第5話 小さな人馬の決闘宣言
「あり得ませんわ」
だからこそエリスの苛つきの籠もった声が、テオドールの硬直を解いたのだった。
「何故そう言う運びになるのですか。人馬族は誇りを重んじる種と聞きましたが、貴女はあの試合で、魔導師として半端物の不肖の兄の曲芸によってシュリーフ候家の誇りを傷つけられたと、家名に泥を塗られたとお思いにならなくて? 普通はお思いになるでしょう? それを何を憧れとか、求婚とかおっしゃられているのですか?」
「誇りを傷つけられたなど全く思っていません」
エリスの問いに彼女は首を振って即答する。
「我ら人馬種は誇りを重んじますが、テオドール様は最初から最後まで自らの持てる技と策で全力で我が弟に挑み、『一八九四年の大変』が一つ、レーゲンラッヘンの銀竜を仕留めた大技で以て弟に挑み勝った。そこにシュリーフの誇りを傷つけられる要素などありません」
「いえ、ですが、確かに私のような者があの様な常道に反する戦いを仕掛けたのは――」
テオドールが自らの非を認め謝罪する言を口にするその前に、メルセデスはそれを遮るように「むしろ――」と低い声色で続ける。
「――むしろテオドール様が家格や階級の差などを消化試合を働いたり、魔導師らしさに拘った挙句本気を出さない試合でもされていれば、その時こそ私と父と弟は誇りに傷がついたと思い、抗議のためにテオドール様とミュッケ中将をユーラヒルで直接呼びつけたことでしょう」
それはテオドールが発しようとした謝罪と、感じていた非を一言一句否定する言葉だった。
半端物の魔導師の曲芸。中央軍の門を閉ざされた州軍少佐止まりの男。テオドールは自らの劣等感に侵されて『誇り』の意味を間違え誤った罪悪を抱いていると、メルセデスの黒い瞳が言葉と同じだけ強く語りかける。
「……では、何故中央からミュッケ伯家の者を寄越せとおっしゃったのですか?」
「婚約の立会人に、です」
メルセデスは低い声の調子のままエリスの問いに手短に答える。
「本来ならクルト中将と我が父君オスカーの立ち会いのもとに私とテオドール様との婚約の話を進める予定でしたが、父君は急遽北方の人魔国境へ遠征、クルト中将もご多忙とのことで、それならばせめてミュッケ伯爵家の方で十分にお立場のある方を立会人とするつもりでお呼び致したのです。エリス=フォン=ミュッケ帝国中央軍少佐」
「婚約の立会!」
エリスがわざとらしく声を張り上げる。
「そのような理由で私を呼びつけまして! このエリス=ミュッケを!」
「ではどのような理由ならばお呼び立てすれば良かったのでしょうか?」
「それは――」
メルセデスはその少し幼げな容貌を険しくし、瞼を細めて射るような視線で睨んで、テオドールにそうしたようにエリスの言葉を遮った。
「私がテオドール様をお裁きになることをお望みだった――私にはそうとでも言いたげなご様子に見えました」
かん! とメルセデスの右前脚の蹄鉄が床を強く叩く。彼女は首をかしげて、口を開いた。
「幾らテオドール様の妹君――いずれ我が従妹になる方とは言え、兄君が裁かれるのを喜んでご覧になるようなご趣味ははっきり言って醜悪と言うほかございませんと思いますが? エリス中央軍少佐殿」
高いが冷ややかさを帯びた声が、先ほどの蹄鉄の響きと共に客間の空気を支配する。
エリスはそれに刃向かうように、挑戦的な視線で目の前の小さな人馬を睨めつける。
エンツェンヴィル城の客間はメルセデスが現れてからの空気から一転、ミュッケ家の兄と妹だけだった時のような――と言うより、それ以上の殺伐さが戻っていた。
「醜悪というなら、軍魔導師として決定的に劣っているにも関わらず、ただ伯家長子と言うだけで州軍少佐の地位に在り続け、軍魔導師を愚弄する戦いを行い続ける曲芸師の方が圧倒的に醜悪だと思いませんこと?
