満月前夜
無月の隣に座る。顔を見ると、頬が切れ血が出ている。乾ききっていない血と涙が混ざり合い、地面に向かって垂れている。ポケットからハンカチを取り出し、涙と血を拭く。でもしばらくすると、また血と涙が流れ出てくる。血が涙の中でマーブル模様になる。
結局のところ無月と喋ることはできなかった。無月は通学路の途中で倒れていた。まだ日没は始まっていなかったのに。とにかく、寝ている無月を抱え上げ、家へと運んだ。抱いていた高揚感は、失望と疑念に変わっていった。
「それで、姉ちゃんを連れて帰った後、調べたんだ。」
思わず言葉が口をついて出る。肩を回す。徐々に筋肉がほぐれていくのを感じる。自分が思っている以上に、体は心の動きを感じ取っているらしい。
「そしたら、あの日、日没間際に、日食が起きていたことがわかった。月が太陽を掠め取るみたいな規模の小さいもんだったから、大して注目もされてなかった。でも姉ちゃんには影響があった。その一瞬の日食で意識を失った姉ちゃんは、電柱に頭を強打したんだ。元々急いでいたところに、急に眠気がやってきたんだ。避けようがなかったんだろう。そして、その衝撃でさらに意識を失った。睡眠から気絶へと変わったんだ。だから、日食が終わっても目を覚まさなかった。」
腕時計を見る。7時01分。文字盤がオレンジ色に光る。太陽を見ると、さっきまで月に隠れていた部分が顔を覗かせている。日食も後半戦に入ったみたいだ。まだ日没は開始していないが、残された時間はそんなに多くない。
「そこで俺は二つのことに気づいた。一つ目は、『日食の時、姉ちゃんは意識を保っていられない』ということ。もう一つは、『どちらかが気を失った場合、無条件でもう一人の目が覚める。』ということ。」
無月の寝顔が太陽に照らされている。頬を伝う涙は乾き、血は傷口で硬くなっている。
「嘘ついてごめんね。でも、こうするのがお互いにとって一番なんだよ。きっと。」
深く息を吸う。夏草の匂いが、生ぬるい空気に乗って肺の奥へと入ってくる。
「小さい時から、姉ちゃんが話す昼の世界の話が大好きだった。朝の通勤ラッシュの話も、夕方、鳥が群れをなして大移動する話も。全部が輝きに包まれてた。俺の知っている光とは、似ても似つかないものなんだろうなって、ずっと憧れてた。でもね、その中でもたまらなく好きな話があるんだ。それはね、夕日が沈む瞬間の話。最初にこの話をした時、姉ちゃんはどんなふうに話したか、今でもはっきりと覚えてる。こう言ったんだ。」
『どんどん太陽が近づいてきて、私たちの視線の中に入ってくるの。下ばっか向いてないで、明日こそ僕の姿を見てよ、っていうみたいに。それを見て、人はみんなハッとするの。太陽が存在していたことを、その時まで忘れてたから。そうだな、明日こそ上を向いてみよう、頑張って起きよう。って思うの。人生捨てたもんじゃないな、って心に陽が灯るの。明日も生きてみようって、勇気が湧いてくるの。そして、太陽と約束して眠りにつくの。でも次の日には、みんなそんなこと、忘れちゃってる。太陽が精一杯挨拶しても、誰も見向きなんかしない。それどころか、もう顔も見たくないなって思う時もある。実際に声に出す時もある。でも太陽は、そんな声、微塵も気にしないの。どれだけ無視されても、悪口を言われても、私たちのために、一生懸命光を与えてくれるの。エネルギーを与えてくれるの。なんでそんなことができると思う?それはね、もしかしたら一人でも約束を覚えてくれるかもしれないって、誰かが挨拶をしてくれるかもしれないって、信じているからなんだよ。誰かが世界のどこかで、一歩前に進む瞬間を、待っているの。太陽はね、私達を無条件で愛し、心の底から信じてくれる存在なの。』
「お姉ちゃんが、目を輝かせながら話し終えた時、胸が熱くなったよ。子供ながらに、誰かが信じてくれることにすごく安堵したんだ。こんな僕も、こんなちっぽけな僕も、見てくれてるんだって。でも、ふと気づいたんだ。俺は太陽に会えないって。だから『ぼくのことはみてくれるの?』って質問したんだ。そしたら姉ちゃんは言った。」
『もちろん。太陽はね、夜には見えないの。世界中の子に挨拶して回らないといけないから。でもその間も、有月のことを見てくれているよ。窓を開けて空を見てごらん。月があるでしょう。月はね、太陽が用意した魔法の鏡なの。遠くにいても、いつでも有月のことを見れるし、声を聞ける。だからね、安心していいの。有月が心配することは何もないの。』
「その日から、月の光が暖かく感じるようになったんだ。あんなに冷たく見えたのに。部屋に差し込んでくる光が、寄り添ってくれるようになったんだよ。そう、その話を聞いたから、俺は今まで生きて来れたんだ。嘘じゃないよ。寂しくて、惨めで、情けない夜は何度も訪れた。その度に何度も姉ちゃんの話を聞いた。何度も何度も何度も何度も。」
目の奥から、熱い液体が流れ出る。それは、太陽がくれた光のように熱い。強く握った手に、爪が食い込む。不思議と、痛いという感覚はない。呼吸が荒くなり、嗚咽へと変わる。
「でも、もうこれ以上、俺のせいで姉ちゃんの人生を損なうことはできない。そうなってしまうことが、何より怖いんだ。そうさせたくはないんだ。」
涙がぼたぼたと音を立てながら土に影を作る。目からこぼれた宝石は、夕日を反射し、あたりを照らす。
日食が終わりかけている。
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