第8話 イヴァミーズのメルセデス・上

「で、メルセデス=フォン=シュリーフ侯爵令嬢。貴女はテオドールとの婚約を殆ど事後承諾に近い形で交わした訳ですが……その件について私に何か言うことはございませんか?」


 エンツェンヴィル城での一件から二週間。スラティ州イヴァミーズ。

 突然の婚姻の件は何とかなるだろう、と言うテオドールの思惑と異なり意外に後を引き、今、二週間前と逆にメルセデスがミュッケ伯の居城・イヴァミーズ城へと婚姻の取り決めのために招かれることとなったのだった。

 

 ガスランプの点る木造りのイヴァミーズ城の大食堂。テオドールは瑞々しい味と華やかな香りの銘柄の紅茶を飲んでいるはずなのに、その味と香りが全く頭に入ってこなかった。

 隣で脚を折り、先日と対照的な動きやすい旅行着と馬着を纏ったメルセデスもまた同様に、エンツェンヴィル城では見せたことも無かった怯えた表情を浮かべている。

 駅に迎えに行ったときから緊張していた彼女だが、よりその色が強くなっている。

 二人とも目の前でお気に入りの茶葉の紅茶をすすり、笑みを浮かべるアリシア=フォン=ミュッケ伯爵夫人の見えない圧に耐えきれないのだ。

 

 齢五〇を過ぎたとは言え魔導師としては衰え知らずで、他国の魔法論の翻訳や古代魔法の研究に余念が無く、スラティ州軍の予備魔導少将の座を保持する魔導師。そしてユーラヒルの参謀本部勤務のクルト伯爵に代わる、この城塞都市イヴァミーズの実質的領主。

 普段は落ち着いた雰囲気を醸し出してテオドールの話に耳を傾けるアリシアも、今は誇りを重んじる予備少将にして領主夫人の立場のかおで、テオドールとメルセデスの二人に相対している。

 この女性の醸し出す圧に、もう二人は既に屈しそうになっていた。


「はい、アリシア伯爵夫人。わたしの独断でご令息を巻き込み、申し訳ございませんでした」

 深々とメルセデスが頭を下げる。

 トプカプから出てきて真っ先に母の圧迫に彼女を晒させたのだから、テオドールもばつが悪いし、それ以上に自分も含めて責められている気がして心苦しかった。


「そもそもテオドールに許嫁や婚約者が既にいるという発想はなかったのかしら?」


「すぐには思い至りませんでした。わたしの周囲はみな一目惚れで婚姻に至ったものですので」


「自分の常識は他人の非常識、他人の常識は自分の非常識……ね」アリシアは口元をへの字に曲げる。「確かに人馬族は己の情で相手を選ぶのが普通と言いますし」

 

「……申し訳ありませんでした」

 メルセデスは小さな身体が更に小さくなりそうな勢いで縮こまっている。


「まあ義姉上、テオには許嫁も婚約者も居なかった。それで婚約が決まった。良いじゃないか」

 そう口を開いたのはアリシアから少し離れた席に座る、髭面の軍人だ。スラティ州軍の菫色の軍服の中将の肩章、そして立襟シャツの襟元にぶら下がった金縁の柏葉鉄丁字章かしわばてつていじしょうが、彼が戦場で上げてきた武勲を物語っている。


「マインツ、貴方が口を出せる話題だと思っていまして?」

 アリシアが髭面の軍人――マインツ=フォン=ミュッケに冷ややかに言う。


「貴方の結婚の騒ぎは我がミュッケ家の末代まで残る粗忽そこつの一つと心得て発言しなさい。貴方の婚約が事前に破棄され、アンネリーセがとても良い女性だったから一応は丸く収まったのですよ。貴方は士官候補生の身でうら若き修道女を身籠もらせた不貞者だったということ、忘れないで」


 アリシアの冷たい言葉にマインツは「し、しかしなあ」と抗弁するが、その言葉はもう説得力を持つのは難しかった。

 ついでにメルセデスのマインツを見る目がかなり冷えたものに変わったのも、テオドールは見逃さなかった。あの時彼女に悲鳴を上げさせた原因の男が彼だと知ったからだろう。

  

「テオドール」アリシアが略さずに彼の名前を呼ぶ。「念のため聞きますが、今お付き合いしているご婦人は?」


「おりません。密会もしておりません」


「花街で仲良くなったご婦人などは?」


「おりません」


 居たらアリシアの耳に入っているのが当然だ。

 イヴァミーズの花街は足繁く通う独身将校が多い分、テオドールの顔を知る者も多い。もし花街で夜の女に入れ込めば、一瞬でどの店の誰それに入れ込んでいると噂が流れるのだから。

 特に口の軽いマインツの耳に入れば、三日もせずにアリシアの耳にも届く。


「よろしい」と一言言うとアリシアは紅茶を啜る。

 妹と同じふわりとした豊かなブロンドの髪が揺れた。


「シュリーフ侯爵令嬢」

 突然名前を呼ばれ、ぴくっ、とメルセデスの背が跳ねる。

 

「いくら考えなしに突然切り出した婚姻とは言え、貴女はきちんと覚悟を決め、反対する我が娘エリスとの決闘にも挑み、署名を勝ち取りました。今更こちらの都合だと言って婚姻を破棄し、恥をかかせるなんて以ての外です。追認ながら私も伯爵夫人として認めましょう」

