第7話 再びエンツェンヴィル城にて・下
オヴェリフルからユーラヒルへ行く夜汽車は夜の二十二時半に駅を出発する。
エリスは女中のイレーネに頼んで中央駅までの馬車を用意させ、一泊するというテオドールに別れの挨拶を簡単に済ませて城門の下で馬車を待つ。
今一度発つ前にエンツェンヴィル城の城館に目をやった。
城館の扉が開いたのか、光が漏れ、月明かりの下をランプを持った影がこちらに向かって近づいてくる。
「こんばんわ、エリス様」
エンツェンヴィル城の城門のオイルランプの下、手提げランプと不格好な槍を持ったメルセデス=フォン=シュリーフが、蹄の音を石畳に響かせてやって来る。
「見送りにでも来た訳ですか?」
「ええ。城の周りを少し走り込む前に」
メルセデスは錘のついた練習用だろう槍を持ち上げる。鉄の
「それに勢いに任せて酷いことを言ってしまったのや服を台無しにしてしまったこともお詫びし、誓約の書類を書いて頂いたことを改めてお礼しなければと思って」
そう言うと目の前の小さな人馬は塞がった両手のまま、ぺこりと頭を下げる。
――やっぱりこの女はバカ正直で、目指す星以外が見えてないお嬢様のようね。
「服の件は別に良いですわ。私が貴女を侮って軍服を着たまま戦っただけですし、泥も土も落として返して頂けましたから。こちらで用意して頂いた服も私の趣味では無いですが、動きやすいですし」
エリスはそう言って立て襟のブラウスと格子模様のロングスカートの裾を指で持つ。
少し田舎臭い柄ではあるが、いつもの軍服より目立たず動きやすいのは確かだ。これから夜汽車に乗るならこちらの方が確かに良いかもしれない。
そう考えると、あの冴えないが動きやすそうな旅行着でオヴェリフルを訪れた兄の気持ちが少し解る気がした。
「それに書類へのサインは貴女の勝ち取った賭けの商品ですからお礼など要りません。服は後で小包でお返し致しますわ」
「それでもお礼が言いたかったのです……テオや私にあれだけ辛く当たっていたのに、最後には良くして頂いた訳ですから」
彼女の兄の呼び名が変わっていることに、エリスはふん、と鼻を鳴らす。
しかし、それが良いのだろうともエリスは感じていた。
多分あの兄にはこのくらい前向きで周囲の見えない妻がいた方が良い気がする。
エリスが別れる寸前の困ったような表情の兄の瞳には、それでも朝には見なかった微かな光が点っていた。
それがこの小さな人馬のおかげなのは間違いない。
「シュリーフ州軍中佐」
エリスは静かに口を開く。
「貴女、決闘の時に私には才があったが故に掴みたいと願う星が無かったと言いましたわね」
「はい……今思えば出過ぎたことを言ってしまったと」
「……私にも昔は掴みたいと、目指したいと思った星が二つありました。だけど一つは私が掴むにはあまりにも大きく熱すぎ、もう一つは私が追い越してしまい、光も消えてしまった」
ランプの光を煌めかせるメルセデスの瞳を見やった後、エリスは『プラチナム・ヘイロー』に視線を移す。
「私はあの大きく熱い星には到底及べないし、追い越してしまった星は卑屈に仄明るい光を放つ惨めな姿になってしまった。私に掴もうと思える星は無くなったのですわ」
メルセデスは、あの時自分の発した言葉のエリスにとっての重さを知ってか、急にしおらしくなってしまう。
それを目にして、ふん、と鼻を鳴らした後「けれど」と付け加える。
「もう一度私が追い越した星は別の誰かに掴まれて、その方に再び火を灯された。そうなればもう私の知ったことではありません。今まで通り私は私自身の星になりますわ」
「……あなた自身が星になるのですか」
メルセデスはぽつりとこぼす。
「ええ。あの巨大な星には及ばなくとも、己の最良の姿を憧れにして生きてゆく。帝国中央軍魔導科無二の魔導師に」
そうしているうちにエンツェンヴィル城の中からランプに火を灯した二頭立て馬車の姿が現れた。黒赤の塗り分けにシュリーフ候の家紋が入った馬車は城門の下で停まり、馭者がドアを開ける。
エリスは『プラチナム・ヘイロー』を馬車の中に潜らせてから、乗り込む前にメルセデスの方を振り向く。
「お義姉様、最後に一言ご忠告を。貴女の結婚は恐らく苦難の道となるでしょう」
エリスの口調は真剣味を帯びる。
メルセデス、そして恐らくテオドールも、この帝国という巨大な装置の、巨大な歯車の上に貼られた薄い硝子のような場所に知らず知らずのうちに立たされていることをまだ知らない。
それを知り、危機感を持っているのは、きっと一番間近にあの巨大な暗く熱い星を見ているエリスしかいないのだ。
「クルト=フォン=ミュッケ魔導中将。彼はいずれ兄様とお義姉様にも災いを呼びます」
エリスの乗り込んだ馬車が去った後、メルセデスもまた城門を後にし、訓練用の槍とランプを持って月明かりの下を駆け出した。
エリスの最後に残した言葉の意味がなんなのか。テオの父が何をもたらし、災いを呼ぶというのか。
迷いが頭の中を巡ったが、それを振り切るように、メルセデスは駆ける速度を上げたのだった。
「何が起こっても、私はテオと言う星を離す気はありませんから」
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