第15話 黒い剣士


 ごう、と夜風に人影が揺れる。

 星々を背にマストを蹴り、加速。黒衣が翼のように膨らむ。

 蒼い世界にインクで無造作な線を引くように影は龍めがけ跳躍。

 ロボ=ヴォーダンセンであった。


 直後に抜刀。鞘より抜かれし刃ぞ紛れ無し。

 手練れの早業は鋭く踊り、すらり見事に断ち切った。

 言得る剣。翻めく剣。切れ味鋭き一の太刀が怪異の肚を裂き開く。

 黒衣の前に現れたのは腰を抜かしたウォルと睨み上げるツクヤだ。


 直後、ロボは有無を言わさず娘を捕え、ウォルをついでと確保。

 木の枝を跳ね渡る猫のようにマストロープに飛び移り、再度跳躍。

 勢いを制御し見事に着地。続いて解放された二人が甲板上を転がる。

 少年は体を起こす。すると片手に剣を垂らした黒衣が仁王立ちに佇んでいた。


 凪の海には月背負う巨竜。船に挨拶めいて帽子のつばを持つ黒衣。

 相対する二者は、現実から遊離した一夜の夢めいて脈絡のない絵図であった。

 人間ふぜいが剣一振りを携えて、龍を討つなど愚かな子供の与太話。

 いかにロボと言えど確実な死は免れ得まい──そうウォルが確信した直後。


「下がれ。俺が出る」


 果たして。現(うつつ)は今より裏返る。

 黒服は滑るように進む。龍が体表から無数の触手を生やす。

 直後、ロボめがけて触手は殺到。刹那に黒衣の機動が変化、急加速。

 水蛇めいた群を紙一重に横っ飛び。追従する触手を体さばきで回避し、切り払う。

 取り巻く触手の群に次々剣の線が走る。全て寸断!まとめての無力化!

