姉ちゃん。
父は私たちに名前を残していった。いや、名前しか残さなかったという方が正しいか。有月と無月。輝く月を見ることができるから有月。くすんだ月しか見れないから無月。本当に単純だ。私がどれだけ劣等感を感じるかなど、微塵も考えなかったんだろう。有る者と無い者。もしそんなふうに世界を二分割する日が来たとしたら、間違いなく有月は有る者で、私は無い者だ。
直接会うことはなかったが、有月の方が、私を全てにおいて上回っているのは、常々肌で感じていた。同じ内容のテストでも、有月の方が点数が高かった。顔も、スタイルも、有月の方が良かった。唯一勝っていると思っていた運動でさえ、有月は少しのトレーニングで、私の数年間の努力を軽々と飛び越えていった。そして、有月はその全てを、逐一私に報告してきた。画面の中で満面の笑みを浮かべ、澄み切った瞳で見つめながら。そんな報告を聞くたびに、私は、惨めな気持ちになった。それと同時に、はらわたが煮えくりかえるような怒りも感じた。それはとても暴力的な怒りだった。そんな時に有月の顔を見たら、何をしてしまうか分からなかった。それでも見ずにはいられなかった。そこで見るのをやめてしまったら、それこそ、完全に私の負けな気がした。湧き上がってくる嗚咽を抑えながら目は有月を捉えて話さなかった。有月は自慢しているのでは無い。ただ、私に、お姉ちゃんに褒めてもらいたくて、認めてもらいたくて、そんな純粋な心で、あるがままを伝えてくれている。そんなこと、私にもわかりきっていた。わかりすぎるくらいに。それでも、私はどうしても負い目を感じずにはいられなかった。姉として、常に先を走っていたかった。そんな思いが大きければ大きいほど、怒りも巨大なものになっていった。こいつさえいなければ。こいつさえいなければ、私は一番で、可愛がられて、愛されて、父親にも会えて、母親も生きてて、幸せだったのに。もっと普通の生活も送れたのに。そんな、理不尽で身勝手な思いが心を埋め尽くす時もあった。そして最終的には、いつもこう思った。
『すべては名前のせいなんだ』 と。
「の奥さんからの依頼、、、」
ふと顔を上げる。画面の中では有月が話し続けていた。考え込んでいるうちに、動画が進んでしまっていたらしい。慌てて、巻き戻す。おそらく、マンションの隣にある月極駐車場に停めた車の中で撮ったのだろう。顔は薄暗かったが、まくったワイシャツから見える腕は、月の光に照らされて、一層白く見えた。再生ボタンを押す。
「おはよう、無月。今ちょうど仕事が終わったよ。にしても暑すぎだろ、今日。ネクタイが鬱陶しくてしょうがないのなんのって。なあ、いい加減スーツで仕事すんのやめないか?それかせめて早めのクールビズ実施頼むよ。」
弊社、と言っても私と有月の二人しかいないが、一応規則と言えそうな決まりはある。実際は、私が少しでも有月を管理する側に回りたくて作ったに過ぎない意味のない決まりだ。実際そんなものの存在などすっかり忘れてしまっていた。まさか有月が今だに律儀に守っているとは。
「そんな愚痴は置いといて、今日の仕事の報告と行きますか。西野家の奥さんからの依頼だ。夫の帰りが遅いから、不倫の調査をしてほしい、だとよ。まったく、どいつもこいつも男ってもんは。暇があればやれ不倫だ、やれ浮気だってやつばっかじゃないかよ。ばれなきゃいいっていうけどよ、そんなに上手く隠せるやつなんていないだろ。だったら、大人しく家に帰って、奥さんとイチャイチャしたらいいのにな。それともあれか、みんな自分のことを、鉄の仮面をかぶった一流サラリーマンだとでも思ってんのか?どうせなら、鉄じゃなくてもっと硬いものかぶれよ。なんかダイヤモンドとか。それなら前も見えるから安心だし。まあもっとも、そんな奴ばっかだったら、依頼なんて来ないから、俺らは生活していけないけどな」
