第31話 かれらの国のスゴイやつ
──うーっ、魔物魔物。僕は思わず現実逃避してるだけの男の子。
少しだけ人と違う所と言えば、貴族の子弟で魔物に興味があるぐらいかな。
「違う。現実逃避してる場合じゃない」
司教様に連れられるトゥルシィ=アーキィは瞬時に真顔に戻った。
閲兵直後らしく、完全武装の西国騎士達が周りを取り囲んでいるからだ。
冗談みたいな言動の面々だが、彼らの武装は単なる冗談では済まない。
「卿は不在?困りましたな」
が、肝心の卿の姿が無い。聞けば日課の為に広場に向かったらしい。
とんだ無駄足と呟き、トゥルシィは不服げに頬を膨らませた。
「呼びつけて出かけるとか信じられない。何考えてんだ」
「知らせも無い事ですからな。インティス卿の所へ、散歩しながら話でも」
「早く部屋に帰りたい……チェッ」
「そう仰いますな。歩きながら話せば思考も解れます。
書斎にこもるばかりが学問や勉学とは限りません。何事も体が大事ですとも」
「修道院の逍遥(しょうよう)回廊じゃあるまいし」
そういう事になった。騎士らに見送られ、トゥルシィ一行は歩き出す。
通りでは闘技の祭りと聞きつけた行商人だの、芸人だの、放浪者や乞食だの、
胡散臭い風体の連中が方々勝手に一席敷いては商いしている姿が目立っていた。
染めているのか地毛なのか、多彩な髪の色や様々な衣装で、体格も千差万別だ。
雑多な集団の中には人間以外と思しき種族も見られる。
歩行の功徳か元来の好奇心か。トゥルシィの心が精彩を取り戻していく。
文字だけでは解らない彼らの実態は何か。現地での調査に心ときめく。
こういうのを待っていた、という本音が顔にありありと浮かんでいく。
人間に近い姿の、獣の耳を持つ異種が中でも特に目立って多い。
猫、犬、狐、兎に鼠、その他よく解らない野の獣の耳。
その数や種類からして、東方蛮地でそれなり以上の人口があるのだろう。
フラフラ吸い寄せられていくトゥルシィをお付きの騎士が引き留めた。
「ジロジロ見なさるな。治安が悪い土地です。いらぬ厄介を招きますぞ。」
「解ったよ。ありがと騎士のオジサン。ええと、司教様。何故に僕の肩に手を」
「罪人、邪教徒、異端者、化け物、戦争。この地には人類の困難が様々あります。
我々としては情報収集の為に泳がせてもおりますが、近づいてはなりませんよ」
モーゴス司教も釘を刺すような声音だった。トゥルシィが目を丸くする。
確かに身なりの良い者は少ない。面付きの明るい者は更に少ない。
胡散臭い芸人などマシな部類で、とっとと西に帰れと顔に出ている輩さえいる。
一行に襲い掛かって来ないのは単純に護衛の騎士とその剣のおかげだ。
群衆の中に、戦乱による流民難民の集団が大勢混じっているのだろう。
彼らの不安と猜疑が入り混じった目玉の群は、虚ろな視線で一行を捉えている。
顎をこすりつつモーゴスは再び歩き出し、話題を切り替えた。
「ともあれ、東国との関係は進展中でしてな。将来的には同盟もあり得ましょう」
「でも、喜んでる人ばかりには思えません。ほら、あの人とか泣き喚いてますよ」
「与太者が悪目立ちしているだけですな。恐らくあれは、乞食か何かでしょう。
最も……先方が意思統一できていないのも事実ではありますが」
「聞いていい話なんですか?軍事が、外交が、って」
「ほんのサワリ程度ですからな!聞かれて困る話はしませんで」
身振り手振りを交えつつ笑顔を保つ辺り、日々の説法は伊達ではないようだ。
閑話休題。結論から言うと、西国は東国の上層部を抱き込みつつあるそうだ。
精力的に布教も行っているが土着貴族の一部から反感を抱かれているとも。
坊主如きが俺達の仲間にケチをつけるとは怪しからん、という理由だという。
モーゴスはもの知らずの頑民だからと述べるが、そう単純ではなかろう。
異種が多く、戦乱に事欠かない土地柄からして混血児も非常に多いと予想が付く。
更に言えば自称、という枕詞が為政者に付くほど王権が弱体である土地だ。
村落の定住民らは、胡散臭い与太者と隣り合わせで暮らさざるを得まい。
結果として生じたのが西国反対派の土豪劣紳(どごうれっしん)共だという。
「……それにしても」
アーキィは呟くと、傍らのモーゴス司教を見上げた。
未来永劫四角いだろう面構えが小山のような体躯に座っている。
そうしていると、言葉を得た違和感が腹から浮かび上がって来た。
──何か、こいつら僕が思ってた狂信者と全然ちがうぞ?