 そのまま男は濁流めいた攻勢の隙間へ突撃を実現してみせた。


 緩から急へ。急から緩へ。その動きは如意自在にして融通無碍。

 狭い甲板上を広野のように。黒い剣士がインクの線めいて走る、奔る、駆ける。

 海龍の巨大鰭が叩き潰しにかかる。ロボは側転で回避、続いて着地。

 らせん機動の残滓にマントが翻り、剣を構え直して黒い剣士は笑みを作った。


「そうかい。お前さんも手加減かい」

「おっさん、何か知ってんのか!」

「……知らん!失言だ!だがな、今ので解った。コイツは明らかに遠慮している!」

「嘘ついたろ今ァ!?意味わかんないよ!説明してよ!」

「じゃかしいわッ!んな余裕無ぇ!」

「断言しやがった!?」

「だがチェス盤返しが無いならやれる!ウォル坊!」

「ハイィ!?何!今度は何!?」

「そこでじっとしてろ──おひい様任せたぞ!」

「はィえっ!?」


 黒衣の体が前へ傾き、次の瞬間爆発的に加速した。

 跳ねまわる鼠を見つけた猫のように蒼い龍がそれを眺めている。

 何故かおっかなびっくりの振り下ろしを黒衣が回避し、ひれの上に飛び乗る。

 群れ来る触手を切り拓きながら龍の腕をロボは駆け上り──その時。


 ぎょろり。それまで虚ろであった海龍の眼が一斉にロボへ向いた。

 構わず黒い剣士は龍の首目掛け走り続ける。肘から上腕部、更に肩。

 進むを幸い、尽くを千々切り刻む剣の颶風(ぐふう)が駆け上る。

 と、剣士の態勢が唐突に崩れた。海より出でた物が再び海へと戻る。

 海水で全身を練り上げた巨龍がその形象を維持する事を捨てたのだ。


 巨体がそのまま大瀑布と化して龍のかたちが崩れていく。

 未だ硬度を残した部分を思い切り蹴って黒衣は跳躍。三角帆の骨に着地。

 斜めに走る木組みの上を滑り、跳ねて回転、勢いを殺し甲板に再び落着。

 目深な黒帽子越しに、体を屈めたロボと龍の視線が一直線に交差した。


 その刹那。風もないのに剣士の黒マントが大きく膨らんだ。

 ロボが四白眼を目一杯に見開く。ウォルには、死にかけたように見える龍が、

 その筈の龍が嗜虐的な笑みでその複眼を一杯にしているように見えた。

 直後、柱のような鉄砲水。木材が粉砕される音。月光虹が空に浮かぶ。


「何が起こったッ……?ツクヤ、オッサン無事か!?」


 龍は出現同様に突然の消失。理解を越えた何かが起こった事だけは確かである。

 見れば、ブーツの踵をめり込ませた黒衣が逆舷まで押し込まれている。

 血の混じった唾を吐き捨てつつ、ロボはウォルに応じた。


「実に無事に生きてるよ。今夜の俺はラッキーマンだな」

「う゛ー」


 友達とやらを追い返されて唸り声をあげるツクヤを無視し、ロボは続ける。

 残心で海水を払い、マントで刃を拭って納刀。大きく息を吐いて安堵の表情だ。


「実際、運がよかった。何とか見逃してもらえたらしい」

「さっきのアレ。一体何だったんですか?」

「一切他言無用だ。全て忘れろ。見張りは俺が引き継ぐから、もう休め」

「でも、何の説明も無いじゃないか」

「船長には言っとく。いいな、とっとと忘れるんだ」

「死にかけたんだぞ、教えてくれてもいいだろ!」

「……海の神様って奴だよ。船がぽこじゃか沈む理由もわかったろ?」


 そうして話し込んでいると騒ぎを聞きつけ海賊どもが駆けあがってくる。

 その中にやつれたイファの姿を認め、ウォルは顔をしかめた。

 ロボは不機嫌の極みと言った様子の狐耳女にウインクしてみせる。

 退散する少年少女と入れ替わりにイファが這う這うの体でやって来た。


「……なにこれ。この、何。どうしてこんなに大惨事?」

「よう、イファちゃん。ご覧の有様だよ。おっと!」

「避けるな容疑者。当たらないでしょうが」

「俺に八つ当たりしてもしょうがあんめぇよ。何があったかはだな──」


 言葉を区切るとロボは事件の顛末を狐の耳へこそこそ囁きかける。

 眉をひそめて周囲を伺い、イファは呟き呟き思考を巡らせ始めた。

 かねてからの懸念の一つに思い当たる。原因は赤毛の小僧との関わりだろう。

 本来であれば、あの娘は人としての成長は想定されていなかったのだが──


「知性が急速に進んだ?いや、まさか……ええい、現実から目を逸らすな私」

「他者と世界の認識に自我の確立ってとこか。予想より早すぎるな」

「当たり前でしょ。いや、そうじゃなくて……ああもう、大声で叫びたい。

 計画が、予定が……クソゥ、絶対ロクでもない事になる奴じゃないの」

「その場で小僧を殺しておかなかったのが悔やまれるな。ま、後の祭りよ」


 しれっと黒服は言う。実際、どちらでも良かったのだろう。

 勿論、成り行きまかせで事態を放置し続けたイファにも責任の一端はある。

 船酔いと寝不足で働かない頭を必死で動かしながら狐耳は事態をそう把握した。


「この分じゃ私達で制御できる範囲をすぐ超える」

「お前さん、あの娘が阿呆のままじゃやりきれんのじゃないか?」

「その方がマシ。悲しい思いなんてしたくないもの」

「あ、そうだ。今さっき別の神格と遭遇したぞ。多分『蒼の海』だ」

「なんですってェ!?あ゛ぅ……ホホホ、なんでもございませんコトよ海賊さん方」

「事が露見するまでにきっちり詰めておかんとな、さて」

「……まぁ、それはそうだけどね。ああもう、長老が何言い出すやら」


 話を打ち切り、黒服は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎの甲板を眺める。

 これから海賊共への説明だ。その後は恐らく停泊を止めての強行軍になろう。


「オジサンは一仕事だ。お嬢、じっくり考えといてくれ」


 ともあれ、忙しい夜になりそうだった。


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