 アリシアの声は少しだけ柔らかくなり、圧が和らいでいた。

 隣のテオドールはほっとして、メルセデスの顔には喜色が浮かんでいた。


「ですが」

 紅茶を一口啜ってから、再びアリシアは釘を刺すように口を開く。

「今後の貴方がたの処遇に関して、シュリーフ侯爵家と我がミュッケ伯爵家の間で交渉をもたなければいけません。特に貴方がたの結婚後の立場に関しては微妙そのものですから」


 アリシアの指摘は尤もすぎる。

 イヴァミーズ伯家の長子であるテオドールと、トプカプ侯家の長子であるメルセデス。どちらも中央軍入り出来なかった半端ものとは言え、両家の後嗣こうしの資格を持っている。考えなしにどちらの家に迎え入れるかを決めたなら大問題――旧神聖ヴェスティア帝国の選帝侯家を祖先に持つ大所領の侯爵家と、中央軍参謀本部に多大な影響力を持つ伯爵家なら尚更――だ。


「故に取りあえずはこの婚姻は保留とし、両家協議の上でどちらがどちらの家に入るかを決めることとします。その間はあなた方は『婚約関係』という間柄で過ごしてもらいます」


「婚約関係、ですか……?」

 テオドールが聞き返す。


「実際の夫婦になる修練期間と思って頂ければ宜しいですわ。いきなり夫婦となるよりお互いを知れる期間がある方が良いでしょう?」


「なるほど、そいつは良い考えだ」

 マインツが同調する。

「肩の力を抜いて一つ屋根の下で暮らせば、お互いの気心を知れて、実際に夫婦になったときもラクだからな。そればかりは俺が保証するぞ」

 マインツの口から直接語ると全く誇れない保証に聞こえるし、実際メルセデスもいぶかしげに口元を歪めていた。

 

「メル。一応信用は出来るからね」

 テオドールは彼女の頭の上で揺れる馬耳に耳打ちする。


「確かに結婚に至った理由こそ酷いけど、マインツ叔父とアンネリーセ叔母は若い頃から今までずっと今でも仲睦まじいから」


「本当なのですね、テオ」

 じとりとテオドールの方を見つめて小声で語るメルセデス。


「本当だよ」

 大雑把で向こう見ずだが、他人の悩みに敏感で親身になってくれる。マインツはそんな男だ。

 だからこそ悩み多くとても甘え上手な修道女だったアンネリーセ叔母に過剰に気を許してしまったわけらしいが。

 

「それとシュリーフ州軍中佐」

 マインツが継ぐようにメルセデスを階級名で呼ぶ。

「テオのトプカプ派遣に関しては俺の方からトプカプの州軍幹部に手紙と魔信ましんで手を回しておいた。明日正式な辞令を俺が出すが、ミュッケ州軍少佐はトプカプ州軍のマンティコア討伐の助力及びトプカプ州軍視察の名目でスラティから派遣することとした」


 メルセデスが腑に落ちた、と言わんばかりの表情で頷く。

「……確かに、それなら文句も言われませんね。マンティコア討伐の助力ならば大義名分としても十分ですし」


 誰の考えた言い訳かはわからないが、テオドールも見事なものだと感心する。


「スラティ州の領民もトプカプの農産物には期待していますからね」

 アリシアがカップとソーサーを置いてメルセデスに語りかける。

「スラティ州は特に鉄鉱と石炭の鉱脈には恵まれていますが、麦や野菜は州全体を賄えるほどとは言い難いですし、甜菜てんさいや果実はトプカプに頼り切りです。そういった意味でテオがその農産物を守る助力となれば巡り巡ってスラティ州のためともなります」


 そのことはテオドールも、汽車でのコッフィーの話や、以前のマンティコアの大襲来でトプカプからの麦が不足し、兵舎の食事やアリシアの用意させた食事でパンの代わりに蕎麦のガレットばかりが出て難儀した件を知っているのもあり、アリシアの言葉の重みは十分に理解できた。


 メルセデスは緊張気味に「はい、ありがとうございます……伯爵夫人」と口にした。

 だがその横顔は、どこか誇らしげでもある。

 

「収穫期やマンティコアの冬ごもりに遅れては困る。できるだけ出立は早いほうが良いだろう。荷物は後から送らせるから、明日の辞令受け取りの後、オヴェリフル行きの汽車ですぐ出立しろ」


 マインツの筋が通っているために否定できそうに無い無茶振りに、テオドールは「はい」と頷く。

 旅支度ならすぐに済むだろうが、送る荷物のリストに関しては吟味ぎんみが間に合わなさそうだ。せめて軍服の替えと本と必要な品だけ書いて送らせて、後は全部オヴェリフルで手に入れようか。

 

「さて……小難しい話はここまでにして」

 アリシアが頬を緩ませ、テオドールに向けて言う。

「テオ、部屋に戻って荷物をまとめなさい。後から送る荷物のリストも認めておいて」


「は、はい。母上」


「その間メルセデスさんをお借りするわ」


 にこりと笑むアリシアの提案に、二人が「え?」と同時に声を上げる。


「待たせるのも退屈でしょうから、少しイヴァミーズの街を案内させて頂くわ」

 ゆったりと立ち上がったアリシアは、大食堂の石の床にこつん、かつん、と足音を鳴らしてメルセデスの元に趣くと、その手を取るのだった。

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