第3話 司祭さまとの時間

 さらに街中を歩き続け、中央の広場に辿り着いた。

 ここはこの町で一番空がよく見える所だ。見上げた空は夕焼けで赤く染まっている。

 もうじきこの空も黒一色になり、次に日が昇るまでその色を変えることはないだろう。

 ロンダ親方は気をつけて帰るようにと私に言ってくれた。

 その言いつけを守るなら、真っ直ぐに家に帰らなければいけないのだけど――私にはどうしても寄りたいところがあった。

 正確に言うと行きたい場所があるのではなく、私には会いたい人がいた。

親方の言いつけは守りたい。

 でも、それでも私はどうしても「あの人」に会いたかった。

 だって「あの人」には一週間に一度しか会うことができないのだ。今日を逃したらまた一週間待たなければならない。

 待つことも我慢することも苦手じゃない。

 実際、他の事ならどれだけの間でも何時間でも待てるし、我慢できると思う。

 それなのにこれだけは、あの人に会うことを我慢することは出来そうになかった。

(……少しくらいなら大丈夫だよ。だってあそこはこれまで何度も通った所だもの……)

 これまで何度も通ったから大丈夫。少し帰りが遅くはなっちゃうけど、暗くなる前なら危険なことになんてならない。親方の言いつけは。

 色々と理屈をつけて、我が儘を通そうとしているのはわかっている。

 でも、私はお父さんもお母さんもいない中、毎日一生懸命に働いてきた。

 たった一つの我が儘くらい許されたっていいじゃないか。

 そう思い、私は足を進めた。


* * * * *


 そうして私が辿り着いたのは、街の北にある教会だった。

 教会の前には夕方の礼拝のために訪れた人たちがたくさんいる。でも、私は礼拝のために来たわけでじゃない。礼拝堂へ向かう人たちが順番に並んでいる列には加わらず、正面の入り口なんて目もくれずに脇にある小さな入り口に向かった。

 その入り口は細い通路に繋がっていた。通路には分かれ道が何度もあり、歩く人をまるで迷路のように迷わせる作りになっている。

 けれども私はこれまで何度もこの通路を歩いてきた。だから少しも迷うことなく目的の場所まで歩いていけた。

 今、私の目の前には真っ白な扉がある。

 ここが私の目的の場所だ。

 この扉の先に進めるのは、貴族であろうと平民であろうと一人だけと決まってい る。どれだけお供の人がいてもこの扉の先にお供の人を連れていくことはできない。それはこの扉の先が教会の法――いや神様の定めた掟に守られた特別な場所だからだ。

 当然のことだけど、私にはお供の人なんていない。

 私は自分の手で扉を開けて先に進んだ。

 扉の先にあるのは三歩先がかろうじて見えるくらい薄暗い部屋だった。

 その部屋にあるのは人一人が座れる椅子と木で作られた格子戸だけ。格子戸の先はこの部屋以上に暗くなっており、手を伸ばせば触れられるような距離でも互いの顔すら見えないようになっていた。

 でも、それでいいのだ。

 だってここは懺悔室なのだから。

 私は椅子に座り、あの人――司祭さまが来るのを待った。

 それからしばらくして、格子戸の向こうで誰かが席について音を聞いた。

「こんにちは、小さな人形師さん」

「……こんにちは、司祭さま」

 私と司祭さまはまるで顔なじみのような挨拶を交わした。

 別におかしなことじゃない。だって私と司祭さまはもう何年もここで話をしているのだから。

 部屋の中は暗いし、その上、私と司祭さまの間には格子戸があるから互い顔さえろくに見えないから顔なじみというのは変かもしれないけど、それでも私は司祭さまのことを立派な顔なじみだと思っていた。

「今日はどう? 何か変わったことはあった?」

「ううん。いつも通り人形を弄くって、お客様を迎える毎日だった。何にも変わったことなんてなかったよ」

「そっか。でも、退屈で仕方がなかったわけじゃなさそうだね」

「……司祭さまは魔法が使えるの?」 

「えっ……? ううん。僕は魔法なんて使えないよ」

「じゃあなんで私が退屈しなかったなんてわかるの? 司祭さまが心を読む魔法を使ったからわかったんじゃない?」

「心を読む魔法なんて存在しないよ。そもそも魔法なんて使わなくてもそれぐらいすぐわかるよ。なにしろこれまで君の口から退屈なんて言葉が出たことは一度もなかったからね」