狂人ばかりでは教会や騎士団の組織運営が成り立つまい。
おかしな言動以外は、実に良識を弁えたいい男、いい大人たちだった。
何事も実地での観察と経験が実際重要。教えと発見をトゥルシィは噛みしめる。
閑話休題。ついつい側溝めがけて入水しかけた思考を正道へ引き戻す。
モーゴスが得意げに語っている事をまとめると、西国の面々の目標は二つ。
一つには狐耳の邪教徒軍とその蕃神(ばんしん)の討伐。
異族の神を引き倒し、西国の神と教会とをこの地に改めて据えるのだと言う。
武功栄達は勿論、東国を西国の勢力圏に取り込む事が狙いだ。
もう一つは司教様や坊主の面々のお仕事。
今現在は国家と呼べるかすら怪しいこの東方蛮地の色々叩いて整地し、
行政全般を西国教会と騎士団のパワーで何とかする事らしい。
「そんなの簡単にできたら世話無いよ。第一お金が無いじゃないか」
「おや、今度は金の話ですかな?拙僧、こう見えて一家言ありましてな」
「第一、整えるったって。先立つ物を一体全体何処から持って来るのさ。
募金とか、現地徴収とか、上級王?とかいう人の援助とか、借金とか?」
乏しい金の知識を総動員しつつ、トゥルシィはうんうんと唸り始めた。
だが軍費で破産しかけの実家同様、想像の中でさえ良案が浮かばない。
勢い、借金だの如何に税を搾り取るか、出費を抑えるかという発想に至る。
「おっと!花丸あげられませんなぁ!」
ニカリと笑ってモーゴス司教が言った。返答を待たず、二の句を押し付けてくる。
余談ではあるが、教会組織においては司教と言う立場は経済もつかさどる。
つまり、司教様は手前みその仕事自慢をやりたいらしい。
「我々の武器は資金力!これは何も寄進のみによるのではありません!
教会領からの租税は勿論、本丸は何を隠そう金融なのですな!」
「……うわぁ。こう、教会の教えとの整合性とかどうなってるんです、ソレ?」
「人類守護の為ならば使えるものは全て使え、という奴でありましてな」
「っていうか、金貸しって事は……もしや取り立ても?」
「西国騎士団は世界最強!便所に隠れて震えていても劣悪債務者は逃がしませぇン!」
借金取り騎士団と彼らが忌み嫌われる理由をトゥルシィは魂で理解した。
教会領は世界各国に存在し、しかも当事国からの不介入の権利を持つ。
そして大抵は騎士やらの拠点たる修道院だの教会が建っている。
勿論、陣取る西国教会関係者たちは領主だの王だの一顧だにすまい。
その生ける実例は、目の前で嬉しげに胸板を叩いている始末だ。
「教会領を結ぶ金融と情報のネットワークこそ西国の精髄なのですよ」
「よく解りません。結局は金貸しなんですよね?」
「御父上にも低利でお貸ししておりますぞ。今後とも是非ごひいきに」
「そのせいか……いやこれって。畜生、借金取りの人質って事じゃないか!」
「否定はしませんが、金の貸し借りは人を強く結びつけるものでしてな。
皇国とて同じような事はしております。質量ともに我が国には劣りますが!」
曰く、教会とは官僚組織と見つけたり!西国教会は大陸最高!
