第7話 再びエンツェンヴィル城にて・上

 日が入る時刻は南のトプカプは北のイヴァミーズに比べて数時間もゆったりとしていた。

 テオドールとメルセデスの二人はエンツェンヴィル城館の客間に戻っていた。

 メルセデスは汗を拭い、甲冑から例の新緑色の秋用衣装と馬着に着替えていたが、仄かに嫌では無い汗の匂いが彼女の栗色の髪が動く度にした。

 メルセデスは終始俯いて顔を下げたままで、テオドールの振った話題にぎこちなく「は、はい」「そ、そうですね」と答えるか、小声でぼそぼそと独り言を呟くばかりだ。

 夕刻の陽に紅潮した頬がさらに赤く染まっていく。


「あ、あの」

 メルセデスが紅茶を飲み干して、ゆっくり切り出す。

「テオドール様はこ、こ、このように異性から想いを打ち明けられたことは、おありなのですか? わ私と違ってあまりに、その……平然としておられますが」


「はい、する事もされる事も何度か。士官学校時代に」

 特別異性から好かれる方では無かったテオドールも、流石に学生時代に恋愛自体は経験している。

 魔導師は本能的に精神的な支えを求めるせいか、やたらと色恋好きで、特に惚れた腫れたに敏感な青少年を集めた魔法学校や魔導科士官学校は顕著だ。

 魔導科士官候補生達は性別関係なく日々異性のパートナーを求め、アプローチをする。

 教官の尉官・佐官も似たような経験を持ち、中にはそこから結ばれた者までいるわけだから口も出せないわけだ。


 テオドールもその空気に飲まれて、三度女生徒に告白した。二度は玉砕したがクシレイ出身の一年先輩にしたものだけは成功した。

 長身に小麦色の髪の彼女には女性の付き合い方や逢引の作法を学ばせてもらったが、例の魔素中毒で倒れた後の休学期間に関係は自然消滅した。再び学内で会った時には彼女の右薬指には指輪が嵌っていた。

 それでテオドールは初めて失恋の本当の寂しさを知ったのだった。


「は」

 メルセデスが顔を上げる。夕陽を受けた顔は眉を釣り上げ、先程以上に紅潮して、林檎のようになっている。

「破廉恥なっ!」

 絶叫と共にばん! とテーブルが叩かれる。

 

「テオドール様がそんな破廉恥な方だったなんて! 告白を受けるならともかくご自分から、何度も、何度も、なさるなんて!」

「そんな、普通の事でしょう」

「普通なんかではありません! 告白と言えば一世一代、全てのしがらみを退けてでも結ばれたい心に決めた方にだけと決まっているでしょうに!」

 ああ……、とテオドールは額を指で抑える。自分の――魔導科の常識が世間の非常識なのに、そしてメルセデスの――人馬の常識が世間の非常識なのにやっと気づいた訳だ。

 精神的結びつきを得たいがために恋多き思春期の魔導師と、貞操観念と一度決めた相手に対する恋愛感情の熱量の高さで知られる人馬ではすれ違うわけだ。


「その助平な性根も私が叩き直します! もう今すぐ、今すぐにでも配置転属の取り付けをイヴァミーズに魔信で送ってこの城に留まって頂きますからね!」

 既に火にかけたままのケトルのように湯気を吹きそうになっているメルセデスに弁解の言葉を紡ごうとしたが、その前に客間の扉が開かれた。


「お兄様、曲芸師の次は夫婦漫談家にでもなるおつもりですの?」

 鞄を両手で抱えたイレーネと共に、普段着姿のエリスが客間に入ってきた。

 おそらく泥にまみれた上に貫かれた制服の替わりにイレーネに手渡されたものなのだろう。綿の立て襟ブラウスと格子柄のスカートの、動きやすそうな普段着だった。


「漫談などではありません! テオドール様の不貞に怒っているのです! 学生時代に! 心に決めてもいない女性に何度も何度も愛の告白を行った不貞に!」

 完全に興奮しきっているメルセデスを見て、イレーネはテオドールとエリスの顔を見て、『いつものことですから』と目と表情で示す。そしてテオドールにだけ、口元に手を置いた。

 おそらくテオドールの弁解はより話を面倒くさくすると言うのにわかっていたのだろう。そして茹で上がっているメルセデスに気づかれないように、イレーネはエリスにこくりと頷く。

 はぁ、とエリスは兄と同じ調子で息を吐き、「やっぱり憧れの病を患った一途なお嬢様はめんどくさいわ」と前置きしてから、言う。


「どうせ士官学校時代の話でしょうが、魔導科士官学校は恋愛など日常のようなもので、逆に恋愛などしない者の方が変わり者でした。堅物を絵に描いたような森人エルフすら他の候補生に混じって惚気話をする程度には、年頃の魔導師というのは恋多いのですよ」


