第27話 夢に息吹きを、心に愛を


 

 他愛のない夢を見た。もう色褪せた夢だった。

 狭い自分の部屋は、細部を思い出せない程に彼方へ去った。

 遠い夢をウォル=ピットベッカーは見ていた。


 勇士は血みどろ。ちっぽけな勝利は苦く。汚れた泥は温(ぬる)い。

 決意は脆く。矮小な心は弱く。人は軽々と死ぬ。それが当然と言わんばかりに。

 華やぐ戦など冒険者の領分ではなく、ウォルは騎士でも戦士でも無い。


 けれども。

 過去は追いすがり彼を逃がさない。何時までも、何処までも。影のように。

 一枚布のびろうどで設(しつら)えた天井のように。


 闇の合間を縫い、稲妻のように過ぎし日の記憶が浮かび閃き、また消える。

 泡のように、絵画の群のように。忘れかけた過去の夢想が追いすがって来る。

 おとぎ話めいた記憶だ。三つ子月がぽっかりと冴える星月夜、影の踊る一夜。

 無限に回る生命力と糸杉の彼方を掴もうとウォルはその中で短い手を伸ばした。

 欲しかったのは月か、星か、それとも夜空と命の全てだろうか。

 ウォルの腕は短すぎて、決して決して天にも月にも届かない。


 児戯めいた愚かな夢だ。叶えようにも何もかもが足りない。

 故に前途は遥かに長い。見果てぬ理想はこれから無数の亡骸で築かれる。

 ウォルは、自分の背に昨晩に死んだ男とその子供が縋り付く姿を視た。

 でも歩ける。まだ歩ける。ウォルの足は泥を踏みながら動き続ける。

 足元を見下ろせば、まだ新しい死体が現れては踏まれてぐにゃりと歪む。

 誰とも知れぬ奴らが時々立ち上がってはウォルの後ろに新たに続く。


 笛吹のパレードか。葬列の行進か。誰しもが加われるのに、誰一人逃げられない。

 息を喘がせ、空を見上げ、伸ばした腕はやはり、余りに余りにもまだ短すぎた。

 屍を山と積み上げねばならない。何時か、天に月にこの腕が届くその日まで。

 強者は骸を引き連れ、死体の塔を築いて自らを鎧(よろ)う。

 全てはいつか誰かとの遠い約束の為に。


 ──これが、僕の望み?

 少年は喘ぎ喘ぎ黒い空に問う。けれど、答える者はない。


 いや、一人いた。地に這い見上げると、ただ一人があった。

 黒服の男が屍山血河(しざんけつが)を積み上げた頂に座っている。

 彼は見上げ、苦難を嘆く赤毛のウォルを見下ろして答えた。


 ──お前が始めた事だろう。さぁ、物語を踏みつけて歩め、と。


「うわぁぁぁぁッ!?」


 跳ね起きる。小窓からは沈みかけた月明かりが差し込んでいた。

 這う這うの体でベッドから抜け出し、震える手を握り合わせる。

 背中、腹、全身の着衣を検めるとぐっしょりと汗で濡れていた。

 しばしの荒い呼吸。それから顔を拭う。


「ゆ、夢。そ、そっか。夢だった──」


 悪夢は覚めた。現実は続く。

 夜明け前の部屋は暗い。おぼろげながら先日の記憶が蘇って来た。

 あれから──死にかけて集落に帰りつき、力尽きた筈。

 見知らぬ天井だ。着の身着のまま集落の空き部屋に投げ込まれたか。


 体中がべたべたする。酷く不愉快だ。今すぐ逃げたい。しかし、何処へ?