強くて豊かなだけの皇国なんぞには負けませぇん!と司教は大絶叫。
彼にしてみれば皇国など、閥族寄せ集めの烏合の衆か何かなのだろう。
呆気にとられるトゥルシィの肩を、不意にモーゴスが叩く。
「トゥルシィ=アーキィさん。貴君もゆくゆくは一族を支える立場。
或いはわたくしのように学僧となる可能性とてありましょう。
その為にも何事も勉強。日々之鍛錬ですな。おッ!あれなるは噂のインティス卿!」
トゥルシィの顔が曇った。インティス卿への第一印象が最悪だったからだ。
──何だあの言動。馬鹿か道化師かよ。騎士団総長とか西国最強の肩書が泣くぞ。
年相応の文句だか愚痴だか解らん呟きをボロボロとこぼしつつも歩みは止めない。
余談ながら、西国騎士の長には伝統的に当国最強の騎士が就任すると言う。
「…………何です、あれ」
「卿の日課ですなぁ。今日も精を出されておりますぞ!」
屋敷の梁めいた鍛錬棒が精確に上下動している光景だった。
人間を完全に逸脱した剛力だ。きっと龍すら裸締めで殺せるだろう。
──西国最強である彼は何故西国最強か。何故なら彼こそ西国最強だからだ。
そんな無茶苦茶なトートロジーを体現した男、インティス卿の仕業であった。
「精が出ますなぁ!!少しばかりお時間よろしいですかぁ卿ッ!!インティス卿!!!」
「うむ?……その声は君か!モーゴス君か!!と、そちらの小さいのは」
「トゥルシィ=アーキィですけど……」
「アーキィ家の子か!ようこそ、歓迎しよう!」
卿は鍛錬棒を放り出す。轟音が辺りに響いた。
トゥルシィは思わず後退る。一方のインティス卿は歩み寄る。
友好的と解っている相手だろうが、超人だ。怖いものは怖い。
まるで縮まない距離に首を傾げてから、卿は手を打った。
「これは失礼!来客というのに汗まみれとは!」
言うなり体をインティス卿は拭き始める。トゥルシィの顔は引きつっていた。
成程、代替わりの重要な会議から外され、こんな地の果てへ追いやられる訳だ。
こんな怪物と同じ部屋にいては冷静な議論や熟慮なんぞ明らかに無理だ。
着衣を正し、改めて卿は向き直る。その顔はにこやかな笑顔であった。
──吟遊詩人に曰く、西国最強。騎士の中の騎士。炎を引き連れる騎士。
王国連合認定聖騎士、序列筆頭。敵を滅ぼす者。生ける信仰の城塞。
今を生ける伝説と呼ぶべき存在が、すぐ目の前で土塀に腰掛けている。
表情と言えば、幼い親類を迎え入れる慈父か好々爺のそれに近い。
評判との余りの乖離ぶりにトゥルシィは思わず片頭痛を覚えていた。
「では改めて。愚僧に何か御用ですかな?アーキィ家の子よ」
「ええと……何です、その呼び方は」
「卿。何時もの悪い癖が出ておりますぞ。名で呼びなされ」
「スマン!つい、な!トゥルシィ君だったか」
「僕は単に司教様に連れられて」
「で、あるか。政治の話かね。それとも戦かね。我が司教殿?」
「会話は拙僧ではなくトゥルシィ君にですぞ、閣下」
「ええと……じゃあ、今の戦況って閣下としてはどうお考え──」
「いやぁ!今のところ我が方のボロ負けだ!はっはっは!!」
「えッ」
「敵将めが余程の人物らしい!思わず旗下に欲しくなったよ!!」
「どんな奴なんですか?」
「敵どもの蕃神(ばんしん)共々さっぱり解らん!正体不明だ!」
蕃神、とは西国教会にとって異種族や異教の神を指す言葉である。
それにしても正体不明とは何事か。真面目に仕事をやってたのか。
上がりかけたトゥルシィのまなじりがどんよりと下がった。
「その、大丈夫なのです?勝てるのですか?」
「心配無用!西国騎士団は世界最強である!!」
「いや、だから。なんでそんないい笑顔で意味不明な発言を」
西国騎士団は世界最強!とインティス卿は再び同じセリフを獅子吼する。
それから頭を抱え、グネグネと身をよじって悶えるトゥルシィへと向き直った。
何事かと思う間もなく、卿は笑みのままで話を続ける。
「冗談はさておきトゥルシィ君。今後はモーゴスではなく我々と同行するように。
司教とこの街に滞在するよりは安全だ。アーキィ伯の頼みは守らねばならん」
「い、嫌だ!嫌だァ!!僕は静かに本を読みたいんだ!両手に筋肉とか冗談じゃない!!」
「ふむ、その顔。君、西国の事が嫌いかね?」
当たり前だ、と喉元まで出かかる叫びを何とか押さえつける。
目の前にいるのは西国最強生物だ。機嫌を損ねれば命が危うい。
顔色を忙しなく七変化させつつ、トゥルシィは慎重に言葉を選ぶ。
インティス卿はと言えば、腰掛けつつのんびりと返答を待っていた。
「そんなに好きじゃありません」
「正直でよろしい。……確かに我々を嫌う手合いは実に多い。
しかし。それでも尚、剣を捧げ人類守護を担わねばならん。理由は解るかね?」
「教会の教え、って奴でしょ。司教様が散々仰ってましたよ」
「助けよと神は伝えられた。人は弱い。肉体も、精神も。すぐ死ぬし簡単に壊れる。
魔物共にとってはヒトは虫けらや塵芥に等しい。惨めで哀れな生き物が人間だ」
卿は穏やかな笑顔で、西国騎士団の存在理由をゆっくりと語った。
ごく当たり前だ、と言わんばかりであった。だが、トゥルシィは納得できない。
「貴方にとってはそうでしょうけどォ……」
「偶々さ。どうしてか優れた力と高い地位を神が私を選び出し、与えてくれた。
当然だが多少なりと努力し、成果も出したぞ。が、本質的には偶然に過ぎん」
徒手で龍を絞め殺し、孤軍で軍勢を叩き返し、数多の魔物を屠り去った英雄。
空に聳(そび)えるしろがねの城。恐れ惑う民草の前に立つ守護者。
成し遂げた偉業は多く、吟遊詩人が歌う尾ひれがついた伝説は更に多い
だが、その当人はと言えばまるでつまらない事のように淡々と語っている。
「若い日のしでかしだ。後始末に司教や部下にも大変な迷惑をかけてしまった。
よく叱られた──西国最強と言ってもそんな程度だ。一人では、な。ワハハ!」
インティス卿の笑い声が響く都度、モーゴス司教に浮かぶ青筋が増えていく。
異名一つ増える毎に、面倒な後始末ばかりを司教は担ってきたのだろう。
老騎士は司教の沸騰しつつある顔面に気づき、話題を切り替えにかかる。
「君にも当てはまる話だ。他人事のように聞いてはいかんぞ、トゥルシィ君」
「いきなり何を言うんですか。僕に振られたって訳が分かりませんよ」
「すぐに解るとも。青き血の生まれも同じだ。人の世を救う為に用いる為のものだ
人と化け物の境は薄い。人であり続けたいならば、我らは人を助けねばならん」
「何ですか。騎士なのにお坊さんみたいな事を言って」
「武僧でな。西国騎士はまず民草の善き規範たる事も求められる。
剝き出しの力なぞ、ただの力だ。それに……最近どうも孫娘が冷たくてな」
「ゑっ……奥方が?お坊様なのに?何その掌返し」
「早くに無くした。私には過ぎた女だった」
トゥルシィの疑問を受け流しつつ卿は頬杖をついた。
西国は完全に祭政一致の国家だ。妻帯した僧も一般的らしい。
インティス卿は腕組みをすると憂鬱そうに空を見上げる。
「近頃は聖下も愚僧を遠ざけるし……何事も完璧とは行かないものだなぁ」
「例の代替わりのせいですか?最近流行りって聞きましたけど」
「私だけ仲間外れさ。遠征を命じられる事自体は別に構わない。構わないのだが。
私が会議に参加すると皆、息が詰まって困ると仰られてな。まるで意味が解らん。
これでも信仰心には多少の自信があるのだが……何故だろうね?」
繰り返しだが、御歴々の中にこの老騎士がどすんと座れば話だって進むまい。
実に妥当な判断だが、その結果がトゥルシィにまで波及してきたという訳だ。
インティス卿の圧力から逃れるべくトゥルシィは頭脳を働かせる。
思いつく。そう言えば、残された謎が二つばかりあった筈だ。
「混ぜ帰す事になりますけど……解らない事があるって」
「何がだね?」
「敵と、蕃神です。全く解らないでは困ります。僕だって関わる事です」
問いかけると、喋りかけたインティス卿に司教が何事か囁きかける。
老騎士は一瞬渋面を浮かべ、腕組みして考え、その後にトゥルシィへ向き直る。
「機密だ。誰に聞かれても決して喋ってはいけないよ」
子供を諭す口調だった。インティス卿は口元に指先を当てる。