「な、なら貴女も! 将来を誓わず男性とお付き合いをしていたと言うことですか!?」

 食い気味に問い詰めるメルセデスに、涼しい顔で返すエリス。

「ええ、卒業までに解消しましたけれど。これでご納得頂けましたか?」


「……やっぱり破廉恥ですっ!」

 メルセデスが再びだん! と机を叩く。


「大体畏れ多くも帝国の礎たる士官となるべく生徒が! そんな軽々しく遊び感覚で男女のお付き合いをしているなんて! 魔導科は乱れています! 乱れています!」


「魔導科が一等色恋の激しい科だと言うのは認めますが、貴女が知らないだけで騎兵科だって十分乱れていますわよ。私の身近な騎兵科将官には士官学校時代に修道女シスターを身籠もらせて大騒ぎにした方がいるくらいですから」


「いやあああああ!」と客間にメルセデスの絶叫と、床を蹴る蹄鉄の音が響く。


 恋に純真すぎる相手にマインツ叔父夫婦の馴れ初め話を持ってくるのは反則だぞ、やめてやれ。とテオドールはエリスに目で抗議したが、エリスも、隣に立つイレーネも、ここで変な夢を打ち砕いてやった方が今後の彼女のためだ。と言う眼差しで返してきた。

 未だに父が渋い顔をする、ミュッケ家の長くない歴史の中でも伝説級の粗忽そこつ話はやはりというか、純真で純粋な女性には相当効いているようだった。

 テオドールは女二人の説得力のある眼差しに大人しく従い、向かい合う年上に見えない女性が落ち着くのを紅茶を啜りながら待つのだった。

 さっきまで楽しんで味わえていたはずの渋みの中のコクを、彼女が落ち着くまでの間、ただ一心に味わっていた。

 

 ようやくメルセデスがはあはあと肩で息を切りながらも平静を取り戻したのは、数分後のことだった。彼女は黒曜石色の瞳を細めて恨みがましくテオドールを睨んできたものの、テオドールが申し訳なさそうに――自分の恋愛経験よりも、お互いの常識のすれ違いによる失言に対して――顔を上げたのを目にして、不満げにだが首を縦に振った。


「まあ」

 エリスがついでとばかりに付け足す。

「兄は意気地無しですから、恐らく身体は清いと思うのでご心配なさらず」


 本当のことだが、色々傷つくから言わないで欲しい。とエリスに心中で泣き言を述べながらも、その助け船に乗ることにして、テオドールは無言でゆっくりと頷く。


 メルセデスはそれでやっと「……それならば一時の過ちとして許します」と小さく呟いた。


 

「夫婦漫談が終わったようですので、私は自分の用事を済まさせて頂きますわ。イレーネさん、お願い致します」

 隣に立っていたイレーネは「はい」と手に抱えていた書類鞄を開き、テーブルの上にてきぱきと、シュリーフ家の盾紋章の入った上質な白い紙の便箋、そしてインク壺と硝子ガラスペンを並べてゆく。

 エリスはスカートに挟んでいた竜銀の短杖を抜き、短く唱える。

「ベアル・シュピラ。我は誓約を行いし者。この誓約の筆はいかなる偽製であらず、ミュッケ伯爵令嬢にしてミッテルラント中央軍少佐、エリス=フォン=ミュッケの名によるものであると確かに示すものなり。――『誓いの一筆エイン・エイド』」

 短杖の先から点った光がぽう、と硝子ペンの筆先に宿る。


「言っておきますが、これはあくまで私の立場での誓約。我が両親やそちらのご両親からの言葉があれば簡単に失効する程度の効力しか無いことをお忘れなく」


「私の両親は確認了承済みです。ミュッケ中将や中将夫人も了承してくれることでしょう。お互いに分不相応な結婚でないと思いますから」

 さっきまでの剣幕もどこへやら、うきうきした様子のメルセデス。


「……本当に良くも悪くも世間知らずな方ですこと」


 エリスはそこまでで言い留めると、ペン先をインク壺に浸け、無感情にさらさらと便箋に文言を書き始めた。



『テオドール=フォン=ミュッケとメルセデス=フォン=シュリーフの結婚の約束に、私はその立会人として署名する。エリス=フォン=ミュッケ』



「さあ、これで私の仕事はお終い。後は晩のユーラヒル行きの夜汽車が出るまで好きにさせてもらいますわ。お兄様、お義姉様」


 ぱたん、と扉が閉じられ、テオドールとメルセデス、そしてイレーネが取り残される。

「……これでひとまず、私とテオドール様は婚約の契りを結んだと言うことですね」


「……そうなりますね」


 エリスの言うように、後で両親にひっくり返されなければ。の話だが。

 多分に息子の意志を尊重してくれる母のアリシアはともかく、父のクルト=ミュッケは多分にそういうところがある人物だ。

 根っからの将校気質で神経質。帝国軍のためならば何をするかもわからないし、軍内部の派閥闘争で子供を政略の駒にしかねない。と、長子のテオドールも父を完全に信用できないでいる。

 メルセデスの身分と現在の地位をもってすればきっと大丈夫だろうが、それでもミュッケ家当主たるクルトの一存は最も大きな不安要素でもある。

 エリスがユーラヒルへ戻れば父に事の次第を報告するだろう。その時父がどう反応するか。それで全てが決まる。


――イヴァミーズに戻り次第、母上やマインツ叔父に話を通すしか無いか。


 今のところ父を説得できそうなのは、立場的にも気質的にも母とマインツ叔父の二人だ。それに加えてテオドールのトプカプ派遣に関しても、スラティ州軍幹部である叔父に話を通す必要がある。

 魔素通信を打ってこの婚約を伝えてから二人に事の経緯を話すか。

 それとも明日の汽車で彼女を連れてイヴァミーズへ戻るか。

 しかし彼女にも軍務がある。突然数日オヴェリフルを離れるのは厳しいかもしれない。


「テオドール様、随分難しい顔をされていますけど」

 上目遣いで覗き込むようにして、メルセデスが問うてくる。

「やっぱり他にご婦人の影があるとか、ではないですよね?」

 訝しんでかつかつ蹄鉄を鳴らす彼女に、テオドールは「いや違います、違います」と首を振る。


「両親に――というか当主である父上にメルセデスさんのことをどう説明するかとか、トプカプ派遣の件をどうするかとか、思案していたんです。何せこの婚約自体が突然のことですし……」


「本当に本当ですか?」


「本当ですってば」

 テオドールは苦しげに弁明した。

「僕には貴女以外に浮いた話も女性の影も無いですし、何なら母上にさえ貴女との婚約をどう説明するかを思案していたぐらいなんですから。僕がイヴァミーズを出るとき、今回の件を婚約の申し出やトプカプ派遣だなんて毛ほども思っていなかった訳ですからね」


 テオドールの言葉で、いぶかしんでいたはずのメルセデスの顔も不安げに変わってゆく。

 

――ああ、これはきっと先走ってしまって、ただ婚約とその立会だけを考えて、諸々のことを何も考えてなかったんだろうな。


 イレーネの言や今までの彼女の言動を見てきて、テオドールは自然とそう察せた。

 勢いはあるが、勢い任せで他をあまり考えないし、そもそも周りが見えていない。

 多分メルセデス=フォン=シュリーフは、そう言う女なのだ。

 

「決闘で取り決めたトプカプへの派遣に関しては僕が州軍に話を通し、その通りにします。婚約の件に関してはメルセデスさんは時間のある際にイヴァミーズに来て下さい。その時に母と叔父を交えて話をつけ、父を押し切る算段とします」


「はい……」


 すっかり大人しくなってしまったメルセデス。

 考え無しであれこれ決めてしまったのを指摘しただけとは言え、悪いことをしたかと思った。

 しかし明日の汽車でイヴァミーズに戻った後のことを考えれば、こうでも言っておかないと流石に示しがつきそうもない。


 汽車でイヴァミーズ。テオドールはその言葉を頭の中で思い浮かべたとき、自分の旅行鞄の中に仕舞い込んでいたもののことを思い出す。


「メルセデスさん、少し待っていて下さい」


 テオドールは旅行鞄の留め具を外し、シャツの上、最上段にあった包みを取り出して、彼女に渡した。


「我が伯領イヴァミーズの誇る菓子職人、マイスター=コッフィーの店のチョコレートパイです。どうぞ召し上がって下さい」


 包みと紙箱を取り払うと、チョコレートをたっぷりと塗り重ねた小ぶりなパイが顔を出す。

 テオドールの好物でもあるパイを前にして、メルセデスはわぁ、と歓声を上げ、黒曜石色の瞳を輝かせた。


「イレーネ、お皿とナイフとフォークを!」


「畏まりました」

 メルセデスの言葉に、待機していたイレーネが歩み出す。

 本当は謝罪の品に選んだのだが、どうやら気に入ってくれたらしい。


「メルセデスさんが元気になって良かったです」

 

「テオドール様」

 メルセデスがテオドールの顔を見上げる。

「これから先は『さん』付けは禁止です。メル、と呼んで下さいませ」

 馬着の後ろで紙と同じ色の尻尾が揺れている。頬には先程のように林檎に似た紅が差していた。

 愛らしい婚約者の表情に、再び胸がどきりと躍る。


――ああ、それならば……。

 

 テオドールは黒髪を一度掻き、そして灰の瞳で彼女をじっと見つめる。


「それならば、僕のこともテオと呼んで下さい。親しい者はみなそう呼びますので」


「……はい、テオ」


「ありがとう、メル」


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