第2話 未明の月
「だ、だ、誰だお前!?」
勿論、何の返事も無い。そしてウォル=ピットベッカーは我に返る。
「いや、待て待て……女の子ぉっ!?」
月光が角度を変える。その一瞬で奇妙な雰囲気が吹き飛んだ。
古ぼけたシーツを頭からすっぽり被っていたのは見知らぬ少女だった。
戸惑いを隠せないまま、釣り込まれるようにウォルは顔を向ける。
知らぬげの月影は狭苦しい部屋に注ぎ、その姿を改めて暴き出していた。
異国風の、冴えた青の薄絹を何枚も重ねた装束の狐耳の娘だ。
綴る糸が細すぎるのか継ぎ目も見えない服の仕立てと来たら。
古着が相場の場末ではまず見られない上等さだとウォルにも理解できる。
衣装とは着た人間の身分と立場を第一にあらわすものだ。
目の前の娘は貧民でも無ければ町民でも無く、まして貴族とも思えない。
誰でもない誰かとしか言いようがない存在であった。
「……」
彼女の呆けたような視線だけが中空を彷徨っている。
漂う埃の数を数えているのかもしれないと間抜けな感想を抱き、
少年は一瞬でその妄想を打ち消す。全く訳が解からない事だけは理解出来た。
言い換えれば只今現在彼の頭は酷く混乱していた。
──何だこの展開……!?
うすら寒くなる背筋を捻じ伏せ、昨日からの記憶を再度確認し始める。
常通りの肉体労働。居合わせた不幸な同類と愚痴を駄弁る。
仕事場とねぐらを往復し、疲労の余り倒れ伏してそれっきり、の筈。
思い返すに惨めな一日であり、この怪存在との接点など無い筈だ。
自分と同類の自称冒険者か哀れな労働者との関わりしか無かった筈だ。
怪人いや、これは怪少女か。僕は一体何を考えている。落ち着け、と深呼吸。
まさか空から降って来たで無し。何がどうしてこうなった。
考えれば考えるほど破綻するツジツマにウォルは混乱の一途をたどる。
サイコロを振った神様がデタラメに理不尽をやらかしでもしたのだろうか。
さておき。剣の柄を握ったままの様子に興味を引かれたか、少女が立ち上がる。
一転、娘はきょろきょろと落ち着きなく周囲を物珍し気に見回している。
そこらのがらくたに手を伸ばす姿は三歳児のように危なっかしい。
が、好奇心が勝っているらしい。がちゃんと音を立ててカップが落ちる
びくんと大きく震える。その様子は子犬のように落ち着きが無い。
──ええい、ままよ。この気まずさに耐えられない。
「き、君。お名前なんて言うの?ダメだろ、夜中に人んちに入っちゃ」
何とも間抜けな問いかけだった。
小心が過ぎるのではないか。もっとましな物言いもあったのではないか。
だが、高価そうな服に奇麗な肌だ。ひょっとすると何処ぞのお嬢様かもしれない。
得体が知れない以上は様子を探る他無い。気をもみながら返答を待つ。
「なまえ……?」
ダメだ。話が通じていない、とウォルは悟る。
考えろ考えろ、どうすればいい。状況はまるで意味不明だ。
何とか切り抜けるにはどうすればいいか。思考を目まぐるしく走らせる。
「そ、そうだよ。名前、名前だよね。僕はウォル=ピットベッカー」
「うぉる」
「そうそう。君の名前は?」
「うぉる?」
オウム返しであった。
「……それ僕の」
「なまえ?なにそれ。いまの?」
「うん。君にも同じようなの無いかなー……無い?」
しかし、目の前の少女は不思議げに小首を傾げるばかりだ。
関わり合いにならずに済めば可愛らしいの一言で済んだ話だろう。
だが、最早知らぬ存ぜぬで放り出す訳にも行くまい
損得勘定がそれを許しても少年の良心が許さない。
それにしても、名前が無いと言うのは不便だ。
ナゾノビショウジョなどと何時までも仮称している訳にもいくまい。
「まぁ、いっか。その内親御さんが飛んで来るだろうし……うーん」
