第13話 夜に偲ぶ
ざざーんと波の音が大きな夜だった。
空にはぽっかりと無関心な月が浮かんでいる。
ウォルが雑用諸々を申し付けられるのはもう何時もの事である。
が、歩哨は重要なお仕事だ。客人に丸投げする訳もいかないのであろう。
ぶるっ、と見張りを任された海賊が寒くもないのに震えた。
「ああ、やだやだ。こんな夜に海なんて縁起でも無い」
「明るくていいじゃないですか。遠くまでよく見える」
「バッカお前……ああいや、陸の人間だったっけそういや。
海の男に代々伝わる伝説、禁忌の言い伝えがあるんだよ」
曰く、『月の夜に船を出してはいけない。海の神様が現れるから』。
海賊らしからぬ、ロマンティックとさえ思える物言いである。
なるほど、と生返事を返しつつウォルは寝ぼけ眼で穏やかな海面を眺めた。
波の音も穏やかで、魚さえも眠りについていそうな静けさである。
「夜の海ですねぇ。……眠い」
「間が持たんから面白い話しろよ、面白い話。オチがある奴」
「……身の上話とか?」
「娘さん方に手出してブン殴られたとかそういう自慢な」
「直結ですね。僕ぁ、死にたくないのでまだです……っていうか。
暴力の方の狐耳、皆さんから妙に人気ですけど理由でもあるんですか?」
「あの狐耳の姉さんは実に腕のいい術使いでな。
それだけなら珍しいって話で済むんだが、ホレ。銀貨だよ銀貨。
銀は元々水の防腐に使うんだがな。まじないでその効果が上がるんだ」
「成程。確かに海の上だと人気も出ますわ」
「星で方角も読めるだろ。地図も読めて書記も会計も出来るだろ。
有能な助っ人で、しかもあの顔立ち。ゲップが出る程大人気も当然だわな」
「すぐヒステリー起こす癖に仕事は出来るんですね、あの人。……ん?」
会話を中断しつつ、ウォルは海の彼方を凝視する。
月影に青白く、きらきらと煌めく水面上に何かが立っているのが見えた。
尻尾めいて幾筋も伸びた自分の影法師と遊び、戯れるようにくるくる、ゆらゆら。
思わず目を疑うが、何度まばたきしてもそれは夜の幻では無かった。
「え、アレ。嘘、嘘だろ……?」
「おい、どうしたガキ」
「見て。信じられない。海の上で誰かが踊ってる。アレも魔物?」
「馬鹿言え。幾らこんなベタ凪の浅瀬でも──あ……あ!?」
「え、ちょっと。何その顔。何が見えたの!?」
「ありゃお前の連れの狐耳じゃねーか!?おい何だ、海がいきなり膨れ上が──」
前触れも無く顕現したそれは、龍の形象を取った海だった。
尻もちをついて絶句するウォル。現れたその巨躯の威容たるや。
半身にも関わらず、マストの天辺を見下ろす程の体高があり、
衝角(ラム)よりも長く太い一本角が複眼を備えた頭部から伸びている。
ウォルには見上げた怪物の体内で元気に泳ぐ魚が見えた。
心臓に相当する位置には、明るくたゆたう三つ子月が透けて輝いている。
どう見ても尋常の生物ではない。一目で理解できる。
──何だコレ何だコレ何だコレ!?
理解も分類も一切不可能な、異常極まる存在としか表現しようがない。
海の神様、とさっき聞いたばかりの単語が大昔の出来事のように想起された。
その存在は非生物的な輝く複眼で甲板を見下ろしている。
自分達が未だ無事である事から考えて害意は無いのかもしれないが、
ただ目の前に在るだけで魂消る畏怖と鳥肌が立つほどの圧力を感じる。
ウォルと海賊は立ち尽くし、ただ茫然と見上げる事しか出来ない。
「りゅ、りゅ、龍……龍。龍!?どどどどどうすれば。海の上じゃ逃げ場が」
「……」
「あの、あの海賊さん?大丈夫ですか。よだれ垂れてますよ」
「神だ……俺、海に呼ばれたのか。あの言い伝えはこういう事だったのか。
海と神様と俺の関係は……こんな簡単な話だったのか。今、全てがよくわかる」
海賊の横顔はどこまでも穏やか、恐れも苦しみも無く、静かであった。
一方、ウォルの顔は水面に浮かぶ水死体のように蒼白であった。
「だ、駄目だ。意味解らないけど兎に角駄目な奴だ」
「君よ。解らないのかウォルよ。こんなにもハッキリしたのに」
「口調まで変わって……恐ろしい。何でこんな事に」
「主よ、今から御許へ参ります。海の民たる証をお納め下さい」
「おい馬鹿死ぬ気か!?」
「元の場所に還るだけだ。何も恐ろしい事は無い」
「待って止まって刺激しないで!畜生、すごい力だ!」
明らかに正気を失っている海賊に取りすがる。
不意に巨竜の顔が下を向く。その角が軟体生物めいてマストを撫でた。
顎が目前に近づき、淡く光る巨大な複眼が甲板上の二人を凝視する。
ヒュッ、とウォルの股間に本能的な寒気が走った。
目の前の怪物、或いは神様は凡そ地上のあらゆる動物の常識の埒外に在った。
その触れた跡には海水。見た目は角の生えたアオウミウシに似ていなくもない。
船縁に乗る『ひれ』は明らかに強度のある実体として振る舞っている。
まるで大海原と言うものがそのまま龍の姿を取ったかのようだ。
海賊共の木造船など戯れに真っ二つにするに違いない。
──去ってくれ去ってくれ今すぐどっか行ってくれ!