 夢なら覚めるとしても、現(うつつ)から逃げ出す事などできない。

 ならば、これからもあの夜を歩き続けなければならないのか。


 今は運良く成功した。だが、綱渡りが失敗すれば地面に向けて真っ逆さま。

 墜落した先が地面なら全身の骨がばらばらに砕けて死ぬだろう。

 死ねば終わり。それっきり。人生は一度で二度目は無い。

 その現実が怖くて堪らなかった。余りにも恐ろしかった。


 状況に流され、徒(いたずら)に右往左往し続けた挙句この有様か。

 口に掌を当てて、呼吸と吐き気を抑え込もうとする。

 黒い夢よ、すぐにも終われと願っても夜明けは遠く未だ訪れない。


 それでも。自分で始めた物語だ。己の手で終わらせる事は出来る。

 立てかけられた剣を不意に見て、ウォルは鞘から刃を抜くと口に運んだ。

 現世から逃げ出すと言う願いだけは、ズルでもやるように簡単に叶う。


 鋼の輝きは青白く、その味は冷たい。逆手に握りしめると血がにじむ。

 そうだ。死は全てを解決する。人間が存在しなければ問題もまた存在しない。

 血泥の道も、嗤う男と死体の山も、殺さなければならない人々も消えてなくなる。

 手の震えが止まる。ウォル=ピットベッカーは安堵すら覚えていた。


 今や、全てがはっきり見える。拍動、筋肉の痛み、呼気のうるささも。

 ──全部ケリがつく。これで。何もかも。全てまとめて一巻の終わり。

 万事めでたし。ついに筆を置いて、それでは皆様さようならだ。では──


「ウォル……?」


 死を遮る細い声があった。不安げな色だった。

 ウォル=ピットベッカーの物語はまだ終われないらしい。

 戸口から覗き込むのはツクヤだった。ウォルはその顔を見た。

 口から刃を離してぎこちなく姿勢を正し、ゆっくり向き直る。


「ウォルっ!」

「お、おはよう。……まだ夜明け前だよ」


 一番暗い夜明け前で、ツクヤは今にも泣きだしそうだった。

 近づき、まるで臭いを嗅ぐように少年の首筋で鼻を鳴らす。

 それから一瞬だけ顔をしかめ、すぐに体を引き剥す。

 引きつった薄笑いを浮かべるウォルに、ツクヤが向き直った。


「ウォル。黒いやつの嫌な匂いがするよ。あいつの服みたいな匂いがする」

「ええっと。その、さっきのは──練習!そう、剣の訓練だよ!

 ロボのオッサンが朝晩千回づつ素振りしろって煩くてさ。サボると殴られる」

「ウォルっ。……ううん、えっと。違うの。そうじゃなくて」

「大丈夫。僕はもう大丈夫だから。安心して」


 下手糞な嘘を聞き終わった頃、ツクヤの顔色が変わっていた。

 目を見開き、唇は牙を剥いてつり上がり、狐の耳はぴんと立ち上がっている。

 その場でぐるぐると回り出す事しばし。考えがまとまったのか動きを止める。

 かと思うと、獲物へ跳ねる狐のように一足で鼻先まで距離を詰めた。


「こほん。ウォル」

「……?」

「あのね!」

「う、うん。何かな。何だろ、なに訴えたいのかな?」


 意を決したようなツクヤは、やはり言葉足らずだった。

 戸惑うウォルを置き去りに、彼女は何やらジェスチャーを始める。

 狐耳が忙しく右往左往する。言語化が思考に追い付いていないらしい。

 猫が躍っているような、実に奇妙な動きだった。

 それも終わり、ウォルを指さす。


「ウォル、あの指輪まだあるよね」

「……?」

「ほら、今も右のポッケに入ってるよ」


 ポケットの中で、カサカサとしたものが指に触れる。

 何時か贈られたきりの、枯れたシロツメクサの指輪だった。

 目を白黒させるウォルの掌を、ツクヤの両手がそっと包む。

 すると、一瞬焼き鏝でも押されたような途轍もない熱が走り、

 萎れた花は不可思議な材質のシンプルな指輪に変じていた。


 不思議な事に、その指輪は不規則な白黒の模様が常に流れ決して交わらない。

 継ぎ目も無ければ技巧を凝らした形跡も無く、つるりと滑らかだ。

 温かい雨粒のように、狐耳の娘はウォルの掌に摘まみ上げた指輪を乗せた。


「これは……?」

「すごいの!わたしの!」

「あ、うん……そうかもしれないけど。でも、そうじゃなくて、その」

「あげちゃダメ、だった?……あ゛、ッ。そうだった!ダメだった!?