笑いながら有月が言う。私たちは人の依頼を受けて仕事をする、いわゆる何でも屋、だ。電球の交換もするし、今回のように探偵まがいなこともする。料金はまちまちで、かかった時間と費用を考慮して決める。何でも屋!、みたいに広告を出しているわけでもなく、ネット上に依頼フォームがあるだけだ。でも口コミで広がったからなのか、週の半分以上は仕事が入っている。二人合わせれば朝も夜も関係なく、受付も調査もできるから、案外適職なのかもしれない。依頼の中で最も多いのが、案外と言うべきか、やはりと言うべきか、30から40代の主婦からの依頼だ。理由も似たり寄ったりのものが多い。夫の帰りが遅い、何か隠している、携帯ばっかり見ている。そんな感じだ。そして、調査をするとその大体があっている。私たちはもらった顔写真を元に、尾行をし、証拠−食事をしているところとかホテルに入って行くところとか−の写真を撮る。それを依頼者に、料金表と一緒に送る。それで終わりだ。そのあと家庭内でどんな展開が待っているかは分からないが私たちには関係ない。無慈悲かもしれないが、仕事なのだから仕方ない。
「で、案の定今回の西野夫さんも、鉄仮面マンだったと言うわけだ」
画面の中の有月が続ける。
「相手は事務の小林さん、22歳。って俺らと同い年じゃねえか。20歳も年下と付き合って楽しいか?話題なんてないだろ。今日は月が綺麗ですね、とでも言うのかよ。日食になったらどうするんだよ。日食が綺麗ですねとかでもいうのか。まあとりあえず、調査書送っといたから、チェックして報告お願い、姉ちゃん」
有月が指の関節を鳴らす。有月は昔からの癖で、照れや嘘を隠すとき、指を鳴らす。まったく、いまだに私のことをお姉ちゃんということに照れているとでも言うのだろうか。
一旦動画の再生を止めて、メールの受信ボックスを開く。連絡先は有月と佳代子さんのものしかないので、目的のものはすぐに見つかった。添付されたファイルを開く。小太りの髪が薄くなった男が、細身の女性と食事をしている写真が三枚。それぞれ違うアングルで撮られている。いかにも気の弱そうな男だ。きっと家では頭が上がらないのだろう。文章にも一通り目を通す。修正箇所はない。そのまま西野さんへ転送する。完了のマークにチェックを入れる。動画を再生する。有月が伸びをした。そして、ふっと力を抜いて運転席に座り直す。
「まだ時間はあるな」
月光を受けて銀色に輝く腕時計を見ながら言う。
「そんじゃ、次は新しい依頼のお知らせだ。今回の依頼主は森脇さん。数日前から家に戻らない猫を探して欲しいって依頼だ。場所は神社。ってここうちのすぐ近くの神社じゃんか。それに、なんで場所もわかってるのにうちに依頼してくるんだろうな。自分で行けってんだ。そうだろ?まあどうせまた、時間がないとか、大した理由もないんだろ。まったく。それともあれか?あしたが皆既日食だからそっちの方が大事ってか。8年前の部分日食では騒がなかったくせに。ほんと、どうかしてるよ。」
また脱線している。これも昔からある有月の癖だ。
「おっと、また余計な話ばっかりしちまった。まあ、今のところ明日はそれ以外に依頼は入ってないし、涼しくなるまでゆっくりしてることをお勧めするよ。」
わかってるよ。言われなくても。
「俺はもうちょいぶらぶらしてから帰る。とにかく、俺からのアドバイスは一つ。猫は人間ほど弱くないから、絶対午後に家出た方がいい、暑いし。普段からぜんぜん運動してない人なら尚更、ね。じゃあおやすみ、姉ちゃん。」
指を鳴らしながら、そう言うと、有月はカメラに手を伸ばす。薄暗闇の中から整った顔が月明かりの下に出てくる。そこで有月がかたまり、映像が終わる。
ふう、と腹の底に溜まっていた重い空気を吐き出す。
「姉ちゃん、か」
寝息を立てる有月を見ながら、そっと呟く。
7時12分。遠くでオシドリの鳴き声が聞こえたような気がした。
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