司教と護衛の騎士が人払いし、見張りを呼ぶのを確認すると卿は話を切り出した。
「どうも、意図的に隠されているらしい」
「……どういう事です?誰がそんな事」
「解らん。何時、誰が、何処で、何を使って、何の目的で消したのか。
全て不明だが、消された事実だけは推測できる。私も数える程しか知らん事例だ」
インティス卿に曰く、蕃神に関する調査は現地入りと並行して行っていた。
だが、伝聞と昔話噂話以上の文献がただの一つも現存しない。
捉えた捕虜の尋問から、口伝でも無ければ無文字文化でもないにも関わらずだ。
強大な存在とは、同時にひたすらに目立つ。
月を記さない天文など無いように、太陽を無視する農法が存在しないように。
神格と呼ばれる重要な存在は大概の場合、存在した痕跡位はどこかに残る。
或いはごく限られた血族にだけ秘伝として残存しているのかもしれないけれども、
東国側の文献を辿って関連記述がまるで無いというのは不自然の極みと言う。
西国の書庫もそうだ。恐らく皇国の情報もそうだろう、と卿は言う。
「蕃神の存在そのものを知られたくない何者かの仕業かもしれん」
「陰謀論ですよ。少し疲れておられるんじゃないですか」
「私を誰と心得る。世の中には只人が知らずとも良い事は山とあるのだ」
「それって問題発言では……?」
「個人の見解だよ。しばしば教会より正しいがね」
トゥルシィは思わず眉をひそめる。だが、インティス卿は真顔のままだ。
殆ど異端の考え方を披露しつつ、老騎士の横顔は彼方の敵を見据えるかのよう。
「まぁ、蕃神は措くとしても。現状の大問題は敵の大将の正体不明ぶりだな。
勿論調べはした。調べはしたがこちらも何も解らん。困った事だ」
「何でもかんでも無い、解らないって。どう考えてもおかしいじゃないですか」
「真面目にやったさ。だが、こちらも尾ひれのついた噂以上の手掛かりが何もない。
これ程の人物ならばどこぞに記録の一つもありそうなものだがね。蕃神同様さ。
教区登録、西国の書庫をひっくり返して尚尻尾が掴めん」
まるで悪霊か亡霊のような男だ、とインティス卿は溜息をついた。
東国戦士たちからの扱いも同じで、殆ど戦場の死神か何かの扱いだという。
出会ったら死ぬ男と、何者かが執拗に隠匿しようとする邪教の蕃神。
これが怪奇譚であれば面白かろうが、現実に対峙するとなれば話は変わる。
「……本当に勝てる相手なのですか?」
「勝つさ。勝つとも。何時もの事だ」
インティス卿は、何でもない事のように気安く答えて話を結んだ。
会談も終わり、老騎士と手を振り別れ、トゥルシィは宿舎への帰路に就く。
短い道程の間でさえ、東の都には得体の知れぬ輩や貧民が往来している。
かと思えば、こそこそと物陰を仮の宿とする難民らしき姿も見えた。
時刻は既に夕暮れ。もうすぐ夜空には三つ子の月が昇る。
夕焼けの金色はすぐ夜へと変わり、これら人の世の悲惨も覆い隠す事だろう。
一方で西国の坊主共は雪崩れ込んだ避難民への炊き出しで大慌てだ。
けれども通りと、トゥルシィが戻る騎士達の居留地はきっかり分れている。
こちらとあちらが見えない壁で隔たれているかのようだ。
「……誰だろう。あんな所でコソコソと」
と、一つの物影がこそこそとその境を越えて入り込むのをトゥルシィは発見した。
物売りか、乞食か、それともコソ泥や、冒険者か何かだろうか。
騎士達と比べれば背丈が低く体格の悪い、フードを被っている。
身なりからして貧民だろう。他所者が騎士の宿舎に入り込むのは不味い。
「おーい、貴方!それ以上入っちゃ……炊き出しなら向こうに」
「うぉわっ!?み、みみみ見つかった!?こんなアッサリ!?」
慌てた声を上げた姿は、浅黒い肌に赤い髪を房にまとめた少年だった。
年はトゥルシィよりは四つか五つは上だろうが、まだ十代半ばほど。
その声に西国騎士の面々や司教様も集まって来る。
衆人環視の中、身をすくませて立ち尽くすフードの少年。
その名前はウォル=ピットベッカーと言った。
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