 大切な約束破っちゃった!?わたしたちは約束を破っちゃいけないのに!?」

「だ、大丈夫。うん、きっと三回までなら多分」

「今は二回目?大丈夫、大丈夫?」

「そうかもしれない。……うん、約束する」


 ウォルはそう返事を返すだけで精一杯だった。

 慌てふためいていたツクヤは動きを止め、嬉しそうに指を差し出す。

 幼子(おさなご)めいた誓いを二人して交わすと再び手を離した。


「ウォル、もう大丈夫?へーき?」

「う、うん。大丈夫、だと思う」


 痩せ我慢の笑みを無理矢理に作る一方、イファに相談しようと考える。

 嬉しそうなツクヤはさっきの指輪をぐいと押し付けてきた。


「ね、それでね。ポッケの指輪は左手の薬指に、ね」

「こう?」


 促されるまま指輪をはめ、左手に視線を落とす。

 その途端、指から腕へ、腕から心臓へと熱が一直線に通り抜けた。

 ──昔語りに曰く。左手の薬指は心臓へと真っ直ぐ繋がっていると言う。

 ぼやけていた思考、胡乱な意識が、曇天が晴れるように急に定まる。

 不可思議だった。困惑するウォルの左手をツクヤが握り込む。


「ね、ね。どう?」

「凄い。けどさ。理由とか聞かない方がいいかな」

「……」

「ええっと。ツクヤさん?」


 黙したままツクヤはウォルの顔を覗き込む。

 かと思うと舞うように身をひるがえし、再び距離を離す。

 くるくる踊り、要領を得ない、独白めいたツクヤの語りが挟まった。


 曰く──それは自分の守りで。黒くて嫌なやつからの守りで。

 あいつは嫌な奴だから気を付けた方がいいよ、と助言とも懇願ともつかぬ声音。

 一人芝居めいた時間は続き、ウォルは意図を読み取ろうとして読み取れない。


 ──あいつって誰、とウォルが尋ねようとした時だ。

 ぴたりと動きを止めたツクヤが、今度はウォル目掛けて飛び込んで来た。

 ベッドに押し倒され、尻もちをつく。かすかな甘い匂いが鼻をくすぐる。

 嫁入り前がはしたない!などと場違いな感想が少年の脳裏をよぎった時だ。


「ッ!?熱ッ!?」


 今度は首筋に焼き印を押されたような痛みが走った。

 ツクヤが口を離した場所に触れると、火傷のようにでこぼこしている。

 まるで烙印でも押されたかのように奇妙なアザだった。


「わたしのものとして証をきざみましょう。とおいとおい約束のために」

「な、何。何だこれ!?ツクヤ、今僕に何を──」

「ひみつッ!教えてあげない!……ねぇッ、ウォルっ」

「うッ──ヒッ、ひぃっ!?な、何だよォ!もしかして、お前まで僕を……」

「違うよ。うぉるっ、私を見て。怖い事なんて何も無いよ」


 恐る恐るウォルが目を開くとそこにあるのは精一杯の笑顔

 翡玉色した瞳の、寝覚めの月が怖がりの少年を覗き込んでいた。


 不安定に渦巻く心は烙印の痛みと手の温みで、一つの形象に定まっていく。

 揺らぐ万象が、一つの名前で娘のかたちを得る。彼女もまたウォルの名を呼ぶ。

 ただ彼自身を知っている娘としてその名を呼ぶ。


「あのね、あのね。ウォル」


 言葉を区切り、ツクヤは再び踊り出す。

 ぴったりの言葉を汲み出す為の、奇妙で滑稽な一人きりのダンスも終わりだ。

 うねる流れめいて不揃いで整わないステップの足を軽やかに止める。

 そうして。一所に踊りませんかと誘うようにウォルへ手を差し出した。


「生きていいんだよ?」

「えっ」

「他の事なんてぜんぶ関係ない。ウォルが生きてると私が嬉しい」