硬直して滝のような冷や汗をかきながら、ひたすらウォルは念じ続ける。
が、まるで子猫でも見下ろしているように龍の視線が離れない。
時間そのものが凪の海めいて鈍り──不意に、龍が頭を持ち上げる。
ウォルは彼方から、何やら聞き覚えのある声が近づいてくるのに気づいた。
「うぉーるー!!うぉーる!こっちこっち!ねぇ、わたしこっち!」
「……!!……!!?」
海の上に立っていた姿はツクヤであった。月明かりが照り返し、淡く輝く。
だが、ウォルには奇麗だのなんだのと呑気な感想を抱いている余裕は皆無である。
唐突に不思議な出来事が起こって嬉しいのは利や得のある場合のみだ。
第一どうして水の上に平然と立っているのか。奇跡かそれとも幻覚か何かか。
ともあれ。
理不尽かつ理解不能な状況にウォルの正気は限界に達しつつあった。
海賊同様に発狂してさっさと人身御供にでもなった方がよほど楽だろう。
だが、水面を走ってくる狐耳の娘の存在が理性の死を許してくれない。
ツクヤと来たら、何か楽し気にぶんぶんと手を振ってさえいる。
「うぉるー!すぐそっち行くねー!」
「ほら、お連れさんもああ言ってる。一緒に行こう」
「海の底に楽園なんてありません!何言ってんの!……あ゛ッ」
その言葉に巨龍が反応した。ウォルはまるで睨まれた鼠のようだ。
ツクヤは構わず突き進んで来る。龍を指差し、ウォルは両腕を交差させる。
狐耳の娘はまるで頓着しない。甲板ほどの距離を一息に駆ける。
そして勢いよく龍の背を走り昇ると跳躍。甲板上に見事に着地。
得意げにくるりと回って娘はウォルに振り向いた。
「こんばんは!」
「つ、つつつツクヤ!?ツクヤなんで!?」
「うぉるだいじょぶ?なでなでする?」
「ダイジョブ──その人?いや龍は何?もしかして知り合い?」
「ともだち!いじわるする子よりすごいでしょ!」
「う、うん。凄い。凄い──凄い?いや、何で、どうして」
もつれる口を何とか押さえつける。跳ねる毛糸玉のような混乱の中、
何とか事態を把握しようとウォルは苦闘。やっぱりまるで意味が解らない。
海賊などは遂に口から泡を吹いて気絶していた。船室からの助けも無い。
つまり、巨龍の機嫌を損ねず切り抜けねば突然死という状況だ。
──死ぬ。死んでしまう?このまま!?突然に理不尽に!?絶対嫌だ!
思い至るやウォルは引きつり笑いを作り、ツクヤへと話かけた。
少なくとも龍よりは意思疎通と相互理解の可能性があろう。
「ええと、そのツクヤさん?」
「なぁに?」
「僕、大きなお友達、紹介してほしいナー……ほ、ほら。友達の友達も友達!」
「いいよー!このこはねー、ずっとずっと前からわたしのともだち!」
「アッ、ハイ」
頭痛を覚える支離滅裂な答えであった。忍耐強く話しかけ続ける事しばし。
断片的かつ飛び回る話をどうにか繋ぎ合わせてまとめると、
『お月さまはずっと海と仲が良くて、今も友達』なのだそうだ。
実に意味不明である。巨龍が触手らしきをウォルに差し出してくる。
圧力に耐え切れず握手。夜の海のようにひんやりと冷たい手触りだ。
「でね、でね。今はあっちにおよいでるんだって!」
狐耳が指さした方向は南のどこかだった。
嗚呼、仲良き事は素晴らしき事かな──物事には限度がある!
何とか正気を保ちつつ、辛抱強くウォルはツクヤと対話を続ける。
諦めたら人生がここで終了である。他に選択肢が無い。
だが、その内容はウォルには殆ど戯言か何かにしか聞こえない。
もうすぐ役目が終るだの。海の上で遊んでもらえて楽しかっただの。
事態を理解していないのかもしれないし、ウォルの逃避であるかもしれない。
あるいはツクヤの妄想なのかもしれないが、その可能性は考えない事にした。
龍の触腕が耳打ちする子供のようにツクヤに近づく。
ふむふむ、と何やら大袈裟に頷きつつ触手と語り合う狐耳の娘。
いたずらっぽく含み笑いをすると、ツクヤがウォルの方を向く。
常軌を逸した状況でなければいっそ微笑ましくさえある所作だ。
「……ええーっと。何か?」
「ツクヤってお名前あげたのとっても驚いたけどうれしい。
だから、ウォルにおれいしたいって言ってる」
「えっ」
見上げると見下ろす海の複眼と目が合った。
その貌に溶ける月光の輝きからは凡そ感情らしきものは読み取れない。
汗が噴き出す。加え、頭上から体液めいて塩水の雫が垂れ落ちてくる。
四方八方からウォルを取り囲む触腕はまるで龍から伸びる視線のようだ。
「か、神様でいいのかな?貴方様は僕とお話してくれますか?」
大海原のように返事はない。その代わりに頭上で龍が大口を開く。
大顎が一息に迫り──あ、これ死んだ、と少年は他人事のように理解する。
一瞬で視界が暗転し、口の中一杯に塩辛い味が広がる。
ウォルが再び意識を取り戻すと、水底から見上げる月が見えた。
龍の顎は夜の海。すっくと立ち上がった海が、その龍であった。
Next
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます