第16話 旅の終わり



 目覚めると見慣れた自分の部屋だった。ありえない。

 嫌にはっきりとした意識が夢だ、と他人事めいて告げていた。

 意識の底に沈みこんだまま、ウォルは天井を見上げる。


 ──多分、一月そこらで色々な事があり過ぎたせいだろう。

 思い起こせば黒服に追っ手に海賊、挙句の果てには神と称する大怪獣だ。

 指折り数えてもまるで現実味が無い。よく無事に生き延びられたものだ。

 冷たい思考が現状を数え上げる最中、何かがベッドの淵に顔を出した。


 大型犬ほどもある白狐だった。

 きらきら光る緑色の目でこちらを見ている。心当たりは無い。

 無いのであるが、人懐っこい犬猫めいてウォルの様子を伺っている。

 撫でてやると心地よさげに目を細め──服の裾をくわえて引っ張ってくる。

 つられるまま立ち上がる。少し離れて狐は振り向く。ついてこいという事らしい。


 扉をくぐったかと思えば、ウォルの脚はひとりでに動き出した。

 獣を追いかけ草原を駆け、立ち止まると周囲に無数の絵が流れていく。

 見覚えのない異邦の景色の切り抜きだ。幾枚かにはウォルの姿もある。

 戦列に立っている自分が居る。見知らぬ誰かと喜ぶ姿もある。

 勝利と栄光。肩を並べる戦友たち。守るべきものと、積み上げた勝利とその結果。

 不毛な労役にはついぞない。それらは黄金色に輝く肖像たち。


 その一枚に目が留まる。

 見知らぬ負け戦で地面に倒れ込んだまま不貞腐れているウォルと、

 それから少年を引き起こす黒服のロボ=ヴォーダンセンという構図だ。

 視点転換。絵の中に移って、ウォルの正面には黒服の髭面があった。

 しかし、その目は目深にかぶった黒帽子に遮られて見えなかった。


 周囲の景色はあいまいな夕暮れ頃。

 見渡すと、あちらこちらから薄く白い煙が立ち上っている。

 馬蹄、あるいは鉄靴の為か。周囲は草一本無い全くの焼け野原だ。

 ここは何処だとロボに向き直ると、男は彼方を指さした。


 釣り込まれてウォルは顔を向ける。

 黒服が示すのは地平線の向こう、影わだかまる黄昏の淵だった。

 唐突に脚が再び動き出す。今度の友連れは黒衣の男だ。

 黄金色の時刻へ背を向けて、押し出されるように夜へ夜へと進んでいく。

 どういう事だと抗議するも返事は無い。アレが僕の先行きかと問うも答えない。


 ただ摂理のように赤黒い黄昏へ、ぬばだまの夜へと黒服はウォルを連れて行く。

 やがて、まるで腐った血の赤と、死体を焼くようなオレンジ色の炎の大地だ。

 散らばったしゃれこうべの、その空っぽの眼窩の群が少年を見上げる。

 うず高く積まれた屍が月に届けとばかり高く聳(そび)えている。


 ふと見ると、ウォルの掌は赤黒く染まっていた。

 足も、服も、靴も何もかも。血を血で洗い、末はただ夜のように黒くなる。

 先導する黒服は粛々と止まらない。止めてくれと幾らウォルが叫ぼうともだ。

 どくろを突如と白い脚が踏み砕いた。先に現れた白い狐だった。


 穢(よご)れず、白いままの狐が血と屍の道に立ちふさがり、男と向かい合う。

 その様子は尻尾を膨らませて牙を剥き、今にも飛び掛からんばかり。

 黒衣が歩みを止めて顎髭をさすって思案を始めた。

 男が動くか早いか、狐がそいつの喉笛に食って掛かり──再び目が覚めた。


「……」


 見上げた木漏れ日は眩しく、初夏の日差しは暑いほどだ。

 起き上がればガタゴトと揺れる馬車の荷台。全身が酷く痛む。

 頭が重い──夢か、とウォルはかぶりを振って寝覚めの悪さを追い払う。

 藁束すら積んでいない板敷きの荷台は石やへこみを通るたび酷く揺れる。

 名も知れぬ鳥が甲高く鳴いて空を飛んでいた。


 今は険しい山また山を貫く細くうねる道を踏破したその続きだった。

 凡そ人跡未踏としか言いようもない地の果ての地の光景を進んでいる

 どうやら疲れ果て眠りこけていたらしい。しかして未だ悪路は続く。


 船を降りるや昼夜問わずの強行軍だったのだから無理もない。

 東の蛮地はまた魔物たちの跋扈する人外魔境と人は言う。

 一日でも早く拠点に辿り着く必要があるのは理解できるが、

 補給すら切り詰めての旅程だ。もはや黒服すら口数が少ない。


 やがて上り坂が尾根に差し掛かったらしく、荷台が水平に戻った。

 すっ、と開けた彼方には周囲全てを天険に塞がれながらも、

 谷川が通り、手によって拓かれたらしい耕地がはや広がっている。

 山羊だの羊だの農夫だのがぱらぱらと、荒れ野に咲く野の花のよう。

 農作業の仮小屋らしきもぽつんぽつんとあちこちにある。


 ただ、そこへ繋がるのはウォルらの進むこの道ただ一つであるらしく、

 他の経路は周り一面を囲んだ峻険と氷河が閉ざしていた。

 正しく天然の要害といった風景がウォルの寝ぼけ眼が次々と移ろう。


 それは山また山。その麓には延々と続くモミノキや常緑樹の木立。

 青々とした裾から視線を上げれば、永久雪の天辺と抜けるような青空。

 景観は都の風景とは余りにも隔絶しており、文明果てる地の感だ。

 だが、ウォルにとってはどこか懐かしくもある光景であった。


 少年は遠き故郷の、それも子供時代の思い出を知らず想起する。

 狐耳の里とやらが同じように古びて朽ちた廃墟ばかりの為だろうか。

 輝かしい記憶が理想化されて目の前に現れたようでさえある。


 苦労して帰りついた旅人はこんな気持ちなのかしらん、とウォルは思う。

 都を発ってからというもの、腰の落ち着く暇もなかったせいでもあろう。

 喩えるなら旅立ち、一つの冒険を終えた後の帰郷と言った所か。

 出迎えの声も無く、遠い家路を急ぐような。


 とは言え、周囲の光景は当然ながら記憶の実像とはかけはなれている。

 第一、放浪者の私生児という生まれとしては帰るべき故郷も良く解らぬ。

 立場に甘んじては、一生ただの下働き同然で終わった事は間違いない。

 だからこそウォルは故郷を飛び出したのであるが──それはともかく。


 人の事情などに自然や大地は頓着(とんちゃく)しないことだけは確かだ。

 現実はどこまでも過酷であり、かつ世界は広く美しい。

 冴え冴えとした自然美の一大絵画がまさにその証明であると言えた。

 思わず息を呑んでいると、気付いた黒服が振り向いた。


「ウォル坊。もうすぐ目的地だ」


 その言葉が少年を夢想から現実へと引き戻す。

 ロボ=ヴォーダンセンの示す方を見れば、渓谷の底に大きな集落があった。

 口ぶりを信じるなら、あれが件の狐耳らの里であるに違いあるまい。



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