「そうだっけ?」

「そうだよ。辛いことはあってもつまらない日なんてない。それが君の毎日でしょ、小さな人形師さん?」

「……うん、そうだね。うちの工房の親方はいい加減だし、お客さんの相手もしなきゃいけないし、手をつけない人形だって一杯あるからつまらないなんて思う暇ないものね」

「ほらね。やっぱりそうだ。それはそうとなんで魔法なんて言ったのさ。もしかして僕をからかおうとしたの? 聖職者のからかおうだなんて感心しないなぁ」

「からかってなんかないよ。司祭さまだって、もう何年も経つのに私のことを小さな人形師さんって言ってからかうじゃない」

 私はくすくすと笑った。

 それから私は心の赴くままにこの一週間で起きた出来事を司祭さまに話した。


* * * * *


「それでね、今日はお店に来たお客様に人形を渡したんだ」

「そうなんだ。それでどうだった?」

「とっても喜んでもらえたよ。人形師をしてて良かったなぁって思った」

 普通、懺悔室で行われることは罪の告白だ。けれども私はそんなことはせず、司祭さまと他愛もない世間話を交わしていた。

 ――司祭さまと出会ったのは今から五年ほど前のことだった。

 両親が亡くなった寂しさで私はいつも泣いてばかりいた。

 あまりにも悲しくて、辛くて、私はそれから逃れようと神様にお祈りしようと考え、教会に足を運んだ。

 その時、偶然にも私はこの懺悔室の扉の前まで迷い込んでしまった。

 まだ幼い私には懺悔室の真っ白な扉はお母さんが話してくれた天国に通じる門のように思えて、つい衝動的に扉を開けて中に入ってしまったのだ。

 そして私はこの懺悔室で司祭さまと出会った。

 懺悔室で泣きじゃくる私を司祭さまは対し「困ったなぁ……」と言いながらもとても優しく接してくれた。

 その後も私はここに来て、司祭さまとたくさんのことをお話しをした。

 司祭さまは両親を失った私の悲しさと寂しさを理解してくれて、小さな子供だと馬鹿にせず、一人の人間として接してくれた。

 それから私は司祭さまに会いに週に一度同じ日、同じ時間にここに通い、話をしている。いつも必ず会えるわけじゃないけれど、それでも私は欠かさずこの懺悔室に通い続けた。

 司祭さまと私の顔は互いの顔も名前を知らない。私たちは格子戸の向こうから聞こえてくる声だけを頼りにして、何年もここで話をしてきた。

 私と司祭さまにあるのは、互いのことなどほとんど知らず、声だけを頼りにしたいつ消えてしまってもおかしくない不確かな繋がりだ。

 それなのに私は司祭さまとの時間を人形師として働く時間と同じくらい大事に思ってきた。

「司祭さまの方はどうだった?」

「そうだね。色々な人に会ったり、書類を書いたり、あとは勉強をして……」

「そっか。じゃあいつも通りだったんだね」

 司祭さまは聖職者だ。

 毎日、工房に籠もって人形を相手にしている私とは全然違う生活をしている。

 平民の生まれの上に私は十歳になる前から人形師として親方の元で修行してきたから、自分のそれとはまったく違う司祭さまの生活を初めは全く理解できなかった。

 だけど、司祭さまは私が理解できなくても何度も親切丁寧に話をしてくれた。だから、今では司祭さまが過ごしてきた日々がまるで自分が過ごしてきたもののように思えるようになっていた。

「……ところで君に一つ聞きたいことがあるんだけど、聞いてもいいかな?」

「あ、うん。大丈夫だけど……」

「その……今日は何か嫌なことでもあったの?」

「えっ……? な、なんでそんなこと聞くの?」

「えっと……いつもと違って、なんだか少し声に陰りみたいなものがあるような気がして、それで少し気になったんだ」

「…………」

 私は答えに詰まってしまった。

 司祭さまが言っているのは、服屋での出来事のことだ。

 あんなのなんてことはない。今は少しだけ気になってるけど、この場を離れたらすぐに忘れる。そう思った。実際、その通りだった。今この場で司祭さまに言われるまでそう思っていた。

 けど、そんなことはなかった。

 だって今私は司祭さまに「そんなことないよ。嫌なことなんてなかったよ」って言えなかったのだから。

 司祭さまは、これまで聖職者として何人もの心に悩みを抱えた人たちと話をしてきた。だから私の心に自分でもわからないような小さな棘が刺さっているのに気付いてしまったんだろう。 

