き、血を流し、死ぬ。当たり前の事です」

「……尋問に名を借りて僕も責め殺すつもりだろう」

「まさか!拷問など可能な限り避けたい。積極的にご協力頂ければ助かります」


 ノコギリ、小刀や焼き鏝、鉗子だのの医療器具に混じり、

 何に使うか得体の知れない道具が整然と並べられている。

 言葉を区切りつつ、モーゴス司教はその内の一つを手に取った。

 それは一見するとペンチや、鍛冶屋の使う金鋏に見えない事も無い


「さて、ここで少々説明しましょう。これは魔物の口を滑らかにする道具です。

 拙僧は一番好きでしてね。シンプルで、理に適っていて。しかも楽だ」


 司教はあくまで穏やかな表情を保ちつつ、説明を始めた。

 何処か得意げに見えるのは勤勉さと己の仕事への誇りの故だろう。


「勿論、『魔物用』ですよ。改悛をあくまで拒むならばその限りではありませんが」


 切断された手足が投げ込まれた桶を眺めつつ、司教は言った。

 それから硬直しているウォルの肩にそっと手を乗せる。


「大丈夫ですとも。貴方は悔い改める事が出来ます。

 貴方はきっと救われる。これも、神のお導きと言えましょう!」


 感極まった声だ。その瞳には薄く涙さえ滲んでいる。

 司教は己の行いに一点の疑念すら抱いていないようだった

 気弱で、貧しく、取るに足らない小僧を魔物から救いだしてみせる、

 そんな意気込みがその四角四面の顔からありありと見て取れる

 ウォルは、恐怖した。


「──ひっ」

「目を逸らしてはなりません!それは狂気への道ッ!!」


 司教はウォルの頬を掴み、無理矢理に惨劇を正視させる。

 様々な種類の獣耳の乱れ髪が悶え苦しみ、叫びをあげている。

 おののいて唇を噛むウォルへ鼻息も荒くモーゴスは言った。

 

「いいですか。落ち着いて聞いてください。我らは人。魔物とは違うのです。

 哀れみとは同じ人間に対してかけるもの。アレら魔物は、我々ではありません」

「だって、顔も、手足も、体だって僕らと殆ど同じ──」

「人と魔物を区別出来ないのは未熟者です。最も」


 司教は言葉を区切り、疲れ切った様子の拷問吏に交代を命じた。

 その背中見送りつつ、続ける。


「このように訓練された者でさえ疲弊し、時に心すら病むつらい仕事です。

 ですが!目を逸らしてはならない!これこそが人類を害する魔物の末路!

 奴らは人の間に潜む疫病です!放っておけば盗み、殺し、奪い取る!何と恐ろしい!」


 事実、狐耳どもなど略奪と盗みが生業だと称していた。

 反論できず押し黙るウォルへと司教は早口でまくし立てる。

 異種融和など子供の戯言。狂人の夢物語と言わんばかりだ。


「魔物とは恐ろしいものです。身内の恥を明かす形になりますが、

 我々の中にも君のように異端の考えをするものがおる程でしてな。

 幼く、道理に暗いウォル君が道を幾度踏み誤ったとて、拙僧は必ず許しましょう」


 悔い改めれば必ず許されます、とモーゴス司教は続けた。

 にこやかな笑顔の向こうでは瀕死の者たちが啜り泣き、呻きを上げていた。

 彼らの声を一顧だにしないまま、突如として司教の顔に青筋が走った

 嫌な事でも思い出したに違いない。


「あの異端者共と来たら!!経典の諸作法にまでケチをつける始末!

