第三幕 トプカプに立ちこめる暗雲
第19話 休息と暗雲
「クレスタⅨ――ですか」
エンツェンヴィル城のタイル張りの浴室、桶に入ったブラシでメルセデスの
「飛行艦の着艦できる施設がグロシュニィ山脈にあるということは、トプカプ州軍に黙って誰かが建設したものなのでしょうね……恐らくテオのお父様と近い、中央軍の誰かでしょうが」
例え相手が夫の父とは言え、トプカプで好き放題やられることに納得が行かないのか少々苛立ちの混じる妻の声。
テオドールもメルセデスの怒りには同感できた。自分の知らないうちにスラティで誰かが――それこそ余所者の中央軍の将官が勝手に山の中に秘密兵器工場でも作っていようものなら、それこそ怒る。それが例えば――絶対にあり得そうにも無いが――フランツ=シュリーフ少佐だとしても。
テオドールはメルセデスの蹄叉に挟まった泥を落とし、泥水を排水口へと流す。三つ編みを解いてふわふわと麦の穂のように広がった赤みがかった髪や馬体の毛から香る、湯浴み前のほんのりとした少しゴムのような汗と土の匂いが心地よい。
だがそれを楽しむような空気でもないのは確かだ。
メルセデスの湯浴み前の蹄叉洗いはニニエル高地から帰ってきた後、正式にテオドールの仕事となっていた。そこで二人はいつも一日を振り返る話をするが、今日はその内容が内容だけに空気も神妙になってしまう。
「いずれにせよリヒトの魔信を聞いたという証言だけでは動けない。探索隊を立てるにしてもグロシュニィ山脈は広いし、証拠や目星が必要だよ。ザイサー司令もそれを今探そうとしているんだろう」
「証拠や目星をつけるにしても、我々州軍が偶然知るくらいに隠し通したものを、中央軍が簡単にボロを出すとは思えないのですけどね――ザイサー司令は恐らく全軍で山狩りをしてでも、正体を確かめるつもりでしょうが」
「そこまでするのか?」
「ザイサー司令はあの『
確かにな。と最後の脚の蹄叉に詰まった泥をブラシで落とした後に、桶に入った綺麗な水をかける。冷たい水を蹄叉に浴びると、メルセデスはぷるりと震える。
ともかく中央軍に探りを入れてみるか、飛行艦を探知できる魔導師が率先して調べなければわからないか。あのグロシュニィ山脈での人海戦術での山狩りが上手く行くとは思えないテオドールはそう考えるのだった。
「まあ……それらはザイサー司令にお任せして……テオ」
メルセデスははにかんだ口調で、耳と尻尾を忙しなく動かしながら、言う。
「あの、イレーネが人馬と人が
「……はい」
テオドールは顔を赤くして、深く、こくりと頷いた。
何も咎められることもせず、ただ寝床を共にするだけでも、テオドールは胸の鼓動が止まらないままでいた。
翌日、トプカプ州軍司令部司令室にテオドールが一人入り、膨れた腹を抱えたザイサーの前でテオドールが口を開く。
「『クレスタⅨ』の件、リヒトから聞きました」
「そうか」とザイサーが短く答えると、テオドールを見据える。
「ベック参謀総長と私は古い友人だが、ミュッケ中将とジグムント=レンハルス少将の二人が何かを企んで、製造しているというのはもう参謀本部では公然の秘密だそうだ」
「……ミュッケ中将の関与は確実なのですね」
「ああ。そうらしい」
父上め、一体何をやっている。とテオドールはぎりりと奥歯を噛む。
軍人として実直すぎると思っていたが、自らの判断で大規模な独断専行に手を貸しているなどとなれば、褒められるものではない。しかもそれがトプカプ州軍との共食いを誘発した結果ともなれば。
「君のお父上とは何度か共に作戦に臨んだ事があるが……私にはやや視野狭窄な所があるようにも思えた。大局を見ているがそれ以外に目が行かない、軍事で内外関係を捉えている、典型的な本部の参謀気質だ。それになまじ実力が伴っているから、余計に他人にも、自分にも、説得力を与えてしまっている」
そこまで言うとザイサーは言葉を切り、テオドールを少し優しげな眼差しで見る。
「初めて見たとき、君はお父上とは全く違っていて安心したんだ。ミュッケ少佐」
「ええ。初めて自分の魔導師としての半端さを喜ぶことが出来ました」
テオドールは皮肉では無く、心底そう思って口にした。
もし父やエリスのように大きな
そうなればきっと自分は素晴らしい魔導師になれていたはずだが、同時に軍のバランスだけを考えるような軍人魔導師になっていたかもしれない。
メルセデスがきっと見向きもしないような、スマートで、冷徹で、狭い現実しか見えない軍人魔導師に。