「なんで。どうして。僕なんか……」

「うぉるっ!」


 わたしが!とツクヤは言った。


「わたしは許す。私が許す。この天地の内の、誰が何を言おうと構わない。

 私が貴方の生を保証する。その生が如何なるものであろうとも。

 その歳月が如何に苦しかろうとも。白い手が貴方の腕を執りましょう」


 息吹を吹き込むように。夜露が畑を潤すように。

 何も知らず何も持たぬまま地へ投げ出された少年の手を握りしめる。

 奇妙な指輪は、不思議が流れ込んで来るかのように熱い。


「僕は──」


 物言いに釣り込まれ。今、嬉しいんだろうか、とウォルは己に問うた。

 生に怯え。死を恐れ。日々現世を逃げ回り生き延びるばかりではなく。

 この一瞬。その一時が。空浮かぶ月を見上げた時のように美しいだろうかと。

 僅かの時。一度きりで泡と消える須臾(しゅゆ)にさえ歓喜は宿るのかと。


 ──そうだ。あの夜は嬉しかったんだ。

 とウォルは思い出した。


 夢が果て。黒き影と焼けた野を行くとしても。逃げ場など無くとも。

 昔日の記憶さえ嘘であるならば、全ての言葉は灰めいて消え果てるだろう。

 星月夜の野に。つまらぬ世を照らす月光に。全て美しいものは完璧に宿っていた。

 見上げた三つ子月が、あの夜に、赤毛の少年の瞳を太陽より眩しく焼いたのだ。


 実に。意味とは。言葉とは。生きとし生きるものの息吹だった。

 所詮、夜明け前の月影はすぐにも金色の暁へと変わるに違いあるまい。

 それでも尚。手を伸ばし見上げたその姿ばかりは鮮烈に瞳に焼き付いている。

 満ちていく朝日では、ツクヤはただの狐耳の娘のようにも見え、

 少女は土塊のようなウォルへいのちの息吹を吹き込んでいた。


「ごめん。ありがと。ありっ、あ、有難う……うん、もう大丈夫」


 いつも通り夜は明けるだろう。夜明け前もじき終わるだろう。

 愛しい刹那を惜しみ、ウォルは何でもない感謝をツクヤに送った。

 布を後ろに残すようにツクヤは立ち上がり、向き直り。

 狐耳の娘はもう一度少年に近づいて。飛びついて。しっかり抱き着いた。


 横顔の向こう。小さな窓から鋭い朝焼けが差し込むのが見える。

 魔法の夜の、不思議なお話のおしまいが足早にやってきたらしい。

 その訪れ同様に、朝日に照らされたツクヤはぱっと少年から離れた。


「ウォルっ、またね。わたし、待ってるから!」


 ウォルはツクヤの背を見送る。

 死にたいと思っていた。けれどまだ生きていたくなった。

 部屋の片隅のかごに入れられた固いパンに腹の虫が鳴った。

 思い起こせば戦の夜から何も食べていない。高地の朝は初夏なお寒い。

 だから、浅ましくも今日を生きる為に糧に食らい付く。


 パンは固く、ひどく酸っぱく、不味い。だが、体は滋養を求めて食らい続ける。

 悪夢めいた経験をして、今すぐ自死すべきかもしれないが浅ましくも食っている。

 死んでしまった人々を悼みながらそれでも今日の糧を食う。

 ウォルにとって、新しい夜明けが始まったらしい。


 ──だが、状況は静けさを許してくれないようだ。


「いざ早朝ッ!!ジギト様の登場だオラァ!」

「ブフゥッ!?げほっ、ごほっ……」


 そんな叫びと共に、両腕で食料を抱えたジギトが闖入した。


 

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