 思い出すだに忌々しい!!……失敬。つまらない愚痴を!何の話でしたかね」


 苦痛に満ちた叫びが響く中、司教は苦笑いを浮かべて言う。

 一方でウォルの決意は恐ろしい現実を前にあっけなく砕け、

 その顔は、一度に十年も年老いたように皺と恐れで歪んでいた。


 助けを求めるようにウォルは視線をさまよわせる。

 左手の指輪は死んだ灰のように静まり返り、変色して動きを止めている。

 白い部分はすっかり消え、まるで新月のように暗い。


「誑(たぶら)かされているのですよ、ウォル=ピットベッカー」


 と、モーゴス司教は顔を間近にまで寄せて囁いた。

 知らない、解らないと呻くウォルに司教は頷いてみせる。

 解っています、そうですともと肯定し、司教は慰めるような口調で続けた。


「ウォル君は何も悪くありません。全ては魔物どもの仕業。悪いのは奴らです。

 拙僧で良ければ懺悔も聞きましょう。知っている事を話して頂けませんか?」

「嫌だ。司教様、こんなの止めてくれ。僕たちは悪じゃない。死にたくない」

「殺された人々も同じ事を思ったでしょう。起きた事は取り返しがつきません。

 事実を誤魔化してはなりません。現実を理解し、その上で自ら選ぶのです」、


 モーゴス司教はそう告げて拘束を解く。

 ウォルはよろめいて数歩進む。その思考が不意に晴れ渡った。

 指輪に目を落とすと、その夜の湖面めいた色は静寂に包まれている。

 目玉を通じ、見聞きしている筈のツクヤからは未だ何の反応も無い。

 地獄めいた光景を見せられて凍り付いているのかも、とウォルは思った。


 ──なら僕が何とか。何とかしないと。

 特別な力なんて無い。鈍い頭では冴えた答えなど望むべくもない。

 だが、今この場にはウォルしかいない。だから、やるのだ。

 全て投げ出せば人に戻れたとしても、それだけはできない。


 仕方が無かった、とただ引き受けた。

 決意は崩れ勇気はドブの中で死に、覚悟と僅かな諦めが残った。

 ウォルは孤塁に踏み止まると、司教へと向き直る。


「何故、どうしてこんな。こんな、こんなのッ!!酷過ぎる!!」

「我々教会の、人類への愛の故です。苛烈である事は認めましょう。

 ですが、我々の組織、我々の教え、我々の力こそは人類への愛の現れなのです」

「愛だと。愛って言ったか!?こんなものが愛であってたまるかよ!!

 アンタ、それでも司教か!自分が何言ってるのか解ってんのか!?」


 ウォルの罵声を涼し気に受け止め、モーゴス司教は勿論と即答した。

 彼は解っていた。彼らは、自分達の所業なんぞ先刻重々承知していた。

 モーゴス司教の声に苦渋は無く、良く通る低い声で語り始める。


「魔物は余りにも強大で、拙僧らに出来る事は限られている。それでも尚。

 それでも尚、我々は人類を愛している。ゆえに人類の敵は滅ぼさねばなりません」


 魔物の血で染め上げた僧衣こそは彼らの誇りであるらしい。

 言葉を区切り、モーゴス司教はウォルの瞳を真っ直ぐに見据えた。

 その奥に潜む何者かの正体を見通さんとするかのようだ。


 ──この人、わたしに気づいてる。全部、わかってやったんだ。


 長く沈黙を守っていたツクヤが、短く鋭い思念を送ってきた。

 思わず指輪に目を落としたウォルをモーゴス司教が見咎め、言った。

 

「時に神々と呼ばれるほどの魔物は人の心さえ捻じ曲げ、組み伏せてしまう。

 それほどに強大です。余りにも圧倒的。奴らは我々の意志すら塗りつぶすのです」


 故に、彼らは異教異端では神々としてさえ扱われる。

 例えば月下で泳ぐ大海の化身。例えば自ら容(かたち)成す原初の炎。

 沸き立つ混沌の悪龍に、かの存在に付き従うとされる腐敗や騒乱の神々。

 等々。西国教会が奉ずる神と覇を競う異端異教の蕃神はこの世界に数多い。

 誇大妄想狂じみた人類中心主義に従い、司教はウォルへと問いかけた。


「拙僧の言葉が真っ赤な嘘と否定できますか?

 どこまで自らの心で、どこから魔物の意志なのか分けられますか?