二人並んで体を揺らす。片方は間違いなく何も考えて無いだろう。
窓の外を見上げると、白い月が今しも彼方に沈もうとしていた。
明けの明星も見える。──シンプルで、覚えやすく、呼びやすい。ヨシ。
「そうだ。君の事はこれからツクヤと呼ぶことにする」
「つくや……?」
「うん。あの月を見ていて思いついた。いい名前になると良いな」
「つくや、つくや……お月様、月の夜、ツクヤ──わたしのなまえ」
「──?」
何やら様子がおかしい。しまった、機嫌を損ねでもしたか。
だが、ウォルの危惧を裏切って何やらツクヤと名付けられた娘は
自分自身とそれから少年とを交互に、まるで切り分け区別するように、
一つを二つに割るかのように繰り返し指差し、名前を呟き続ける。
それから、呆けているような少女の瞳が急に明晰な光を灯した。
「人を指さしちゃいけませんですよ……?」
「わたし、ツクヤ!あなた、ウォル!おはよう、初めまして世界!」
「一体全体突然何言い出すのこの子は」
おかしな様子も束の間の事、一層騒がしく娘はそこらに興味を示し始める。
もう飽きるまで放っとこう、と再び窓辺からウォルは遠景を望み──
何やら二人連れの男女が暴漢たちに追われているのが目に映った。
穏やかではない。相手は何やら刃物も持ち出しているようである。
「こんな朝っぱらから人殺し……ヤクザか兵隊くずれか。おー怖」
身を屈めて様子を伺う。追う側は今のところ十人程度か。
黒っぽい格好をした奴を囲むと、叫び声をあげて斬りかかるのが見える。
すわ、人死にかと思わず青ざめるが、瞬きの暇も無い。
四方から斬りかかった連中が同時に返り討ちに吹き飛び、或いは地面に倒れる。
「な、何あれコワイ。訳が解からない」
多勢に無勢を物ともせず、倒した追っ手で地面を舗装する黒い人物は、
段々と、しかし確実にウォルの安宿に迫って来ているように見えた。
俄かには信じがたい現実を否定しようと少年は眼を白黒させる。
しかし、無情にもその二人連れは新手をなぎ倒しつつ尚も近づいてくる。
「何だアレ!?何でこっちに近づいて来る!?」
嫌な予感しかしない。しかし、原因が解らない。
もしかして関係者かと少女に向き直るが、相変わらずきょとんとしている。
「いたぞ!例の娘だ!すぐに確保しろ!」
すると、追っ手側と思しき男が眼下の通りから窓辺のツクヤを指さした。
慌てて娘の襟首を引っ掴んで引き寄せる。ダァン、と固い音が頭上で響く。
見上げれば弩の矢玉が天井に突き刺さっている。
「じょ、冗談だろ!?街中でなんてものを!」
元気良く暴力はびこる皇都と言えど、戦争用の武器の所有は禁止されている。
弩だの長弓だの、そこらのゴロツキが街中の喧嘩で用いる代物ではない。
──つまり、ただのサンピンではない?嫌な可能性に思い当たり、
恐怖が塊となって喉元からこみ上げてくるのをウォルは感じた。
そして、その思考が彼の動きを止めてしまっていた。
導くように袖を引いていたツクヤが不意に部屋の戸口の方に顔を向ける。
狐の耳が足音荒く駆けあがってくる不埒な客を捉えていたのだろう。
勢いよくドアが開く。やくざ者めいて強面の男が少年少女を見つける。
殴り倒して捕縛すべく、そいつが短棍棒(ブラックジャック)を振り上げ接近。
「捕まえた──ぐぇーーーッ!?」
弱弱しい子供と勝利を確信した醜い笑顔にツクヤの拳が突き刺さった。
回転しながら真横に吹き飛び、土壁にめりこんだきり動かなくなる。
「ね、外に行こうウォル。わたしがこの狭い部屋から出してあげる」
呆然と見上げる少年を見下ろし、月色の娘は笑顔いっぱいにそう言った。
Next.
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