 こんなこと他の人には話せない。

 たとえロンダ親方が相手でも話せなかったと思う。

 だけど司祭さまなら……この人にだけなら話してもいいと思った。

「あのね、司祭さま。私からも一つ聞きたいことがあるんだけど……聞いてもいい?」

「うん。いいよ」

「その……もし私が貴族の人が着るようなドレスを着たら似合うと思う? あ、もちろん髪もきちんと梳かして、お風呂で汚れも落として、お化粧だってきちんとしての話だよ。まあ、お化粧なんてしたことないんだけど……。でも、そうしたら私なんかでもちょっとは見られるようになるんじゃないかな……」

 喋っているうちに段々と自信がなくなってきて、最後の方はほとんど掠れ声になってしまった。ちゃんと聞こえたかな、と心配になってきた時、格子戸の向こうから司祭さまの声が聞こえてきた。

 「……ごめん。君がそうであるように、僕も君の姿を見たことがない。だから君の期待する答えを返せそうにないよ」

「……そっか。そうだよね」

 それもそうだ。

 司祭さまは私がどんな姿をしているかわからないんだから、こう答えるしかない。冷静に思い返すと自分がいかに無茶苦茶なことを言っていたかに気が付いて恥ずかしくなってきた。

 ――ねえ。司祭さま。変なこと言ってごめんね。

 そう私は言おうとした。

 でも、その前に司祭さまの方が先に声をかけてきた。

「君は自分の見た目に自信がないんだね」

「……だって、私はただの平民だし……」

「平民は貴族の女の子には勝てない。そんなことはないと思うよ」

「でも、私はほんとに……」

「こんな仕事をしているとね、貴族の女の子を目にすること機会なんていくらでもあるんだけど、君の言うようなドレスを着た子を見ても、なんとも思わなかったな。だって僕が一番気になるのは、下町で人形師として頑張っている女の子だから」

「……えっ?」

「ここだけの話だけど、街中の人形工房を手当たりしだいに回って、一度でいいから君の姿をこの目で見たいと思ったことだってあるんだよ」

「で、でもそれって教会の――ううん。神様との約束に反することなんじゃ……」

 懺悔室で見聞きしたことは外の人には絶対に漏らしてはいけない。

 この白い部屋で起きた出来事を俗世間に持ち帰ることは決して許されないことなのだ。

「うん、そうだね。でも僕は神様じゃなくて人間だから、駄目だとわかっていてもそう思ってしまうんだよ」

 司祭さまが格子戸の向こうで笑ったような気がした。

「聖職者の僕にそこまで言わせるくらいだから、君はとても魅力的な女の子だと思う。顔を見ることができないのが本当に残念だよ」

 ……こんなことを言われなんて夢にも思っていなかった。

 これほど真っ直ぐな言葉を向けられて、咄嗟に返事を返せるほど私は世慣れているわけじゃない。

 だから私は司祭さまの言葉に何も言い返すことができず、その場でぎゅっと手を握りしめることしか出来なかった。

「……な、なんで黙ってるの? 僕、何か変なこと言ったかな……?」

「…………」

 私が黙り続けると司祭さまも何も言わなくなり、あれほど賑やかだった懺悔室が本来の役割を取り戻したように静寂に包まれていった。

 このまま永遠に静寂が続くのではないかと思ったその時、「ゴーン」「ゴーン」という音が鳴り響いた。

 それは夕方の礼拝の始まりを告げる鐘の音だった。 

「ごめん。礼拝の時間だ。少し遅くなっちゃったけど、僕も礼拝堂に行かなくちゃ」

「あ、うん……」

 格子戸の向こうで椅子の動く音が聞こえる。

 司祭さまと一緒にいられる時間はもう残り僅かしかない。

 私は焦った。

(まだ……まだ、司祭様に何も言えてないのに……これでお別れなんて……)

 次、会えた時じゃ駄目だ。

 私が感じたこの気持ちは時間が経ったら違うものに変わってしまうかもしれない。思い出せなくなってしまうかもしれない。

 今、伝えなきゃ駄目だ。

このままさよならなんてしたくない。

 そんな焦りに突き動かされ、懸命に勇気を振り絞って、口を開く。

「あ、あの司祭さま……その……ありがとう……」

 そうして私が出せたのは、消えてしまいそうなか細い声だった。

こんな小さな声じゃ、格子戸の向こうにいる司祭さまの耳に届きはしない。

 そう思った次の瞬間――私の耳に声が聞こえてきた。

「……僕もだよ。ありがとう、小さな人形師さん」

そう司祭さまは言っていた――

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