 憑りつかれた貴方には、最早自分と怪物の意志との区別もできますまい」


 恐るべき魔物を憐れむ程に!と司教は叫ぶ。

 人は魔物を憐れまない。魔物は人を助けない。それこそがあるべき世の理。

 けれども神の加護篤き西国教会は、道を誤ったウォルすら守ろうとしていた。


「人は無力です。人と魔物、正義と悪の区別さえつけられない。

 故に我らは人を守護(まも)らねばならない!!魔物よ、その子供より去りなさい!」


 モーゴス司教は自らを鼓舞するように叫び、一方ウォルは押し黙る。

 魔物に臆さない勇敢なモーゴス司教と対峙し、赤毛の少年は一歩踏み出した。


「何が違う」

「?」

「僕と彼ら、何が違う。たかが獣耳にそんな拘って馬鹿じゃねぇのか」

「ウォル君。それが貴方の答えですか?困りましたね……」

「困れよ、糞坊主。血は赤く、手足は二つ。なら、同じ人間だ。

 僕はこの目で見て、この足で歩いた。彼らも、僕らも違いなんて──」


 ウォルの罵倒を聞き流していたモーゴス司教が不意に身を屈める。

 そして血と脂で汚れた床から、ちぎれ落ちていた狐の耳を見つけて拾い上げた。


「人間にこんな耳ある訳ないでしょう。おかしいと思いませんか、貴方」


 ああ、駄目だ。ウォルは今度こそ認めた。今やはっきりと認めざるを得なかった。

 この司教は、西国教会は自分達が人類の正義である事を疑っていない、と。

 ウォルは俯き、それきり一度も目を合わさずモーゴス司教に背を向けた。

 もう相容れない。さよなら、という短い言葉が心の中を流れて行った。


「君よ。ウォル=ピットベッカーよ。人に背を向け、何処に行くのですか?」

「生き苦しむ人々の傍へ。同じ二つの足を用い、この血と泥濘を越えて」

「──むっ!?」


 ウォルが背を向ける。突如、血と泥の床に白い花が咲いた。壁にもだ。

 異常事態に気づき、モーゴス司教が目を見張る。

 ウォルは左手を固く握りしめて歩き始める。その傍らで。

 飛び散った血や肉を養分に、白く輝く花めいた現象が次々と咲き誇る


 次々と不思議な事が起こった。

 ウォルの左手の指輪からツタめいた淡い燐光が幾筋も心臓目掛けて走る。

 密室の空気が膨れ震える中、その光の筋は見る間に奇妙な鎧籠手を形作った。

 少年の左腕全てを覆い尽くすそれは、鼓動のように白黒に明滅している。


 ウォルは。ウォルらしき何かは一斉に飛び掛かる黒頭巾を鎧袖一触にする。

 囚人──魔物呼ばわりされた瀕死の輩の前へ立ち、その手に触れた。

 すると一際大きな花が咲き、助からない苦しみに安息を与えた。


「命を吸い取った!?これは……ウォル君、まさか貴方!!」


 ウォルは答えず、吊られた人形めいた動きで部屋中の苦しみを終わらせていく。

 パキリパキリと、歪んだ空気が軋み、そこら中で割れるような音が鳴る。

 白い花は泥から次々咲いて夜なお白く、照る炎より尚白く死と苦痛を埋め尽くす。

 やがて、最後の一人を楽にしてやるとウォルらしき何かはゆっくり向き直った。


 人間どもを背に庇い、モーゴス司教は立ちはだかる。

 その四角四面の顔にびっしりと脂汗が浮かんでいた。

 正体不明の何かが、恐ろしい事態を眼前で巻き起こしている。

 魔物の仕業であるには違いない。だが、これではまるで──


「魔物。いや、まさか。さてはこの地の蕃神か」


 答えの代わりに、白と黒に明滅する鎧籠手が新月のように黒く変わる。

 新月の色だ。全てを飲む月の破壊的な相が、目の前に顕現しつつあった。

 モーゴス司教は確信した。目の前に在る者こそ滅ぼすべき敵である、と。

 司教は抱えた聖典をかざし、ウォルの身を借り顕れた存在に挑みかかる。


「答えよ!魔物!貴様の名は一体」

「もういい。よくわかった」


 ウォルの口を借り、彼女はモーゴス司教に短くそう答えた。



 Next.


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