半端な力しかなかったからこそテオドールはテオドールたれた。
そしてメルセデスにも出会えて、父の異常さにも気づけていて、歯向かうことを全く
「『クレスタⅨ』の場所と施設の詳細ですが、どう炙り出すおつもりでしたか?」
テオドールはザイサーに訊ねる。
「施設詳細がわからん以上、グロシュニィ山脈の要所に見張りを立てて、飛行艦の往来を見張らせるつもりだった」
「ミュッケ中将とジグムント殿下は何をやっている、とお聞きになりましたか?」
「ベック参謀総長の言では軍工廠と複数の企業に働きかけているとのことだ」
「となると、魔法絡みかつ工業絡み――おそらく魔素絡みですね」
魔法と工業。竜銀を加工する魔導炉や飛行艦、魔法ダイナモのように組み合わせ次第ではその融合の産物もあり得るが、基本的には機械か魔法のどちらかで事足りるものだ。
魔法を使っている工業用製品もその多くは魔素だけか、魔素と単純な魔導回路を組み込んだ魔石を組み合わせて作られている。
なので魔法と工業絡みとなれば、概ね魔素に関わることだ。
テオドールは壁に飾られた大判のトプカプ州の全体地図を見る。
グロシュニィ山脈を挟んだ隣州ヒンラクルまでも載った地図をじっと眺めて、グロシュニィ山脈――リヒトが通信を拾ったニニエル高地とノイトックの場所を睨む。
空気中の魔素に遮られない場合の魔素通信の交信範囲は意外に広くなる。
ニニエル高地での戦闘ではリヒトが倒れた時刻にはもう高地の魔素が希薄になり始めていた。恐らくグロシュニィ山脈のもっと奥地からの有声魔素通信でも、飛行艦管制用の高出力魔信なら簡単に拾える状態にあったろう。
グロシュニィ山脈の地図のニニエル高地を指さして、テオドールはかつて士官学校で学んだ魔法地質学の授業の板書を思い出しながら、伸ばした指をニニエル高地からグロシュニィ山脈の背骨の方へと向ける。
「トルトホルン峰からニェールベルン峰にかけての
「そこまでわかるのか」
「魔導師ならヒントを少し貰えれば……リヒトの受信と、中央軍で掴んでいた情報と、学校で学んだ知識が無ければ解けない問題でしたが」
ザイサーの若干驚きを伴う言葉に、テオドールは落ち着き払って返す。
ヒントさえ揃えば簡単に解ける問題だが、同時に三つのヒントが無ければ正解には容易には辿り着けない。
マンティコアと関わっていて施設がある、という情報だけではザイサーのようにグロシュニィ一体の山狩りを行うことになっただろうし、魔素施設というだけならミッテルラント中の
「だいぶ大がかりに動いているならば魔素関連の施設がどこかにあることまでは中央軍の参謀本部でも掴んでいるはずです。ただその候補が絞り切れていなかったのと……」
「ジグムント殿下の威光のおかげでおおっぴらに飛行艦を駆り出した調査に乗り出せなかった。と言う訳か」
ふん、と鼻を鳴らすザイサー。彼はおもむろに立ち上がると、テーブル脇の蓄音機をかけてからテオドールの前に立つ。
掠れたボレロの音色が室内を包む中で、ザイサーの口が動く。
「ミュッケ少佐。この件、ベック参謀総長には公式には伝えんことにする」
ザイサーは小さな眼を細め、耳打ちするように伝えた。
「第一〇九独立混成大隊には十日の後にマンティコアによる被害の調査のためという名目でトルトホルン分水嶺の調査を行ってもらう。シュリーフ中佐には君から先だって、部隊員には現地で、作戦詳細を――『クレスタⅨ』捜索と制圧であることを伝えてくれ」
「極秘作戦にするわけは?」
「おおっぴらに『クレスタⅨ』の捜索と制圧を表に出せばジグムント殿下の耳にも入り、余計な
「あくまで捜索と制圧は偶然の出来事を装い、参謀本部には事後報告を行って内々の処理で済ませる。そもそも無許可での施設建設は軍法逸脱行為で、州側に理があるからな。参謀総長は知らぬ存ぜぬを通すだろうし、ジグムント殿下の威光も軍法会議や帝国法院には勝てんだろうよ」
防戦の将とは思えないほどの攻め方を考え出すザイサーに、テオドールは敬意とそら恐ろしさを覚えながら、はい、と頷く。
「恐らくこの作戦の全ては君の知識と一〇九大隊の実戦経験にかかることになる。心しておいてくれ」
ボレロの音色に混ざるザイサーの声に、テオドールはマンティコア討伐戦の前でも感じなかった重圧を感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます