第16話 ニニエル高地の戦い・六
明け方からもうニニエル高地の軍勢は何時間戦っているのか。
太陽は既に高く天の天辺に昇っていて、高地の地面には無残な状態のマンティコアの
銃砲撃と魔法による遠距離攻撃や精強なトプカプ州兵の白兵戦で満足に動けるマンティコア自体はもう数少なく、ボスを失った群れの中には戦意を喪失して山脈の上へと逃げる個体もちらほらと見える。
この猿もどきたちは意外に手強く、今年は豊かな土地へ降りて冬越えの食料を蓄えることは出来ない。そう強く印象づけられたマンティコアはぎぇあ、ぎぇあと負け惜しみのような鳴き声を残しながら山肌を登ってゆく。素早い逃げ足で銃の射程外に登っていってしまうマンティコアを、しかしトプカプ州兵たちは残念ながら追うことはできない。
まだ踏みとどまっている大きな群れが居るおかげだ。
ぎっぎっ! と五チャーンを超える雄の巨大マンティコアの肩の上で、大きな腹を抱えた三チャーン半はある雌のマンティコアが笑うように声をあげたあと、大口を開ける。
他のマンティコアのそれよりも濃く、量も多い、黒い酸のような呪詛――
「ベアル・タルテ! 我らを守らん、『
テオドールがそう唱えると、前面に突き出されたメルセデスの手甲がぱきぱきと一瞬で氷を帯び、幾重の層を帯びた巨大な盾となる。
黒い呪詛は氷の盾に阻まれるが、盾はじゅわじゅわと悲鳴を上げるように溶けてゆき、やがて薄氷しか残らない程まで浸食されてしまう。
そしてメルセデスは呪詛を受け止めるために突撃の速度を遅らせてしまい、大型のマンティコアの規格外の強靱な筋と皮膚で守られた足もとを突撃槍で半端に刺すことしかできず、反撃を恐れてすぐさま背を向け引き返す。
追撃に大きな腹の雌から放たれた獣魔法を己の脚とテオドールが唱えた防護魔法で防ぐ。
これで同じことを五度ほど繰り返した。
少しずつ手を変えていったが、いずれも途中で同じようにテオドールもメルセデスも守りに徹せざるを得なくなり、攻撃に転じられないまま致命傷を与えることを出来ずに居た。
一度だけ剣と槍を切り結んで肉を傷つけ、『巨人』をぐらつかせたに至ったが、それが関の山だ。
「やはり『魔女』が厄介ですね。あれの獣魔法に攻撃の勢いが削がれる」
メルセデスが外周を描くように走りながら、忌々しげに二頭の規格外の番を睨む。
「もともと規格外の個体なのでしょうが、身重だから余計に魔力の
テオドールは憎たらしくげっげっと笑い声を上げる『魔女』の膨らんだ腹に目をやる。
身重の雌が腹の子の影響で一時的に魔力の閾値が上がることがあるのは魔導師の間ではよく知られる話で、特にマンティコアのような亜流魔法を使う魔物や魔族、森人のような魔力と親和性の高い亜人に顕著なのだ。
あの腹のなら今の『魔女』には二、三体分の胎児の分の魔力が上乗せされているに違いない。
「多分あいつの閾は今の僕の閾よりよっぽど上だ。ヤツにまともに魔法が使える頭があったら僕たちはもう死んでたでしょう」
「単純な魔術しか使えない魔物だったことが幸いしましたね」
メルセデスが硬い声で冗談を飛ばす。
「……勝機はあると思っていますか?」
「はい。僕と中佐ならば」
テオドールはそれに、にやりと口角を上げて答えた。
五度の攻撃であの番が勝機自体はある。
「僕が『魔女』を片付けます。中佐は攻撃の切欠を作って下さい」
「それはどのくらい無茶しますか? 少佐」
「魔素管三、いや四本分は」
「――『巨人』を倒す余力を残してくれれば許可します」
メルセデスが駆けながら静かに頷く。
「解りました、では――」
テオドールは眼前に飛び出た耳に作戦の全容を伝える。
メルセデスは振り向いて、承知したとばかりに力強い笑みを浮かべた。
「行きますよ」
テオドールが鐙から長靴を外し、身体で空を切ってから長靴の裏で地面を捕まえると、『アッシャー・ヘイロー』を構える。
「ベアル・タルテ。気まぐれなる風精の王よ、我が脚に貴方の加護を与えたまえ――『
久しぶりに味わう、脚が熱くなる感覚。人馬にも劣らぬ脚の速さと跳躍力を纏う、力強さと心強さ。
メルセデスとの騎乗訓練を優先してサボっていたために脚がもつれないか心配だが、身体が覚えてくれていると信じて、テオドールは走り出す。
『巨人』の強靱な肩の上に乗っかって、ぎぇっぎぇっ、と耳障りな声を上げる『魔女』はくいと
テオドールは横に跳び、メルセデスは速度を上げて前へ進み、それを回避するが、それでも広範囲に撒き散らされた呪詛の飛沫は服の裾や鎧の一部を
射線こそ掴みやすいが、飛散性があり、しかも酸に近い性質を持っているおかげで完全に避けるのが難しい。
ある意味普通の高位魔導師や魔族なんかよりもよっぽどやりにくい相手だ。
しかし、それでもやり様はあるのだ。
「二つに別れても、僕達は人馬一体と示してやる」
『巨人』の巨体で顔が見えなくなる位置まで来たところで、テオドールは『アッシャー・ヘイロー』のハンドルを引く。
「ベアル・タルテ! 来たれ『
肺と心臓をぎゅうと締め付ける痛みと共に、テオドールのイメージ通りの氷柱が四本、『巨人』の上半身を上から穿つように角度を変えて、『巨人』の頭上の空中に形成される。
テオドールの「行け!」という号令とともに『巨人』目がけて飛翔した。
『巨人』は奇妙なことを仕掛け続ける、目の異様に大きな猿もどきの放ったであろう氷の粒を払おうと大儀そうに背を伸ばし、手を上げる。
そして番の『魔女』は氷の粒を放った
「そっ……こだぁぁぁ!」
手を振り上げ、降ろそうとした『巨人』の足下に、低く伏せて迫っていたメルセデスの
筋に阻まれて骨までは達しないものの、その一撃は重心を上へ向けていた『巨人』のバランスを崩すには十分で、振り向きざまに槍を抜き去った時にはもう巨大なマンティコアの身体はぐらりと、缶詰の空き缶を踏んで転げる大道芸人の芝居の如く、後ろに倒れていく。
『巨人』はすぐさまもう片方の脚を後に出し、体勢を立て直そうとする。しかし肩に番を乗せていたことが、『巨人』自体の体勢を立て直せないほどに重心を崩していた。
肩に必死に掴まる『魔女』はもう獣魔法を撃つどころではなく、振り落とされないようにするのが精一杯だ。そしてそれが余計に番のバランスを崩し、自分を不利に追いやっているのを理解できるほど、『魔女』は頭が回る状態ではなかった。
テオドールは三度目の攻撃で『巨人』の足下が少し揺らいだときに、ぐらりと『魔女』が揺れたのが見えた。
いくら『巨人』の体格でも、自分の半分の体格で、しかも身籠もったマンティコアを肩に乗せていれば当然重心は上に行く。一度体勢を崩せば、簡単には戻せなくなるはずだ。
テオドールはそれに賭け、重心を崩すべく連携をかけたのだ。
「ベアル・タルテ! 来たれ『氷槍』!」
テオドールは体内に残った魔力で、自分の眼前に角度を変えた氷柱を二本作り上げ、放つ。
そして『疾脚』で強化された膂力で地面を蹴り上げ、飛び行く氷の切っ先を足場にして、だん! だん! と宙を跳ぶ。
やっと発達した足腰の筋を思い切り駆使して番が体勢を立て直したことにより、『魔女』は番の肩の上によじ登ることが出来たが、それとほぼ同時に『魔女』を照らす陽の光が遮られる。
例の目の大きな猿もどきが銀色の棒を振りかざして自分の頭上の空にいるのだ。
『魔女』は戸惑ったが、すぐに彼女の野生の本能が対処を導き出した。
自らの特技で蹴散らしてしまえば良いのだと。
群れの中でも不思議な滝から零れた水を飲んで育った彼女の黒い呪詛は桁外れに量が多く、濃く、高く飛ぶ。飛ぶ大猛禽や飛竜を落とすことも、巨大な鹿を仕留めることも難なく出来る。
特に子を身籠もってからは、その力もどんどん強くなったのだ。
あの猿もどきなんて一撃で仕留められる。と。
彼女には短い生涯の中で培った確かな自信があった。
喉の器官を意識して、迫ってくる猿もどきを狙うように口の射線に収める。
そして顎を開け、喉の器官から彼女の特技――獣魔法を発そうとした瞬間、喉にぴりりとした痛みが走ったと思うと、急に熱くなる。溜めた呪詛が熱くなった喉からどこかに抜けて行く。
何が起きたのか。喉を掻きむしろうとする間もなく、『魔女』の耳にはその猿もどきの絶叫が入ってくる。
番が猿もどきをその巨大な手で振り払おうとするが、猿もどきが落ちる速度の方が早かった。
「『ヘイロー・ダウン』ッッ!」
重力に任せて振り落とされた刃が『魔女』の身体を袈裟懸けに切り裂き、胸まで達したと同時に、刃に込められた収縮した爆裂魔法が炸裂する。
『魔女』と呼ばれた雌の巨大マンティコアは、胸のあたりから胴体が二つに裂け、飛び散る。
強靱な身体故に意識が手放せないままその強烈な痛みを味わい、破壊された肺と銃剣の刺さった喉から悲鳴にならない悲鳴を上げながら、意識が黒く染まっていくのを『魔女』は感じ取っていた。
『魔女』の血を振り払い、なんとかバランスを崩さずに着地しようと試みたテオドールを、銀色の手甲が力強く引きよせてその背へと導く。
「もう、ヒヤヒヤでしたよ。私がなんとかしなかったら、そのまま獣魔法を食らっていたんですから」
メルセデスが呆れ気味にそう口にする。
「メルならなんとかすると信じていたんだよ」
テオドールは胸を抑えながらも嘯くようにメルセデスに言ってみせた。
「あいつが『獣魔法』に頼ると思って、わざと上空に飛んでみせたんだ。上からの攻撃なら喉元を見せる隙が出来ると思って、ね」
「だからって私が何も思いつかなかったり、銃剣を外したら、どうするつもりだったんですか」
ライフル用の銃剣を抜いて『魔女』の喉に投げつけたのだって、テオドールに作戦を聞かされた後に咄嗟に思いついたことだったし、そもそも銃剣を投げて当てることが出来るかどうかだって怪しかったのだ。
士官クラブであまりの下手さにムキになって練習したダーツの経験がなければ、絶対に手も足も出せずに終わっていただろう。
「僕はメルセデス=フォン=シュリーフがそうそう諦めるとは思ってなかった。いざとなったら槍を投げてでも止めてたと思ったよ」
「もう!」
自分を信用してくれているのか、それとも捨て身を取り繕っているのか。再び自分の手綱を握った危なっかしすぎる自分の副官兼夫に怒りながらも、メルセデスは番を失った身の丈五チャーンの巨大マンティコアの外周を回る。
『巨人』は突然番を失った怒りに、その下手人である大きな目の猿もどきと、そいつを乗せて走る小柄な鹿もどきをなんとしても仕留めるべく、その巨体を震わせ、ぎぇおおおおおおぅぅぅぅ……と雄叫びを上げた。
テオドールとメルセデスの戦いの第二幕が、始まった。
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