父や母が慈悲をかけなければ家を追い出されて然るべきなのにその地位に居座り続け、ただ長子と言うだけで能力に全く見合わないミュッケ伯の称号も手にすることになる。しかも勘違いした侯爵長子を妻に迎えて――これこそ醜悪の極みですわ」
「能力能力と言いますが、魔導師の能力と士官としての実戦と作戦能力、ひいては領主としての能力は全くの別物かと。ミュッケ中将はその三つの能力がそれぞれ備わった方であり、それを一緒くたに考え、ただ魔法の戦いの才能を誇って自分こそがミュッケ伯
「爵位が上だからと、半端物の小さな
「たまに居るのですよね。『ミッテルラント帝国は人族の魔王の治める国』と言う言葉を素直に捉えて、自らをこの国において特別だと思い込んでいる、強いだけの
冷たい温度の言葉が二人の間で飛び交う。
そして張本人でありながら、二人の女軍人の視線の間で散らされる火花の間に入れずに居るテオドールはと言えば、自分の招いた事態に息苦しさにシャツの一番上のボタンを開けて、青紫の絹のリボンタイを緩めていた。
それと同時に複数の防止魔法が付随したユーヒラルの眼鏡職人特注の大きな金縁の丸眼鏡と、その下の近視がちな灰色の瞳が狂っていないだろうか。と己に問うていもした。
メルセデスが床を蹴ったあの一瞬、新緑色の馬着の下に隠れたその後脚が一瞬覗いたのがテオドールの目に入ったのだ。
スラティ州軍にも人馬騎兵は居るし、魔導科とは言え軍に所属し城塞都市に暮らしている以上は軍馬や
その上騎兵中将のマインツ叔父とも親しくしていたために馬を見慣れたテオドールですら、一瞬光の下に照らされたメルセデスの後脚を目にしたときは絶句する他なかった。
――脚の筋が角張り過ぎている。
テオドールは己の目にした物はきっと間違っていないことを信じながらも、もしそうだとしたら目の前のこの少女のような人馬がどれほど鍛え抜いたことであの脚を得たのかと戦慄した。
いくら人馬と言えど並大抵の事をして手に入れられる脚では無い。
いつだかマインツ叔父が己が手で鍛えた己の騎馬の鍛え抜かれた脚を「最高傑作だ」と褒め称えていたが、一瞬覗いたメルセデスの後脚は小さいながらもあの脚と良い勝負かそれ以上だったのだから。
ひょっとしたらこの女性は、フランツ以上に恐ろしい人馬騎兵なのかもしれない。
テオドールは冷たい瞳で妹を見下ろすメルセデスの顔を覗き込み、彼女に好かれて婚約を迫られていることを考えると少しだけ背筋が冷たくなった。
――この
文字通りに彼女の手綱に触れることすら出来そうにも無いテオドールは、人差し指をシャツの緩めた襟に突っ込み、深呼吸するのであった。
魔法ダイナモを使ったときと同じだけの息苦しさを解消しようには、それくらいしか出来なかった。
「テオドール様」
メルセデスの眉間に皺の寄った顔がテオドールの前に迫る。
「手袋を持ってはおりませんでしょうか?」
このタイミングで手袋を求められるとは、全く嫌な予感しかしない。
エリスに目配せすると、据わった視線をメルセデスに向け、もうその指先は脇に置かれた竜銀の大杖にかかっている。
早く渡せ。
エリスの視線がテオドールのそれと交わった瞬間、そう目配せしている。
――もう手遅れか。
観念したテオドールはズボンの右ポケットから、馬車の中まで嵌めていた旅行用の綿の白手袋をメルセデスに差し出す。
それを受け取ると、彼女は彼が思った通りにエリスの目の前のテーブル目がけて、テオドールの手袋を投げつけた。
「こうした方がお互い後腐れなく済むでしょう。エリス様、私とその将来の夫の名誉、そして我らの婚姻の立会をかけて、貴女に決闘を申し込みたいと思います」
「勿論こちらも望むところ。私が勝てば貴女を上官侮辱の罪でユーラヒルの軍法法廷にご案内して差し上げますわ」
「ええ」
彼女が不敵に笑う。
「ではお外に。この城の庭園ならお互いに思う存分暴れられます」
メルセデスはそう口にすると、部屋を出て行く。
既に怒りで吹き上がっているエリスも彼女の旅行鞄の中から液体魔素管の詰まった魔法ダイナモの管倉を取り出して、竜銀の大杖に取り付け始めていた。
そのまま立ち上がって何かぶつぶつと口にしながら乱暴にドアを開け決闘の場に乗り込んで行く妹に、テオドールはかける言葉もない。
ただ言える事はどっちが勝ってもテオドールの胃が痛む、と言うことだ。
メルセデスが勝てばエリスの恨みリストにメルセデスの名前が載り、エリスが勝てばシュリーフ候の名誉にそれこそ傷が付く。
気性の扱いが
「――テオドール様、ご心配在りません。メルセデス様は負けるつもりも、貴方を手放すつもりもございませんから」
いつの間にか部屋に入っていたイレーネが、取り残されたテオドールに静かに語り出す。
「あの、それはどう言う事でしょうか」
「長年お仕えしていた身だからわかりますが、あの方のご病気は重症なんですよ。一度発すればもう止まらないと言うか、一度目を付けたものは手放さないというか……熱しやすいのに冷めにくい『憧れ病』の重症患者なんです。メルセデス様は」
「憧れ病……?」
「はい。一度憧れたものは絶対に追いつこうと、或いは手にしようとする。諦めるという言葉を認めない……例えそれがお伽噺混じりの古い時代の英雄譚であろうと、その憧れに追いつこうと鍛錬し、憧れた物は手に入れたら手放さない。結構子供っぽい方なんです」
イレーネは戸惑い続ける客人に、諦めの色の濃く混じった複雑な笑みを浮かべていた。
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