第6話 テーマ「ケーキ」

 母はそれを、チョコケーキだと言った。

 なんでもない日に母はいきなりケーキを作った。父が残業で遅くなる日、姉が転んだ日、私がテストで赤点を取った日、家に野良猫が入り込んだ日。何の前触れもなく、母は食卓にケーキを並べた。

 このケーキは何というケーキなのか。そう尋ねても母は、

「これはチョコケーキだよ」

と、それしか言わない。

 母のケーキは長方形の形をしていた。いわゆるホールケーキではなく、あらかじめ一人に一つ別々に作られていたもののようだった。

 初めて母のケーキを食べた時のことを、私はぼんやりと思い出すことができる。

 作り物のように美しいケーキに、フォークを刺すことがひどくためらわれてじっとケーキを見つめていた。母に早く食べなさいと言われ、恐る恐るフォークを刺し、口に運ぶ。クリスマスに食べるショートケーキと違って、なんだか苦かった。白と茶色と黒の層になっていて、理科の教科書で見た地層に似ていると思った。

 どうやらケーキは私が食べる以前から食卓に出されていたようだが、小学校高学年になるまで、母は子どもに食べさせなかったらしい。確かに言われてみれば母と姉と父だけ同じケーキを食べているときがあった。私は近所の洋菓子屋のケーキを食べていて、全く気が付かなかったのだ。

 成人し家を出てからたまに、母のケーキを食べたくなることがあった。

 あのチョコケーキを求めて近所の洋菓子屋に行くのだが、母のケーキと同じものは、そこにはなかった。

 それから色々なチョコケーキを食べてみた。名前が長くていちいち覚えていないが、どれも母のケーキではなかった。

 あのケーキの層も、苦い味も、どのチョコケーキにもなかった。

 母に聞いてみても、あれはチョコケーキだとしか言わない。姉や父に尋ねてみればいいのかもしれなかったが、そこまですることでもないだろうと思ったのだ。

 嫁にはよく、チョコケーキが好きなのね、と笑われたが私はチョコケーキが好きなのではない。だからと言って母のケーキが好きなのかと問われると、それも違う。

 ただ、あれを食べることが、日常の一部になっていて求めてしまうだけだ。

 そう言うしかない。しかし私が母のケーキ探しに必死だったかと言うと、そうでもなく、気が向いたら近所の洋菓子屋や旅行先で見かけた洋菓子屋に入ってきょこケーキを見ると言った具合だった。

 そして月日が流れ、父が亡くなり、母も亡くなった。

 母の葬式を終え、食事をとっていた際私はなんとなく姉に尋ねた。

「なあ、母さんが作ってたケーキ、あるだろ。あれ、なんてケーキだったんだ」

 姉はちらりと私を見ると、そっと言った。

「オペラ」

「おぺら?」

「作るのがとっても大変なケーキよ」

「どこのケーキ屋にもそんなもんなかったぞ」

「当たり前でしょ。高級なの。そこらのケーキ屋には売ってないわ」

「でも、なんでそんなもの」

「知らないの?お母さん、本当はケーキ職人になりたかったのよ」

「は?」

 初耳だった。

 口をだらしなく開けた私を見て、姉はふーっと息を吐く。

「でも、お父さんが許さなかった。お母さんとお父さんは親が決めた結婚だったから、お母さんは早いうちから結婚が決まってて、お父さんに逆らえなかった」

「じゃあ」

「お母さんは、お父さんにあのケーキを食べさせてこう言いたかったのよ。私は本当はこれ以上のケーキを作りたかったのよ、ってね」

「……」

 母のケーキのあの苦みは、母の苦悩だったのか。

 私は母のケーキの味を思い出して呟いた。

 しかし、あのケーキのおいしさを、私は忘れることができない。あれはきっと、母の希望の味だったのだろう。

 母の遺影を見つめ、私は母のケーキをもっと食べておかなかったことを、ほんの少しだけ、悔やんだ。

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移動中に読む冬の短編集 虚鏡 @you_rei_

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